小橋稜太

散文などなど。

小橋稜太

散文などなど。

最近の記事

おそらく全ての ”早く出会いたかった”。

何か自分にとって楽しいものを見つけた時、決まってもっと早く知りたかったなあと思ってしまう。でもこれは呪い言葉みたいなもので、きっとこれから出会うもののおそらく全てにこの気持ちを抱くような気がする。 ああ、もうこれ以上書くべきことが無い。

    • 子犬の空を掴んで。

       舐められるのが苦手で、あまり犬と戯れたことがない。  駅で友達を待っていたとき、私から5メートルくらい離れた所に、リードを括られた子犬が居た。多分柴犬というやつで、括らなくても大丈夫そうなほどじっとしていた。  特に触れてみようとも思わなくて、手持ち無沙汰のまま、しばらくぼーっとその犬を眺めていた。そうしてしばらく眺めていると、子犬が突然むっくと立ち上がり、何を見つけたのか空に手を伸ばしては下ろす、伸ばしては下ろすという動作を始める。  私は、なんだなんだ?と思い、子

      • 文字の罠。

         夜と朝が折り合いをつけた頃に目覚める。  海の近くに住んでいたなら、寝起きのぼさぼさ頭も眠気まなこもそのままに外へ出て、何の気も無しに海を眺めていたいけれど、近くに海なんか無くて、でかめのトラックが通るたびに震える家、ここは。  身体を起こしてみると、黒いベッドシーツがずれてマットレスが十センチほど見えている。けれど、それは三日前からの事。それよりも、もしホテルのような白いベッドシーツを使っていたら、目覚めた私は自分を、夏の夜の間中濾過され続けた挙句、濾紙に残った残滓のよ

        • 単純で、複雑な、白。

           色の中では白が好き。  白は単純かつ複雑で美しいと思う。  でも、この単純かつ複雑という矛盾を私が簡単に受け入れてしまえるのは何故だろう。白が単純というのは直感的に理解できるかもしれないけれど、どうして白を複雑と思えるのだろう。白い絵の具だけで書かれた絵画を知っているから?それとも勝手に白い宮殿でも連想しているからだろうか?  白の反対は、たぶん黒。大抵そうだと思う。だとすると、白と黒という二項対立は色々なものに憑りつかれていると私は思うのだ。  白と黒、それはよく昼

        おそらく全ての ”早く出会いたかった”。

          それまでは、水。

           人生を何かに例えるなんてナンセンス。けれどみんな、例えずにはいられない。例えば旅のようだとか。  例えてみる。水に。  生きている状態が水、そして死後は蒸気。生まれる前は氷。  人生というのは概念っぽくて抽象的なのに生きているだけで纏わり付いてくる単語。いつも煙のような言葉。だからイメージしやすいように、何かに例えるのだと思う。  そして恐らく、こういう例えは自分で見つける方が面白い。旅のようだなんて今更人に言っても、そうだねとしか返ってこない。  何となく水と言っ

          それまでは、水。

          夏のくるぶしを蹴飛ばしたかった

           この家のカーテンは丈が足りていない。ここに引っ越してきた当時からそうなのだ。だから、上手く寝付けないまま夜明けが近づいてきたときには、カーテンの下の隙間から夜明けの青白い光が染み込んでくる。それを見てうわ朝だ、と嘆くことが少なくない。  今年の夏は暑い。朝っぱらから既に暑い。仄暗い中眠っている私を暑さが起こしにかかってくる。起き上がってみると、カーテンを閉めたままでも今日が暑い日なのだなと分かる。  窓に近づいてみると更に暑い。これはカーテンを開けてしまったら陽射しに殺

          夏のくるぶしを蹴飛ばしたかった

          神秘さ無い、日常という奇異。

           美しい景色を見てそれを写真に残し、後になって見返した時、ううんやっぱり実際の景色の方がすごかったなあと思うことはある。  ならば逆もあるのではないかと私は思う。実際の景色としてはまるで日常の様な風景であるはずなのに、写真として後で見返してみた時、驚く様なことが。そんなことを思いながら、最近は何となしにスマホで写真を撮っている。  神秘的さは要らないのだ。多分、駅のホームで電車を待つ風景にだって私達が驚くような風景が潜んでる。でも日常だからこそ、見つけようとしないと見つから

