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ミルフィーユのはなし。

同じ事実から同じ価値は引き出せない。
更に言うなら、それらと感情はまた完全な別物だ。

それら全てを誰かと共有することなどないし、する必要もないのだろう、と思う。

思いつつも、奇跡的に共有できないかなーなんて思う欲は、いつも自分の中に真っ赤な液体になって流れているのだけれど。

どうもこんにちは、りょーさけです。
気温が中途半端な真っ昼間は、どこか心情までもやもやしてしまう。
そんな時には我慢せずもやもやを書きたい。

では、始めます。
※※※

私見ですが、多くの文章や記事は事実と価値と感情がミルフィーユ状になって構成されていると考えています。

例えば、なのですが。
  

「昨日東京に行った。恵比寿で映画をみた。素晴らしすぎて、皆必ず見るべきだと思った。ワクワクした。」

という文章があったとします。
この文章中の情報を今行った事実と価値と感情に分けるとすると…

「東京へ行った」と「恵比寿で映画をみた」と「〜と思った」が事実。

「素晴らしすぎて」と「皆必ず見るべき」が価値。

「ワクワクした」が感情です。

これらの比率と並べる順番で美味しいか美味しくないかが決まる気がする。そんな話。

事実だけでは口どけが悪い。

価値だけでは甘さがくどい。

思いだけでは油っぽい。
 
 

みたいなね。はい。

三者が巧みに配置されるとそれは説得力を持つ。

そんなふうに考えて先週から文章を書いています。


これまでは「事実を厳密に提示すればそれだけでもそれなりの説得力を持たせられるのだろう」(実際にそれができるかは別として、だけど。)と思っていたのですが、それは間違いでした。

そういう考えを見直すきっかけになったのは、例の瓶の記事です。

あれを書いて、沢山の反響を頂きました。
僕のもとに直接届いたものもあれば、ツイッターで検索して見つけたものもありました。

誰かに何かを伝えることの難しさを全身で受け止めました。

ということで、事実だけではなく、その他のことも念頭に置いて文章を書いていきたいのですが、その際に注意したほうがいいだろうなーってことを批評家の東浩紀さんの著作から引用します。

「人間は事実は共有できる。けれども価値は必ずしも共有できない。同じ事実から異なった価値が導かれることはあるし、その差異を認めなければ人々の共生はありえない。けれども日本人は、事実さえ共有すれば、必然的に価値も共有できると思いこんでいるところがあるのではないか。」

東浩紀、『ゆるく考える』、p80から引用

 

同じ事実から同じ価値は必然的には出てこない。

例えば、「65歳以上の方による自動車事故が年間○○件ある」(事実)の判断から必然的に「65歳以上の方には強制的に免許を剥奪すべきだ」(価値)の判断は出てきません。

その他の事実をもっともっと並べれば、どこかで人々が一致する可能性はあるでしょう。しかし、「○○なら、絶対に✕✕でしょ!」とはならないのです。

これもまた例えばですが、自分の子どもが罪を犯したとします。その時、「自分の子ども『だから』厳罰を与える『べき』」とも言えるし、「自分の子ども『だから』寛大な処分を与える『べき』」とも言えると思います。

そこにあるのは個々の倫理観や経験をベースにした特殊な判断であり(なんなら感情も混じってきます)、義務教育の期末テストの問題のように設定された正しい答えを選択するような判断ではないのです。

ミルフィーユだったら、食べて確認すれば口溶けと甘さは別の評価基準であるとわかりますよね?
つまり、口どけが良かったとしても、甘さの塩梅がイマイチだという可能性はあるし、口どけが悪くても甘さは丁度いいという可能性はあります。

ところが事実と価値についてはどうでしょう。本来別のものだけれど、混同されてはいないでしょうか。

(…まあつまり、僕自身がそれしがちだから気をつけよーってだけなのですが。)

そこを切り分けて適切に層を形作るところから、始めていきたいな。

あと、やはり文章も書き手に似てしまって脂肪分が(感情が)多めなので、口溶けと甘さにも気を遣ってゆきたい次第であります…。

※※※

謎の体調不良が続いております。なんだこれ。
疲労か。東京の疲労か。

家族と戯れて、回復しやう。

それでは、また。

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。