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私の野球人生 〜住吉少年野球団での日々とライバルとの出会い〜

私の野球人生の中で、住吉少年野球団で過ごした2年間は特別な意味を持っています。原北ウィングスでの経験を経て、父の転勤により大分県の住吉小学校に移りました。そしてその小学校にある住吉少年野球団に入団しました。この時、私は小学5年生でした。

住吉小学校はとても小さな学校で、1学年が1クラス程度であり、私の学年は30人もいませんでした。また、女子のほうが多かったため、男子の半数以上が野球部という環境でもありました。

住吉少年野球団での私の日々は、私に野球の真の楽しさを教えてくれました。ほぼ毎日の練習にも関わらず、常に楽しみに満ち溢れていました。クラスメートが多く野球部にいたことで、私たちの練習は、仲の良い友人たちと遊びに行くような感覚でした。この環境が、野球への熱をより一層高める要因となりました。

監督は野球経験が浅い方でしたが、自らバッティングピッチャーをすることが大好きでした。そのため、練習は監督が投げるボールを打つ打撃練習で占められていました。昭和の頑固おやじみたいな人でしたが、野球に関しては基本的に細かいことは言わずにノビノビ野球をやらせてくれる方でした。

打撃練習では、誰が一番遠くにボールを飛ばすかを競い合うことが常でした。監督は野球経験は浅いとはいえ、小学生に比べると速いボールを投げてきていました。打たれたらムキになって投げてくるので、遠くに飛ばすことは至難の業でしたが、慣れてくると打てるようになっていきました。

投手としては、のちに高校、大学で大活躍するライバルの高原という投手がいて、その選手といつも競い合っていました。後に大分雄城台高校という高校で絶対的なエースとなり、高校3年の夏の大会でベスト4に進出し甲子園にあと少しのところまで迫り、大分県の新聞では大きく取り上げられていました。高校卒業後は強豪の日本文理大学で、リーグ戦で活躍していたところを思うと、小学生の時からレベルの高いライバルがいたことが、自分にとっても良かったのだと思います。

6年生の時にエース番号は私が背負っていましたが、実力は拮抗してました。市の大会で優勝した時には、彼が決勝で完投したことで優勝できました。
6年生でエース番号を私が受け取った時の彼の泣き崩れた姿と、その後の猛練習と試合での活躍を見て絶対に負けられないと頑張ったことを思い出します。

私たちのチームは、試合でも細かい戦術を駆使するよりは、豪快にバットを振り回すスタイルでした。このスタイルは、試合においても大事な場面での大胆なプレーを可能にしていました。
私たちは、この真向勝負のイケイケのスタイルではありましたが、6年生の時には大分市の全ての大会で上位進出していました。

住吉少年野球団での経験は、私にとってただのスポーツ活動を超えるものでした。野球を通じて、友情、競争、協力、そして野球の本当の楽しみを学びました。毎日の練習が、友達との遊びの時間のように感じられたのは、私たちが野球というスポーツを心から好きだったからです。

この時期に学んだことは、私の野球人生の礎となりました。監督の情熱的な指導(バッティングピッチャー)、チームメイトとの切磋琢磨、そして試合での豪快なチームのプレースタイル。これら全てが、私の野球に対する愛を深めてくれました。

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