          神秘さ無い、日常という奇異。

          球体関節人形と私

           多くは壁や土台に凭れ掛かって私を待っている。けれど、こちらを見ている様な気配はない。私がどれだけ近づき、どれだけその眼を覗き込んでみても、その濁ったような銀色の眼や海の様な碧い眼に、私は映らないようだ。しかし、この眼ほど美しい虚ろは無いのかもしれない、と私は思う。  時に腕が、時に脚が、時に胴体が、時に眼が失われ、人間的ではない欠損を見せつけてくる彼等。あの人形は胴体の中身が無く、あばらの隙間から地面の色が見えている。と思えばあちらでは、艶めいた内臓が腹部から流れ出し、血

          球体関節人形と私

          もっと、街の隅っことか。

           みんなが走っていたから私も走っていたのだけれど、一体私達は何処に向かっているのだろう。私の声に出した疑問が拡散して、途端に群衆は散っていき、スクランブル交差点の上で一人立ち止まっている私が、無人の監視カメラに映っていた。  街の角が鋭利に見え、こちらに向かってその先を突き付けている様に見え始める。逸らした目線の先では、電柱に括りつけられた迷い犬のポスターは古び、ボルトを嵌めるための空洞に藻が生えている。  群衆は、まるで黒目が重たいかの様に、臥せた目線を動かさない。この

          もっと、街の隅っことか。

          昨夜未明の、マジック。

           テレビを捨ててしまってから、途端に「昨夜未明に~」という言葉を耳にしなくなった。毎日の様に何かが起きていた昨夜未明はどっかにいってしまったようなのだ。まるで誰かが、パチンと指を鳴らして消してしまったみたい。  私が眠っている昨夜未明。それは殆ど一瞬で通り過ぎていく。後一分で終わると表示されたインストール画面を見ているうちにカップラーメンが出来上がってしまった時くらい、曖昧で錯綜する時間が未明にある。  私は未明を知らない。でもきっと、未明に起きているのは事故や事件なんか

          昨夜未明の、マジック。

          綿毛、ワタゲ、わたげ。

           斜め前を進むベビーカーから赤ん坊の腕が覗いている。ぶんぶん振り回しているのは、きっと綿毛に触ろうとしているのだ。ポプラの綿毛がふわふわとそこらじゅうに浮かんでいるから。  小さな腕をぐるぐる振り回している所を見ると、まだ触れることが叶っていないようなのだけれど、一方で綿毛を煩わしいものとしか思っていない私の顔や腕に、綿毛はどんどんぶつかってくる。綿毛は多分、私より赤ん坊の方が怖いんだろう。  建物に入ると、やっと大きく息を吸うことが出来た。一息つきながら通路を歩いていく

          綿毛、ワタゲ、わたげ。

          夜の関節が、外れる。

           木に飲み込まれるようにして立っている電灯を見た。電灯はもはや木の中から光を放っていて、私の足元に葉っぱの影ばかりを落としている。垂れ下がる枝の葉は、光源に近いほど彩度の高い黄緑色で、遠いほど暗い深緑。それは昼間に見るような単色の木ではなく、グラデーション風の変化する木に見えた。写真を適当に撮ったら案の定ブレたのだけれど、油彩みたいになった。  散歩するなら夜が面白い。昼間には目の付かない所に夜は目が行く。まるでここを見ろと示しているかのように、そこだけに光が当たっている時

          夜の関節が、外れる。

          フォークリフトの爪の上に花があった。

           フォークリフトの爪の上に花があった。けれど花には詳しくないので、何度も見たことがある様な気もするこの花の名前すら私には分からなかった。  フォークリフトはめちゃくちゃ重たいものを運んだりする機械だけれど、花に潰れている様子は見られない。まだ三次元のままだ。たまたま物をのせた時に、隙間に入り込んで潰されることを免れたのだろうか?それとも、フォークリフトがもう使われていないのか。  私にもしこれを運転する特殊免許があったなら、フォークリフトで運ぶには如何にも軽すぎるこの青い

          フォークリフトの爪の上に花があった。

          未だに蝉がベランダのすみに居るのです。

           天気がいい日には大抵洗濯物をベランダに干しているのだけれど、その度にベランダのすみを確認してしまう。そこにはやっぱり蝉が転がっているのだ。今はもう春が訪れたと言ってもいい時分だけれど、夏の終わりごろから今の今までずっとそれはそこにある。勿論死んでいるし、乾燥し切ってカサカサになっているし、殆どセミの抜け殻と変わらない状態だ。それでもよく見てみるとちゃんと体の内部がある。そのせいで風に飛んでいくこと無く残り続けているのだろうか?  蝉は確か八日程の命だと聞く。まあそれはいい

          未だに蝉がベランダのすみに居るのです。