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赤山的スポーツトレーナーへの道 / 長編

今回は、赤山がどのような環境で育ち、どんなスポーツをしてスポーツ現場にどのように出始めたのかをお伝えしたいと思います。

そんな事はどうでもいいから現場でのトレーニング方法とか、コンディショニング方法やその思考について色々書いてくれよ。

という声が聞こえてきそうですが・・・。

私にとってそれは非常に重要な事柄なのです。

今後、私が発する発言や表現する事には責任を持たなければなりませんし、その言葉が他の方も同じように表現されているとしてもそれは全然違うものである。

そう考えているからなのです。

発する内容が同じでも、その発言をする人の年齢や職業、育ち方や思考などなど。

前提となる条件が異なれば発する意味や、受け取り方が大きく変わってしまうのです。

これを《前提条件》と言い、スポーツにおける指導やコンディショニングでも非常に重要視しています。

その為に、今回は

『赤山僚輔』

というスポーツトレーナーの前提条件についてお伝えしたいと思います。

各論はその先なので首を長くしてお待ちください。笑

目次
①生い立ち編
②小学生編
③中学生編
④高校生編
⑤スポーツトレーナー養成校編
⑥理学療法士養成校編
⑦理学療法士職場選択編
⑧医療機関に勤務しながら改めてスポーツ現場へ


【生い立ち編】


生まれは四国、
香川県さぬき市(旧大川郡)津田町鶴羽(つるわ)
※私が高校卒業して地元を離れる際にはまだ郡でした。汗

赤山家の長男として今から約35年前の

1982年4月9日にこの世に

生まれました。(ちなみにB型)

前世の記憶はないですが、きっと人間は一回目ではないな。

そんな話をJARTA代表の中野としたりしています。

現在36歳(独身バツイチ。汗)
※今は香川ですが実家ではなく一人暮らしです。

兄弟は、妹2人と3人兄妹です。

妹2人は東京と博多で互いに既に社会人として仕事をしており、私よりしっかりもので頼もしい自慢の妹達です。

両親は父が2人兄弟の次男で婿養子として赤山家にきました。

今は1級建築士として自身の会社で生業をしています。
父の会社《RYO Creative》
http://www.ryoplan.com/

母は2人姉妹の妹。

公立中学校の養護教諭をしています。
保健室の先生ですね。

その為、現在関わる高校生の中には私の名前を聞いて母の教え子です。

そのように言われるケースもあります。

中学高校時代は怪我が多かったので母にテーピングを巻いてもらう機会も多かったです。

この辺りは、現在の人間形成にも影響しており、のちほどゆっくり触れたいと思います。

そして自分の人間形成に大きく影響を及ぼした、祖父は7人兄弟の長男で左官業を営んでおりました。

《赤山建設》

という左官業を営みつつ地元では消防団の団長として日々活動していました。
※小学校の運動会では来賓挨拶で出てくるような人でした。幼少期の自分には嬉しいやら恥ずかしいやら・・。何せ話が長かったから。汗

副業で稲作もしていたので、幼ながらに祖父が家でゆっくりしているのは現役時代には見たことがありませんでした。
※ちなみに両親が共働きだった為、祖父母と過ごす時間の方が長かったです。 

実家を増築する際に、私の部屋の壁を祖父が作ってくれたのを鮮明に覚えています。

大酒飲みで祖母は沢山大変な思いをしたようですが、威厳があり、私にも本当に厳しく自慢の祖父でした。

私がお酒に酔って失敗をするたびに、祖母は似なくてもいい所が似てしまった。

と嬉しそうに話してくれます。

そんな祖父は、私が高校1年の6月22日に早すぎる他界をしました。

葬式の日は雨で私は、ただただずっと泣いていたのを覚えています。

死後、生前の様々な活動を認められ国から勲章をもらいましたが、祖母は口癖のように死んだらそんなんもらっても意味がない。

そう私に言い、今でも私に

「おじいちゃんがいたらそんな事は許さない」
とか
「おじいちゃんがおったら・・・」

そのように叱ってくれます。

(祖母はまだまだ健在で車の運転もスマホでメールもします)

