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伊束法師『三河記』に見る「桶狭間の戦い」

※現在、伊束法師『伊束法師物語』を訳していますが、伊束法師『三河記』は、伊束法師『伊束法師物語』よりも丁寧で分かりやすいです。
たとえば、『伊束法師物語』の
>「そういう噂は迷惑です」と言って奥に入った。
を初めて読んだ時は、「怒って、奥の部屋に閉じこもったのだろう」と解釈しましたが、『三河記』には、
>「そういう噂は迷惑です」と言って主に報告するために奥に入った。
とあります。従者が対応して客に噂を聞き、その噂を報告しに奥の部屋へ行ったってことです。現在『伊束法師物語』を訳していますが、
>「そういう噂は迷惑です」と言って奥に入った。
と訳すと誤解が生じるので、『三河記』を参考に
>「そういう噂は迷惑です」と言って主に報告するために奥に入った。
と訳しています。私の現代語訳をお読みになった方は「どこに「報告するために」なんて書いてあるんだ? 誤訳か?」と思っているかもしれませんね。

真偽は分かりませんが、伊束法師は『伊束法師物語』を出してから、分かりやすく書き直して『三河記』を書いたと思います。そして、この段における両者の違いは、『伊束法師物語』最後の徳川家康のショッキングな発言が『三河記』ではカットされていることです。やはり、あの発言は載せたらまずいですよね。

「義元尾張発向事」

今川義元、天下ヱ切テ登リ国家之邪路ヲ退ントテ駿河、遠江、三河三ヶ国ノ軍勢二万余騎ノ着到ニテ遠州池田ノ原ニテ勢揃ト定、永禄三年庚申五月十日、大将義元駿府ヲ打立給ヒ藤枝ニ着陣有リ、先陣ハ嶋田、大井川ヲ打越兼田河、佐夜中山、新坂ニ陳ヲ取、翌日十一日本陣懸川ニ着陳座ハ、先陣ハ見坂国府・鎌田カ原ヲ打越マムシ坂ニ野陳ヲ懸ラレタリ、十三日池田原ニテ諸勢ヲソロヱ大将ハ浜松城ニ着給フ、ソレヨリ本坂、今切二手ニ分レテ押タリケル、大将ハ本坂越トソ聞ヘケル、十四日ニ吉田ニ着陳アリ、先陳ハ赤坂、藤河指テ段々ニ陳ヲ張、元康ハ今度ノ先陳ナレハ岡崎普代ノ面々御迎ニ罷、イツシカ御成人有テ先陳ヲ奉ハラセ給事各勇悦申事無限、同十五日、義元岡崎ニ城着有リ、三河勢ヲ改陳所備ノ次第ヲ定給フ、下地ヨリ鳴海ノ城ニハ山口左馬助、岡部五郎兵衛、大高城ニハ鵜殿長門守、飯尾豊前守、笠寺ニハ葛山播磨守、三浦左馬助、朝比奈兵衛、浅井小四郎義元ヨリ入置ルヽ。去程ニ同十七日、本陳ハ池鯉鮒表ヱ押寄、ヲケハサマニ陳ヲ取寄ラル。是ヨリ知多郡ヱ働、在々所々ノ民屋放火シ、作毛ヲナキ捨ラルヘシ。翌朝鷲津、丸根ノ両城ヲ先陳ナレハ元康西三河衆ヲ引卒攻ラルヘキニソ定リケル。