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西野亮廣論

 これは『革命のファンファーレ』を通して見た、僕の西野亮廣論です。

アプローチの方法として、本書を分かり易く解説しようとしても無駄なことで。なぜなら『革命のファンファーレ』こそが「今」という時代の解説書として機能しているからです。テクノロジーが進化し、多様性が広がり、先行きの見えない複雑な現代社会。ノイズだらけの現代の本質を浮き彫りにし、その上分かり易く整理してくれているんですね(本を読まない人にも読めるように←ココ重要)。

『革命のファンファーレ』には大切なことが簡潔に書かれています。芸人西野亮廣さんがその思考に至った背景や、世の中への伝え方の方へ焦点を合わせた方が良いのではないか?そう思いました。


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お笑い芸人としてパフォーマンスをしたり、絵本作家として作品を作ったり、数々の企画を考案・実行したりする西野さんですが、何よりの魅力は時代を読み解き未来を予見するその作家性です。

時代の本質を見抜き、その性質に合わせた行動を起こし、あわよくば時代の作り手側に回ろうという野心。

彼にはに変化に対しての恐れのようなものが一切ありません。むしろ世の中の考え方やシステムが変わらないことに対して苛立ちすら感じている様子。


その辺りの分析する上で、以下の3つの要素が今の彼を構成しているのだと考えました。

漫才師として培った表現力(芸人性)

仮説力(作家性)

圧倒的行動力(狂気性)

『革命のファンファーレ』のテーマを挙げた後、これら3点を解説しながら、西野亮廣という人物を紐解いていきたいと思います。



道徳とビジネスのリミックス

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本書のテーマは「道徳とビジネスのリミックス」です。道徳というのは人としての正しさ

元気よく挨拶しよう
嘘はつかない
人に親切にする

「人が喜ぶことを率先してしようね」という教えのこと。それは近江聖人の中江藤樹先生(『代表的日本人』の中にも選出されている江戸時代の陽明学者)のようです。ただ、「人として生きるというのはこういうことだ」という道徳心が先行にあるわけですなく。どちらかというと「良い人の方が得なことが多いよ」というスキルとしての発想です。



道徳と商売は親和性が高いものではなかった

近江商人の三方良しって考えは昔からありましたが、どちらかというとその道徳心は清貧を美としています。「お金」=「汚い」という図式の方が受け入れられていて(だからこそ僕たちは「お金を儲ける」ということを学校で勉強せずに大人になってしまったのだけれど)。

今までは道徳心がなくてもお金を稼ぐことができた。ところが、ここ数年の流れとして、「お金があれば何でも良い」というようないわゆる拝金主義が廃れてきた。では、なぜここに来て「道徳」なのか。



「そもそもお金って何?」という話

「お金」=「信用」

西野さんはお金そのものに価値があるという見方ではなく、お金を単なるツールとして捉えています。お金自身に価値があるわけではなくて、お金はモノとモノを交換するための引換券に過ぎない。本質的な価値は信用がそこに働いているということ。実体のない「信用」というものを、目に見える形として「お金」というもので代用した。

お金は幻想だって、学校の先生も池上彰さんも言っていましたが、僕たちはいまいちピンとこなかった。でも西野さんは、この無形物である「信用」というものを手に入れれば、お金同様の価値を生み出すことができるということをわかりやすく教えてくれます。

インターネットの普及やSNSの広がりで「演技」が「嘘」だと分かる時代に突入しました。嘘をつけば信用はなくなる。ヒドイことをすれば一瞬で世界にバレる。この社会になったからこそ、道徳が力を持つようになってきている。モノが溢れているからこそ、人はストーリーに価値を見出そうとしている。

これからの時代の価値は 「正直であること」、そして「良い人であること」。それが本書の大きなテーマです。
 

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西野亮廣の凄さ

西野亮廣論に入る前に言っておくべきことがあります。僕たちは西野さんのことをイケメン芸人のツッコミと認識しています。しかし、多くの人たちは彼のことを勘違いしています。舞台やテレビを離れた西野さんは決してツッコミではない。