祖父がなくなるまではちっちゃな嘘をついたり、無茶苦茶ばかりして怪我の多い、ただただ手のかかる子供でした。

幼稚園や小学生時代には友達を怪我させて親や祖母が謝りに行くことも何度もありました。

それが祖父の死後は常に

どこかで祖父が見ているかもしれないと思うようになり

自分に嘘をつくことが少なくなっていったように感じます。

そしておじいちゃんに見られても、恥ずかしくない生き方をしなければならない。

いつの頃からか日々考えるようになりました。

生い立ち編はここまで。



【小学生編】


小学校時代の習い事や遊び方は自分の意思が
ほとんどないので家族の影響や学校含めて
近所の友達などの環境に委ねられ決まっていく
と思います。

私の場合には小学低学年時には従姉妹のおねえさんの
影響と家にピアノがあり近所に教室があったので
ピアノを習っていました。
(おいおいその顔でピアノかよ、という声はなしでお願いします)

発表会にも出演したり、学校の合唱などでも伴奏を任されるくらい
そのには本格的に実施していました。

低学年から中学年くらいまではスイミングスクールにも通っており、
海が近い事もあり泳ぐ事は比較的得意な子供でした。

小学3、4年生の頃にサッカーブームがあり
人数が足りないサッカーチームの助っ人で試合に行って
ちょっと活躍したことをきっかけに猛烈にサッカーを
したくなりました。

親に言ったところそんなに早い時期から
一つのスポーツをしない方がいいと断固拒否され
かなり駄々をこねた事を覚えています。

その後スイミングとピアノを続けながら
高学年になり5年生頃に今度は野球が猛烈にしたくなりました。

この時、なぜサッカーはダメで野球が大丈夫だったのかは
覚えていませんが、おそらく時期的なものだったのだと記憶しています。
(高学年になっていたから)

この頃の両親の教えの中で、今も影響を色濃く受けて
いることがあります。

それは「自分の意志」の有無です。

例えば、その時代田舎なのでもちろん外で遊ぶ事も多かったのですが、
高学年になるにつれてテレビゲームが大流行し、
多くのクラスメイトがファミコンやゲームボーイに熱中していました。

そういった時にみんなが持っているから自分も
ファミコンが欲しいと言っても断固として買ってくれませんでした。

「みんなが持っているから欲しいの?」
「なんで?自分の意志は?」

このように事あるごとに言われ、

みんなが持っている。

みんながしている。

という理由は私の両親にはまったく通用しませんでした。

クリスマスプレゼントに大きな箱が枕元にあると、
今年こそは!!

と期待するのですが、毎年のようにもらうのは
子供百科事典でした。汗

今となれば、それが現在の知的探究心の元になっている
と感じますし、そういった部分では親には感謝していますが、

当時の自分にとってはみんなが遊んでいる遊びが出来ない
みんながしていても自分だけはできない

そのように感じる事が多くなり、だんだんとあまのじゃく
な性格が出来上がってしまいました。

特に走るのが早い訳でもなく

特に野球が上手な訳でもなく

特に勉強が人よりできるわけでもない

どこにでもいるような普通の小学生でした

ただ誰とでも仲良く、明るく、喜怒哀楽の激しい
少し目立ちたがり屋な田舎の小学生でした。

ただその時から自分を客観的にみることは
少し出来ていたようで。

小学生時代にやっていた野球のセンスがないと
自分で見切り、体育でクラスメイトより活躍できていた
バスケットを中学以降に始めると小学生時代に
決めていました。

また今の自分を形成するきっかけとなる大きな怪我にも
小学生ながらに経験する事となりました。

小学6年生の昼休みのサッカーをしている時に
誤ってボールの上に片足が乗り、バランスを崩して
転倒し左手を地面につき、前腕の2本の骨を骨折しました。

ギリギリ開放骨折にはなっていませんでしたが、明らかな変形があり
病院で大人が3、4人がかりで整復されたことを覚えています。


また同じ高学年の時には、今の外反母趾のきっかけとなる左母指の
爪の上に物が急に乗り、爪の下を何針も縫う怪我や

運動会の騎馬戦で大将をしていて、大一番でバランスを崩し
頭から地面に叩きつけられ脳震盪を起こし、気づいたら運動会が
終わっていた。

そのような経験もしました。

すぐに膝を擦りむくので、いつも膝の大きな絆創膏をしているような、
本当に怪我の多い子供でした。

そのような事柄が、バスケを始めた中学以降にはより深刻な状態や競技・パフォーマンスに影響することとなり、スポーツトレーナーになりたいと思うきっかけがたくさん発生する事となるのでした。

