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あの日転がるホテルの中で #あの夏に乾杯

薄いガラスの戸を一枚隔てて、脳天気なメロディーが聴こえてくる。流れる水の音に紛れて飛び飛びになっているそれに、ちょっと耳を澄ます。

いつかの夏の曲。確か、アイドルがカバーして話題になった曲だ。何だっけなこれ、と思いながら聴いていると今度は音楽ではなくて人の声がした。

「ねえ、人生やり直せるとしたら、どこからやり直したい?」

ベッドの上でアイスミルクティーを飲みながら彼女が話しかけてくる。少し妙なくらい表情がにこやかだ。

「ん?何?」

聞こえているのに聞こえないふりをしながら、僕は2回目のシャワーを済ませて脱衣場から出てきたところだった。

「だーかーらー。」

文字のひとつひとつをゆるやかに伸ばしながら話す彼女は、弾力のあるベッドの上でぼよんぼよんと跳ねまくっていた。

「過去に戻ってやり直せるとしたらさ、どの地点に戻りたいのかなーって。」

いきなり、なんなんだろうか。

またSNSに流れてきた変なつぶやきにでも影響されたのか。昨日は「目玉焼きには何をかけるか?」という古典的な話題でひとり盛り上がっていた。「もちろんケチャップだよ!」と熱弁していた気がする。

それともこの曲を聴いてなにか感じたのか。

普段は非常に真面目なひとなのだけれども、時折こういうことをはしゃぎながら話題にしてくる。

「まあ…、それはひとつふたつあるんじゃない?」

髪の水気を拭き取りながら、僕は冷蔵庫にあったミネラルウォーターを取り出して飲み、そう答えた。

「あのね。」

「ん?」

「数じゃないの、地点を聞いてるの。どこ?」

さっきの返答でもう質問は済んだと思っていたので、その執着心にちょっと呆れてしまったが、無視するともっと酷いことになるので、しょうがなく答える。

「数年前に、ふたつくらい戻りたい地点があるかなぁ。」

程よい配慮と実感を織り交ぜてそう言った。

「へえ、そうなんだ。おお?照明ボタンの横になんか別のやつあるじゃん。なにこれ。」

へえ、そうなんだ、とは、なんなんだろう。

やっと答えたら答えたで興味がなさそうな返答をする彼女をちょっと睨み、口をすぼめた後ため息をついてしまった。顎に漬けた梅の実のようなシワがよってしまった気がする。

さっきから流れていた曲が、サビに入って盛り上がっている。

その髪の毛で その唇で
いつかの誰かの感触を
君は 思い出してる

微妙なタイミングで流れてくれるなあ、と思った。彼女がランダム再生をしている音楽アプリを僕はちょっと恨んだ。

「そっかぁー、ふたつか。ふーん。あたしもそんなもんかな。」

相変わらず、ぼよん、ぼよんと跳ねていた。跳ねる度少しずつ身体の向きを反時計回りに変えていって、じーっと僕が見ていると「ふーん、ふーん」と言いながらいつの間にか一回転していた。

世間でお盆休みが終わった頃、僕らの休みが始まった。彼女は職場の同僚だった。盆は稼ぎ時のため、ふたり揃ってきれいに7連勤をこなした。いつもは必ず買う好物のビールも、疲れが酷くて買わなかった。

これはその日の夜の出来事だった。

「あのさ、今そういう現実感ないことを言われるといつも以上に呆れちゃうんだけ…どッ!」

「うるさいよー!」

僕がミネラルウォーターを飲み干して気だるそうにそう言い終わる前に、彼女がやや固めの枕を投げてきた。ペットボトルに命中し、少々の水飛沫が飛んだ。こーん、ぽーん、みたいな音がして、部屋が静まりかえった。

「…えっと?」

「わー、ごめんごめん悪かっ」

すべて言い終わる前に、今度は自分が彼女に向かって身体を投げ出していた。

「くらえっ!」

ぼすっ、という音が響いた。もうひとつの枕と布団とアイスミルクティーがあたりに散らばった。

「ははは、痛いなぁー。って、ミルクティーが!ちょっと!」

世間はご先祖様を丁重にお迎えしているであろうに、僕らは何をしてるのだろう。そういう落差もあってか、よく分からないやり取りがテンポよく続くと、どうしようもなく笑えてしまう。支離滅裂にも思える彼女の言動に振り回されるのは少しだけ楽しかった。冗談っぽく痛がる彼女を見て、僕が笑う。それを見てまた彼女が笑う。ささやかな幸福だ。毎回程度の差はあれこんな感じになってしまって、若干恋人同士の緊張感が足りないような気もしなくはないけれど。

