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城之日従境目城至宇津山城并尾奈之峯

■境目城

 今日は4月6日。「城の日」です。
 まずは延兼山妙立寺(日蓮宗)門前のヤマザクラ。

 延兼山妙立寺は、境目城(延兼城、吉美城)が築かれた場所です。
 「桶狭間の戦い」後、今川氏真は、三河国の徳川家康の遠江国侵攻を阻止するため、遠江国と三河国の国境に位置する妙立寺の地に「境目城」を築き、妙立寺には代替地を与えました。(妙立寺は、駅路=鎌倉街道(当時の東海道)の双子塚(お経塚。2つの方墳。京都から来て、初めて富士山が見える場所)から鵙ヶ原を下った場所にあります。)
 しかし、「徳川四天王」の一人、酒井忠次(吉田城主)により落とされ、徳川軍酒井隊の本陣となりました。その後、酒井忠次は、ここを拠点(『菅沼家譜』では拠点は鵙ヶ原)に、笠子山砦(笠子神社)を築いて白須賀城(点燈山にあった引馬城の出城)を、取手山砦(入出砦)を築いて宇津山城を攻め落としました。

※史料『菅沼家譜』「菅沼新八郎定盈伝」
 酒井左衛門尉忠次は、笠子山に於ひて軍を張り、遠州白須賀城を攻む。城代・垣塚右衛門(飯尾豊前守連竜の家臣也)、加勢の為、浜松城に赴く間なれば、城中、無人也。故に、即時、責め落とし、城を焚く。其れより忠次は、鵙原(もずがはら)に屯して、入出に仮城を築く。(慶長年中、彦坂小刑部、「小知波村」を改めて「太田村」と云々。同国吉美村の地下人・佐原作右衛門吉成、三浦監物康正(或は重成か)父也。小田原陣、岩村に於ひて、父子共打死。家康公に内応して、酒井忠次手に属して地下人を催し嚮導。)

・笠子原は白須賀周辺(笠子川の左岸)。鵙ヶ原は新所原周辺(笠子川の右岸)。

※資料「佐原園江翁碑」(妙立寺)
 佐原園江翁、静岡県浜名郡吉津村吉美人。其先出平高望王7葉孫・三浦九介義明7男・佐原十郎左衛門義連、住于相州三浦郡佐原村因為氏。自義連10世、到高処、有2男。号印慶、常慶。翁、即、印慶之後裔也。(後略)
【現代語訳】 佐原園江は、静岡県浜名郡吉津村吉美に生まれた人である。彼の出自は、平高望王7世孫・三浦義明の7男・佐原義連で、佐原義連は、相模国三浦郡佐原村に住んだので、村名を名字とした。その佐原義連の10世孫に至って、2人の兄弟、印慶と常慶がいた。佐原園江は、この印慶の後裔である。

 この徳川軍酒井隊の本陣に、徳川家康が陣中見舞いに来た時、巨木に旗をたてたそうです。その後、「旗立ての松」と呼ばれた松の木は、危険なので伐られてしまいましたが、石碑がたてられました。
 また、攻撃の合図として撞いた梵鐘を「吉兆の鐘」と呼び、引馬城に船で運ぶ途中、浜名湖(「いだてん」のロケ地・女河浦)に落としたという伝承も残されています。