小学生編はここまで



【中学生編】


私は、中学時代〜社会人になって数年までは
競技者としてバスケットボールをしていました。

中学時代は、まさにバスケットボールと出会い
魅力に取り憑かれた時期でした。

それと共に、それから出会う沢山の怪我や
苦労の始まりでもありました。

田舎の中学でしたが、郡ではトップを争うチームで
それなりに練習も厳しかったように覚えています。

先輩からの扱きにもあい、フットワークでは
吐きそうになる経験も沢山しました。

キツすぎてトイレに行くふりをしてフットワークを
さぼったこともあります。汗

ただ、それ以上にその時期に自分を苦しめたのは
膝の成長痛でした。

中学2年になり本格的に体育館での練習にも
参加できるようになってくるとオスグッドシュラッター病に
悩まされ、一時は階段など、日常生活でも痛みを感じ
練習にも参加できない日々が長く続きました。

病院へ通院するも、その時代、理学療法士による
リハビリを受けられるような施設は香川県にはなく。
(あったかもしれませんが、機会がありませんでした。)

安静とテンションバンドを利用したサポーターを
常時つけて徐々にプレイをしていくような状態でした。

何が解決策になったわけでもなく、身長の伸びが
停滞するにつれて症状は沈静化していき、
最上学年になる頃にはほぼ問題なくプレイは
できるようになっていました。

最上級生になり、キャプテンを務めていた私は
最後の総体で今後の人生に大きく影響する出来事に
ぶち当たります。

それは

大事な最後の総体の初戦で、試合中に手をついて
左手首を受傷し、救急病院で骨折しているとギプスを巻かれ
その後の総体に出場が不可能であると言われたことです。

今はスポーツトレーナーとして多くの中学生アスリートや
高校生にとって最後の総体に出場する、その舞台で
活躍することの意味や意義が分かっているつもりです。

彼らにとってはそれが人生のピーク、全盛期であり、
それを奪われることは決して大人には分からない苦しさ
があります。
(スラムダンクをご存知の方は花道のあのセリフですね)

その時の自分もこれまで私が対応してきた多くの選手同様
この世の終わりかのように途方にくれ、どうしても出場したい。

どうにかならないのか、そう親に頼み込んだのです。
(その為、骨折していても試合に出たい選手の思いは良くわかります)
(前職では何度も骨折しているのに選手を試合に出場させる経験をしました。
認めてくれたDr.に感謝です。)

そうすると養護教諭をしていた母が、その時代では珍しく
セカンドオピニオンで別の整形につれていってくれました。

すると、左手首の骨折は今回のものではなく、小学生の
時に骨折した骨片が残っていただけのものだったのです。

ギプスは外され、その週末の試合にテーピングを巻いた状況で
復帰することが可能となりました。

結果は満足のいくものではありませんでしたが、

そこで最後までプレイできたという経験は、母がくれた
チャンスであり、自分の医療に対する捉え方を変える
きっかけとなるに十分な出来事でした。

しかし、神様のイタズラか高校生に上がった私を苦しめたのも
また同じような怪我と医療を取り巻く出来事だったのです。

このような経緯から医療機関に勤めている時から、
最後の試合にかける選手達の思いに必要以上に熱くなっていた
ことは言うまでもありません。

前職のクリニックではそのような厳しい選択を迫られる局面に
多々遭遇し、選手の多くの涙をみました。

初診で無理だと言われた選手を

最後の舞台に立たせることが何度も経験できました。

今後はそのような経験を多くのセラピストやトレーナーに
してもらいたいと思い、このような活動をしております。

さて、まだまだスポーツトレーナーへの道は遠いですが、
ちょっと今の赤山の出来上がり方の一端が感じられるように
なってきたのではないでしょうか?

