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『伊束法師物語』五「御軍始めの事」

 最近思ったのは、「本を訳す時には、まず1冊丸ごと読んでからが良い」ってこと。読んでると、同じ誤字(「軍始め」は、現在のテストではXでも当時は○ですね)や、同じフレーズが何度も繰り返し出てくる。『伊束法師物語』では、
・此処を先途→爰を専途
・伺候→伺公
・郎党→郎等
・人目を憚らず→辺りを憚らず
・・・
が目立つ。あと、全文読むと文体の特徴が分かるので、省略されている主語が何であるか分かってくる。

(1)あらすじ


 「軍初め」(いくさはじめ)は、「初陣」(ういじん)とも言い、初めての軍(いくさ)です。勝たなければ縁起が悪いので、敵城の近くへ行って火矢を放ったり、稲や麦を刈り取ったりして、「勝った!」として帰ってくる形式的なもの(「加冠(元服)」や「鎧着初(具足始)」同様の儀式)です。
 徳川家康の場合、予定では、尾張国と三河国の国境付近の織田方の諸城(寺部城など)に火を放って岡崎城へ帰るだけでしたが、『伊束法師物語』では、①織田信長にばれて、本格的な戦いになってしまった、②大高城兵粮入れとは関係ないとしています。

(2)原文


 扨、元康公十五の御歳、軍始これ在るべきとて、弘治二年丙辰二月上旬に駿府を打ち立て給ひて、岡崎の城に着く有り。御一門中譜代の面々祝し申す事限りなし。本多豊後守、石川伯耆守、申されけるは、かゝる目出度き働きの事なれば、備への次第を評諚して、一々に書き付け、六段に定めける。
 去程に、十二日の未明に岡崎の城を打ち出し、梅坪の城へ押し寄せければ、城の内より馳せ向ひて、しばし戦ひける。終に追ひ立てられて、城中さして引きて入り、外輪迄追ひ懸け、悉く焼き立てける。其の外、在々放火して、岡崎へ帰陣まします也。
 同十七日、広瀬の城へ働けるに、内々元康公軍始めとて、岡崎に在陣の所、信長卿、聞こし召し、敵方所々の城に、清洲より急ぎ加勢を入れ置ける。然るに、其の者共、爰を専途と進み出て、待ち請けたりと言ふまゝに、追ひつ、返しつ戦ひける中も、津田兵庫助、神部甚平と名乗り、真先に進み、旗本さして切りて懸かる。大久保七郎右衛門、渡り合ひ、上へ下と切り合ひけるが、終に津田が首を取りたりける。神部、江原と切り合ひけるが、郎等に鑓付けられ、馬より突き落とされて討たれにける。
 去程に、敵の備へは、引き色に見へける間、勝ときを揚げてかゝり、城際 さして追ひ詰めたり。松平玄蕃頭(允?) 、同勘ヶ由、謂ひけるは、手柄の程は見へたるに、最早引き揚げよと下知してまわりけるまゝに、諸勢、皆、引き惑ひて、十町ばかりも退きて、備へを立て、敵方を見て、あれは寺辺衆の城、丹下、中嶋其の外所々に楯籠(たてこも)る軍兵、打つて出で、爰やかしこに備へを立てたり。石川安芸守、申けるは、軍始めに両日なから利運を遂げ、かゝる目出度き仕合はせなれば、早々帰城候へと也。岡崎へ入せ給ふ。
 角て廿日余も御滞留これ有り。方々鷹野など成され、扨、中旬に駿府へ帰城まします也。然るに日頃懇志の面々、駿府より藤枝、岡辺迄御迎へに出でられ、いづれも祝着(しゅうちゃく)申されける。則ち、義元卿、参会有りて仰せけるは、今度、元康は、軍始めの儀也。本より長臣の面々、軍功を励ますといへども、軍の勝負は天道技と古人、言ひ伝へ侍るなれば、何程心元無く存ずる処に、此度の軍に両日なから利運のよし聞きて、寔(まことに)以て今世の名誉たるべし。義元におゐては、斜めならず満足申す、と有りて、手づから打ち鮑を取りて、進まれける。 

