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【ネタバレ注意🚨】\\なんでもない日常のエッセーVol.2//『エゴイスト』はゲイのリアルをとことん追求した映画だった

SNSでも口コミでも

「エゴイスト、めっちゃ良かった。泣けた」という声をTwitterで何度か目にしていた。
先日シアタードーナツに寄った時にも、ともこさんから、
「亮太くん観た?エゴイスト。絶対見た方が良いよ!」と念を押された。
#ほぼ毎日映画鑑賞 が趣味かつ、 #多様性ファシリテーター を名乗る自分が「観ていないんだよねー」なんて言えない。
ともこさんからおすすめされたその日のうちに、即スターシアターズ会員に登録し、400円OFFでチケットを購入。18時半に退勤して『ボヘミアン・ラプソディ』以来のミハマ7プレックスへ足を運んだ。(以降、ネタバレを含むのでご注意を。)


なんという映画をつくってくれたんだ・・・

文句なしの★★★★★

いや、期待値を遥かに超えてきた。今年はスラムダンクがぶっちぎりの1位だと思ってたのに。スラムダンクの、遥か頭上からダンクシュートを決められた。観終わった後、車に乗ってしばらくは放心状態で動けなかった。

全てがリアル

何がすごいかって、最初から最後まで、リアルな日常を覗いているような感覚だったこと。鈴木亮平演じる浩輔は、もはや演技とは思えない。鈴木亮平ではなく、実在する浩輔そのものだった。ゲイコミュニティでの話題、宮沢氷魚もとい龍太との出会い方、好きになるまでの関係性の変化、セックスシーン。全てがリアルだった。「これは私が体験した/するかもしれないことだ」と思った。

なぜ「エゴイスト」なのか

病室で龍太の母が浩輔を呼び止め、暗転。『エゴイスト』のタイトルが浮かんで映画は終了。その瞬間、タイトルの意味がわかった。愛をどう表現するか、どう伝えるか。龍太や龍太の母への愛情表現として「お金」を渡す浩輔は、間違いなくエゴイストだった。そして、龍太の母が、最期を迎える前に初めて浩輔を「息子だ」と肯定した。同室の高齢患者さん(恐らく認知症)から、「息子さんですか?」と尋ねられ、それまでは「息子じゃないです」と否定していたにもかかわらず。龍太の母から浩輔への愛情表現も間違いなくエゴイストだった。

自分解釈を言語化していく

普段、映画の感想は200字程度でしか残さないのだけれど。『エゴイスト』は、あまりにも私の琴線に触れる映画だったので、しっかりと言語化してみようと思う。(その結果、5,000字超の大作となってしまった。)
ちなみに、がっつりネタバレを含む&観た前提で詳細な説明を省くので、まだ観ていない方はまたの機会に。観た!もしくは観ていないけどネタバレOK!という方は最後までお付き合いいただきたい。(映画『怒り』のネタバレも含むのでご注意を。)


「リアルさ」はどこからくるのか

原作のリアルさ

なぜ胸に突き刺さるほどリアルなのか。エッセイストの高山真(たかやままこと)さんの自伝的小説『エゴイスト』が原作らしい。納得した。確かにこのリアルさは、実際に起こったことでなければ描けないだろう。多少の脚色はあるかもしれないが、龍太の人物像、浩輔の言動や心理描写は架空の人物のものとは思えなかった。

BGMや第三者視点がないリアルさ

自伝がベースになっていることに加えて、リアルさを感じる大きな理由の1つはBGMがないことだ。浩輔の家のスピーカーから流れる音楽が時々BGMの役割を果たしているが、それはもう日常の一部だった。
ナレーションもほぼない。記憶にあるのは、序盤に唯一、浩輔視点で語られた一言二言だけ。

関係性のリアルさ

主要な登場人物は、浩輔(鈴木亮平)、龍太(宮沢氷魚)、龍太の母(阿川佐和子)の3人。その3人ともが演技をしているようには見えない。特に龍太が亡くなった後の浩輔と龍太の母の関係性、会話のひとつひとつが本物だった。愛する我が子を失った龍太の母が、「あの日龍太に聞いたんです。浩輔さんは、あんたにとって特別な人なんでしょ?って。あの子、言葉に詰まってたんです。」「男の人でもいいじゃない。あなたが愛した人なら。」と、浩輔に語った言葉。私自身が母にカミングアウトしたあの日、パートナーを連れて両親に紹介したあの日がフラッシュバックした。