【碑文】 此為延兼山妙立寺旗建松之碑。寺在遠江国敷知郡吉津村吉美之里。東、即、丘枕浜名湖、堂北数歩有古松。高5丈、有奇。聳然特秀、駅路望亭亭如車蓋。里人称白旗建之松。案旧志、至徳3年、開祖二位僧都日什、剏寺于小山田。永享6年、四世日栄、徒于愛河。永禄7年、徳川家康、既抜吉田、盡定参河、進窺遠江。今川氏真、恐其逼也。行視愛河之寺域、築堡而、置戍。以其在領地之境故称境目城遠江風土記所謂延兼城是也。回命、増寺禄、給資、以徒之。於是、奉令徒。今地、実、八世日銓、永禄10年也。未幾、家康、進陣于本寺、建牙旗于此松、攻宇津山城、陥之、略浜名10郷。自是而、旗建松之名遂顕焉。爾来三百余年、攘霜雪、貫歳寒、欝欝、為地方之名勝。明治17年9月、大風、折其北枝。25年9月、暴風、又、折其南枝、毀壊堂宇。乃、請官而、伐之。嗟乎、草木之無情、亦、有数哉。然、数百年之勝跡、不忍泯滅無聞。今玆、有志者胥謀、就遺趾、重栽稚松、立石而、表之請文。日禧回、不辞而、記之。

【書き下し文】 此を延兼山妙立寺「旗建松の碑」と為す。寺は遠江国敷知郡吉津村吉美の里に在り。東は、即ち、丘、浜名湖を枕とし、堂の北数歩に古松有り。高さ5丈、奇有り。聳然として特に秀で、駅路を望めば、亭亭として、車蓋の如し。里人、「白旗建の松」と称す。旧志(誌?)より案ずるに、至徳3年、開祖二位の僧都・日什、寺を小山田にて剏(はじ)める。永享6年、四世日栄、愛河に徒す。永禄7年、徳川家康、既に吉田を抜き、盡く参河を定め、進んで遠江を窺ふ。今川氏真、其の逼(せま)るを恐るる也。行きて愛河の寺域を視て、築堡を築きて戍(卒)を置く。其の領地の境に在るを以ての故に、「境目城」と称す。『遠江風土記(伝)』の所謂(いはゆる。謂ふ所の)「延兼城」、是也。命を回(廻?)わして寺禄を増し、資を給し、以て之を徒す。是に於いて奉じ、徒さしむ。今の地は、実は、八世日銓、永禄10年也。未だ幾ばくならずして、家康、陣を本寺に進め、牙旗を此の松に建て、宇津山城を攻めて之を陥れ、浜名10郷を略す。是よりして、「旗建松」の名、遂に顕はる。爾来三百余年、霜雪(そうせつ)を攘(はら)ひ、歳寒(さいかん)を貫き、欝欝として地方の名勝と為す。明治17年9月、大風(台風?)、其の北枝を折る。25年9月、暴風、又、其の南枝を折り、堂宇(どうう)を毀壊(きかい)す。乃ち、官に請ひて、之を伐る。嗟乎(ああ)、草木の情無きこと、亦、数有る哉。然(しか)れども、数百年の勝跡、泯滅(びんめつ)して聞くこと無きに忍びず。今玆、有志の者、胥謀(あひはか)りて、遺趾(跡?)に就き、重ねて稚松を栽(う)へ、石を立てて、之を表せんとして文を請ふ。日禧、回りて辞せずして之を記す。

【大意】 延兼山妙立寺(静岡県湖西市吉美)に「白旗建の松」と呼ばれる巨木があった。徳川家康が牙旗(中国の天子や大将軍がいる所に立てる旗。大将旗)をたてたので、この名が付けられたという。明治17年9月の大風で北側の枝が折れ、明治25年9月の暴風では南側の枝が折れて堂宇(建物)を破壊した。老木で、危険なので伐採した。残念であるので、稚松(苗木、二代目)を植え、明治29年1月にこの石碑を建てた。撰文は日禧和尚。

《妙立寺略史》

至徳3年(1368年) 佐原常慶と内藤金平が日什を招いて小山田(古見寺跡)に創建。

永享6年(1434年) 吉美川尻愛河に転寺。

永禄5年(1562年) 樽栄坊(塔頭)より出火。宝蔵が焼け、寺宝や古文書が焼失。

永禄10年(1567年) 今川氏真は、妙立寺を移し、境目城を築城。

永禄11年(1568年) 吉美川尻(現在地)に仮堂を建設。徳川家康が吉田城へ入ると、佐原義成(妙立寺檀頭)が登城して内通。12月14日、酒井忠次、境目城を落とし、12月15日には宇津山城を落とす。

