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司馬遼太郎【世に棲む日日】 革命事業の変遷を辿る

「時代の転換期には詩人が現れる」

全四巻からなるこの物語を、私は愛知に住む先輩から貰い、その先輩がたまにこの言葉を発していた。最初こそ、その心理というか意味が理解できなかったが、この本を読んだあとだとその言葉の裏側にあるものが読み取れる。

この本を貰ったのは2016年だったと思うが、人からいろんな本を貰いすぎて少し渋滞を起こし、結局、2017年の年の瀬に、パプアニューギニアにて読み終わる。

ニューギニアの冒険に行く前に書棚から本を選んで持って行くのだが、何十冊とある本の中でも、この世に棲む日日は今まで手が伸びずにいたが、なんとなく四巻まとめてニューギニアの地に持って行こうと思った。

司馬遼太郎の作品は今までにも読んだ事はあるが、司馬作品は咀嚼する時間を要する類いの本であり、ある程度まとまった時間がないと彼の本を読もうと思わない。

果たして、パプアに持って行って良かった本となるのだが、いかんせん題材が革命とその変遷であるから、感想の様なものがまとまりにくい。

しかしながら、四巻ある最後の章、その完の結びには高杉が送ったその生涯の顛末が端的に纏められており、最後のその一文が全てをかっさらった。

…この極めて凝縮された老年を送った人物の生涯は先に28歳と書いたが、それを正確に係数すれば27歳と8ヶ月でしかなかった。完

奇しくも、これ読んだ時の私の年齢は27歳と11ヶ月、あと10日もすれば28歳になる。この事に、妙な気を感じ、それがまた読後に来る余韻を深めた。


個の時代

幕末を生きた人々の物語、というか、その時代の中で生涯を送った人の命の灯火は、現代では考えられない程の劇的な煌めきを帯びている。何故あそこまで潔く命を懸けられたのかと言えば、一言にそういう時代であったと片付けられてしまうが、何よりも国というものを想い、誰かに忠誠し、志しを持ったからこそ、混沌とした濁りの中に煌めきある歴史を形成したのだと思う。

外の話で言えば、イスラム国や内戦紛争などを経験した全ての国には英雄的な人物が誕生する。人間という生物は生命の危機がその時代を覆った時、そこに多くの歴史と伝説をのこす。しかしながら、そうした戦いの中でも日本の幕末には他の全ての歴史を見ても無いものが、そこにはある。

」という他の言葉に変換がきかない、極めて日本的で抽象的な概念である。そして、個人の持つ物語、その根底にある一種の哲学が、煌めいてる。狂おしい程に、美しい。

話の道中、松陰がお上から刑を受け死を覚悟し、流刑地へ向かう籠の中、先にあるのは死なのに学びたいと思う気が消えず、絶えずその死への道中で学びを説いた。損得を超えた純粋な学びであると気がつき、此れこそが真理であると喜々とした。

狂の精神である。

死を前にして、松陰はその哲学に磨きをかける。軸は折れずに、むしろ太くなる。

仏教世界のゼロポイントという本の中で、悟りに関しての記述があり、悟りという、これまた抽象的な概念を一言でこう言い表している。

「悟りとは、公共物になるという事である」

松陰は幕末、その時代における、公共物になったのだ。それは、思想であり、哲学であり、志である。

遥か昔より神が絶対的な時代が長く続いてきたが、江戸の時代にもなると、神の上に個が立つ、神以上の存在に個が進化した時代の話である。ユゴーが書いた「ノートルダムドパリ」が示した様に、個の時代の到来を色濃く残す、そんな作品だ。ノートルドムドパリでは、時代に翻弄された役者達が宿命によってその時代を生きるのだが、世に棲む日々の人物達は、宿命を請け負いながらももがき、結果、公共物たる神の位置までに松蔭を時代が押し上げた。


論理的革命の解釈

司馬遼太郎という作家が持つ歴史観、司馬史観とも言える観点は凄まじく鋭く面白い。

革命期における三段階に分けた役割をこの物語のベースにして、一段目の思想を松陰、二段目は高杉による実行によってこの物語の結びを終えている。三段目は明治という新時代を作り出す伊藤博文であるが、その段は省き、思想によって起こった顛末、時代のうねりを浮かび上がらせ、松陰と高杉による革命の流れを丁寧を描いている。

もちろん史実と虚実が入り乱れる小説である事を忘れては行けないが、そうしたモノを含めても、松陰や高杉という、司馬遼太郎的に言えば、あの時代でしか輝きを得ないだろう人物を歴史が欲したのだ。そして、そうした時代は、二度はこない。既に情報革命という、大きな波が現代を覆い、あそこまで狂に徹せられた人を生みだすのは、もう一度地球と似たような星を創生し始め、何億年と経った「ある日」を待つしか無い。

現代において、幕末的な思想はほとんど必要とされていない。こと、日本においてのことだが。

有事においてはどうだろう、と考えた時、果たして世に棲む日日的な流れがこの時代に舞い戻るとも思わない。

人は既に、あの時代存在し無かった大量破壊兵器を発明し、保持してしまったのだから。ミニマムに流れる人と人とが織りなす物語を、そうした怪物的なものは一掃し、いとも簡単に、幾星霜と流れる歴史を重ねに重ねたこの星を壊滅させてしまう。それは正にSF的な話であるが、残念ながら虚と実の、実の話である。

松陰の狂の精神は、果たして現代に通用するものかと聞かれれば、今はわからない。が、私の行動や思考は、日本全体を統計したとして外れ値にある、つまりは狂側にある。

人は私の行動や思考を全て理解し得ないだろうし、理解したところで現代日本においてそうしたものは必要とされていない。

だが、私からすれば時代に帯同する多くの人の流れに揺られて生きるよりも、今はまだ、悠久の大河や、森の中に張ったハンモックに、私は揺られていたい。それが今の日本を生きるに当たって多少の生きづらさを感じても、私は自然の中で揺れていたい。

その心は、忘れたくない。



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