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続・日本酒の普及は日本酒の知識の普及とは全く別問題だと気がついた件。

以前こんな記事を書いた。日本酒自体の普及と、日本酒の知識の普及は全く関係がないという内容の記事だ。

今日はその「普及別物問題」に付随する新たな疑問が出てきたので、それについて書いてみようと思う。

便宜的に章立てしてあるが、これは仕切り的なものであってかっちり何かを論じるためのものではない。

酒を片手にふわっと読んでほしいと思う。論争は目的ではない。そもそも論争になんてならないだろうけれど。

最近わたしは日本酒関連の活動に対してちょっと引き気味である。本気で詩や文学読んどかないとな、と思っているから日本酒と接する時間が減っているのもあるけれど、今日これから述べることが喉につかえているために日本酒を飲むのが億劫になっているところもある。

いつもどおり前置きが長くなった。そろそろ話を始めよう。

1.新しい疑問「単純に嗜好品の普及が問題なら知識は全く必要ないのではないか」

ということで今感じている問題を簡潔に述べる。前回の記事では日本酒自体の普及と日本酒の知識の普及は別問題だと書いた。

最近はそれとまた少し観点が変わってきている。

純粋に「嗜好品としての酒の普及」が問題ならば、知識は障害になることがあるのではないか。

これが最近の疑問である。

で、こう書いた時には必ず注釈が必要になるのだけれど、わたしは知識を軽視する気はない。前回の記事も引用RTで「そーだ小難しいことなんか必要ねえんだよ!」って言われてたけれど、そういう風に読む人には全く言いたいことが伝わってないから相手にしない。

但し書きをよく読んで欲しい。こんな感じで誤解されたくないところには書くので、読んで欲しい。

今回は嗜好品としての酒の普及が問題ならば、と書いてあるのでそこのところを宜しくおねがいします。

2.知識を用いた説明はなぜ普及の障害になるのか

前章からもう少し踏み込んで説明しよう。

なお、ここでは嗜好品を「程度を問わずストレス発散のために使用する、ある人の好きなもの」という風に定義しておく。

言いたいことは実に単純だ。

知識は対人関係においては誰かに何かを教えるため、もしくは誰かを説得するためにある。その性質が嗜好品を楽しみたい人のストレスになる。だから、嗜好品の普及において知識は時に不要になる。

もう少し詳しく説明する。

嗜好品がストレス解消のためにあるとするなら、多くの場合ひとはそれと接する場でストレスを感じたくない。それではそれと接している・それを使用している意味がまったくないからだ。

タバコでも葉巻でも酒でもなんでもいいのだけれど、その手の嗜好品は身体的にはあまり好ましいものではない。ということで、嗜好品を使用する場でストレスが溜まったら本当に単に身体に悪いだけだ。

あとこれは読んでいる方々ひとりひとりに考えてほしいのだけれど、基本的にひとは自分が知らないことを誰かに語られて、それで説得されることを心地よくは思わない気がする。

基本的に、と書いたのは師弟関係や友人関係などの信頼関係、広義の敬意があれば例外はたくさんあるからだ。師匠のもとに学びに行った弟子はむしろどんどん何かを教えてくれと思っているものだろう。

そうではないひと、初対面のひととか、知人くらいのひとからは積極的に説得されたくもないし、教えを授かりたくもないと思うのだ。

(何かを「わかる」「わからない」というのは子どもから大人まで一般的に圧倒的な溝を生む可能性がある。もちろん誰しも自己愛・自尊心があると思うから「へへーん、おれこれ知ってるよ!」って言っちゃったことはあるのではないか。けれども、それっていい結果を生んだことがあるだろうか。ちょっと考えてみて欲しい。)

ということで、嗜好品を楽しむ場で、自分の知らない知識を語られるのは非常にストレスになると思う。こういう場合、知識は全くと言っていいほど役に立たない。

3.知識マウンティングについて

2章の内容を踏まえて、知識マウンティングについて思うことを少しだけ書いておく。

SNSを見ていると「酒の会で不必要な知識を語られて鬱陶しかった」とか「聞いてもいないのに精米歩合がどうだのテロワールがどうだの言われて引いた」とかいう意見が散見される。

それらのうんちくで誰かを不意打ちする行為を仮に「知識マウンティング」と名付けてみよう。(説明してないのにこの言葉使っててすみません。)

わたし自身初めのうちは「たしかにそうだな。そういう鬱陶しいやつがいたらチクッと言って懲らしめねばならん!」とか勝手に自分を奮い立たせていた。

しかし最近は、むしろ知識マウンティングに対して何らかのダメ出しをSNS上でする行為の方を多く見かける。いや、まあ、それだけ知識マウンティングする輩が多いのは分かった。それを鬱陶しく思う気持ちは否定しない。

否定しないのだけれど、知識マウンティングを見る度によってたかって十字架に貼り付けて火炙りにする行為もまた度が過ぎれば惰性の「反知識マウンティング」に成り下がる

もっと知識の使いどころを個々が考えるのはもちろん最優先で大切なのだけれど、もう一定数そういうひとがいるのは伝わったと思うから今度はそういうひとがいてもその場を楽しく盛り上げて、その知識マウンター(?)にもやんわりハッと「自分うざいんじゃね?」と気づいてもらうための策を講じるのがいいのではないかと思う。

マウンティングするひとと同じ穴のムジナになることだけは避けたいものである。

4.普及のために必要なこと

ということで、単純な普及を考えるのであれば知識の乱用は控えたほうがいい、というのがわたしのここまでの見解です。

で、知識批判ばっかりしていても仕方がないので普及のために必要なことをササッと挙げてみよう。

現時点でわたしが必要だと考えるものは「ノリ、フェス、コラボ」だ。(気分とイベントが混じっていて申し訳ないが、まあちょっと聞いてください。)

それぞれ若干かぶってるところもある。

それらに共通しているのは、体験する人に対して酒自体を凝視しないようにして「なんかいいかも!」と思わせる力を持っているところだ。

ノリに理屈はない。楽しげだったらやる。
フェスでは盛り上がらなければ損だという雰囲気がある。「あれが真にいいものなのか…?」と考えさせる力よりは「いいや!試しちゃえ!」の力が強いと思う。
コラボは視点の相対化。これも酒だけを凝視せずに済む。

とかく過度の凝視は必要以上の理由(「○○だからこれが一番うまいんですよ!」とかそういう理由ね)を欲しがる前提になると思う。そして理由を考え出すと思考が絡む。

頭で考えることが必要なものは爆発的には流行らない。

面倒くさいし、前の章で説明したとおりそこには「分かるひと」と「分からないひと」に断絶が生まれうる。だから「ノリ、フェス、コラボ」くらいでいいんだと思う。

何度もいうけど、これは嗜好品としての日本酒の普及を考えた場合の話です。一般的に「知識なんか要らない、ノリでコラボやってフェスにしろ!」という話ではまったくないので、そういうのを主張するために援用しないで欲しい。

5.知識のゆくえ

知識は言わずもがな必要なものである。

ただ普及に焦点を当てた場合に不要なこともあるのではないかなあ、ってだけだ。

仮に上記のような方法を乱発できる資本力があったとして、根付かなかったらいっときのムーヴメントで終わってしまう。燃え広がって灰になるだけだ。

そうならないためのに知識があり、知識と体験と地域が結びついた文化があるのだと思う。知識には短期的な即効性はないかもしれないが、長期的に見れば確実に必要だ。

なぜその地域にその酒蔵があるのか。日本酒はその地の人々と、街とどうつながっていた、つながっている、つなげていく。その場合の障害はなにか。どういう手段があって、何を売りにすればいいか。

そういった壮大なことを長期的に組み立てるために広範な知識が必要となる。そういう風に思う。

とは言っても、「今活動しているところでも知識って活かしたいじゃん?」という声もあるだろう。その声にも一応考えられる限りで応えておく。

現場で知識を使うなら、それがめっちゃくちゃすんごい知識で成り立っていることのニオイ消しまで完璧に行う必要がある。

簡単に言うなら、現場で使われる知識は魔法のように使われなければならない。手品どころではない。魔法だ。種も仕掛けもあるんでしょうという疑念すら抱かせてはいけない。

杖を持っていることも、スペルを唱えていることも全く悟らせずに使うのがベストだ。そうすればそれを体験したひとは「これ!なんかいいかも!」と思うだろう。

(もちろんわたしは自己愛に溢れた人間なのでどこかでドヤ感がでてしまうし、そもそも大した知識の集積を持っていないのだが)

そういう風に使えるひとは実在する。

そういう風にわたしは思っている。

6.以上を踏まえて、日本酒の今をざっと見る

以上の点を踏まえて日本酒酒蔵や飲食店のことを眺めてみる。

すると、上手なところは知識と根拠で売ってない気がする。実証的な話ではなくあくまでわたしがそう思ってるだけだから、これは皆さんで考えていただいて、どうなっているか検証してみてください。

一見知識を絡めて売っているように見える部分もあるけれど、それらは「なんかすごい(つまり魔術的部分)」のおまけでしかないと思う。

トップランナーたちは、どこかで自分たちの魔術を手に入れていると思う。
みんなその魔法にかかって「なんかすごい!」と嬉しそうにお酒を飲んでいる気がする。

皮肉じゃない。

憧れってそういうものだ。
根拠がない部分があっていい。少なくともわたしはそう思う。

子どもの頃アンパンマンや戦隊ヒーローに憧れたわたしたちに、後付けで「〇〇だから子どもたちはあれが好きになるんですよ。」と理由をつけることはできる。

でも、多分だけれどアンパンマンやその他のヒーローたちって、格好良かっただけだ。それで十分だったのだ。

大人になると理由が必要になることもあるけれど、手放しで憧れられるのも素敵な能力だと思う。

(そういう意味で大人になってもプロレスやアイドルを楽しめるひとたちはすごいなあ、と個人的に思う)

しかしそれをやる側は自覚的に、練りに練り上げてやっているかもしれない。

そのことまで含めた視点で日本酒を眺めると、なんてすごいことをやっているんだー、って、また敬意が湧いてきたりする。それでわたしは今日も酒を飲むのだろう。何度嫌になっても。

7.まとめ

全体をざっと振り返って終わることにする。

知識は無自覚で使うと鬱陶しがられるだけになるかもしれない。しかし短期的なノリ、ムーヴメントに終わらないためには知識、根拠、それらに基づいた文化が必要だ。

だからそれらはたとえ部分的に鬱陶しがられても、たしかに日本酒全体を支えている。少なくとも先駆者たちはみなそれらを知った上でどうするか立ち位置を模索していはずだ。

今のところ、そんな風に考えている。

ということで、今日もいい酒飲もうぜ。

ひとりでも、ふたりでも、みんなででも。

いい酒を飲もう!乾杯!

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。