 境目城があった山にはお堂や「開山日什聖人御草庵旧蹟」碑があります。ただ、明治元年(1868年)からの鉄道(東海道本線)の敷設工事に伴い、山は削られて、原形をとどめていません。

 妙立寺には豊田佐吉(父親の豊田伊吉は養子で、本姓は佐原)が建てた豊田家累代の墓があります。
 豊田佐吉は、豊田自動織機(愛知県刈谷市豊田町)の創業者で、トヨタ自動車(愛知県豊田市)は、豊田自動織機の子会社です。明治19年(1886年)、豊田佐吉は、工場の視察(一説に就活)に東京まで歩いて行った(東海道本線の開通は明治22年(1889年)です)と聞いて、「凄いなぁ」と思いましたが、翌・明治20年(1887年)、完成したオルガンを見てもらうために、山葉寅楠と河合喜三郎は、天秤棒にオルガンを吊り下げて、東京まで持っていったと聞いて絶句。今でこそ、TOYOTA、YAMAHA、KAWAIを知らない人はいないけど、その創業者の苦労といったら、「やらまいか精神」の一言では言い表わせません。

■女河浦海水浴場

 宇津山城へ向かう途中、女河浦(めがわうら)海水浴場へ寄ってみました。今年の大河ドラマ「いだてん」のロケ地なので、何か残ってるかなと。何もなかったです。ちなみに、海へ入ってるのは、泳いでいる人でも、「吉兆の鐘」を探している人でもなく、潮干狩りをしている人です。
 浜名湖は、南端の弁天島は、南遠大砂丘(天竜川が運んできた砂)の一部ですが、他は「浜」ではなく「磯」ですので、道具がないと潮干狩りは出来ません。ここ、女河浦海水浴場が「浜」なのは、明治時代に砂を運んできて、海水浴場として整備したからです。

 宇津山城を見てみます。
 高山(渦山)と城山をあわせて「宇津山」(鵜津山)といい、高山に宇津山古城(今川氏の城)、城山に宇津山新城(徳川氏の城)があります。また、半島の先端を「正太寺鼻」といいます。(松見ヶ浦の対岸の先端は「州ノ鼻」です。)

 宇津山城へ行く途中、取手山へ行ってみましたが・・・

崩れて(崩されて?)跡形もなし。

■宇津山古城

 宇津山古城に案内板がありました。
 宇津山古城は、南北に長く、北端が虎口(大手)で、南端は崖です。

 正太寺には、宇津山城主・朝比奈氏の追善墓があります(『宇津山記』)。
・重室明珎大居士:泰満長男・朝比奈泰光(泰充か?)
・深雲全功大居士:朝比奈紀伊守泰満(泰長か?)
・天室壽西大居士:泰満二男・朝比奈真次

 宇津山古城は、大永年中、今川氏親の家臣・長池親能が築いた城で、朝比奈氏が入りますが、朝比奈真次が徳川方に寝返ったので、吉田城を徳川家康に奪われた小原鎮実が名誉挽回とばかりに朝比奈真次を討ち、宇津山城へ入りましたが、小原鎮実に替わって吉田城主となった酒井忠次に攻められ、城を捨て、船で駿府へ逃げました。

《宇津山城主一覧》
・中山民部入道生心?
①長池六郎左衛門尉親能
②小原備前守親高
③朝比奈兵部少輔氏泰:病死
④朝比奈紀伊守泰長:掛川城主・朝比奈泰能の従兄弟。氏泰と同一人物?
⑤朝比奈孫太郎泰充:弟に殺害される。
⑥朝比奈孫六郎真次:徳川方に寝返り、兄を殺害する。
⑦小原肥前守鎮実(旧・吉田城代):今川家臣・大原資良。真次を討つ。
⑧松平家忠:在番。徳川家康家臣。宇津山新城を築く。
⑨松平備後守清善:在番

