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両手ひろげた分に幸せを

大切にしたい人がいる。

妻、それから家族。
仲間、憧れ、親切にしてくれた人。

ぼくは人よりもその範囲が小さいのかもしれない。「国を守る」なんていう大それたことは言えない。たくさんの人の先頭に立ってみんなを救うための行動を起こすことなんてできない。人には人の器がある。ぼくはきっと両手をひろげた分くらいの人たちしか大切にできないのだと思う。だからこそ、その中にいる人たちだけはどうしても守りたい。一人ひとりに対する想いがぎゅっと詰まっている。

木陰に落ちた小さな陽だまり。
その中に僕の安らぎはある。ぼくの幸せはある。

たくさんの人を大切にできる人は、きっと人の悩みや価値観を大きく分けることが得意なんだと思う。因数分解するみたいに、分類しながら解決したり、訴えかけたりする力が優れている。ぼくはそれが得意じゃない。心の中で「そんなの嘘だ」と思っている。合理的な解決法が間違っているというのではなく(むしろ多くの場合正しいのだけれど)。それでは折り合いをつけることができない衝動がある。感情がある。説明がつくことは重要じゃなくて、本当に大切なのは説明がつかないこと。最近になって、ぼくはそちらの方を尊重したいタイプなのだということに気づいた。

人はそれぞれだから。その「それぞれ分の個性」をゆっくりと、つぶさに感じていたい。なめらかに伝えることだけに価値があるわけではないのだから。

先月、妻の父が傘寿を迎えた。

ぼくは義父に黄色のポロシャツを贈った。照れながら「ありがとうね」と言う義父の笑顔が印象的だった。ぶっきらぼうなところがあるけれど、とてもやさしい人だということを僕はよく知っている。

義父は奥さんを大切にし尽くした人だった。

結婚前、彼女に一目惚れした。日本一の卓球選手だった義母は、一企業の平社員だった義父からすれば高嶺の花だった。その日から義父は一途に想いを伝え続けてきた。全国どこであろうと試合会場には応援に駆けつけ、ラブレターを何枚も綴った。晴れて義父の想いは実を結び、義母とのお付き合いがはじまった。

その頃には既に、最初のアプローチから七年が経っていた。

義父の人生は全て「妻の幸せ」、それから「家族の幸せ」にあったのだと思う。憧れた人を不幸にさせるわけにはいかない。そのために仕事もがんばった。一人娘の誕生。決して高くない給料。倹約生活。妻と娘の笑顔。義父は努力し、愛する二人のために本来の能力以上の力を発揮することができた。そして義父は、一サラリーマンから社長にまで上り詰めた。

守るべきものの存在は、人を強くする。

六年前、義父は最愛の妻を亡くした。義母は最期まで笑顔が美しい人だった。この笑顔を守り続けることができたのは、紛れもなく義父の力だった。亡くなる数日前、義母は「パパと結婚して幸せだった」と言った。

義父は目に見えて弱っていった。義母を亡くした空白は何をもってしても埋めることができなかった。ある日、義父は二階の寝室から飛び起きて、急いで階段を降りてきた。それから「房江(義母)がオレの名前を呼ぶ声が聴こえた」と言った。そのことをぼくに教えてくれた妻は目に涙を溜めていた。二人で暮らした思い出のいっぱい詰まった家で、義父は亡き妻の面影と共に生活をした。

月下美人

義母は花が好きな人だった。家の庭は季節ごとにたくさんの花たちで鮮やかに彩られた。

「パパはね、月下美人だけは褒めてくれるの。きれいな花だって」

義父は花には興味がなかった。ただ、一年に一度しか咲かない月下美人(サボテンの花)だけは唯一褒めてくれた。だから義母は月下美人がどの花よりも特別に好きなのだという。ぶっきらぼうな性格の義父から褒めてもらえたことを嬉しそうに話していたと妻から教えてもらったことがある。

義母が亡くなってもなお、庭の花たちは美しさを保ち続けていた。義父が世話をしていたからだ。このことに妻は驚いた。今まで花や植物に興味がなかった義父が、水やりや土いじりをしていることが信じられなかった。義父は義母と「庭を守る」と約束したのかもしれない。大切な人が、大切にしていたもの。それは義父の手に渡った。

翌年の義父の誕生日、ぼくたちはレストランでお祝いをした。義父はぶっきらぼうなので、祝われることが苦手だった。「こんなことしてもらわなくてもいいのに」と言いながら、手早く食事を済ませた。そこで別れるはずだったのだが、義父は突然「家に来るか?」と言った。とても珍しいことだった。

ぼくたちは義父の家に行った。お仏壇に手を合わせていると、義父はベランダの扉を開けて庭へ出て行った。僕たちが義父の後を追っていくと、暗がりの下で乳白色に光っている植木鉢があった。それは───月下美人の花だった。

その一年に一度咲く美しい花は、一年のうちの義父の誕生日を選んで花を開かせた。最愛の妻が、最も愛した花の姿になって義父に会いにきたのだと思う。あれほど美しい花は見たことがない。ぼくたちは、何も言わずその場で静かに泣いた。

昨日、義父が店に来てくれた。義父は相変わらずぶっきらぼうで、ぼくは相変わらず不器用なので、いつもの通りうまく会話にならないけれど、とてもうれしかった。義父がタイのお土産でくれたシルクのポロシャツを着て、ぼくはカウンターに入った。妻が「これお父さんがあげた服よ」と言うと、「そんなものあげた記憶がない」と言った。それが照れ隠しであることは誰にでもわかった。

店を出た後、少しだけ義父と二人で話した。二人で話す時だけ見せる顔がある。義父はいつも妻とぼくのことを心配してくれている。「来週伺います」ぼくがそう言うと、「よろしくお願いします」と義父は丁寧に僕に頭を下げた。十月五日は義母の七回忌だった。

ぶっきらぼうな義父が、とても丁寧になる時がある。それは義父が大切にしているものに関わった時。こんな人になりたいとぼくは強く思った。

年を重ねると、大なり小なり誰しも何かの病を患う。あるいは病でなくとも災害や事故は突然やってくる。一回一回の再会を大切にしたい。次必ず会えるという証はないのだから。

両手をひろげた分の幸せ。

「みんなを救うからね」とは決して言えない。僕は目の前にいる人たちを大切にしたい。義母の美しい笑顔を義父が守り続けたように。その「手が伸ばせる距離の人」を幸せにすることが、実は遠くの誰かの心に影響を与えるんじゃないかな?例えば、ぼくの文章を読んで少しでも響いてくれた人がいたとしたら。

最後だから少しだけ大それたことを言わせてもらう。

世界を救うとするならば、僕はそういう方法で少しずつ変えていきたいな。



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