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「ただなんとなくそうなった」時間空間こそ理不尽でエロティックじゃね

まずはじめに言っておくけれど、これはセックスの話ではない。
途中でセックスについて匿名の誰かが書いた文章を載せるけれど、別にそれについて深く掘り下げたりはしない。

だから「お?下ネタ?」と思って嬉々としてここを開いた人は、今直ぐこのページを閉じてなにか他のものを開く準備でもしたほうがいい。

ビニールに包まれた本とか。(古)

下ネタでないと説明したこの文章自体が下ネタではないか、と突っ込まれると非常に心苦しいのだけれど、そこらへんは放っておいて何か突っ込む用意をして有意義に過ごしたほうがいいと思う。

チュッパチャップスとか。(子どもか)

連日、旧友たちと飲む日々が続いている。

地元。駅チカ。チェーン店。
まったくもって魅力的に思えない地方都市だけれど、うちの近くにもそれくらいのものは揃っている。むしろそれが揃っているから魅力的でないのかもしれない。

本人たちは無駄なことをしにきたつもりでいる。

昔の話をする、適当なアルコールを飲む、カラオケに行く。

事実、たとえば「その行為がなにか未来(特に仕事)と結びつくのか?」という観点で言えば、無駄だろう。

しかしその無駄に思える行為の中にも作為や微妙な損得勘定が潜んでいる。

「効率のいい注文の仕方」、「程々のカラオケ曲予約」、「他人のプライベートに足を突っ込むのは適度にしておく」などなど、枚挙にいとまがない。

騒がしく楽しかった風景が一瞬で寒々しくなるのはそれらが雰囲気の中にみちみちて飽和した瞬間だ。思わずトイレにでもたちたくなる。

実際は笑ってるんだけれどね。その輪の中で。

ただ、そんな微妙な時間の中で、それでもなにかそういう作為に抵抗する形でどうしようもない無駄というのがこれまた露出する瞬間がある。

例えばカラオケで誰も次の曲を入れないけれど、でも誰も帰ろうとは言わないあの瞬間。誰もネタとか昔話をしない。ちょっとスマホもいじったりしていて冷めかけているけれど、しかし帰りはしない。

あの微妙な瞬間がコントロールできなくて、今思うとエロティックだなと感じた。

こういう飲み会ってどの時も作為からはじめるけれど、作為だけで終わる時はあんまりない。

異物が残る。「なんでやってんの?」みたいな。

旧友は部活のチームメートだけれど、部活の時もそれが確かにあった。

こんな夏の暑い時に一日中練習して、終わったらさっさと帰ればいいのに無駄話をした。ボールやバットを触っていた。その空間では「なあもうみんな帰ろうぜ!」って言ったやつが「場を白けさせたやつ」認定されて陰口を言われたりする。わたしはそれを言ってしまうか帰ることが多かった気がする。

あの時は自分がやったことは合理的だと信じて疑わなかった。こんなことするなら勉強か、ちゃんとした居残り練習をやろうぜ、とか思ってた。

けれども、もしかしてあの時間自体があったこと、ついでに言うならそれを共有したことがなんとも言えない居心地のよさを生んでいるのではないだろうか。もちろん、現在の、だ。

わたしが未だに飲みの場でかなりいじられたりするのは、あの時場を白けさせてしまったことに対するみんなの無意識の反乱なんじゃないだろうか。

その時間のことなど、みんな覚えていないだろう。その時間の中で語られた印象的な言葉とか、先輩にどやされたとか、具体的なエピソードは覚えていると思うけれど、大気の中に確かに存在するけど気づかれない窒素みたいな時間のことは覚えていないだろう。

あの時間たちにはもう、変質していく記憶という形で間接的に触れることもできない。けれど、あれが自分たちをたしかに形作ってる感じがあるんだな。素敵に不思議だ。

そんなことを思いながら書くことを考えていたら、この記事が目に入った。

なんてことない若者の一コマだ。

根拠は1つもないんだけれど、きっとこの人が10年後くらいに振り返ると具体的なセックス中のことよりも、「セックスをするためになんとなくしていたこと」のほうが印象に深く残っているのではないかと思う。エロい。たとえ振り返るときに、その人がお相手と一緒にいなくても。

いや、むしろ一緒にいないほうが?どうなの?
わからんなあ。それは。

ま、それはしらんけど。

無駄な時間過ごしても何の罪悪感も気遣いもなく、これからもあいつらとは半年ごとに出会って、ああいう時間の中でちょっと貴重なそういう時間を楽しむのだろう。それがなんとも官能的だ。単なる無駄じゃない特別な、どうしようもないしどうしなくてもいい無駄さ。

だから盆って好きなんだよな。

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。