石川伯耆守申ケルハ、「今度ノ合戦ニ大将ヲ見放シ、敵方ヱ懸入高名スヘカラス、互ニ手ト手ヲ取組大将ヲ真中ニ成テ一同ニ懸ヘシ、マハラ懸スヘカラス、弓手ハ駿河衆、妻手ハ遠江衆、後ハ義元旗本ハルカニ扣ヱサセ給テ委細ニ見分有ヘキ事ナレハ花ヤカナル軍シテ各可姓名顕」ト申ケル、元康、石川日向守ヲ召テ今度ノ備役所ヲ定ラル。「先軍勢ヲ三手ニ分テ、一手ハ一文字ニ懸ヘシ、扨一手ハ搦手ヘ乗廻脇鑓ニ懸ヘシ、残ル勢ハ旗本ヲ可レ守」ト委細ニ下知シ給フ酒井左衛門尉・石川伯耆守左右ヲ見廻シ人数ノ賦ヲ申付ル。
先一文字ニ懸ル衆ハ、
松平紀伊守
松平七郎
松平弥左衛門
松平主殿助
同右近
加藤播摩守
松平半助
同金助
酒井将監
小栗弥左衛門
同大六
米津藤蔵
上野三郎次郎
川澄半七
赤根日祢之丞
同新左衛門
天野助兵衛
同甚四郎
村越新十郎
同左吉
赤根弥次郎
永見新右衛門
青山平太夫
近藤場左衛門
青木善九郎
川澄分之助
川上十左衛門
池波之助
同水之助
岩城忠四郎
平岩五左衛門
杉浦藤七郎
同八郎五郎
渡邉勘解由左衛門
同甚平次
吉野助兵衛
山田彦八郎
遠山平太夫
筧圖書
同牛之助
同助太夫
山本才蔵
小野新平
村井源四郎
平井甚次郎
黒柳彦内
斉藤彦一郎
水野藤七郎
大久保七郎右衛門
同次右衛門尉
渡邉源蔵
同半十郎
同五郎八
久世平四郎
朝比奈五郎作
大切七蔵
鳥居四郎左衛門
加藤源蔵
酒井又六郎
柴山小兵衛
酒井切之助
足立左馬助
蜂屋半之丞
大橋傳七
扨、脇鑓ニ懸ル衆ハ、
松平勘解由
同玄蕃允
同助四郎
同三蔵
同次郎右衛門
本多肥後守
鳥居伊賀守
酒井下総守
小栗助兵衛
同仁右衛門
加藤日祢丞
中根十三郎
村越平三郎
同久兵衛
同甚五兵衛
同左太郎
榊原弥平兵衛
薮田茂左衛門
伊藤六左衛門
赤根弥六郎
同弥太郎
同藤三郎
鴛鴨傳中
山田清七郎
山本四平
加藤小左衛門
同傳蔵
河切孫四郎
本多喜臧
天野清兵衛
同傳左衛門
加藤又蔵
足立孫四郎
石川善五左衛門
斎藤喜一郎
青山喜太夫
久米新四郎
八國弥五郎
酒井喜八郎
安藤九助
筒井与左衛門
土屋甚介
同甚七郎
内藤甚五左衛門
同四郎左衛門
佐橋監之助
大橋左馬介
石川大八郎
同右衛門八
同又十郎
内藤与八郎
江原孫助
内藤孫十郎
木多三九郎
浅見金七郎
同主殿助
三浦平三郎
近藤新九郎
黒柳金七郎
此勢一千余騎、扨御旗本守衆
酒井左衛門尉
同雅楽助
石川伯耆守
同日向守
本多豊後守
同作左衛門
植村出羽守
高力与左衛門
天野三郎兵衛
阿部善九郎
平岩七之助
同善十郎
同新八郎
内藤与三兵衛
同三左衛門
植村庄右衛門
高木九助
新見太郎兵衛
今村彦兵衛
松平弥九郎
江原孫三郎
大竹源三郎
朝岡久五郎
斎藤喜八郎
浅岡新臧
植村権内
鵜殿七郎三郎
鳥居又五郎
加藤九郎兵衛
同十郎三郎
中根藤藏
山田平五郎
赤根甚五郎
天野宗兵衛
鳥居鶴之助
同才五郎
林藤五郎
矢田作十郎