(3)現代語訳


 さて、松平元康公(後の徳川家康)15歳の時、「そろそろ軍初めをいたしましょう」と、弘治2年(1556年)2月上旬に駿府(静岡県静岡市)を出発し、岡崎城(愛知県岡崎市)に着いた。松平一族、譜代の家臣たちはこの上なく祝賀した。本多豊後守広孝と石川伯耆守数正が言うには、「このような目出度い戦では、(何が何でも勝たないといけないとして)備え(配陣)を(最新の注意を払って)協議して、1つ1つ書き記して、6段の構えとした。
 こうして、弘治2年(1556年)2月12日の朝、岡崎城から出陣し、梅ヶ坪城(愛知県豊田市)へ攻め寄せると、城内から兵が出てきたので、暫くの間、交戦した。遂に敵は岡崎衆に追い立てられて、城に逃げ込んだ。この時、岡崎衆は、外輪(そとぐるわ、外曲輪、外郭)まで追いかけ、悉(ことごと)く放火した。その他、所々に放火して、岡崎城に戻った。
 弘治2年(1556年)2月17日、広瀬城へ攻めようとした時、「松平元康が、軍初めのために岡崎城に着ている」と聞いた織田信長は、急いで国境の諸城に軍勢(援軍)を入れた。その者共たちは、「ここを先途」(ここが勝負の分かれ目)だとばかりに進み出て、「待ってました」と言わんばかりに、追いつ、追われつ、交戦した中でも、津田兵庫助、神部甚平と名乗り、真先に進み出て、岡崎衆の旗本を目指して斬りかかってきた。この時、大久保七郎右衛門忠世が、渡り合い(対決し)、刀を相手の刀より上へ下へと斬り合ったが、遂に津田兵庫助の首を取った。神部甚平は、江原孫三郎と斬り合ってる最中、郎党に槍で刺され、馬から落とされて討たれた。
 そうしている内に、敵軍は、退き色に見えたので、勝ち鬨をあげてかかり、広瀬城のすぐ近くまで追って行ったが。松平玄蕃允清宗 と松平勘解由が言うには「(今回は城を落とすために戦っているのではなく、軍初めである。)もう(軍初めとしては十分な)手柄はあげたので、もはや引きあげろ」と命令して回ったので、皆、戸惑いながら(「もう少しで広瀬城を落とせたのに」と残念に思いながら)、約10町(1090m)退いて、軍隊を整え、振り返って敵方を見ると、寺部城、丹下砦、中島砦、その他、諸城砦に立て籠もっている兵が、広瀬城から出てきて、あちこちに陣を敷いていた。(深追いして広瀬城へ入っていたら、多数の織田軍の援軍に、岡崎衆は討たれていた。)石川安芸守清兼が「軍初めに2日間(2回)勝利し、目出度いことであるので、早々に帰城しよう」と言ったので、岡崎城へ戻った。
 こうして、松平元康は、約20日間、岡崎にいて、方々(ほうぼう)へ鷹狩に行くなどされ、2月中旬には駿府へ帰った。それで、日頃から懇意の人々が駿府から藤枝、岡部(共に静岡県藤枝市)まで出迎え、皆、軍初めの勝利を祈った。今川義元も帰陣式に参会して、「今度の松平元康の軍初めについてであるが、戦い慣れした武将が横にいて指導したのであろうが、昔から「勝負は天道次第」と言うから、もしかしたら負けるかもと心配していたが、2回とも勝ったと聞き、真に名誉なことである。私(今川義元)も大変満足している」と言って、自ら打ち鮑(うちあわび)を手に取って、松平元康に渡した。 

(4)考察


帰陣式(凱旋式)の「三献の儀」:戦いに勝って帰ってきた時は、一に打ち鮑、二に勝栗、三に昆布の順に食べる。これは、「敵を打ち、勝ち、喜ぶ」という洒落である。

※参考文献:東郷隆『初陣物語』(実業之日本社文庫)

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