セクシュアリティの強さと脆さ

そして1番のリアルさ、つまり「私が体験した/するかもしれないことだ」と強く感じた理由は、浩輔と龍太の出会い、別れにセクシュアリティが切っても切れない要素として存在していること。
浩輔が、ゲイの飲み仲間から紹介されたパーソナルトレーナーが龍太だった。そこから2人の関係性は始まる。2人はゲイだったからこそ出会った。「この人は同性愛者か?異性愛者か?」と探りを入れる必要がないからこそ、深い関係を築くことができた。
だが、突如龍太の死が訪れた後、浩輔と龍太を繋ぐ接点は断たれる。仕事も生活環境も、育ってきた場所も、普段関わっているコミュニティも異なる。2人を繋いでいたのはゲイというセクシュアリティと、家庭環境の近さだった。龍太の母と繋がっていたからこそ、浩輔は龍太の母に龍太の面影を見出し、繋がり続けることができた。
もし、龍太の母と浩輔が、龍太の生前に知り合っていなかったら、恐らく浩輔が龍太の死を知る術はなかったかもしれない。(「怒り」の妻夫木聡と綾野剛の関係のように。)

テクノロジーが発達した今、スマホさえあればマッチングアプリでゲイ同士出会うハードルは格段に下がった。だが、裏を返せばセクシュアリティしか接点がない。アカウントが消えてしまえば、連絡を取ることも再び会うこともできなくなる。強くて脆い繋がり。それがゲイだ。


これはLGBTQ映画ではなく、30代男性クローゼットゲイの映画だ

LとGとBとTは違う

『エゴイスト』はLGBTQの映画ではない。ゲイにフォーカスした映画だ。もっというと、周囲にはカミングアウトしていない、都会に住むひとり暮らし30代ゲイの物語だ。

これまで描かれてきたテーマたち

「セクシュアリティ」に関する映画は、すべて「LGBTQ映画」として紹介されることが多い印象がある。だが実態は全く異なる。
同性愛に関する映画でも扱うテーマは異なる。
『ある少年の告白』で描かれるのは同性愛矯正について。
『ムーンライト』で描かれるのは黒人社会の中での男性同性愛について。
周囲の偏見との戦い、同性が好きな自分を受け入れていく過程、恋愛模様を描くことが多いように感じる。(ちなみに書いていて気づいたのは、私はあまりレズビアンがテーマの映画を観ていないということだ。反省。)
バイセクシュアルに関する映画のテーマは、同性愛とも異なる。
『君の名前で僕を呼んで』で描かれるのは、好きになった相手が異性との結婚を選んでしまう儚さがテーマだった。
トランスジェンダーに関する映画のテーマももちろん異なる。
『片袖の魚』で描かれるのは日常の中の差別や偏見だ。
他にもたくさんの作品があるが、LGBTQの中でもどのセクシュアリティに焦点を当てているのか、その中でも何をテーマにしているのかは全く異なる。現実に存在する、様々な問題を浮き彫りにするのが映画だ。

エゴイストは、私が見てきたゲイの日常を描いてくれた

私が一緒に住んでいるパートナーは、高校卒業と同時に家族以外の地元の人間関係を断ち、沖縄にやってきた。ゲイ専用のマッチングアプリで出会い、交際を始め、一緒に住むようになった。何度か共通の友人を作ろうと、私の仕事仲間との接点を作ったが、彼は拒否した。彼の職場では、私と一緒に住んでいることは隠している。恐らく、私や彼に何かあった時、家族として連絡が来ることはない。同じ家に住む同居人としてなら連絡が来るだろう。龍太の死を龍太の母から聞かされた浩輔の動揺は、もしかすると、いつか自分にも訪れる可能性があるかもしれないと思った。

ライフスタイルが全く異なる2人

私のパートナーは沖縄に来てから6回ほど仕事を変えている。辞めた理由は人間関係がほとんど。一方私は基本的にはスタートアップやらソーシャルビジネス界隈で働くことが多い。2人のコミュニティは一切交わらない。

浩輔と龍太の生活も全く違うものだった。浩輔は雑誌の編集者で一定の給与もある。高級マンションに住み、自由な生活を送っていた。一方龍太は、パーソナルトレーナーだけではやっていけず、売り専で働いていた。高校を中退して選べる職も限られていた。浩輔から金銭的な支援も受けながら、昼の仕事を始めた。母の具合が悪くなり、治療費がかさんだ。昼の仕事だけでは足りず、夜の飲食店の仕事も始めた。肉体労働が重なった。母の通院のためにと、浩輔が龍太に車を買った。納車日に浩輔と龍太は会う約束をしていた。約束の時間に龍太は現れなかった。浩輔は龍太に電話した。電話に出たのは龍太の母だった。龍太の母から聞かされたのは、龍太が朝目を覚さないまま、布団で亡くなっていたという突然すぎる事実だった。
浩輔と龍太の働くシーンが交互に描かれていたのが印象的だった。2人のライフスタイルは全く異なっていた。

