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『最高の販売員が無意識にやっているたったひとつの大切なこと』

「なんだこれ?」

桐生遼助(23・仮名)がその本を手に取ったのは会社の飲み会の帰り道だった。駅前の本屋に立ち寄った際に、売り場の片隅に目立つコーナーを見つけた。

春のイーストフェア開催中!!私たちの生活に深く関係している「イースト」「酵母」について深く知ってみませんか?類書も魅力的!

大きめの画用紙に書かれた文字が踊る。

桐生がこのコーナーに惹かれたのは、大袈裟なPOPだけのせいではない。
彼がパン屋の販売員だからだ。

「なんでイースト…イースターとでも掛けたのかな?」

平積みされた多くの本たちはとてもきれいに書評の帯をつけられていて、何だか圧倒されてしまった。

「で、これは何なん?」

彼が手に取ったのは『最高の販売員が無意識にやっているたったひとつの大切なこと』という本だった。いかにも流行のやつっぽい。

表紙には細身のフォントが程よい余白を保って整列している。その下にタイトルの下には文字よりやや小さいサイズのパンのイラストが並んでいた。

食パン、メロンパン、クロワッサン…。
どうやら著者はパン屋の店員らしい。

同じ職だけれど、なんとなく自分とは別世界に思えた。

「ふーん。」

いつもならこう呟いて終わっていただろう。


しかしその日は酔いがよく回っていたせいなのか、本をそのまま購入してしまった。迷いがなかった。

まだ少し寒い春の街を、酔い覚ましがてら歩いて帰った。

「酔いが回ったから」と書いたが、彼がそれを買ったのにはほかにも理由があった。
彼は新社会人で、入社一か月弱が経っていた。

壁にぶつかっていたのだ。

パン屋の朝は早い。
朝5時に起きるだけでも大変なのに、覚えることとやるべきことは日々増えていく。日々周りの上司や同僚、お客さんのしかめっ面が増えていった。

生涯唯一頑張った受験戦争で得た学歴という小さな王冠も、すでに粉々に砕かれてしまっていた。

今思えば「そんな日々をどうにかしてみたい」とわずかな気力を振り絞っての購入だったのかもしれない。

※※※

帰宅して寝る支度を整えた桐生は数ページだけ例の本を読もうとベッドの上でそれを広げた。

「たった一人で無名の商品を100万円分売った」とか著者のどうでもいい自慢話が載っていて本を閉じかけたが、気になる一言に目を奪われた。

最高の販売員になるために、これだけまず徹底してやってみてください。

「何すればいいんだ?」

若者のやさぐれ気味の心に期待が湧いた。

どんな時でも基本が大切です。迷った時ほどあなたが習った接客のテンプレートを徹底的に駆使してください。それをやってからが始まりです。

「それでいいんだ。」

確かに最近は疲れに任せて基本をおろそかにしたかもしれないな、と彼は頷いた。テーブルの上のコップに残ったビールに手を伸ばし、飲み干してから眠りについた。

※※※

「どういうことだよ!」

翌日の仕事帰り、彼は怒っていた。理由は明確だった。本のアドバイスが完全に裏目に出て散々な目にあったのだ。接客のテンプレートはお客を呆れさせ、悲しませるばかりで、喜ばすことはなかった。

「内容次第ではSNSに不満を垂れ流してやる!」

彼は息巻いて家に帰り、本の続きのページを開いた。

前章の内容をそのまま実践した方はいますか?
それはそれはありがとうございます。
しかし、上手くいかなかったのではありませんか?

そうだよ、上手くいかなかったんだけど、と彼は悔しさをにじませる。

試すようなことをしてしまってすみません。
しかし、そのままやってしまった方は販売員・接客というものを甘く見ています。前章の内容はそれに深く気付いてほしくて敢えて書いたのです。

文字を読んで一瞬静止した後、桐生は「どういうことだ…?」と首をかしげた。本はこう続いている。

接客は世界でたったひとりしかいない目の前の人に向かって、自分にできることを常に模索する行為です。求めるものは当然ひとりひとり違います。ですので、これを読む人、特に前章の内容をそのまま実践した方はここで立ち止まり考えてほしいのです。接客において事前に把握できるような成功パターンはない、ということを。