「せっかくシャワー浴びたのにまた汗かいちゃったじゃん!」

「もう一回入ればいいじゃん!」

こんなふうに、また無駄に怒鳴り合って笑った。

楽しかったけれどやはり疲労がひどかったので、そのままチェックアウトまで眠ろうと思った。彼女も眠たそうだ。

その時、聞き慣れない「ギギ…」という機械音が鳴り始めた。彼女と顔を見合わせる。

「ん?」

「んん?あれ?」

気がつくと、僕らが乗っているベッドは回り始めていた。驚いて周りを見渡すと、吹っ飛んだ枕が照明ボタンの横あたりに覆いかぶさっている。どうやらベッドが回転するボタンを押してしまったらしい。

3秒真顔で見つめ合って、キスをしたあと、さっきよりも大きな声で笑った。腹が痛かった。回るベッドって都市伝説じゃないんだ。

面白おかしく転がっていたからだろうか、僕らはベッドの回転が不自然なくらい速くなっていっていることには、なかなか気が付かなかった。

その内に彼女がつぶやいた。

「え、なんかこれスピード速くない?」

回るベッドが初めてだった僕には、速いかどうかの判断がつかなかった。でもなんだ、確かに…流石にこれはちょっと危なくないだろうか。

というか目が回ってしまって、これは身動きが…。

「え、え、え?」

どちらがつぶやいたとも知れない混乱の声が、だんだん遠くなっていく。

「えーーーーーっ!?」

これもどちらが叫んだのか、よく分からなかった。

眼の前が少しずつ暗くなっていると感じたときには、僕らの意識は途絶えかけていた―真っ暗だ

※※※

「じゃあ、車へ行こっか。」

「ぅえっ?」

思わず変な声が出た。

というか、なんだ、どこだ、ここは。確かホテルでベッドで回って気を失って…。というか、

「え。車でしょ。行こうよ。」

あなたは誰だ。いや、えっ。

そこにいるのは友人の女の子でも、生き別れの妹でもなかった。

昔付き合っていた元彼女が、たしかにそこにいた。

驚きつつ周りをきょろきょろ見回す。首筋に汗が湧く。この暑さは夏か。

でも、ここは一体…?

右を見ると、見覚えのある電光掲示板があった。昔住んでいた街じゃないか。ニュースを流している。日付はなんと数年前の8月7日。この街は七夕祭りをやっているはずだ。

「えっ?ええっ?!今日七夕?!えっ?!」

僕はあからさまに狼狽していた。

「今日が何?いきなりどうしたの?そりゃそうでしょ。…さ、行こうよ。」

全然事態は飲み込めないし、まだパニックの最中だけれど、とりあえず、とりあえず僕は戻ってきてしまったらしい。ホテルで、彼女との与太話中に言っていたところへ。

そうだ、確かこの日は久しぶりにデートの約束をしてたんだっけ。このひとはそのために隣県から僕の住む街へ来てくれていたんだった。

それにしても、なぜ…?

「ホテルが…ベッドで…回った…真っ暗!」

僕はまだ動揺していた。裸だったのに、服も着てるし。いや裸のままだったら困るから、これはこれでいいんだけれど。

ひとまず「元彼女」ではやりづらいので、便宜的に彼女を「高本さん(仮名)」と名付けよう。

高本さんはもはや突っ込む気力も失せたらしく、僕の前をとととっと歩きはじめた。

「ずっと来たかったんだけどなかなかこれなかったんだよねー、この街。」

「ああ、うん、そうだね。来てくれてありがとう。」

彼女は確か、この街の外れにある天文台と史跡に興味があったんだった。

駅近くの駐車場に停めている(はずの)車まで歩く間、僕は記憶の糸を引きちぎる勢いで手繰り寄せていた。

「前来たのはもうかなり前だから結構変わってるね、駅前。」

高本さんの言葉に、そうだね、と言えたか自分でわからないくらいに僕は様々なことを思い出していた。この日の予定、行く場所、飲む場所、この年の自分のこと…。

少し不思議そうな顔をしながら、彼女は僕のやや後ろを歩き続けていた。

この街は今住んでいるところに比べたらだいぶ涼しかった印象だけれど、やはり夏はどうしようもなく暑い。

そんなことを思っている間に車にたどり着いた。このデートの少し後に自損事故でおしゃかになった中古の軽自動車がまだ生きている。懐かしかった。

ドアを開けて運転席に座る。彼女も座り、シートベルトを付けた。発進した。緑の木々が多い心地のよい市街地は、まだごちゃごちゃな僕の心情と比べるとかなりのんきそうに見えた。

