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【忘れるな、他人の普通は、超異常】


ある日、いつものようにTwitterを眺めていたときのこと。
あるツイートが目に飛び込んできた。

わたしと同世代のひとだったら知っているだろう。
それは、アーティストの「小沢健二」さんの、そう、あの「オザケン」のツイートだった。

当時、わたしは退職を2か月後に控えていた。
理由は割愛するが、わたしにとってどうしても許せないことが起きたからだった。

「オザケン」のツイートを見たとき「いいね!」を10万回押したい!!と思うほど共感した。

「どうして」「ありえない」「なんで」と、つい思ってしまうけれど、わたしが相手を「超異常」だと感じるように、相手から見たらわたしだって「超異常」なのだ。

大抵のもめごとは、お互いの「普通」の押し付け合いから起きる。
お互いがお互いを「超異常」だと思っているから、もめる。

でもお互いの「普通」が違うのなんて、当たり前のことなのだ。

「他人の普通は、超異常」

そう思えるようになってからとても楽になった。

何か腑に落ちないことが起きたとしても、「他人の普通は超異常」だしな、しょうがない、と自分を納得させる。
もちろん、納得なんてできないこともあるけど、見て見ぬふりをする術を身に着けた。
これは決してネガティブなことなんかじゃない。

随分と生きやすくなった。

その「オザケン」のツイートを見かけた日から、友人との会話に「他人の普通は超異常」を多用している。
会話のなかに「他人の普通は超異常」をすべりこませる日々。

「あー!わかる!!!」と賛同してくれるひとと、そうでないひとがやっぱりいる。
そりゃそうだ。「他人の普通は超異常」なのだから。

ただ前者のひとたちは、わたしと同じ属性の仲間だなあと、勝手にカテゴライズしている。
余計な説明がなくともストンを伝わる。

若かりし頃は「あれして」「これして」「なんでできないの」など、自分の「普通」をおしつけがちだったなあと反省している。
ひとを変えようとすることは、とてもとても、おこがましいこと。
自分が変わればいいんだと、気づかされた。ひとを変えようと努力するより、ずっと楽なこと。

このTweetを見て以来「他人の普通は超異常」を、常に心に留めている。
合わなすぎるひとと話していると、最早笑えてくるのでおすすめです。
「あ!このひと、今わたしのこと異常だと思ってる!わたしもそう思ってるけどね!」って、心の中にもう1人の穏やかな自分を存在させている感じ。


わかりあう必要なんてないのになあ、なんでわかり合おうとするんだろう。
もちろん歩み寄った方がいいこともある。
でもお互いの違いを認め合うことも悪いことじゃないのにな。



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