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城田涼子のお城旅「沓掛城」

「日本100名城」「続日本100名城」以外の記事を書くのは初めてです。
その初めてのお城は、「沓掛城」(愛知県豊明市 豊明市沓掛町東本郷)です。

1.沓掛城

 沓掛城は、「桶狭間の戦い前夜 今川義元が入場した城跡」として知られています。

 永禄3年(1560年)5月19日、今川義元は、この城から出陣し、桶狭間で討たれました。出陣の時、落馬し、

 ──不吉である。

として、塗輿に乗って行ったので、

 ──今川義元は、塗輿のある場所にいる!

と、居場所が見つかってしまって、討たれたとのことです。

※現在、沓掛城趾の横に乗馬クラブがあるというのは皮肉なことですね。

 案内板の絵図と現在のマップを見比べると、本丸部分が公園として残されていることがよく分かります。

実際に行ってみた印象は、

 ──城? 城屋敷では?

です。土塁や堀はあるものの、山城ではなく、平城なので、「城(居城)」いうより、「居館(城屋敷)」のように見えました。実際、以前の地名は「城屋敷」だったそうです。南北朝の騒乱後に南朝遺臣の近藤氏が屋敷を建て、戦国時代になって改修して、城屋敷としたのでしょう。

:戦国武将の故郷を訪ねると、「山頂に居城、山麓に居館、近くに菩提寺」とセットのことが多いです。ここが居館だとすると、居城はいずこ? 菩提寺はいずこ?

 近くの聖應寺の裏山(会下山)に堀が残っていて、そこが居城だという方もおられますが、「会下山砦」は、「沓掛の戦い」(天文21年の織田軍と今川軍の戦い)の時の織田軍の陣城でしょう。
 周囲を見回して、「私が居城(詰の城)を築くなら二村山だな」と思いました。(の解答は後ほど。)

「沓掛城址
 沓掛城は、十四世紀のころ近藤長安が城主としており、その後歴代を経て、子孫(九代目とも言われる)の九十郎景春が今川義元に味方し、桶狭間の戦いで永禄三年(一五六〇)五月二一日戦死。戦いの後、織田信長は、勝利の恩賞として簗田出羽守に沓掛の地と沓掛城を与えた。その後城主は、織田越中守を経て、川口久助となったが、川口は、関ヶ原の戦い(一六〇〇)で石田三成方につき、敗戦後流罪に処出られ、城は廃城となった。
                豊明市教育委員」(現地案内板)

古い解説板では・・・

「沓懸城址
 一四世紀のころから、近藤宗光を初代として、代々沓掛の城主であったといわれる。九代目の景春のとき、桶狭間の戦いに今川義元に味方して、永禄三年(一五六〇)五月二一日、戦死した。
 戦後、織田信長から恩賞によって、梁田出羽守が城主となった。
 その後の城主は、織田越中守、川口久助である。
 川口久助は関ケ原の戦いに西軍石田三成方につき、補らわれの身となり沓懸城は廃城となった。
                豊明市教育委員」(現地案内板)

どうやら、正式名称が「沓懸城」から「沓掛城」に変わったようですね。

石碑もありました。

「沓懸城 この城は正中二年(一三二五)近藤宗光を初代として、九代目景春の時、織田信長に謀反した鳴海城主山口左馬助に落とされて今川勢に属したという。
 永禄三年(一五六〇)、桶狭間の戦に信長は、この城を攻め落とし、景春は戦死した。戦後恩賞として簗田出羽守に与えられ、城は整備された。天正三年(一五七五)、出羽守が加賀国に移った後、織田信照が継ぎ、やがて、天正五年(一五七七)川口久助が城主となる。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦に石田三成方に味方することになった久助は捕えられ、伊達政宗に身柄お預けになった。その後廃城となる。 
                豊明市教育委員」(現地案内板)

さすがに石碑は「沓懸城」から「沓掛城」に変えられないようですね。

※豊明市教育委員会発行のパンフレットにも「市指定史跡 沓掛城址」というシールが貼ってあったので、剥がしてみました。「沓懸城址」と現れることを期待したのですが、シールの下には「沓掛城址」と印刷されていました。平成29年4月1日に市指定史跡になったので「市指定史跡」と加えたようです。豊明市の桶狭間古戦場伝説地が国の指定史跡となったのが昭和12年12月21日ですから、沓掛城址の指定は遅いように思われます。

市指定史跡 沓掛城址
 沓掛城は旧鎌倉街道の名勝地である二村山から南東方向に緩やかに下る低丘陵の東端、標高21メートル付近に立地する。
 14世紀頃、近藤宗光が初代城主としてこの地を治め、永禄3(1560)年の桶狭間の戦いの前日に今川義元が入城し、織田攻撃の準備をした城と伝えられている。桶狭間の戦いの際の城主は9代目近藤景春で今川方に属し、落城後は簗田出羽守(政綱)、織田越中守(信照)、川口久助が在城したことが『張州府志』や『尾州古城志』などに記され、慶長年間(1596~1615)に廃城になったとされる。
 江戸時代中期に描かれた『沓掛村古城絵図』(蓬左文庫蔵)では城の形態は本丸、二の丸、三の丸が北から南へ連なる連郭式の縄張りで本丸は堀に囲まれ、内側に土塁を築き、南を除く三方に侍屋敷を配置し、さらにその外側にも堀を巡らせている。全体的な広がりは東西約290メートル、南北約234メートルの広い範囲に及ぶものと推定される。
 また、昭和56年から昭和61年(1981~1986)にかけて行われた本丸部分の発掘調査では「天文十七」と書かれた木簡や天目茶碗、建物礎石等、多くの遺物が発見されており、遺構は16世紀を中心に大きく三期に渡って改変されていることが明らかとされている。
〇第一期 苑池を配置した建物が建てられた後、掘立柱建物とため池、井戸が作られた居館的な性格の強かった時期
〇第二期 掘立柱建物が壊され池も埋め立てられて、堀と土塁・礎石建物が作られた城郭的性格が強かった時期
〇第三期 土塁が削平され城郭としての機能が失われた時期
 平成元(1989)年に沓掛城址公園として保存整備された。なお、本丸・二の丸・諏訪曲輪・内堀・侍屋敷の主要な遺構は概ね原型を保ち、戦国末期の旧態をとどめている。
    平成29年4月1日指定   豊明市教育委員会

◆発掘調査で、Ⅰ居館時代、Ⅱ城屋敷時代、Ⅲ廃城後の田畑時代に分かれることが実証されたようですね。これは想像通りです。
>桶狭間の戦いの際の城主は9代目近藤景春
は誤りです。

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