車を走らせて数分、ほんの少しの時間ではあったけれど、大まかなところまでは思い出せた。彼女は日帰りの予定でここへ来ていて、今日は史跡と天文台を回ったあと、大通りの3階にあるバーで飲む。その後彼女を駅まで送って今日は終わりだ。

終わりか?あれ?どうすりゃいいんだ僕は。

そこで、ふと現実世界の彼女の言葉が頭をよぎる。

―「ねえ、人生やり直せるとしたら、どこからやり直したい?」

あれ?

もしかして、もしかして、これはそういうやつなのだろうか。

何度もフィクション中のロマンス的なアレで拝見していた、これは。

タイムリープ…?いや、リバイバル…?バタフライ・エフェクト的な…?

なんか若干不幸になりそうなやつも混じっているけどそんなことはどうでもいい。その現象というか、能力の名前はなんでもよいのだ。

僕は夢の中で「今自分は夢の中にいるから自由なんだ!」と急に我に返って元気に動き出した時のように、瞬間の魔術で状況を都合よく理解した。

結論は、こうだった。

過去に戻ってて、何かをやり直せるのかもしれない!

一度「こうか?」と思った直感が正しく思えてくると、さっきまでの動揺が嘘だったかのように僕は頭の中で静かに戦略を立て始めた。

立て始めた。

立て始めた僕の顔を、左側から高本さんがのぞき込む。

そうだ、ドライブ中だった。

「なんかすっごい真剣だね!そんなに綿密に計画立ててくれたんだ。」

少し嬉しそうに、かつ意地悪そうに彼女が笑っていた。

「そらそうよ、わざわざここまで来てくれてるんだから…。」

僕の名前もないとやりづらいので、便宜的に「桐生(仮名)」と名付けよう。ちなみに職業はパン屋だ。

「桐生はもっと適当なやつだと思ってたよ。案外やるもんだね。」

失礼な!と心のなかで思いつつ、僕は予定をもう一度思い出していた。
このあとアレとアレに行って、それから…。そうか。うん、なんとかなるかな。

「ね、桐生。どれくらいで着くの?」

「すぐだよ。15分かからない。」

「そっか。」

彼女は小さな赤いバッグからブックレットのようなものを取り出して、首を傾けながら眺めていた。

「楽しみだね。」

ああ、と小さく返して木漏れ日の市街地を抜けた。眩しい。この先の大きな橋を渡れば天文台までは一本道だった。

「いやあ、行きたかったところ全部回れたよ、ありがと。」

なんでこんなに嬉しそうなのか分からないくらい、とっても地味なデートだった。背景知識があれば、僕でも楽しめるのだろうか。そんな疑問を抱えつつ、質問をしてみた。

「何が楽しかったの?特に。」

「やっぱりプラネタリウムかな。流星群って、あたし直接みたことがないんだよね。この季節なら…なんかかっこいい名前の流星群があった気がするんだけど…。まあ名前なんてどうでもいいか!」

そう言って彼女は軽快に階段を登っていった。

僕達は今、街巡りを終えてこの街の大通りにあるビルの3階へ向かっている。そこにはバーがあった。人生で初めて通うようになったバーだった。シックな壁色とオレンジ色のライトがやや背伸びした雰囲気を醸し出している、桐生のお気に入りの場所だった。

「ここね。」

お店の名前を書かれた小さな看板を指差しながら、彼女が振り返った。

「そ、ここ。」

知人に自分が好きなお店が気に入ってもらえるかというのは、いつの時も気になるもので、僕は少し緊張していた。

「うん、だから、あの時は本当にタイミングが悪かったよね。いや、ごめんね。」

ワイングラスを片手にまたしても意地悪そうに笑いながら、高本さんは僕の肩を叩いてきた。手元の真紅の液体のせいか、少し頬が上気している。表情が今日一番柔らかい。

「まっっったく、今更だね。」

彼女のものより少し細身のグラスに入った白ワインをぐっと飲んで、僕は芝居がかった悪態をついた。酔って話しているうちに、高校の時彼女が僕を振ったエピソードの話になったのだ。

「まあ仕方ないよ。もう1週間早く声かけてくれたらなあ。」

ふふふ、と笑って彼女は控えめに燻製のチーズを食べる。僕はそれを見て、力なくため息を吐いた。「人生はバランスとタイミングだ」と豪語するひとが部活の先輩にいたのを思い出す。僕の高校生活はまさにそれらが足りなかった。今も足りないと思う。

彼女は僕と別れてすぐに別の男性と付き合い出したのだ。(と、だいぶ後になって僕は知った。)

「今更だ。恨みはしないよ。別に。」

目をつぶって口を尖らせて文句を言いつつ、彼女が飲んでいるのとは違う若い赤ワインを僕は注文した。

「そっか。なら、よかった。」

彼女は明るく、ケラケラと笑っていた。

恨みがないのは本当で、時が経ってこんな時間があるだけでなんともありがたいな、くらいに思っていた。

ともに最後のワインを飲みきるまで、気まずいこともいさかいもなく場は続いていた。

「ちょっと、急いで!」

「いやー、待ってよ。ちょっと。あたし結構飲んだしさ。ハハ。」

これから帰るやつ、急がなければならないヤツの方がヘラヘラしているとは、どうかしていると思う。ルーズなのは気にしないが、彼女の緩みきった態度に僕はちょっと焦っていた。

というのも。

僕がやり直したいその時が近づいていたのだ。

やり直したいのは駅。別れ際。

1回目の今日、僕は駅で彼女を見送った。丁度今みたいな軽いドタバタ状態だったと思う。

改札前で30秒だけ時間があった。彼女が今日のデートについてお礼を言った。僕に笑いかけた後、神妙な表情で数秒静止し、その後彼女は改札を通ろうとする。

その時だ。

僕は高本さんに駆け寄って、手を握った。熱い。

「え。ん?」

彼女が存外冷静に僕の目を見た。僕はなにか覚悟があったわけじゃない。
むしろどうしたらいいか分からず、心は揺らぎに揺らいでいた。若干目を泳がせながらこう言ってみた。