 岡戸地蔵は、地蔵尊に偽装された朝比奈真次の妻(伊奈城主・本多忠俊の長女)、あるいは、「岡城(新所城)の殿様」(岡丞之進)の宝篋印塔の相輪です。

「おかと地蔵
 新所原一帯を昔は「おおくたらげ」と呼んでいました。おおくたらげの語源ははっきりしませんが、まあ田にも畑にもならない荒れ地ということでしょう。おおくたらげに続く周辺は笠子原ですが、この辺一帯を「鵙が原(もずがはら)」ともいいました。新所原駅前の郵便局の裏に、土地の人々が「おかかとさま」とか「おかと地蔵」と呼ぶ小さな祠(ほこら)がまつられ、毎日線香の絶えたことはありません。
 永禄年間(1558~1570)入出の宇津山城は、今川の四天王朝比奈氏泰が守っていました。この氏泰に二人の息子があり、兄を泰充、弟を真次といいました。その後、父氏泰が病死しますと、順序として兄泰充が城主となりました。弟の真次は新所の岡城をもっていました。ところが、弟の真次は、ひそかに三河の家康に通じていましたので、突如宇津山城を急激して兄泰充を殺害してしまいました。しかし、今川方では泰充が急病死したと届けた真次の言を信じ、宇津山城の跡目を真次に相続させました。その後、真次の挙動に不審を抱いた今川氏は、腹心小原鎮実に命じて大軍をさしむけ、春四月桜の花の花見の宴を張っていた真次を急激し、攻め殺してしまいました。この時、急便は岡城の真次の妻子の元に飛びました。驚いた妻子はわずかな家臣とともに、とるものもとりあえず吉田方面を目ざして逃げました。吉田の城には徳川方の酒忠次がいたので、保護を求めたのです。西に向かってドンドン橋も息せき切って渡りましたが、女子どもの足、敵の追撃は激しくついに「とのがしつ」まできた時、追手に先をはばまれ親子主従ともども捕らえられ、ここで落命しました。それがおおくたらげ、今の郵便局付近といわれます。また、一説には、上の原坂上、現消防具置場付近ともいわれます。
 それから星霜いく年、土地の人々がこの悲話と主従の死を悼み、供養の石塔を建てたのが、「おかとさま」と伝えられています。おかととは、岡の殿さまが転化したものとも思われますし、とのがしつは、殿が室つまり殿さまの奥方を意味する転訛と考えられます。」(湖西市『湖西風土記文庫 -語り継ぐ-』)

 宇津山城と岡戸地蔵の間に「かくの城」がありました。
 「鶴の城」で、宇津山城のお姫様がおられた城だとも、「隠の城」で、戦での負傷者が傷を癒やしていた隠し砦(医療施設)だとも。

 宇津山古城で最も不思議なのは、この時代の今川氏の城にはなかったはずの石垣があることです。さらに不思議なのは、石垣が土塁の外側ではなく、内側にあることです。(一説に、「城の土塁」ではなく、イノシシ侵入防止の「鹿垣(ししがき)」。)

■宇津山新城

 宇津山新城については、正太寺に縄張り図が保管されているので、当時の様子がよく分かります。ただ、この縄張り図で不思議なのは、

①宇津山古城が描かれていない。
②この時代には無かったはずの「天守」郭(天守曲輪)がある。

ということです。(天守郭は狭いので、天守ではなく、物見櫓があったと思われます。)

天守郭には、「宇津山古城趾」碑が建っています。宇津山新城なのですが・・・。

 虎口(城坂)へ行くには、例の事件後、進入禁止の鉄策が設けられたので、北から大回りしないと行けないのですが、皆さん、鉄柵の横から入って、潮干狩りをしてました。「昨年は、大きくて数もあったが、今年は小さくて数も少ない(泣)」とのことです。