中学生編はここまで


【高校生編】


中学から始めたバスケットでしたが、
高校時代はバスケットを通して大きな挫折を経験した3年間でした。

進学したのは田舎の公立高校でしたが、入学した際には
県内でベスト4を狙える比較的強いチームでした。

しかし、毎年のように指導者が変わり、
1年時には3年生が引退後、2年生が一気に退部し、
少ない部員での練習を余儀なくされたり、体育館の
修繕工事の関係で何ヶ月もゴールのない体育館
で練習をしていました。

女子バスケ部が県内では男子より強豪校だった関係で、
人数が少なく2・3年生時は男女一緒に練習をしていました。

今となってはよい経験として捉えられますが、当時は
そのような環境に対して常になんで自分達だけと
消化不良な気分のまま過ごしていたことを覚えています。

そんな2年の冬に、事件が起きました。

ある練習試合の時でした、ディフェンスをしている際に
相手オフェンスを止めようとした、私の膝に相手の膝が
ぶつかったのです。

ぶつかる角度が悪かったのか、相手はなんともない
様子でしたが、私は痛みでその後プレイが続行不可能となり、
後日病院へ行く事になりました。

病院でレントゲンを撮ったところ、何ともないということで
数日後痛みがある程度引いてから多少の痛みを抱えながら
プレイ復帰することになりました。

しかし、1、2ヶ月たっても痛みが引かないどころか、
増すばかりでおかしいと思い、初診医とは違う整形へ
受診しました。

そこでは少し違った角度からレントゲン撮影をして、
膝蓋骨が骨折を指摘され、更に他院でMRI検査をしました。

結果的には、膝蓋骨が骨折をして骨が離れているので
今すぐに手術をしないといけないと言われたのです。

ちなみにその時期はもう最後の春が目前に迫っている時期でした。

しかし、現状の痛みと検査結果から手術は避けられず、
スクリューで固定する手術をして、しばらく入院する事になりました。

結局最後の総体までに十分な練習が詰めず、自身もチームも中途半端なパフォーマンスで(高校時代もチームのキャプテンでした)県大会の2回戦で破れ引退となりました。

練習量も心身の準備もチームビルディングも何もかも足りず、最後の試合で破れた時には悔しすぎて涙も出ませんでした。

引退後はスクリューを外す手術をし、ほとんど高校時代勉強していなかった私は、気づいたら進路を決めないといけない時期になっていました。

父も祖父も職人であり、何か手に職をつけないといけないという思考と。
これまでのたくさんの経験と母が養護教諭をしていたという
周囲の環境も重なり、自分のような怪我に苦しむ選手を救える
スポーツトレーナーになりたい。

そう思うようになりました。

当時スポーツトレーナーになると言っても、周囲にそのような仕事をしている
方は一人もおらず、調べるとスポーツトレーナーの日本で取れる資格で
一番メジャーなものが、
《日本体育協会公認アスレティックトレーナー》
(※現在は日本スポーツ協会)
である事を知りました。

上記養成校で大学に行ける学力のなかった私は、西日本で一番
上記養成校として歴史のある、大阪の専門学校への入学を決めました。

その時、"資格"と"仕事"が違うという事を知らない田舎の少年は
ただその学校に行けば、スポーツトレーナーになれる。

そう疑いもせず、都会へ出て行くのでした。

今回や中学時代からのエピソードからも分かるように、
私はある人からAと言われてもそれを鵜呑みにせず、
本当にAであっているのかをとことん調べるような
思考に自然となりました。

なぜなら上記のように診断の違いや視点の違いによって
取り返しのつかない時間を多く過ごしてしまったからなのです。
(これは教科書すら疑う天邪鬼な性格の基盤になっています。笑)

情報をどのように関わっている選手に伝え、還元するか


その手段やタイミングによって選手の人生を大きく変える可能性がある

そのように肝に銘じて行動や発言してもらいたい、そのように感じています。

高校生編はここまで


【スポーツトレーナー養成校編】


まずはスポーツトレーナーへの道という事で、
始まった今回のnoteもついに少年赤山は四国を出て、
大阪のスポーツトレーナー養成校へと入学する事に
なりました。

私の入学した学校は昼間部2年生で、
日本体育協会公認アスレティックトレーナーの受験資格が
コース終了後に得られる学校でした。

ちなみに入学したのは2001年でワールカップイヤーの前年でした!!