「やっぱり、高本さんはかわいい。」

彼女の返事は厳しいものだった。

「へえ、それだけかー。」

半分笑顔の半分苦い顔での返答だった。そう言い残して、彼女は改札を通り、軽く手を振りながら新幹線で帰っていった。

僕は呆然と立ち尽くし、しばらく目をパチクリさせた後、さっきまで彼女といたバーに戻ってマスターと反省会をした。

これが僕のやり直したい地点の解説である。やや緊迫した言い方になったけど、これはもう済んでしまった1回目の話。

これから起こる2回目が重要なのだ。

しかし、僕はどうすればいいのか。その答えは見つかっていなかった。

マスターと反省会をした時も結論は出なかった。

「え、僕は『今日は一緒にいたい。帰らないで欲しい。』とか言って事前にとっておいた駅近くのホテルにでもエスコートしたらよかったんですか?」

「うーん、オレはそういうのよく分からんけど、そんな感じじゃない?」

みたいなふわっとした話しかしなかった。こんなことならあの後ちょっと考えておけばよかった。

いつかタイムリープするかもしれない、と準備をしておけば。

誰がそんな準備をするか。阿呆か。

ともかく2回目がくる。ワインで上がった体温がまた上がっていく。顔に熱を感じる。たまらず、ぎゅっと目をつぶる。でも怯んではいられない。

そうこうしているともう、改札前だ。

「今日はありがとう。」

彼女の声。同じ声が響く。

「また、さ、機会あったら。ほんと、ありがとう。」

ああ、全く同じだ。

神妙な表情で彼女が振り返った。僕は言った。

「今日はこのまま一緒にいない?」

僕の声。違う声が響いた。自分の体も、周りの空気も固まった。

彼女はちょっとだけ立ち止まって、こっちを見て、それから歯を見せてニッと笑った。

「いいよ。いよっか。」

そう言うと同時に、彼女は僕の手を引いていた。

ん?駅の外に出るんじゃないのかな。一瞬訳が分からなかった。

「えっ、ちょっ、改札!な!ない!きっぷ、ない!」

やわらかなカタコト言葉を放ちながら身体は彼女に引っ張られていた。改札は強引に通り抜けた。聞いたことないけたたましい防犯アラーム音に、そこら中の人が驚いていた。

「じゃ、すぐそこが入り口だから。もう少し一緒にいよう。」

「はい?」

彼女は改札近くの6番線に向かっていた。なぜだか誰も乗っていない電車がある。

「それ、乗ってみよっか。」

言われるままに電車に乗ると、すぐにドアがしまった。発車のベルが鳴る。ますます訳が分からなかった。電車は動き出す。

「えっ。どういうこと。」

余裕があるはずの「2回目」で僕は前回より遥かに焦っていた。

乗客はいないのに。僕らだけなのに。不審がって窓の外を見る。前方を見ると、信じられない光景が広がっていた。

線路が途中から宙に浮いて、空に向かって螺旋を描きながら延びている!

だんだん車体が地面を離れて浮いているのが分かる。あっどうしよう。危なくね?いや、そもそもこの状態は一体…?あっ、こっそり予約していた駅近くのホテル、どうしよう…。

まさに地面を離れる瞬間、高本さんの顔を見るとわずかに口元を緩めていたように思う。外から見たらさぞロマンチックな光景だろう。電車が七夕の夜空を駆けている。嘘だろ。

「あ、流れ星だ。本物だ…。」

高本さんがそうつぶやいたので、僕も車窓から夜空を覗いてみると、ずーっとずーっと頭上にいくつもの流れ星が見えた。流星群ってやつなのか。

理解できないくらいにあっけらかんとした顔で星を眺める彼女を、僕は目をまん丸くして見つめていた。多分口はぽかんと空いていたと思う。

「いやうん、星はたしかに、きれいだよなあ…。」

半ば呆然としながら僕がそうぼそっと言ったところで、また周りが急速に真っ暗になっていく。今度はベッドは回ってないのに!轟音が響いているのか、それとも音はなっていないのか、それすら分からない不可思議な世界で目の前にいる彼女の口の形だけが響く。

(「も う す こ し だけね。」)

―ああ、また真っ暗だ。星空の中で。

※※※

「まさか誕生日覚えててくれたんだ。さっきも驚いたけれど、今もまだ驚いてるよー。ハハハ。さ、入ろう入ろう。」

さっきと同じ上機嫌で、でも服装と髪型が違う彼女が目の前にいた。知ってる。僕はこの状況を知っているぞ。

動揺はしている。何しろ最初はベッドが高速回転して真っ暗になり、今度は電車が宙を舞って真っ暗になったのだから。

けれど、これが多分「2度目の」「別の2回目のはじまり」なのは体感で分かっている。落ち着け。

1回目にはなかった深呼吸をすると、彼女が首を傾げて言った。

「大丈夫?店で飲み過ぎた?」

「いいや、大丈夫。ホラ、うん、緊張しちゃってさ。」

「ハハ、そっか。」

そう、この日は街でぶらっとして飲んだ後色々あって駅近くの旅館に来ていたのだった。2回目だけれど僕は緊張していた。ここに来る前は駅前の日本酒居酒屋で飲んだんだっけ。

「ほら、入った入った!」

妙に威勢のいい高本さんに誘われるまま、僕は部屋に入った。調度品は限りなく簡素で、思ったよりはるかに何もなかった。清々しいくらいにスッキリとしている部屋の中で、大きなガラス張りの窓だけが存在を主張していた。

「こざっぱりしてんなあ、ここ。」

「まあ、あとは適当に飲んで寝るだけだしね。さ、座って。それ、飲もっか。」

それ、とは僕が持ってきた酒だった。ビールと、彼女が好きだと言っていた日本酒。今朝彼女と会う前に、そういえば誕生日が近かったと思いだして急遽プレゼントに買ったのだった。