 虎口付近(『万葉集』の「知波(しるは)の磯」)から対岸を見ると、猪鼻瀬戸の赤い新瀬戸橋と、その奥の銀色の瀬戸橋が目立ちます。「猪ノ鼻(いのはな)」の語源については、「イノシシの顔のような猪鼻岩(牙は船が衝突して折れた)がある瀬戸」「井国の端」など諸説ありますが、「亥(浜名湖の北北西)の鼻(「岬、崎」の意)」でしょう。(「卯ノ鼻」もありましたが、埋め立てにより消失しました。)
 猪鼻瀬戸の北側が、猪鼻湖(引佐細江)で、尾奈、『和名類聚抄』の「遠江国浜名郡贄代(にえしろ)郷」(後の「鵺代(ぬえしろ)」)になります。ここは伊勢神宮領「尾奈御厨(おなのみくりや)」で、伊勢神宮へ神饌(贄)を送る港町だったそうですが、源頼政に鵺(ぬえ)退治の褒章として与えられ、「鵺代」と改名されたそうです。なお、「鵺代」「胴崎」「尾奈」「羽平」という地名は、討たれた鵺の頭、胴体、尾、討った羽が落ちてきた場所だそうです。

 戦国時代に浜名湖北部を支配していたのは、幕府奉公衆の浜名氏で、居城は浜名城(一説に佐久城。異説では佐久城は迎賓館で浜名城とは別)になります。浜名氏の出自には、
①鵺代に移住してきた源頼政の子孫が祖
②源頼政の従者の猪鼻氏(本拠地は鵺代)の子孫が祖
の2説があります。
 上の佐久城の案内文は両説の折衷案かな。また、猪鼻氏(「猪鼻早太」ではなく、「猪早太(いのはやた)」であれば「猪(い)氏」)は、井伊(いい)氏と同族で、「猪鼻」は、「井伊氏が治める井国(いのくに)の西端」の意とする説もあります。

 ちなみに、宇津山城の落城後、城主の奥方は岡戸地蔵として祀られているといいますが、佐久城のお姫様は、獅子神様として、岩の上の祠に祀られています。

※知波(しるは)の磯
【原文(万葉仮名)】等倍多保美 志留波乃伊宗等 尓閇乃宇良等 安比テ之阿良婆 己等母加由波牟(巻20-4324 防人・山名郡丈部川相)
【和漢混淆文】遠江 知波の磯と 贄の浦と あひてしあらば  言も通はむ
【大意】遠江国浜名郡の知波の磯と贄の浦(贄代郷の浦)とが隣り合っているように、家族のいる故郷(遠江国)とこの地(赴任先の北九州)が近くであれば、簡単に連絡を取り合えるだろうに(遠く離れているからそうはいかない)。

「しるは(志留波)」は、「知波」と漢字表記されたため、「ちば」に変わってしまったようです。さらに、「知波」は広すぎるので、
・「大知波(おおちば)」
・「小知波(こちば)」(現在の「太田(おおた)」。良くない地名だとして、「慶長年中、彦坂小刑部、小知波村を改めて太田村」(『菅沼家譜』)としたという。)
・「合平(あいのひら)」(現在の青平(あいびら))
の3つに分けられました。
 宇津山城がある場所の現在の地名は「入出(いりで)」です(正太寺の現住所は静岡県湖西市入出800です)が、古代は「知波(しるは)」で、「大知波(おおちば)」→「落波」(「おーちば」→「おちなみ」?)と変わったようで、永禄4年(1561年)、宇津山城主・朝比奈泰充が「落波」という名を嫌い、「入手(いりで)」に改名し、慶長年中に「船の出入りが盛んな港町になるように」との思いで、漢字表記が「入出(いりで)」に変えられたそうです。


 本城山は、浜松市と湖西市の境で、頂上の北側が浜松市北区三ヶ日町下尾奈、南側が湖西市横山になります。(山頂の城を、湖西市では「本城山城」、浜松市では「尾奈砦」と呼んでいます。