西野さんはボケの人です。

漫才ではツッコミをしているし、テレビショーでも立ち位置はツッコミです。でも、あれはかりそめの姿だと僕は思っています。 本質的には、彼は「ボケ」の人です。


西野亮廣の芸人論

以前、西野さんは芸人の仕事じゃないことをたくさんやって時々バッシングを受けていました。絵本を描き始めた頃もそうですし、その後も肩書をコロコロ変えたり。ひな壇の仕事を全て辞めると宣言した時もそうでした。『革命のファンファーレ』ではその辺りの芸人哲学が詳細に書かれています。 バッシングする人(芸人仲間を含め)と自分では「芸人」の認識が違う、と。

前者は「ひな壇の仕事やグルメリポーターの仕事をすることも含めて芸人だろう」という考えで、後者は「人がしないことをすることが芸人だろう」という考え。だから普通、お笑い芸人がやらないであろう絵本を描いたり、ビジネス書を書いたりしたのだ、と。

僕はこの話を聞いた時、作家の町田康さんの取材をした時の話を思い出しました。とある人が「最近、パンクだと思った出来事はありますか?」と尋ねると、町田さんは真顔で「お前、パンクなめとんちゃうぞ!」と凄みました。

パンクバンドのボーカルであった町田さんだからこその質問だったのですが、質問者と町田さんの「パンク」の定義に差があったようです。町田さん曰く、「今、パンクファッションを着ている人はパンクではない」と答えました。パンクというのは今までの文化の歴史的蓄積を一旦無視しようというムーブメントのこと。文化として成立してしまったパンクファッションは記号に過ぎない。つまり本質的なパンクではない。

パンクは「不良」ではなく、「不良性」なんだ。

これと同じ構図だと思います。ひな壇芸やグルメリポートは芸人の象徴に過ぎない。そうではなくて、芸人の本質は「みんながやらないことをするその精神」である。 問題提起としてカッコイイですよね。

ただ、この話って、ボケのスタイルじゃないですか?

西野さんってツッコミの人ですよね。ご自身のエピソードトークの中でもツッコミとしての観点からの話が多いのですが、やっていることって僕はボケだと思うんですよ。 さらに言えば、もっと不思議に思うところがあって。ボケと仮定しても腑に落ちない感覚があります。シンプルなお笑いの方程式って基本「逆張り」だと思うんです(←僕個人の見解です)。

みんなが右に向かっている時に左に行く。
反対に左に向かった時は右に行く。

「押さないで、押さないで」と言われたら押す。

でも、西野さんって逆張りなようで、逆張りになっていない。逆というベクトルではなく、全く見当違いの方向に進んでいると思うんですね。これって、大ボケだと思うんですよ(←決して悪口ではありません)。 大喜利をしていて、みんなフリップを使っているのに、一人だけiPadを使って映像を流しはじめるみたいな。そうすると、みんな「え?」ってなりますよね。最低限フリップというルール内でボケようぜっていう暗黙の了解までも度返ししたスタンス。

そうなんです。西野さんはご自身が「逆張り」のスタンスで語っていますが、実は「逆張り」ではない。AとBの選択肢を迫られたのに、勝手に創作してCの選択肢を選んでいる。だからみんな「え?」ってなる。バッシングが来るのは芸人のスピリッツどうこうじゃなくて、ツッコミしろが広すぎて理解の範疇を超えているからなんだと思います。つまりは奇想天外の大ボケなんですね。 模範となるツッコミコメントがないから、みんな何て言ったらいいのか分からず、結果バッシングになる、という。逆に考えれば、完全なるブルーオーシャンに飛び込んだという証明なのですが。


①巧みな表現力の秘密

西野さんのスゴさって、表現力だと思います。やっていることはかなり尖っているのですが、西野フィルターを通して出てきた言葉というのは良い意味で大衆的

僕は西野さんをドラゴンボールにおけるMr.サタンだと思っています。孫悟空やその仲間が強敵と闘っていることを、地球人は露知らず。特にラストのシーンで悟空が地球のみんなに元気玉を呼びかけても誰も反応してくれないけど、Mr.サタンが呼びかけるとみんなが全力で応援してくれる。