大久保四右衛門
本多甚次郎
石川七良左衛門
同新七郎
同新九郎
成瀬新兵衛
酒井又臧
同造酒丞
石川又十郎
佐野与五郎
内藤孫十郎
都合一千余騎、
去程ニ、丸根城ニハ、信長ヨリ佐久間大學ヲ大将トシテ宗徒ノ兵八百余騎籠置レケル。既ニ明十九日、丸根城ヲ可被攻ト有ル内通ヲ聞急飛脚ヲ以テ此由信長ヱ注進申上ケリ、佐久間大學軍勢ニ向テ申ケルハ、今度義元大軍ヲ以テ此城ヲ取卷レ候上ハ千一モ運ヲ開事ハ叶間敷候、乍去其一足モ可レ退所存コレナシ、未取詰間ニ各ハ思ヒ/\ニ落行、全高名極ラレ候ヘ、ト有ケレハ武者頭ニ服部玄蕃允、渡部大藏、太田右近、早川大膳、兼田隠岐守此五人ハ数度ノ覚ヲ取タル者共ナリ。其中ニ服部玄蕃允進出テ申ケルハ、今此時ニ至テ誰カ立退可申ヤ、所詮取詰ラレテ闇々ト討果サレンヨリハ城外指テ討テ出十死一生ノ合戦ヲ致シ、自然命生ナハ敵陳ヲ打破リ信長卿ノ後攻ノ勢ニ馳加リ忠戦ヲ致コソ大勇トモ申ヘケレ、トアタリモ不惶諌ケル、大将佐久間ヲ初残四人ノ者トモモ全レ命極二高名一ハ尤侍ノ本意トテ皆一同シテ打ち出可遂一戦ニソ被レ定ケル、角テ元康、十九日ノ未明ニ大高陳所ヲ打立給、三千余騎ヲ三手ニ分ケ丸根城ヱ押寄給、敵モハルカニ城ヲ乗出轡ヲソロヘ面モフラス馳来、物合五町計ニ見ヘタル時ニ元康、石川、天野ヲ召テ仰ケルハ、敵ハ城ヲ方取ヘキ処ニ還テ寄来、何様有無ノ一戦ヲトケ、残ル勢ハ可退散ス行ト見ヘタリ、懸ル奴原ニ寄合ソヽロニ味方討セテ叶マシ、唯矢軍計ニテアイシラヒ、サノミ敵ニカマハテ城ヲ乗捕レ、ト仰ケル、石川伯耆守、天野三郎兵衛承テ両手ヱ使番ノ衆ヲ廻シケル、角テ敵ノ兵トモ馬上鑓ヲツトリ甲ノシコロヲ傾一面ニ懸来先陳ト取組互ニ討ツ討レツ火花ヲ散シテ戦ケル、敵味方ノ鬨ノ声矢叫ノ音ハ百千ノ雷ノ鳴落ヨリモヲヒタヽシ、去程ニ元康自身団ヲ取テ旗本勢モ一ツニ成テ懸レ/\ト下知シ給ヘハ、旗本ノ弓鉄炮五十挺一同ニ放懸ラレマツサキニ進軍兵三十騎計将棊倒ニ打ヲトサレテ残スクナニ成テ引色ニ見ヱケル処ニ、旗本勢一度ニ鬨ヲ噇ト揚追懸指詰十町計追討ニ討タリケリ、敵ハ兼テ期タル事ナレハ丸根城ヲ余所ニ見テ脇道指テ落テ行、角テ諸勢丸根城ニ押入テ御旗ヲ立タリケリ、義元ハヲケハサマノ陳所ヲ未明ニ打立給ヒケル処ニ丸根ノ城落居ノ由ヲ被及聞召不斜悦給、御使者及両三度ケリ遠江衆、三河衆ニハ鷲津ノ城ヲ責ヨト宣ケレハ、各畏テ爰ヲ専余ト先ヲ争攻懸ル、扨鷲津城ニハ信長ヨリ飯尾近江守、同隠岐守、織田玄蕃允侍大将トシテ宗徒ノ軍兵四百余騎コメヲカレケル、爰ニ丸根城主佐久間大學方ヨリ申来趣ハ、今度ノ合戦ニ籠城シテ攻ホロホサレンヨリハ明朝有無ノ遂一戦城外ヱ討テ出テ一方ヲ打破リ後攻ノ勢ニ可レ加ト存ルナリ各如何有ヘキト申来ニ付テ、鷲津三人ノ大将モ佐久間カ行尤ナリトテ可致一戦覚語ニ備居タル処ニ、十九日ノ巳ノ刻ヨリ寄手六千余騎鬨声ヲ揚、