1年目は解剖学や生理学などを座学で学びながら、
水泳・テニス・体操などの実技も多く授業の中に組み込まれていました。

まだまだトレーナー業界の厳しさを知らない、少年赤山はよく遊び、
よく寝て(授業中も)、好きなバスケットを継続していました。

ただ、今までの学生生活と大きく違っていたのは、大阪に行ってすぐに
フィットネスクラブでのアルバイトを開始したことです。

ジムインストラクターとしてトレーニングやストレッチ指導をしたり、
簡単なレッスンの指導は18歳の時から行っていました。

その為、授業で実施するトレーニングや解剖学のテストは比較的
苦労することなくパスしていたように覚えています。

バスケ部の方では、やはり捻挫など怪我が多く、
顧問の先生でありAT(アスレティックトレーナー)資格を保持
している教官の先生から毎回のようにテーピングを巻いてもらって
いました。

その影響からか、自分で巻くことも人に巻くことも学生時代から得意でした。
(学生時代のテーピングのテストは全部100点でした!!)

ちなみに、アルバイトはフィットネスクラブ以外に、ダイニングバーと
ビラ配りのアルバイトもしており、学生ながらに忙しく過ごしており資格試験の勉強は十分にできず、現役時代のAT試験は見事に不合格でした。

ただ、バスケット部の活動ではチームメイトにも恵まれ専門学校の全国大会で
準優勝をしたり、専門学校の関西選抜チームにも選ばれていた関係で北海道や仙台の体育館でプレイすることができました。

この専門学校の2年時に今後の人生を左右する大きな出来事がありました。

それは、大阪にいた親族の紹介で市内にあるスポーツ整形へ1ヶ月間の見学実習に行ったことです。

そこではスポーツトレーナーがアスリートのリハビリやトレーニングを指導しており、ナショナルチームの選手も来られ、私のイメージするスポーツトレーナーとしての活動そのものであったのです。
(もちろんチーム帯同などに行っているトレーナーも多くおられました)

トレーナー部門の責任者の方とは人生相談含めて様々な事を教えて頂いたのですが、そのなかで印象的であったのが、アスレティックトレーナーの資格だけでは今後はこのような医療機関では仕事がしにくくなる。

このような仕事をしたいと思っているのであれば、理学療法士の資格をとった方がいい。

そのように言われたのです。
(※15年以上前の話です。)

実際、その時すでに夜間部の理学療法学科に通いながら勤務しているトレーナーの方もおられ色々な話をお伺いすることができました。

その時代、その施設では資格保持をしていないスタッフもトレーニングやリハビリテーションに従事していましたが、今後はそうはいかなくなる。

それは当時のAT資格もとれるかどうか分からない自分にとっては想定外の事態でした。

この時初めて、ATという資格はあっても、日本ではまだ活動できる場、つまり仕事がないということを知ったのです。
(もちろんごく少数ではありましたがトレーナーの現場はありました。ちなみにトレーナー業界で有名なR-body project様が創立したのが2003年12月で赤山が卒業した翌年。AT資格も保持していないのに雑誌Tazanで知って強烈にこの集団に入りたい、そう思っていました。)

そのような状況で私は周囲が就職活動をしていても、遊びとバスケを続けながら理学療法の学校へ再入学を目指すこととなるのでした・・・。

浪人そして理学療法養成校編へ。

夢と目標を漠然と抱いていたものが初めて大きな挫折を味わうことになるのです。

ただこの大きな挫折が今の糧になっていることは言うまでもありません。

スポーツトレーナー養成校編はここまで



【理学療法士養成校編】


スポーツトレーナーとしての夢を一旦諦め


理学療法士という資格取得を目指し養成校へ受験するのですが

合格できず香川に帰り医療系の学校へ行くための予備校へ通うことになりました。

昼間はスターバックコーヒーでアルバイトをしながら
夕方から予備校で入試対策の勉強を日々行っていました。

周りの友人からはスポーツトレーナーになるって言って
大阪に出ていったのに、何も資格もとらずに帰ってきて
親のスネかじって次は理学療法士かよ。

そのような厳しい言葉をもらい、表現し難い劣等感にかられながら
日々を送っていたことを覚えています。

生活費を自身で稼ぐ必要性があったため、夜間部の学校を
受験し岡山の養成校へ夜間部の1期生として入学することに
なりました。

昼間のアルバイトはフィットネスクラブでのアルバイト
をしながらスポーツトレーナーとしても活動をしたかった為、
カイロプラクティック治療院の横にトレーニングジムと
空手道場が併設されている施設にてスポーツトレーナー
としての活動が始まる事になりました。
ちなみにそれ以外に居酒屋でもアルバイトをしていました。汗