正直なところ、西野さんの本に書いてあることや話していることは、どこかの誰かが既に口にしていることが多くて。『革命のファンファーレ』はそれらのコラージュとして紡がれているように思います。

別にそんなことで揚げ足を取るつもりもないし、西野さん自身も本の中で「一人の頭で考えることは知れていて、ブレーンをたくさん集めてより多くの体験からアイディアを出すことが大事」と語っています。 つまり、「集合知の重要性」です。

先に思いついたのは西野さんじゃない誰かかもしれませんが、それを実際に形にする行動力や多くの人に広める影響力というのは彼にしかない。 冒頭でも、僕は『革命のファンファーレ』を「西野さんは普段本を読まない人にも読めるように書いた←ココ重要」と書きました。専門家の先生やテクノロジーの先駆者の言葉は確かに価値あるものだけど、業界の外にいる末端の人々の元へはなかなか届かないんです。

同じ言葉でも「誰が語るのか」で響く範囲が変わってくる。また、普段大衆を相手に漫才をしている西野さんだからこそ、より広くより多くの人の元へと言葉を届けることができるのです。

それが①漫才師として培った表現力(芸人性)です。

芸人として第一線でメディアや舞台で活躍してきたことが、表現力(伝える力)において、かなり有効に働いています。



芸人という立場が育てた仮説力

「西野さんの表現力の秘密は漫才にある」というのは上述した通りですが、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

前項でも言った通り、彼はキングコングのネタ作り担当で、立ち位置的にはツッコミです。つまり、ボケとツッコミの両方を司っています(舞台やテレビショー以外では大ボケの立ち位置というのは記述しました)。 ボケとツッコミを、ユーモアとアイロニーと言い換えたり、アートとサイエンスと言い換えたりすることもできます。中でもお笑いにおける役割として応用できるのは「アート」「デザイン」という分類法です。

アートとは問題提起であり、デザインとは問題解決の役割がある。言い換えると、アートとは「散らかす」作業であり、デザインとは「片付ける」作業です。西野さんは舞台において「散らかすこと」と「片付けること」の両方を絶えず行っています。その膨大な蓄積がスキルとなり、漫才以外での活動におけるアート的な創造とデザイン的な批評に繋がっている。

絵本を作ることも、企画をつくることも、オンラインサロンを運営することも、全てアート的な手法で発想を遠くへ飛ばし、デザイン的な手法でロジカルに説得力を築き上げていく。

これが➁の「仮説力(作家性)」です。

仮説→検証を常に行いながら新たな時代を切り開いているんです。



狂気的な行動力の秘密

誰もが彼のこの力を認めているのではないでしょうか。それは圧倒的行動力。とにかく何かにチャレンジしてるか、何かを作っている。漫才のネタを作り、劇場の舞台に立ち、テレビにも出演し、絵本を作ったり、本を書いたり、オンラインサロンを運営したり、様々な企画を同時進行しています。

「自分の個性は編集結果で、その素材となるアイディア(他人の脳みそ)の良い実験台になることが大切だ」ということが本書に書かれていました。

アイディアは人のものかもしれないけれど、実際に実験台として動くのは自分がやれば良い。結局みんなこれができないんです。アイディアは出せるかもしれないけど、実際に行動に移し続けることってとても難しい。


失敗が成功になる芸人的アティチュード。

漫才師でも注目を浴びて、ゴールデンのバラエティ番組でもMCをして、絵本を出せば売れ、クラウドファンディングで話題をかっさらう。 それらの遍歴だけを聞けば、成功体験しかしてきていないように思われがちですが、案外失敗もしていて。当たらなかった企画もありますし、途中で空中分解した企画もあります(当たり前のことですが)。

10割バッターが存在しないように、失敗しない人なんていなくて。では、どうやって成功の数を増やしているのかというと、打席に立つ回数を増やしているんです。3割バッターが10回打席に立ったらヒットは3本ですが、1000回打席に立つと300本のヒットが見込めるということ。