「こんなグラスしかないけど、いいよね。」

確かにこんな場合でなければ麦茶でも入ってそうな丸っこいグラスが戸棚から出てきた。さすがは旅館。

けど、そんなことはどうでもよかった。まあまあ顔が赤いふたりは、乾杯用にビールを注ぎ合った。

「始めますか、乾杯。」

「ん、乾杯!」

ゴツン、と厚めのガラスが触れ合う音がした。高揚じゃなくて、安心を生む音だった。高本さんと目配せで、どうも、みたいな挨拶をした。

すっかり落ち着いて馴染んでしまっているけど、この2回目は大丈夫なのかな。泡の多いビールを飲みながら、僕は彼女と話し始めた。

事の顛末を簡単に説明しよう。この街では例年七夕まつりと花火大会が別々で行われていた。どちらのイベントも非常に混雑するから分けていたのだと思う。ところが今年選挙で当選したばかりの若い市長がどういうわけか強引に同日開催を主張し、それが実現してしまった。おかげさまで街は予想通りの大混乱。

僕らも当初、駅前で軽く飲んだ後は僕の家に向かう予定だったのを変更せざるを得なくなった。街には人と車が溢れ、駅近くに駐車した僕の車は全く身動きが取れくなってしまった。そしてバスや電車など、市街地から離れた僕の家までたどり着くための交通手段が、全て麻痺したのである。ふざけるな、というような怒号が街中に飛び交っていた。

仕方がないので飲み屋近くの宿泊施設に片っ端から電話をかけたところ、たまたま一部屋空いていたのがこの旅館だった。市街地近くなのにちょっとだけ小高いところに位置していたその旅館は、古めかしいけれど掃除が行き届いていて、なかなかに落ち着く雰囲気だった。

居酒屋で飲んで気分が高揚していたのが幸いしたのか、僕も高本さんも、めったにないイレギュラーな出来事を楽しんでいた。途中通ったアーケードの人混みは押し合いへし合いがひどくて、なかなかに疲弊してしまったけれど。

でもトラブルが起これば起こるほど、更に笑ってしまうような夜だった。僕らのようなお気楽な、馬と鹿が大好きなひとたちにとっては、同日開催は楽しくてたまらなかったのではないかと。

「ふうん、そういうことがあったのな。」

「そう、そうなの。」

昼間に街をぶらりと散策した時も、夜に店で飲んだ時も、1回目のタイムリープと同じく明るい話が多かった。世間話、飲んでいた酒の話、昔を茶化す話。

少しだけ、旅館の部屋の中でした話は趣が違った。といっても絶望的になるような話をしたわけではない。

今まで話したことがなかったような、お互いの日常のそこかしこにある小さな不幸について話しただけだ。奇遇にも、高本さんも接客業だった。

日々感じている職場への不満や、接するお客さんの理不尽さについて愚痴を並べていた。不幸を話し合っていたのに、どういうわけか僕らは快活だった。

「それでもさ、何があっても日々誰かと接してたいって思うんだよね。あたしは。」

僕もそれなりに悩みはあったが、接客には確かにやりがいを感じていたので彼女の話を大きくうなずきながら聞いていた。

「ああ、それ、何となく分かるよ。」

「そっか。ありがとう。話せてよかったよ。」

ふふ、と笑って高本さんはテーブルの上を見た。

「あ、ねえ、さっきお祭りの屋台で勢いで買ったやつ食べようよ。」

「すっかり忘れてた。でもなんで冷やしキュウリなんか買ったの?渋くね?」

「そりゃあ日本酒があるからでしょう。あとさっきの居酒屋のアテがちょっと濃かったから。最後はさっぱりしたもの食べたいんだよね。あ、女将さんに頼んだら味噌とかちょと分けてもらえるかなあ。」

そう言って、彼女は2杯目のビールを飲み干し、フロントに電話をかけ始めた。僕がもってきたビールは順調に減って、残りは350ml缶が1本だった。店でそれなりにアルコールを飲んだ僕らは、日本酒にはまだほとんど手を付けていなかった。