 本城山城(尾奈砦)の登城口の階段は、90度近い急傾斜で、びっくりします(「階段を登る」というより、「梯子を登る」感じです)が、それを乗り越えれば、以前、ハイキングコースとして整備されていただけあって、歩きやすいです。突然、シーソー(遊具)があって驚きますが。井戸は大きいです。
 本城山城(尾奈砦)の不思議は、「この時代にはなかったはずの石垣があった」ということですが、案内板によれば、「明治の初期砦の石垣は解体され湖西市女が浦設営工事に使用されついえた」(女河浦海水浴場の整備に使われ、今は無い)ということです。

■乎那の峯



 ここまで来たついでに「乎那の峯」(静岡県浜松市北区三ヶ日町鵺代)へ。三ヶ日町で発見された新種のサクラ「三ヶ日桜」(八重桜)が満開で、綺麗でした。

 浅間山(『万葉集』に登場する「乎那の峯」だと比定されている山)は、マンサクの群生地として知られています。(三ヶ日桜(約100本)は、発見後にこの浅間山に植えられました。)「マンサク」は、「春になるとまず咲く花」で、すでに散っていました。
 『万葉集』の「乎那」が現在の「尾奈」だとすると、「尾奈」は古代からの地名であり、その語源は「峯名(おな)」であって、「平安時代に鵺の尾が落ちてきた場所」が語源ではなくなりますね。

 浅間山(乎那の峯)の登山道には、万葉植物を詠んだ歌が掲示されていました。


 梅を詠んだ歌では、算師志氏大道の「春の野に鳴くや鶯なづけむと 我が家の園に梅が花咲く」(春の野に鳴くウグイスを飼いならそうとして、我が家の庭の梅が花を咲かせている。巻5-837)が採用されていました。
 この歌を含む巻5の815~846の梅を詠んだ32首の和歌の序文にある「初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ」が新元号「令和」の出典です。

 山頂には万葉歌碑がありました。
 最後の「孝書」の「孝」は、日本文学者(万葉学者)の犬養孝(いぬかいたかし)先生(1907-1998)のことです。新元号が『万葉集』から採用されたことを天国で喜んでおられることでしょう。

※乎那(おな)の峯(お)
【原文(万葉仮名)】波奈治良布 己能牟可都乎乃 乎那能乎能 比自尓都久麻提 伎美我与母賀母(巻-2448 )
【和漢混淆文】花散らふ この向つ峰の 乎那の峯の ひじにつくまで 君が代もがも
【大意】向かいの山(尾奈の浅間山)に咲いているマンサクの花が散っていますが、君(浜名郡司。一説に浜名県主)の世は、このマンサクの花のように終わること無く、風雨で崩されていって、山裾が浜名湖の洲(湖岸)に達するまで、続きますように。
 「君の世が、さざれ石(小石)が押し固められて岩となり、苔が生えるまで続きますように」という歌と似ている。奈良官道板築(ほうづき)駅付近の板築山(ほうづきやま、標高226m)から尾奈の浅間山(標高78m)を見下ろして詠んだ歌だという。

 この万葉歌の訳で、「桜の花が散って」とするものを見かけますが、『万葉集』に「花」とあったら、「梅」だと思えって古典の授業で学ばなかった?
 花=桜だとしても、万葉時代、浅間山に桜はなく、「花」はマンサクの花になります。マンサクの語源は、「(春に)まず咲く」とする俗説が有名ですが、桜同様、多数の花が密生するのが、豊作に通じるからマンサク(「万年豊作」の略?)だとする説もあります。正月に浜名郡司が板築山に登って国見(「郡見」というべきか)をした時、役人が詠んだのでしょう。

 『万葉集』にしても、戦国時代の古文書にしても、図書館で現代語訳を考えてから、実際に現地へ行ってみると、「この訳ではまずいのでは?」と思うことがよくありますよね?

 浅間山の展望台のベンチに座ると、「ひじ(洲)」が見えますが、その洲には近代的な建物が建てられていて、

往にし風情の見るよしもなし。

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