ここでも西野さんのスゴさは舞台での漫才師というところにヒントがありました。

ネタを常にアップデートするという習慣 

作詞家の阿久悠さんは全盛期には年間に4本の大ヒット曲を世に出していたようです。その打率の高さは驚異的ですが、実質的には年間に100本以上の詞を提供していたようです。 だけど大多数の世の中の人は大当たりした4本しか知らない(届いていない)。で、オモシロイのが、当たらなかった96本をそのままなかったことにするのではなく、設定を細かく変えて、リメイクしたといいます。

元ネタとなる曲の人物設定の男女を置き変えたり、舞台を波止場からディスコに変えてみたり、歌い手を演歌歌手からアイドルに変えたり。

失敗から学んで、それを焼き直して世に送る 

詞の構造は同じだけど、普通の人には分からない。同じ言葉を使えばさすがに分かるけど、構造を抜き取って新しい設定に落とし込んだら誰も気づかない。そうやって一つの凡打をブラッシュアップして、精度を上げてヒット曲に育てていったと言います。0→1の曲作りではなく、3→5、とか5→10とか、そういった形で洗練させていった。

これはきっと漫才師である西野さんにも大いに当てはまると思います。新ネタを舞台にかけて、そこでウケなかった部分を削ぎ落し、ウケた部分を膨らませたり、アドリブがヒットしたものをネタの中に新たに肉付けしたり。

0→1の1を何度も舞台にかけることで、1→3、3→5、5→8へと精度を上げていく作業を日常的にしているのではないかと想像します。この習慣が様々な企画に対するスタンスとして強みになっているのだと思います。

そして芸人の強みとして培ったもう一つの能力。



−を+に変える力

最近、『グレイテストショーマン』というミュージカル映画が世間を賑わせました。ヒュージャックマン主演のサーカスを作った男の話です。あの映画の興味深いところは、人から後ろ指をさされてきた者たちが見世物小屋で人気者になるという設定にあります。小人でも、髭の生えた女性でも、舞台に立てばそれが武器になるのです。

芸人さんってそういった要素が少なからずありますよね。一見ネガティブに映る容姿が、笑いの種(武器)になっている。それは外見だけでなく、大スベりしたことや、とんだ大失敗さえも、次の機会には武器になっているということ(実際に西野さんは好感度が低いキャラというのを武器にして世間の注目を集めていました)。

つまり芸人的アティチュードがあれば、目の前に起きる事全てが+なんです。どんなガラクタでも宝石に変わるんです。

それをデビュー当時から培ってきた西野さんの強さはそこにあると思います。



最後に…

『革命のファンファーレ』の中で、西野さんがメイン以外のテレビの仕事を辞めた時の話が印象的でした。

漫才師として数々の賞レースで優勝した。ゴールデンタイムで『はねるのトびら』という番組のメインMCにもなった。でも、自分はスターにはなれなかった。上には「たけし・さんま・タモリ」のビッグ3が相変わらず鎮座していて、ダウンタウンやナインティナインのような立ち位置になれると信じていたが、決してそういう風にはならなかった。それは絶望だったと西野さんは語っています。

やるだけのことはやったし、しっかりと結果は残したのに、思っていたスター像とはかけ離れたところに自分はいる。このまま同じようにやっていても仕方がない。だからメイン以外のテレビの仕事はやめた。人が見たら、信じられないような決断だったでしょうが、西野さんにはそうするしかなかった。全く別の環境で、そこに適応するであろう己の進化を待った。

既存のロールモデルを捨て、現在のスタイルを破壊し、新しい境地へ進む道を選んだ。ピカソやマイルスデイビスのように。

結果、その選択は正しかった。

あの時、あのままテレビにしがみついて他の芸人さんと同じように振る舞っていたら、西野亮廣は今ほど輝いていなかったでしょう。絶望があったから、敗北があったから、イビツな形で進化した。そのままだったら嫌われもしなかったでしょうが、新たに時代を作るワクワクを世間に与えることもできなかったはずです。

強者は保守的になる。
なら絶えず弱者の立場に身を置いて、進化し続けてほしい。

これからも破壊と再生を繰り返しながら、トリックスターとして世の中をアートしていってほしいです。

「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。