その時、入口のドアを叩く音が聞こえた。「失礼しますー。」と女将さんがやってくる。手に小さなお皿を持っていた。どうやら味噌を分けてもらえたらしい。

「うわあ、ありがとうございます!」

彼女は女将さんの素早い対応に感激していたようだった。

「いえいえ、こんなものでよろしければ何でもおっしゃってください。そろそろ窓の外に花火が見えますから、ごゆっくりお楽しみくださいねえ。」

そう言って、そそくさと部屋を出ていった。この部屋のほかは満室だと言っていたので、おそらく忙しいのだろう。

「花火始まるってさ。日本酒とキュウリと花火ってたしかに渋いね。好きだけれど。」

彼女が今にもキュウリにかぶりつきそうな様子でワクワクしている。

「や、待って。もう少しかかるみたいだよ。…花火は20分後かな。」

スマホで花火大会の公式サイトを検索して、僕はそう伝えた。

「そっかあ。じゃ、軽くシャワー浴びてきちゃうから、日本酒冷やせるだけ冷やして、注いでおいてよ。」

その酒は前回のタイムリープの時、彼女がバーで言っていた好きな酒だった。米どころで有名な、故郷の酒。

口にすると、朝日に照らされた真っ白な鶴が羽ばたいたのを見た時のような清廉さを感じる酒。

彼女は戸棚からタオルを取り出して、浴室の方へ向かった。

「浴びてくるね。」

心臓が、ドクン、と鳴った。
そうだ。酔って忘れていた。

ここがやり直したい地点だった。

1回目のこの日、僕はここで「はいよ。」と応えていつの間にか眠りこけていた。

花火も見ず、キュウリも食べず、もちろん日本酒も飲まなかった。きっと街の大混乱に巻き込まれた時の疲労が原因だろう。楽しみを先取りしすぎたのだ。

シャワーを浴びて出てきた高本さんは、寝ている僕を見てどう思ったのだろうか。何度も考えたけれど、分からなかった。翌朝僕らは旅館の前で別れて、それっきり会うことはなかった。

彼女の最後の表情を、僕は見ることができなかった。

そう、ここがやり直したい地点だった。

「あのさ。」反射的に声が出た。

彼女は神妙に、でも少し微笑みながらこっちを見た。

「ん?」

意を決する前に声が出た。

「あのさ、シャワーはいいから、ちょっと隣に座らない?」

彼女は少しふざけた調子で僕の隣に駆け寄ってきた。

「座ってどうするの?」また笑ってやがる。

「それじゃ、少しくっついて、このまま一緒にいませんか。」

それを聞いた彼女は、深く頷いて僕の横に座り、ビールをグラスに注いだ。

「冷やさなくていいから、日本酒も飲もうか。」

僕は彼女のグラスに日本酒を注ぐ。

―たぶん最後の鐘がなる。

彼女のグラスには日本酒。

僕のグラスにはビール。

ゆっくりとふたつの容器は近づいていく。

ゴ、ゥーン…

今夜最初の乾杯とは違う鈍い音が響いた。飲んだ。

少し部屋の上の方へ視線をやって、音に聴き入っていると、そとからドンッ、ドンドン…という音が鳴るのを感じた。花火が始まったのだ。

「ねえ、桐生。」

「ん?」

「花火、始まったね。」

「うん、結構よく見えるじゃん。いいね。」

「今の気分はどう?」

「控えめに言って、最高。」

高本さんはまた、ふふっと笑って日本酒を傾けた。花火を凝視して夢中になっているようにも見えたけれど、なにか言いたそうな様子にも見えた。

少しめまいがする。流石に酔い過ぎたか、と目頭を抑えながら僕は数秒目をつむっていた。

「ねえ桐生。」

「ん?」

彼女の方を向き、僕は目を開いた。

「あのね、もう一言だけ。」

不自然なほど短絡されたコミュニケーションに、なぜか違和感はなかった。僕の口は初めからそうなるのが決まっていたみたいに動き出していた。

「あなたが、好きだ。」

見えない読点の静寂を感じる僕を、軽い目眩が襲った。痛みや吐き気はなく、ただ目の前がぐらついていた。スターマインが鳴り響いている。彼女が何かを語り始めていた。

「こんなに時間かけないと、その言葉は出てこないんだなあ。」

そういってグラスを傾ける彼女の顔を見る。かなしいのか、嬉しいのか、どちらかほとんど判別できない表情に僕は少し動揺した。彼女の言葉は心臓と胃の間くらいの嫌な場所に鈍く衝撃を与えたけれど、真意はわからなかった。