これが2004年の事ですから、今年でスポーツトレーナー
としては15年目になります。

フィットネスではジムトレーニング指導やプールの監視・スカッシュ
のコーチなどもしていましたが、治療院のアルバイトでは
ジムを利用されるクライアントの要望に答えてトレーニングメニュー
を構築したり、空手道場へ通う小学生へストレッチや体操の
集団指導を実施していました。

日々学ぶ、解剖学や運動学の知識が直結する現場であり、
治療に日々携わっているカイロプラクターの院長や
スタッフとの学びは本当に新鮮でした。

今までスポーツトレーナーを目指していた自分には、
パフォーマンス向上や、コンディション調整の手段として
トレーニングやストレッチしかなかったものが、《治療》
という行為の魅力に気付かされたのもこの頃でした。

まだ学生だった私を院長がトレーニングのサポートスタッフ
として岡山国体のスタッフとして関わらせて頂けた事は
本当に貴重な経験となりました。

成年・少年女子のなぎなた競技に関わるアスリートへトレーニング指導を実施し大会期間中もサポートさせて頂きました。

この時代の私は理学療法士として勤務しながら週末トレーナー活動としていつか国体に関わる事が目標となっていました。

まだまだ競技者としてバスケットボールも継続していた私は自分の身体でたくさんのトレーニング方法を実践する為に、業務の合間で様々なトレーニングを行っていました。

元々筋力トレーニングが好きだった私は、バスケットのスキルの未熟さを補う為にベンチプレスやスクワット、デッドリフトを中心にジャンプ力を強化する為にプライオメトリクストレーニングなども積極的に取り入れて実践していました。

そんなある日、競技者としての人生を終えるきっかけとなる怪我を負う事になるのです。

それは大阪のクラブチームでの公式戦試合中にアキレス腱を断裂したのです。

岡山で再受診し、完全断裂ではなく部分断裂であった為に私は手術ではなく保存療法を選択しそれから1ヶ月以上松葉杖生活となり、アルバイトも全て数ヶ月休業することになりました。

後に臨床実習でお世話になる大学病院へリハビリ通院し、意外な形で理学療法士の仕事に直面することになったのでした。

たくさんの怪我を経験しましたが、この一人暮らし中のアキレス腱断裂とアルバイトができない数ヶ月間の不便さは後に多くの怪我人に仕事で対応するうえで本当に貴重な経験になりました。

何よりその時には気づいていなかったのですが、高校生時代に手術をした膝と反対側の脚のアキレス腱を痛めた為、松葉杖生活時に古傷の膝へかなりの負担をかけてしまい実習中の長時間の立位が困難となるほどだったのです。

このような多くの怪我と様々なフィットネスやジムでの指導経験を得て理学療法士として神戸で仕事を始めるのでした。

学生時代のアルバイトの選択や競技の継続など、どれをとっても今の自分を形成する大きな出来事でした。

現在学生の皆様も是非、真剣に遊び、苦しみ、多くの経験をしてもらいたいと思っています。

人と関わるうえで自身の経験こそ、上辺だけの知識より説得力がある。

私はそのように強く感じています。

次の項では、理学療法士としての職場の選択と業務に従事しながらどのようにスポーツ現場に出向くことになったかの経緯についてお伝えしたいと思います。

理学療法士養成校編はここまで



【理学療法士職場選択編】


理学療法士養成校は夜間一期生であった為に、先輩からの情報はなく
昼間部の情報や学校に来る求人情報の中にスポーツ関連施設は
ありませんでした。

教官の先生にスポーツ方面に就職したいと相談したところ
ないし、厳しいから止めておいたほうがいい。

そのように言われました。

臨床実習で興味が湧いてきた呼吸器系とスポーツ整形、できれば双方が
高い水準で学べる。

私の就職活動初期のイメージはこのようなものでした。

学校に来る求人情報は岡山や中国地方の施設が多く、
当時行きたい、見学をしたいと思う施設もありませんでした。

その為、自分で情報収集をして全国どこでもいいので、医療の水準が
高くスポーツリハビリに従事できる施設を探し始めました。

当時愛読していた、トレーニングジャーナルやSportsmedicineなどの
情報からアタックネット(http://www.atacknet.co.jp/)に掲載されている
スポーツクリニックなどから情報収集をしていました。