彼は唖然としてしまった。しばし沈黙。

恥をかかされたような気分になり、怒って本に向かい始めたのだけれど、どうにも本の内容が腑に落ちるのである。

彼は確かに販売員になってから、入社前研修で習ったマニュアルを毎日寝る前に読んで暗唱していた。時と場合に応じてマニュアルからすべきことを導くことはできていた。それでどうにも上手くいかず、行き詰まっていたのだ。

少し重い気持ちで手元にあった日本酒を一口飲み、視線を戻した。

この本全体で言いたいことは、今の一言に詰まっています。マニュアルは存在せず、目の前の相手によって適切な対応を考え続けなければならない点をいつも忘れないこと。これがタイトルの「最高の販売員が無意識でやっているたったひとつの大切なこと」です。

短い文を読みながら、彼はこの1か月の自分のはたらきを振り返ってみた。少々手間がかかる注文をしてきたお客さんに「忙しいから」という理由で雑な対応をしてしまったことが何度もあった。

マニュアルには「イレギュラーな対応はなるべく取らずどのお客様にも平等な対応をすること」とあったのだ。

「あの時もしかしたら、何かしらできることがあったってことか?」

何度も何度もベッドの上でうんうん唸りながら、彼はそんなことに思いを巡らせていた。気がつくと、彼はメガネをかけたまま眠っていた。

※※※

例の本を読んでから、桐生の言動は少しだけ変わった。

もちろんすべての接客でよい結果が出たわけではない。

ただ、彼は以前なら「すみません、お客様…」と切り出していたところで少々踏みとどまるようになった。そこで相手に要望を聞いてみることにしたのである。

完璧に期待に応えることが難しそうなときでも、「では、○○まででしたら可能ですがそれでもよろしいですが?」と提案をしてみた。しぶしぶ了承する人、「ありがとう」と笑顔を返してくれる人などなど返答は様々だったが、彼は前と違った景色が見られるのが楽しくなっていた。

そんな桐生の姿を見て先輩は「あれ?いつもと違うじゃん。」と嬉しそうに話しかけてきた。

「なんですか。別にいつもとおんなじですよ。」

口をちょっと尖らせながら彼は返答した。

「相手をよく見て対応をその都度考える」

これが自分に一番足りていない部分だった。
自覚して仕事はちょっとだけ充実したものにはなったが、彼は少し気恥しいような、申し訳ないような感情も抱いていた。

「今までの仕事で、というか生活で、自分はどれだけの人の願望を見落としてきたのだろう。」

桐生は、ちょっぴり反省していた。

しかしこのまま落ち込んでいても、誰のためにもならない。
自分の世界に閉じこもっていじいじしていても仕方がないのだ。

その分これから頑張ればいい、そんな風に思ってパンを運びに行った。

※※※

「なんか自分、もしかしたら上手くいってるかも」

そんな安堵に浸りかけた時、事件は起こるものである。

ある日の夕方、桐生遼助は勤務先の片隅でしゃがみ込んでひとり泣いていた。メガネはすぐ下の床に落ちて、涙に濡れていた。

その日の昼のことだった。
桐生がいつものように商品を陳列していたところ、会計を済ませたお客さんがものすごい剣幕で彼に駆け寄ってこう言った。

「アナタ今、さっきまで棚を拭いていた布巾で商品をつかんだでしょう!私見てたんだからね!!信じられない!!!」

大きめの声で述べた後、お客さんは急いで出て行ってしまった。

パン屋の昼はなかなか忙しい。慣れた先輩でもピークが過ぎたら一度休憩をとるくらいだ。そんな中、急に怒りをぶつけられて動揺してしまった彼は、気が付くと涙を流していた。

同僚のひとりが「お前の陳列見てたけど、多分お客さんの見間違いだと思うよ。」と言っていたのが救いだった。いつもは厳しい先輩たちも今日は同情的でありがたかった。

しかしこういう形で受け取る怒りというのは、接客において一番堪えるものだと彼は実感していた。
皆が励ましてくれたところで、気持ちの整理はつかなかった。


もやもやしたまま家に帰りシャワーを浴びて、彼はため息をついた。

「どうしたらよかったんだろうな。」

誰もいない部屋で呟いて、しばらくテレビを観ていた。

ひととおり目立った番組も終わり、気持ちに若干余裕が出た桐生は、何かヒントはないだろうかと本の目次ページを開いた。

「お客様のことを考えるのではなく、ただ見る」、「丁寧な対応をするための作業スピードだと心得ておく」などなど参考になりそうな言葉はあったが、今必要なのはそれらの言葉ではなかった。