窓の外ではスターマインが終わり、単発の花火がまた打ち上げられている。

「ね。隣りにいる人に好きって言えるのは、とても」

ここで彼女は数秒口ごもった。僕はその姿を直視することが出来なかった。外の花火をじっと見ていた。

彼女の声が、少しだけ枯れているような響きをともなって夜にとけていく。

「とても」

それは、か細くて美しかった。

「素敵なことなんだよ。わかった?」

そう言いながら彼女は移動して、窓と僕との間に立った。眼前に高本さんが微笑んでいる。その背景では夜空に花火が次々に散っていった。紫紺の空に映える赤、黄色、緑、他にも数え切れないほどの色とりどりの光のかたまりが浮かんでは消える。抵抗できない美しさに、僕は唇を震わせていた。

もう少しだけ、あともう少しだけ何も起こらずに時が過ぎていってほしかったけれど、残念ながら願いは叶わなかった。視界がぐらつく。今までで一番ひどい目眩が僕を襲った。あたりは光に満ちていく。花火の音はずっと聞こえている。

彼女の口元が動いている。もう全部は見えなかった。

(「さ…」)

目の前は、完全に真っ白になっていた。

※※※

気がつくと、薄明かりのベッドの上に仰向けで寝転んでいた。さっきまではおそらく回転していたのだろう。僕も彼女も、一体どうなってしまったのか。回っている間に何があったかは皆目見当もつかなかった。

「なんで回ったのホントに!なんなのこれ!なんだったんだろうアレ…。」

回転が止まったベッドから起き上がって、彼女は少しの間静止した。2回ほど右に首をひねって下を向き、何かを確かめるように洗面台の方へ行ったようだった。

僕は右手と左手に順に力を入れて、深呼吸をした。これはたしかに現実だ。2019年のお盆。うん、そうだ。

戻ってきたのに安心はしたけれどすぐに起き上がる気にはなれなくて、まだ仰向けのまま部屋を見回していた。

「さ、時間だね。もうちょいゆっくりしたい気がするんだけれど…、ま、延長はイヤだな。1曲なんか適当にかけるから、その間に準備しよっか。」

勝手だなあ、このひとも。そう思いながら、そろそろ身体を動かさざるを得ないんだなと感じた僕は支度を始める。そこで、懐かしい曲がかかる。

高校の時高本さんに振られた後しばらく聴き入った曲だった。

僕は身支度をする手をさっきより早く動かしていた。

「おーい、そろそろ準備終わるよ!」

一足早く動き出した彼女が、玄関でもう靴を履いているようだ。

行かなきゃ。

「ん?なんか口元に泡ついてるよ?…もしかして内緒でビール飲んだの?」

彼女がいかがわしいものを見るかのように、僕の口元を見ている。

One more time, One more chance...

そうか。

僕は声に出さずに納得した。

この曲の言ってることがようやく分かったよ。

逡巡する感傷的な歌詞が続く曲の、最後のサビにこうある。

「命が繰り返すならば 何度も君のもとへ」

この曲を作った歌手は、このフレーズの後に過去の想い人へのメッセージを添えていた。それがこの曲の描く風景なのか。けれど僕には本当の理解なんてもう、どうでもよかった。

確かに僕は命が繰り返すならば、何度もあの人の元へ行くだろう。メールして、告白して、デートをする。振られる。そして2回目を体験する。

でもそれは、多分何かを変えるためじゃない。

何度も君の元へ行って、振り回されて、振られて、紆余曲折の光る街並みを走り抜けて、それでホテルのベッドでぐるぐる回りながら夢か現か、その狭間で何度もそのことに気がつくんだ。そうだ。

あるはずのなかったあの夏の泡をそっと舌でなめて、僕は玄関に立つ彼女の方へ向かった。

表情が暗かったのだろうか、彼女がまだ不審そうな顔で僕を見ている。

「んん?どうしたの?」

僕は彼女の複雑そうな表情を見て、ほんの少し間をおいた。それから、ゆっくりと彼女を抱きしめて言った。

「あなたが、好きだよ。」

空気が凍ってしまうかな、という不安もあった。けれども、それ以外に言う言葉が見つからなかったのだ。

思ったよりも驚かずに、彼女が僕の腰に手を回してきた。気のせいだろうか、やや遠い目をしている。

しばしの静寂のあと、彼女はじっと僕の目を見てつぶやいた。

「そっかあ、あたしもだよ。」

回転ベッドの部屋をあとにして、ふたりは夜の国道へと向かった。
早くもあたりには虫の音と涼しい空気が漂いはじめていた。

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。