私の希望としては医療の水準が高い事が理想であったので、自施設で手術を
行っておりその手術レベルや件数が多い事。

アスレティックリハビリテーションまで施設で対応できること。

そしてリハビリに偏った考えがなく、自由な発想で治療が展開できる事。

上記が条件であり、医師、理学療法士共に尊敬できる人材がいる施設を
全国どこでもいいから探して就職したい。

そのように考えていました。

しかし、両親に相談したところ、ゆくゆくは香川に帰ってきて欲しいので
できれば関西圏で就職を決めて欲しいと言われたのです。

ネットの情報や知り合いを通じて関西圏のスポーツクリニック
や病院に数多く見学にいきました。

その中でも私の心を奪ったのは、AT養成校時代の教員先生の
紹介で見学した神戸のスポーツクリニックでした。

複数いるドクターは皆プロスポーツチームのチームドクターであり。

セラピストの中にATはいないもののスポーツチームでの活動経験が
ある方々が先輩におられました。

人工関節の手術レベルや前十字靭帯再建術の術後リハビリなど
当時岡山で一番進んでいる、早いと言われていた施設に臨床実習
に行っていた自分が信じられない程の違いでした。

正直手術方法や施設、ドクターによってここまで違うのか。

そう感じた事を鮮明に覚えています。

またドクターと理学療法士の関係性も主従関係ではなく、
リハビリの事は理学療法士に任せているから。

そのようなクリニックの方針で理学療法士が展開する治療方法も
短い見学時間でも十分理解できるほど、様々な手法を用いており
偏った考えがない。

そのような視点においては申し分ない環境でした。

具体的には関節系の治療系統を体系的に学ばれ実践している
セラピストがいれば、筋肉系やPNF等の神経系の手技を
関節系の手技と合わせて実践していたり、カイロプラクティック
の技術をリハビリで実践しているセラピストも同じリハビリ室に
共存しており岡山の田舎からきた学生にとっては衝撃的な事実でした。

《良くなれば手段は何でもよい。》
この礎を私は最初の職場選びから感覚的に感じ考えていたように思います。

前職のあんしん病院(就職時はあんしんクリニック)
の創設時からの理念は以下の通りです。

• 手術の必要なスポーツ障害、関節疾患に対し、世界水準の治療をタイムリーに行う。
We bring active life to you.
• アジアで関節手術の必要な人々の第一選択施設として社会の信頼を得、認識される
• 精度の高い医療の提供によって患者、選手とともに社会復帰、スポーツ復帰の喜びを分かち合う

http://www.anshin-hospital.jp/

ATの養成校後に1年間浪人をしていたのですが、
あんしんクリニックは私が就職活動を始めた秋に開院しました。
(このタイミングが本当にラッキーでした)

構想は大きいものの、理学療法士は3名しかおらずうち一人は新卒。
(退職時は50名近くになっていました。汗)

リハビリ室にも数台しかベッドはなかったのですが、その構想と
ドクター、理学療法士の方々の語っている思いや実践している
水準からこの施設で働きたい。

そのように感じ、この施設で理学療法士としてのスタートを
きることになったのです。

私は間違いなく、この選択が今の自分を形成する大きなきっかけ
となり、多くの経験・成長のきっかけを与えたもらえたと感謝しています。

世界基準の施設だからこそ、毎年ように海外に研修や学会発表に
行かせてもらえ今のスポーツトレーナー活動に通じる部分が多々ありました。

私は職場を選ぶ際に、
①高い医療水準
②スポーツリハに関われ視点の偏りがない
③関西圏である。

この3つの譲れないポイントがあり、迷う事も少なく決められました。

これから就職活動や今後の転職を考える方には、自分の中で
譲れない部分や今後の人生を考える上で重要なポイントについて
しっかり抑えた上で決めてもらいたいと思っています。

特に最初の数年は思考の礎を築く期間であり、良くも悪くも
ドクターや先輩セラピストなどの影響を多く受けてしまいます。

無駄な経験などない。

とも言いますが、時間は有限です。

私にとっていつかは香川に帰らなければならない、限られた時間
の中でこの選択は非常に意味があった。

そのように感じ、今回はあえて施設名も公表しながらお伝えさせてもらいました。

スポーツ現場だけでなく、学会・論文等での後輩たちの活躍は誇りに思いますし、今でも交流のあるお世話になったドクター陣に刺激を与え、与えらえるような関係性を喜ばしく感じ今も香川県で活動しています。
(先日も香川県の選手の手術でお世話になりました。汗)