「ん?」

ある項目が彼の目に留まった。

「どうしようもないことが起こることもある」

彼はすぐにそのページをめくって読み始めた。

接客をしていると、どうしようもない出来事に遭遇することがあります。自分とお客様双方とも悪意があったわけではないのにトラブルになったり、その結果お客様を怒らせてしまったり…。

「まさに今日の自分だ。」

彼は改めて出来事を思い出し、目をぎゅっとつぶって手元のお猪口に入った日本酒を飲み干して読み続けた。

3回だけよくその出来事を噛みしめましょう。3回考えたくないときは3分だけ考えましょう。適宜メモして、あとは放っておくこと。これが大切です。忘れようとすればより意識してしまう。自然に消化できる日を待ちましょう。

「やはりこういう出来事に心の中で決着がつくまでには時間がかかるのか。」

そう思うと少し安心だな、と桐生はひとりで頷いた。
どうにかもやもやを解消しなければ、明日職場に行けないのではないかと不安だったのだ。

そうだ。あのお客さんだってもしかしたら「言い過ぎたかな。」と思っているかもしれない。起こった出来事自体は悔やみ続けても仕方がない。

避けられないことは、ゆっくり受け入れよう。

受け入れよう…でも…。

「ただ待つのは難しいかなぁ…。」

気が付くと桐生は部屋の片隅にあった大きめのぬいぐるみに向かって話しかけていた。

待て、と言われたってもやもやは気になってしまう。なんだかしばらくは引きずってしまいそうだ…。

そう思って、彼はまた本に視線を戻した。

「あれ、あるじゃんヒント。」

同じ項目の中に「それでも、もやもやしてしまう人は…」という言葉があるのに彼は気が付いた。

それでも、もやもやしてしまう人は…。
ちょっと仕事から離れて、街に出てみましょう。
街に出て仕事ではやらないことをやって、仕事では出会わない人に会ってみましょう。

「そう言えば、最近外に出てなかったな。」

ただでさえ仕事が忙しい日々だった。桐生の家から繁華街までは電車で5駅あり、ぶらっと行くには少し遠かった。

「酒もひとりで飲んでばっかりで、友人と連絡も取ってなかった。」

これが本当に疲れている、というやつなのかな。そんな風に彼は思った。

自分では分からないうちに視野が狭まって、ひとりで戦わなきゃってなって、苦しくなって本当に会社にも行けなくなって…。

そこまで考えて、彼はほんの少しだけ今日の出来事があってよかったと思えた。

きっかけがなければ、自分を深く省みることもなかったかもしれない。

彼はリズムをとるように小さくうなずいて、スマホを取り出し友人に連絡した。本の続きを見ながら、4合瓶に残ったあと少しの日本酒を愛でるようにちびちびと飲んでいた。

ほんのりと胸のあたりに温かさを感じるのは、酒だけのせいじゃないよな。

桐生は自分にそう問いかけつつ、これまでの生活を思い返して眠りについた。

※※※

あの本を手に取ってから1年が経った。

不意に桐生はそのことが懐かしくなり、休日に本を買った書店に赴いた。

相変わらず接客は大変だ。特に見通しが良くなったわけでもなく、慣れるわけでもなかった。勤める店は幸い繁盛続きだった。忙しすぎる。

ただ彼が変わった。「一寸先は闇で、次の瞬間のことは何も分からないのだ」というのを深く自覚して変わった。だからお客さんを見なきゃならない。

もしかしたら天国。もしかしたら、地獄。

でもどちらに行き着くのかは予め決まったことではない。自分次第で何とかなるかもしれない。

「でも、どうにもならないことも、ある。」

いつぞやのことを思い浮かべて、彼はそう呟き、深く頷いた。

そんなことを思って本屋に入ると、何やら視界に入ってくる一角がある。

「またかよ。」

彼は思わず笑ってしまった。

春のイーストフェア開催中!!私たちの生活に深く関係している「イースト」「酵母」について深く知ってみませんか?類書も魅力的!

去年と同じ文字がきれいに並んでいた。
紙の傷み具合を見るに、内容は同じだが一応新しく刷りなおしたらしい。

彼は少しイーストフェアの前たたずんで、本を眺めた。もちろんあの本もあった。

「たったひとつの大切なこと」を果たして自分は考え続けていけるだろうか。

それは分からないけれど、ともかく一冊の本と出合って様々な体験をしたことに彼は充実した気分を覚えていた。

「ほかの本も読んでみようかな。」

桐生はひとつ隣の本に手を伸ばした。
類書ということで、日本酒の酒蔵に関する本が置いてあった。

そう言えばパンもイースト、日本酒もイーストが見えないところで活躍している点では一緒だ。そんなことにも気が付かなかった。そんなスピードで今日まで駆け抜けたのだ。

すると―

「おっ、と。」

偶然にも同じタイミングで手を伸ばしてきた男がいて、手が少し重なった。

彼は男を見た。自分より一回りふくよかで、片方の手は子どもと手をつないでいた。彼の息子さんだろうか。

やや申し訳なさそうに会釈をして桐生はそっと場を立ち去ろうとした。

「なあ、君。」

ふくよかな男が彼を呼び止めた。

「なんでしょう?」

やや驚いた様子で答える彼に、男は言った。

「君は日本酒が好きなのかい?」

桐生は当惑しつつ答える。

「好きです。好きなだけですけど。」

質問の意図が分からない桐生は、若干顔色を曇らせつつ返した。

「そうかそうか、ではその気持ちを大切にね。」

男はやや大きめの黒ぶちメガネを揺らして笑った。

「おとうさん、かえろー。」

傍らの子が、男を見上げながら言った。

「ああ、用事は済んだからね。」

男の子にほほえみと言葉を返して、男は場を離れていった。

変な奴だ、と思い何度か男の方を振り返りつつ、桐生は足早に本屋を後にした。


街はまだ寒かった。桐生はスマホを取り出してメッセージを送る。あれから彼は何度も街に出た。もちろんそこには、例のもやもや解消の目的もあった。友人と朝まで飲み明かして会社に遅刻したこともある。

けれども次第に、彼はそうやって街に出て普段会わない人と接することの楽しさや大切さに気が付いた。

SNSを使って日本酒ファンたちと飲み会を開き、彼らやお店の人たちと笑いに笑った。そこでは彼は「桐生遼助」ではなく、「SNSにいる酒好き」になれて気も楽になった。

彼はそうやって仕事と関係ない状態で接客される側の経験をすることの意義を感じていた。

素人臭い接客は論外だけれど、お客さん側の視点を忘れてはいけないのだ。
初心は忘れず。技術は積み重ねる。


「でーも考えすぎると、酒楽しめなくなっちゃうんだよなあ。」

独り言を街の喧騒に溶かしながら、彼は歩く。

「♪」

スマホのメッセージが来た。今どこにいるのかという確認のメッセージだった。

返信しようと、彼は画面をタップする。

「すみません、寄り道してたら遅くなっちゃって。今すぐ行きますよ!」

メッセージを送って、彼はなぜか微笑んだ。見方によっては何も状況は変わっちゃいないけれど、自分は確かに豊かになった気がした。

そういえば、先ほどの奇妙な男は桐生が本屋を出る直前、ベビーカーで赤ちゃんを連れた女性と談笑していた。4人家族だろうか。

たいして言葉を交わしたわけではないが、「ではその気持ちを大切にね」と言った男の笑いが印象に残っていた。

「自分にもいつかああいう家族や、大切な存在ができるだろうか。」

桐生は見えない未来をしばし思い、少し中心からずれた黒ぶちのメガネを左手で直した。


「♪」

メッセージが返ってきた。

「もう皆来てます。乾杯しちゃいますよ!りょーさけさん!!」

いけない、ここでも遅刻か。

桐生遼助はまっすぐに、まっすぐに華やかな街へと消えていった。

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。