土岐月海氏、土岐島田氏、土岐植村氏


「土岐一族」は、ざっと数えただけでも120家以上あり、混乱してます。
月海(つきみ)氏の墓標を建てた方も海月(くらげ)と間違えてます。

土岐光忠(月海太郎)┬康忠(池田太郎):早世
          ├定忠(島田)─定俊(矢作)
          ├頼益(植村)
          ├善康(田中)
          └頼久(則松)

月海氏の祖・土岐光忠の二男・定忠は土岐島田氏の祖で、三河国菅沼に移り住み、菅沼氏と名乗ったそうです。その子・土岐島田定俊は、三河国矢作に矢作城(岡崎市の矢作神社の北側)を築いて移り住みました。

三男・土岐植村頼益は、矢作の南の本郷に屋敷城を構え、土岐植松氏は、松平清康(徳川家康の祖父)・広忠(徳川家康の父)・元康(後の徳川家康)に仕えました。松平清康も松平広忠も家臣に斬られましたが、側にいてその2人の反逆者を斬ったのが土岐植松植村栄安(後に氏明に改名)です。

土岐光兼┬某:早世(実は明智光秀!?)
    ├資長(菅沼)
    └光貞(植村)

※「土岐島田氏(菅沼氏)の祖は土岐満貞」説(本貫地は三河国島田ではなく、美濃国島田)や、「土岐光兼の二男・資長が菅沼氏の祖で、三男・光貞(後に持益と改名)が土岐植村氏の祖」説もあります。(土岐光兼の長男は「某」とあり、名前不明。名前が不明なのは早世したからのようですが、明智憲三郎氏の歴史捜査では、明智光秀!)

 とにかく混乱してます。土岐氏美濃守護7代目・土岐池田二郎持益が三河国本郷へ移住して植村を名乗ったという俗説は明らかに誤りです。土岐光貞(持益)との混同でしょう。

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