長くなってしまいましたが、理学療法士職場選択編はここまで


【医療機関に勤務しながら改めてスポーツ現場へ】


最後に、理学療法士としてスポーツクリニック勤務を始めて、再度スポーツ現場に出るまでの経緯についてお伝え致します。

PT1年目はとりあえず前十字靭帯再建術(以後ACLR)はじめ、多くのスポーツ疾患や術後患者様を見させていただき、クリニックでの外来・入院患者様の業務に携わっていました。

術後だけでなく保存症例も多く来院されており、先輩理学療法士から学びながら積極的にスポーツ理学療法や徒手療法などのセミナーにも参加していました。

ここで私が恵まれていた事がいくつかあるのですが、

まずは

《開院半年たらずの施設で、いい意味で体制が整っておらず、プロトコールもなければ、1年目が見てはいけない症例が決まっていなかった。》

これは多くの現在勤務されている理学療法士の方にとっては信じがたい事実だと思うのですが、私は1年目の1日目からACLRのバスケ選手を担当していました。

結局その選手は新人発表の症例になりすごく印象深く覚えています。

治療方法も模索しながら1年目だからと言い訳できない状況で勝負していました。

次に、

《バイトが許された施設であり、夕方までのクリニック勤務後に関連クリニックでのバイト、大学でトレーナー活動をしている先輩もいた。》

これは自分の時間さえ削れば経験や学び深める場所があるということであり、勉強会に行くお金も自分がバイトをすれば一人暮らしでも充分稼げる状態でした。

事実、恥ずかしながら、病院勤務を辞めるまで給料はほぼ全て教科書代とセミナー代に消えており貯金は・・・。

という状態でした。汗

あと、ここが重要だったのですが、

《Dr.が常に現場に出ており常に患者様の人生や選手の置かれている状況等を考慮しなければ医療の枠組みだけでは社会復帰もスポーツ復帰も出来ない》

と常々叱咤激励をしてくれていました。

そのため、私は1年目も終わりに担当していたACLRの患者様が中学のバスケの顧問と審判をしており、高校の指導者とも繋がりがあったため誰か紹介してもらえないか打診をしたのです。

私はACLRについて学びを深くしていきたかったので、一番受傷が多い女子バスケットの現場が適していると感じそこに的を絞り最初のアクションを起こしました。

顧問の先生を紹介してもらい、コーチ・監督に対して自分のできることを伝えて主にメディカルスタッフとして女子高校バスケ部でのトレーナー活動をPT2年目から開始しました。

ちなみに、週に1回のサポートと練習試合・公式戦は基本的には全て帯同するという形でのスタートでした。(この時点で休みはほぼなくなります。汗)

このタイミングで現場に再度出れたからこそ、医療の枠組みで大丈夫と思っていても全然大丈夫ではない事態に多々遭遇しました。

それをクリニック勤務でまた体現、シェアして再度現場で失敗経験をしてくるような日々でした。

現場に行き始めてすぐに2年生エースがACLを断裂し、院長に

「だいたいそんなもんやねん、関わってすぐ怪我がなくなると思ったら、大間違いやわ。」

と怒られた事を鮮明に覚えています。

結果が出ないながらの女子高校バスケ部へのサポートは次の実業団チームや国体、プロバスケのサポートへと繋がる重要な期間でした。

もし医療機関に勤めながらトレーナー活動を志し、難しいと思っている方がおられたら是非質問等でご連絡頂ければと思います。

赤山なりの秘策がたくさんありますので徐々にこちらでも公開していきたいと思います。

それでは今回はここまで。

全然何も成し遂げていないし、何も出来ない状態で赤山が現場に出始めた事を分かってもらえればちょっとはこれからアクションを起こす方にとっても気持ちが楽になるかなと思います。



こんな感じで赤山的スポーツトレーナーへの道を終了したいと思います。


今後は徐々に現場での失敗談や私が現場でどのように選手と関わってるか

など具体的な方法も私の現場に対する思いも含めてお届けしていこうと思います。

楽しみにお待ちください。



長くなりましたが最後までお読みいただき、ありがとうございました。





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