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NHKスペシャル「ヤノマミ」 アマゾンの大地に抱かれる精霊の子

ヤノマミ、それは人間という意味だ。ヤノマミはアマゾン最深部で独自の文化と風習を1万年以上守り続ける民族。シャーマンの祈祷、放埓な性、狩りへの帯同、衝撃的な出産シーン。150日に及んだ同居生活は、正に打ちのめされる体験の連続。「人間」とは何か、「文明」とは何か。

奥アマゾンで1万年にわたり独自の文化と風習を守り続ける人々、ヤノマミ。150日間におよぶ長期同居生活を綴った、震撼のルポルタージュ。


アマゾンの大地について

2012年と2016年、私はアマゾン河を手製の筏で下った。ひとりぼっちの、孤独の真っただ中を漂う、そんな時間を学生の頃と、それから数年経った26歳の時に過ごした。

一番始めの筏下りの前年度、2011年にとある本が大宅壮一ノンフィクション賞を取った。(大宅壮一は、日本のジャーナリストであり、作家でもある。そんな彼の業績を讃えて作られた賞で、正賞は100万円、副賞は国際往復航空券が授与される)

当時、受賞作品は2作。

1作は角幡唯介の「空白の五マイル」。世界に残された地図上における空白部、チベットツアンポー渓谷へと探検をする。歴史ミステリーも含めたサバイバル記である。

余談ではあるが、角幡雄介氏の本は書店でも多く取り扱われているが、私は彼が書いた文章で一番好きなものは、彼自身の作品ではなく「サハラに死す」という日本人の青年がラクダによるサハラ砂漠横断の末に帰らぬ人となった、その青年の手記をまとめた本のあとがきであり、それがとても大好きなのだ。機会があればぜひ手に取って読んで欲しい。冒険とは何か、を冒険家ならではの情熱で語り、社会的な批判をも喝破する明確さで示している。

そして、もう1作は、アマゾンを舞台にした、文明社会と切り離された世界にある民族との共同生活を描く。

本のタイトルは「ヤノマミ」。

副題も添えず、ただ、ヤノマミとだけ書いてあった。その潔さに、また表紙のインパクトに、やられた。その本にはアマゾンの未だ知らぬ一面を濃厚に描いており、地球に生きる人間の濃さのようなものを表紙から感じた。

NHKディレクター、著者のそんな肩書きに、少し驚きも感じた。ノンフィクション作家でも、ジャーナリストでも、冒険家でもない、国営放送のディレクター。

捲るページ、内容の濃さに、また、半年をかけてじっくりと歩み寄る取材班の綿密で繊細なアマゾンの風景と人物、その描写に吸い込まれた。現在、各書店にヤノマミの本は置いてあるが、ヤノマミの放送映像を観ようと思ったらNHKオンデマンドの有料チャンネル内でしか閲覧する事はできない。

が、幸運にも高知県でその観たかったその放送回を観る事ができた。


文化とは都合良く作られる

ヤノマミ、その民族が持つ特殊な死生観は、取材の後半戦、闇夜のジャングルに木霊する。

14歳の少女が初めて子を身籠り、集落の外れの森で息む。そして、この世に生を産む。しかし、その赤児をジッと見つめ「人間として育てるか、精霊として大地に返すか」を決める。現代社会に生きるわ達達からすれば、それは殺人という行為に他ならないかもしれないが、ヤノマミは人と、精霊、その狭間に生きる民族なのだ。

産まれた子供をそうした大地へ返す行為は、もしかしたら精霊と言う目には見えない意思や概念によって、都合良く産まれてしまった子供を合法的に葬る行為なのかもしれないが、それもまた文化である。

日本の昔話によく狐や狸が出てくる。あれは、ただの動物ではなく、日本民族が見出だした一種の概念である。

あれは狐の仕業だ」という風に、狐や狸を真ん中に置く事により、その社会が円滑に進む、その社会システムの中に潜んだ神話的な思想だ。現代では科学やテクノロジーが発展しすぎて、星野道夫が今の時代必要なのは神話であるという言葉に裏付けされる様に、今の社会ではふそのんわりとした概念は定着しにくく、また馴染みもしないであろう。

しかし、狐を真ん中に置ける様な文化は、それはまた各所問題は起きてくるのだろうが、全ての責任を他の誰でもない、目には見えない存在に丸投げしてしまうというのは、実に素敵な概念であり、便利な文化だ。全部、狐のせいにできるのだから。

それと似た様なものが精霊であると思う。

私は過去アフリカやアマゾン、パプアニューギニアの森を旅して、彼らがかつて持っていた精霊信仰というものに異常な興味を覚えた。それは、私には理解しえない領域のカテゴリーに入った話であり、まさにファンタジーのような世界だと感じたからだ。しかしながら、このヤノマミはファンタジーの世界を、リアルな映像として映し、近代社会に生きる私たちに奇妙な感覚を与える。

その奇妙な感覚とは、「人間って何だろう」という素朴でありながら、とてつもなく広く深い疑問である。

彼らはサピエンスの歴史の中で見れば、初期人類に近い生活文化をし、また文明もそれに近しい。私たちは動物としてのサピエンス期を終え、ヒトになり、倫理や道徳を生み出せるまでに進化した文明社会の人間だ。その2種の人類が、同じ地球に、この時代に、存在している事の奇怪さである。

今現時点で、この時代はサピエンスの歴史の中で最もヒトの多様性、その幅が広い時間であろう。森の中で狩猟の生活をするイゾラドが存在する一方、シリコンバレーや中国の深圳ではテクノロジーによる社会の変革が凄まじいスピードで構築され続けているのだから。


失われる時代と思想

だからこそ、である。

ヤノマミの文化文明は、私たちが既に何千年、何万年と前に失ってしまった神話的な生活であり、サピエンス史の中でも二度は到来しないであろう一つの時代である。

その時代を、同じ時間軸の上で見る事が出来る。感じる事ができる。

我々がすべて理論づけて証明する自然現象も、人間が持つ不思議な生体能力も、彼らはそれを精霊や目には見えぬ独自の世界観に昇華し、それを死生観に反映させる。子返しの文化は、その一端である。

倫理の外側、道徳の外側には、私たちの理解できない領域があり、それを真に見つめてみようものならば、奇妙な感覚はあなたの人生を少なからず狂わすだろう。

私は、旅や冒険を通して、森の中に生きる人々に接してきた。そこで感じた事や、見た事は、日本に生きる自分に呪いをかける様な行為であり、たまにふと、何も知らなければもっと楽に生きる事ができたのではないかと、考えてしまう事がある。

ヤノマミの映像も本も、また、そうした考え込んでしまう時間を与える。

両方を観る事によって、一層アマゾンの大地が持つ神秘さや、その深さに触れる。

やはり、あのアマゾンの大地は、面白い。




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