矢一筋射違ル程コソ有ケレ、敵味方一ツニ成テ叫喚テ戦ケル、去トモ寄手大勢ナレハ先陳引ハ二陳ヲメイテ懸入ル、懸入レハ追出シ追出セハ懸入、時移迄戦ケル、城中ハ元来小勢ナレハ終打負、搦手ヨリ落行、寄手ノ軍兵入替テ櫓ニ火ヲ懸タリケリ、大将ハルカニ煙ヲ御覧シテ早鷲津ノ城モ落居ト見ヱタリ一日ノ内ニ両城トモニ責落コト物初ヨシト御感悦不斜、具ニ首トモ実検有ヘシ、能々注文致セト被レ仰テ大将ハ御陳所ヱ入給、良有テ諸士旗本衆致伺公処ニ義元宣ヒケルハ、今度各依忠節ニ両城タヤスク責落ス、中ニモ元康ハ謂若年ト始テノ軍ニ自身囲一本作団ヲ取テ攻給フ事老剛ノ者ニモ増タル風情ナリ、晴信、輝虎ナトノ軍法是ニハマサラシ、元康武者賦軍行唯大将ニ生付タル器量ナリト仰有テ御褒美不レ斜扨又大高城ハ敵ノ志ス地ナリトイヘトモ年々兵粮ヲ籠置、軍勢堅ク守ニ依テ攻ヨルコト不叶、然ルニ今日両城ノ取手ヲ責亡シ数輩ノ軍兵討取ルニ信長憤ヲ含働来ルトモ、義元旗本エハ大軍ナレハ不依思モ定テ大高ヱ責懸ルヘシ、彼是大切ノ地也、今日ヨリ元康ハ大高ノ城ニ在番可レ有ノ由朝比奈兵衛尉ヲ以テ仰ラレケル、重テ宣ケルハ、大形此響ヲ聞テ知田郡ハ予参降人ト成ヘシ、扨丹下城ニ水野帯刀、山口海老丞、柘植玄蕃允、善照寺ノ城ニハ佐久間右衛門、同右京進、中嶋城ニハ梶川平右衛門信長ヨリ籠置レケル、此者トモハ一定可退散少モタメロウ程ナラハ旗本勢ヲ以テ攻ホスヘシ、ソレヨリ熱田表ヱ押出ナラハ定テ織田上総介馳向フヘシ、三千余騎ノ小勢ニテ我ト戦事ハ以螳螂斧可為如向龍車追打ニシテ則事ニ清洲ノ城ヲ可乗捕、美濃国ニハ敵ナシ、江州浅井備前守加勢有ヘキトノ兼約也、扨佐々木カ楯籠観音寺・箕作ノ両城ヲ攻落、其ヨリ都ヱ上リ天下ノ武将ヲ蒙リ一統ノ世トナスヘキコト掌ヲ指カコトシ、ト仰ケレハ、座中伺公ノ面々悦イサメル気シキ面々顕テソ見エタリケル、𣳾源長老進出唯今ノ御人数四万余騎ト世間ニ取沙汰申侯頓テ百万騎ノ御大将ト申スヘキハ時刻有マシキトソ申サレケル、義元弥機嫌能座テ各一両日ハ晝夜辛労有シカ心易休息侯ヘ、ト仰有ケレハ、国衆ハ則面々ノ陳屋ヱ帰ラレケル、家老近習ノ衆ハ居残テ一酒一瓶ニテ祝ヘシトテ酒盛ニ成ニケリ、去程ニ信長卿、近習外様ノ人々ヲ召テ仰ケルハ、今朝十八日、義元知田郡ヱ出張シテヲケハサマニ陣ヲ張、明十九日丸根、鷲津ノ両城ヲ責ホスヘキノ由佐久間大學、飯尾近江守方ヨリ飛脚至来異、速ニ馳向テ勝負ヲトクヘシト宣ケレハ林佐渡守申ケルハ、既ニ義元ハ四万余騎、味方纔ニ三千余騎也、懸合ノ合戦ニ勝利失ナハレン事疑有マシク候、先爰ヲ退、当国ノ切所ヘ引ウケ御一戦ニ於テハ可被得勝利事何ノ疑カ候ヘキ軍ハ後ノ勝コソ肝要ニテ侯ト申ケレハ、信長卿重テ宣ケルハ、各意見雖レ有、其謂ツクヾク事ノ子細ヲ案スルニ、三州ノ境目所々ノ城郭ニ軍兵ヲ籠置、目ノ前ニテ敵ニ討果サレン事ヲ知ナカラヨハ/\ト籠城ヲセン事信長弓矢ヲ捕テ末代迄ノ悪名也、死ヲ軽シテ名ヲ重ンスルコソ勇士ノ本意トスル処ナレ、所詮於信長明朝打出、有無ノ可遂一戦志ノ輩其功ヲハケマシ侯ヘ、ト仰ラレテ十九日ノ未明ニ清洲ノ城ヲ馬廻計ニテ打立給、先熱田表ヱト馬ヲ早メ給処ニ、旗谷口ニテハ方々ヨリ馳加テ一千余騎ニ成ニケリ、則当社大明神ヱ参詣有テ今度ノ軍偏不預霊神擁護豈以無勢得多勢勝遥神慮ノ輝威光得勝一戦下、祈誓ヲ凝メソ座シケル誠神モ納受ヤシ給ヒケン内神ニテ物具音幽ニ聞ヘケル信長卿感歎肝ニメイシ立願成就シヌト頼母敷被思召ケレハ、大宮司ニ仰テ一紙ノ願書ヲ献ラル士卒ニ向テ宣イケルハ、今日ノ合戦ニ一定可レ勝当社大明神ノ瑞相アリ、進メヤ者共、ト下知シ給打立給フ、笠寺ニテ勢ヲ被レ揃、況ヤ数度ノ高名ヲ顕、一騎当千ノ兵共ナレハナシカハ勇サラン、中ニモ佐々隼人、千秋四郎、岩室長門守内々先懸ヲ心掛ケルニヤ味方ノ旗頭ノ見エルトヒトシク面モフラス敵陣ヱ乗入、駿河勢ニ石川六佐衛門ト云シ者其日ノ物見ノ役ニテ味方ニ十四五町先立テ扣ケルカ待請タリト云儘ニ散々ニ戦ケル、然トモ多勢ニ無勢叶ハネハ終ニ三人共ニ討レニケリ、六左衛門尉討捕シ敵ノ首三ツ義元卿見参ニ入タリケレハ、御感悦不浅御褒美有テ芝居ノ酒盛ニ成ニケリ、去程ニ信長卿、敵ハ猛勢味方ハ纔ノ事ナレハ只尋常ノ如クニ軍ヲセハ勝事ヲ得カタシ、後ノ山ニ到テ推廻、旗ヲ巻忍寄リ義元カ旗本指テ切テ入レト下知シ給ヒケル築田出羽守進出、御行尤可レ然覚侯、大将義元ヲ討捕申ヘキ事案ノ内ニ侯、タヽ急カセ給ヘトソ進ケル、折シモ五月雨シキリニ降来テ東西更ニ見分カタシ、寄ル味方サヘ敵陣近ク成シヲモ知サル程ナレハ、敵ノ知ラサリケルモ理ナリ、信長熊敵陣近成マテ旗ノ手ヲモ不レ下時声不レ挙ケリ、是ハ敵ヲ出抜テ手攻ノ勝負ヲ為レ決ノ謀ナリ、如レ案駿河勢唯今敵可レ寄トハ不思寄ケレハ、大将ヲ初トシテ油断シテコソ坐シケル、唯兎ニモ角ニモ運命ノ盡ヌル程コソ浅猿ケレ、去程ニ信長、三千余騎ヲ一手ニ合同時ニ鬨ヲトット作ラル、義元時ノ声ニ驚テ周章騒給フ所ヱ織田酒造丞、林佐渡守、森三左衛門尉、同新助、中条小市郎、遠山河内守、同甚太郎、築田出羽守ナト云一騎当千ノ兵共手々ニ鑓ヲツ取喚叫テ四角八方ヨリ縦横無盡ニ懸立ケル、義元大勢ナリト云ヘトモ俄騒立タル事ナレハ敵ト馳合戦トスル者ハ少、或ハ鑓一本ニ二人三人取付我ヨ人ノヨト奪合所モ有リ、或ハ味方ヲ敵ト見テ引組指違モノモ多カリケリ、角テ義元卿、敵ハ小勢ソ、キタナキ者同士討カナ、撰打ニ討取レトテ帷幕ノ中ニテ下知シ給ヒケル処ヱ服部小平太ト名乗テ馳合タリ、義元太刀抜持テ渡合、散々ニ戦給ヒケル、小平太膝ノ皿ヲワラレ少ヒルンテ見エケル処ニ森新助ト名乗助来テ其マヽ義元ヲ突伏首ヲ捕テソ出タリケル、抑知義軽命者雖レ多事ノ急ナルニ臨テ大将ノ命替トスル兵モ無リケル運ノ程コソ墓ナケレ、信長ノ兵、大将義元ハ討捕タルソト声々呼リケレハ、弥十方ヲ失、シトロニ成テ落行ケルカ或ハ主ヲ討セ何クヱカ可レ退トテ引返、討死スルモ有、或ハ深田ニ馬ヲ乗入為方ナク自害スル者モ多カリケリ、去レハ半時計ノ戦ニ討捕ル敵ノ首二千五百余トソ被レ注ケル、生捕ノ中ニ林阿弥トテ義元ノ同朋アリ、此者ニ首共ノ名字ヲ被尋実検有テ其後林阿弥ヲハ命ヲ助古卿ヱ送ラレケリ、去程ニ信長、其ヨリ鳴海ノ城ヱ押寄取巻レケリ、城主岡部五郎兵衛防戦トイヘトモ多勢ニ無勢叶ワ子ハ城ヲ明渡降人成テソ出ニケリ、信長卿宣ケルハ、大将義元討死ヲ聞及ナハ城ヲ明可致退散処ニ信長カ馬ヲ引請遂一戦城ヲ渡事、尤勇士ノ道ナリトテ命ヲ助ラル、重テ五郎兵衛願ハ義元ノ遺骨ヲ申請度ノ旨申上ル、信長卿聞召レ、ヤサシキ者ノ志カナ、ト不浅感思召シ、則、義元ノ首ヲ岡部五郎兵衛ニソ渡サレケル情ケノ程コソ有難ケレ、山口左馬助、同九郎次郎モ降人ニ成テ出タリケルカ、元来信長ノ家人也シカ近年立退、義元ニ仕シ科ニヨリ則首ヲ刎ラレケル、其外池鯉鮒、笠寺、沓掛所々ノ城々モ義元討死ヲ聞モアヱス城ヲ明退散シケル、爰ニ大高ノ城ニハ元康籠居給ヒケル、然ルニ駿遠両国ノ寄勢トモ大将ヲ捨テチリ/\ニ落行ヲ見テ家老ノ面々急御前ヱ参リ、義元生害誠ニテ侯ヤラン、駿河、遠江ノ勢共落散侯、今ハ早此城ヲモ被レ明可レ然旨申上ル、元康聞召、兼テ此城ニ楯籠事、信長ノ馬ヲ引請為一戦ナリ、然ニ義元討死ノ儀、未及分明沙汰処ニ楚、忽ニ城ヲ明ナハ元康ワカケ故周章テ城ヲ落タリナント嘲哢セラレンモ難レ遁、後難ヨシヤ是ニテ実否ヲ聞届、其上ニテ可及是非ト宣ヒケル所ニ水野四郎左衛門方ヨリ義元討死シ給ニ依テ駿河遠江ノ軍勢引退ナリ、所々ニ楯籠軍兵モ大形退散ト見ヘタリ、其表早々可被引取由早馬ニテ告来ニ付テ、五月廿日大高ノ城ヲ明帰陣被成、岡崎大樹寺ニ着給フ、角テ岡崎城ニハ義元近習ノ侍トモ在番有シカ、大将討死シ給ト聞、散々ニ落行ケリ、元康願所ノ幸ト則入替給ケル、天文十六丁未ノ年此城ヲ出サセ給、今年十九歳、永禄三年庚申五月廿三日代々相伝ノ城ニ立返ラセ給フ事偏ニ当国六所ノ明神・伊賀八幡宮ノ御誓ト僧俗男女ニ至迄悦ヌ者ハ無リケリ、元康公、家老ノ面々ヲ召テ宣ヒケルハ義元討死シ給フ上ハ今川家可滅亡瑞相也子息氏實トテモ長年至テ今武道嗜ハナク朝ニハ京、堺ノ数奇者ヲ集、夕ニハ洛中ノ遊女白拍子逸歌兵庫ヲトリヲ好、武勇ノ道ハ曽テ以テ不案内ナリ、カヽル次テヲ以テ向後氏實ト手切シテ東三河ヲ打随ヱ遠州ヱ打入ヘシ、信長ハ上方筋ヱ心指ナレハ東国エ働出ルコト有間敷、先領内仕置ノタメ奉行人ヲ定ヘシ、ト有高力与左衛門、天野三郎兵衛、植村庄右衛門三人ヲ仰付ラル、ソレヨリ御領分ニ制札ヲ被立ケリ。

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