〝美しい〟について

新国立美術館で開催中の東山魁夷の展覧会に行ってきました。

やっぱりいいですよね。
美しい。
ということで、「美しい」についてほんの少しだけ。

魁夷の絵画っていうのは風景が多いのですが、写実的なようで全然違うんでえすよね。
一見、「あ、こんな風景あるよね」って思うのですがよくよく見ると「こんな美しい世界は現実にはない」と思う。
どちらかというと幻想的。

その秘密は、風景からノイズを排除していることが一つ。
そして、想像の世界を肉付けしていることが一つ。


ノイズっていうのは「美しくないもの」。
つまり汚れや無駄。
魁夷はそれを取り除いて紙に映し出すのですね。
洗練させていくイメージなのですが、これがデザインみたいになっていくんです。
抽象的なフォルムになるけれど、明らかにそれはデザインよりも絵に近い。
マーク・ロスコの抽象画が細部のフォルムを浮き立たせた、みたいな感じです。

それが魁夷の作品の美しさを際立てているのですが(もちろんその外にも色んな要素がありますが)、そこに〝怖さ〟を感じます。
つまり、あまりに美しい作品というのは感動と同時に〝恐怖〟も与えるんですね。

というか、僕はそう感じます。
毒の要素が見受けられないというところがミソだと思うんですね。
〝恐怖〟は毒だけでなく、美にもまたその要素を内包している。


不気味の谷という言葉がありますがあれに近いと思います。
ロボットやCGが人間の姿に似せていく中である程度までは親近感が増すのですが、そこを超えると一気に不気味さや嫌悪感が発動するというやつです。
動きや質感は洗練されていき、より自然で美しいのですが、その美しさに対する違和感のようなものです。


これが行き切ってしまい、絵でなくデザインやロゴになってしまえば違ったものとしてとらえることができます。
でも、〝生モノ〟のような、息づいているモノとして姿だとすれば、そこには奇妙な印象が生まれる。


何が言いたいのかというと、僕たちはある程度のノイズがあることによって心のバランスを保っているんですね。
傷や汚れや歪み。
それらを排除して、完全な世界を作ろうとした時に、怖くなっちゃうんです。
これも一つの〝美しさ〟の要素だよな、と。

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