重ならない2人の世界を、私自身に当てはめて見ていた。


誰にとってのリアルか

売り専で働くゲイのリアル

龍太は売り専(=男性向けに性行為を提供する)で働いていた。高校を中退した自分が母を支えるためには、この仕事しかないと言っていた。私もこれまで何度か売り専をしている若いゲイと話したことがある。彼らは皆お金に困り、稼ぐ手段として性を売っていた。
龍太は、浩輔と出会うまでは上手く働けていたが、浩輔と出会って以降、売り専で働くことが苦しいと言っていた。どんなに性行為が好きでも、仕事として割り切ってセックスするのは難しいのかもしれない。

新宿2丁目で働く20代ゲイのリアル

先日、東京に遊びに行った時に知り合ったゲイの友人Iさんは、特定の8人グループ(全員ゲイ)しか繋がりがないと言っていた。Iさんが病院に搬送された時、看護師さんにIさんの仕事や家族、実家の住所について尋ねられたが、私もTさんも、Iさんのプライベートを詳しく知らなかった。
(Iさんが搬送された理由はこちらを読んでいただきたい↓)

もし万が一彼が亡くなっていたとしたらー。
私にできることはなかったし、親交があるはずのTさんにもできることはなかった。セクシュアリティで繋がる関係は、最初こそ強いが、脆いものだと痛感した。

私のリアル

Iさんを介抱して以降、私はちょくちょくIさんと連絡を取る仲になった。Iさんのことが気になっている。(恋愛的な意味ではない)Iさんは昼の仕事はしていないようだった。ゲイバーの店子が彼の唯一の仕事。そして飲み仲間以外に、日常的に付き合うコミュニティはない。私は、Iさんと龍太を重ねている。クローゼットゲイ20代男性の脆さをIさんに見出しているのかもしれない。

与えることで愛を表現する人のリアル

浩輔は、龍太に金銭的支援をしていた。彼なりの愛情表現だった。龍太が亡くなった後も、(彼の面影を失いたくないという想いもあったかもしれないが)「無かったことにはできない」と、龍太の母の生活支援を継続していた。自分の生活を圧迫していたのだろう。「一緒に住もう」と提案したのは、金銭的に支援は続けたいが、自分の生活とのバランスを保てなくなった浩輔の揺らぎが表れた言葉だった。
浩輔の気持ちを、私は理解できた。Iさんを見ていて、私にできることなら何かしてあげたいと思っている。目の前で頭を殴られて倒れて、病院搬送の付き添いまでして、1日中看病していたのだから、他人ではいられない。しかもその人があまりにも脆いコミュニティの中で生きていると知ってしまったのなら尚更だ。


映画は違いを超えた共通言語を形成する

やはり映画は面白い。同じ内容でもきっと受け取り方は人によって違う。なぜその違いが生まれるのか?を紐解いていくと、価値観や経験、生活様式、家庭環境の違いが明らかになる。

『エゴイスト』は、セクシュアリティを超えて「愛するとは何か?」を突きつけてきた。ゲイだからこそ、えぐられた感覚もある。当事者、非当事者の間にある、見えない壁を浮き彫りにし、その上で普遍的なテーマに昇華してくれた。

なぜ私の琴線に触れたのか、を整理していくと、「私自身のセクシュアリティ、価値観、経験、生活様式、家庭環境、すべての要素とリンクしたから」だと気づいた。

セクシュアリティを変えることはできないし、セクシュアリティが異なる人と共感し合うことはできないかもしれない。だが、『エゴイスト』はセクシュアリティに紐づいたリアルさを描きつつも、与えることで愛を表現する人のリアルさを同時に描いている。

龍太を亡くした後、浩輔が実家に帰るシーンがある。榎本明演じる浩輔の父に、妻(=浩輔の母)が病気だと分かった時、どんな会話をしたのかと浩輔が尋ねていた。
病気になり余命わずかだと判明した時、「別れよう」と提案する浩輔の母に対し、浩輔の父は「好きだったらそんなことを言うな。迷惑だなんて思うな。」と言った。浩輔の父も、与えることで愛を表現するエゴイストだった。

愛する人を失ってもなお、痕跡を失いたくない、繋がり続けたいと願う浩輔と、浩輔の父親の心境が重なった唯一のシーンだった。帰る度に「結婚しないのか?」と尋ねる父親を今まで避けていた浩輔だが、初めて素の会話ができていた。

セクシュアリティを超えた共通言語が形成された瞬間だった。

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