見出し画像

偶然の散歩

——という、独立研究者・森田真生さんの投稿を見かけて、私はこの偶然に乗ってみようと思った。ちょうどこの数日前に、京都で開かれた友人の結婚パーティーのために福岡から帰阪して、別の予定をいくつか済ませてからまた福岡へ帰るという一週間ほどの滞在の中で、この日は偶然予定もなく、ただ漫然と過ごすつもりでいたのだった。

森田さんのことは、『数学する身体』が刊行されて以来、本屋で見かけるたびにそのタイトルに惹かれるという仕方で気になっていた。そうして数年後、微花が復刊したタイミングで鼎談をさせてもらった『母の友』さんの連載で、森田さんが協生農法について書かれているのを読んでからは、数学者としてというよりも、この世界で生きるひとりの先達、哲学者として、森田さんの言動に惹きつけられていったのだった。

それから程なくして刊行された『僕たちはどう生きるか』は、私という庭師にとってかけがえのない庭の本となっている。そのような触れ込みがあるわけでもなく、庭のつくりかたやその魅力が書かれているわけでもないのだが、なおもここには、ひとが庭へと至る道筋が書かれているのではないか。そう思って、庭師の「suzume」こと、西田さんと二人でやっている庭のラジオ『庭声』においては、「庭師が読む『僕たちはどう生きるか』」という読書回を録ることになった。そこで僕たちはどう生きるか、という問いは、僕たちは庭をどうつくっていくかという問いに直につうじているのではないか、つまり自然と人間との関係を、僕たちはここで——この本の契機となった、新型コロナウイルスの世界的な蔓延に際して——一度立ち止まって考えて、そうしてそれぞれの日々の中で、あらたにつくりなおしていくことを迫られているのではないか、といった話をした。

それから間も無く、この本を読んでいろんなことが吹っ切れた私は、当時勤めていた造園会社を予定よりも早く辞めることにして、この三月に福岡に移り、庭師として独立してから、今に至る。そのきっかけの張本人であるような森田さんとは、今ここで会っておかなければならない気がしたのだった。

丸善京都本店は、私の好きな書店のひとつで、それはひとの背より遥かに高い本棚が、道の両側に整然と居並ぶ様が並木道のようで——本も元を辿れば植物であったことを思うとなおさらに——そこを逍遥していると、とてもじゃないが、ここにある本をすべて読むなんてできる筈がない、どころか、この道一本を読み通すことすら私にはとてもできないだろうと身に沁みて感じられる道が、幾重にも張り巡らされている広大な森のような書店であるから。その広大な森を散歩しながら、地下一階から二階に降りていくと、森田さんの声がきこえる方へと歩いていった。

はじめまして、と挨拶してから、庭声の『僕たちはどう生きるか』についての読書回を聴いてくださっていたことや、森田さんの日々の庭の話などをひとしきり聴いてから、もう手にとられましたか、とミシマ社の営業をされている田渕さんからすすめられて、著者の目の前で『偶然の散歩』を手にとった。訊くと装幀は寄藤文平さんの手によるものだそうで、その表紙には、寄藤さんが鹿谷庵の庭に訪れたことから着想されたという、鳥と松が描かれている。しかも、当初はここに松がなく、代わりに二羽の鳥が表紙の真ん中に描かれていたそうで、ただどうしてもその出来に納得のいかなかった寄藤さんが、〆切を過ぎてからも悩みに悩んだ末に、本の真ん中に図柄を据えるという図と地のあるべき関係を、一旦御破産にして真ん中をあけてみたとき、その空白を起点として鳥と松が取り囲むような図柄が一挙に浮かんできたのだという。その浮かんだ瞬間のスケッチの写真を見せてもらったのだが、そこには寄藤さんの苦闘の末の解放が、鉛筆の力強い筆致にありありと表現されていた。

この話をきいて、私は鳥肌が立った。真ん中をあけると、動きだすものがある。それは装幀でいうところの図と地の転回という話でありながら、私の耳には、庭における虚と実の話としてもきこえたのだった。つまり、真ん中を空ける——虚とすることで、かえって生命が漲る——実となる、という風に。ここで庭の真ん中とは何かと考えてみれば、それはやはりひとなのだと思う。自然を生かすも殺すも、ひと次第なところが多分にあるからだ。そこを空けるということは、ひとの手にある主導権を、いまよりも自然にゆだねてみるということではないか。

と、まさにそのようなことを、創元社で連載中の『すべてのひとに庭がひつよう』の中で、天草の陶藝家・あよおの手になる庭を訪れて感じたことをもとに、「うつわのような庭」と題して書きつけていたこともあって、これは庭に呼ばれたのだという気がしてならなかった。そうして、こうした偶然がこの身にやってくるたびに、偶然に偶然をかさねて、よくもここまでやって来たものだ、と自身の身の上を不思議に思うのだが、果たしてこのような偶然に、終わりというものがあるだろうか。『偶然の散歩』のプロローグにある、「一度きりと永遠は、どうしてこんなに似ているのだろうか」とは、このことだろうか。そう思えば、庭もまた、一度きりの永遠そのものではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?