誰のための「感想文」なのか

今まで僕は、数々の文章を書いてきた。
その多くは、授業の感想文。授業の終わりに、何度も何度も書いてきた。

大学の講義でも、講義の感想を提出することが多い。いつものように決まりきったテンプレのような文章を書いていたある日、なぜだか僕はいつも感じなかった強烈な違和感に襲われた。

誰のための感想文なのか」ということに。

今まで当たり前のように何度も何度も書き続けていたこの感想文だけど、いったい何のために僕は感想文を書いているのかが、まるで分からなくなった。

授業の感想文は、提出がセットで付いてくる。もちろん、提出を要求しないとやらないからという理由もあるだろうけど、その多くは先生側が成績を決める上での判断材料にするからだろう。

例えば意欲・関心・態度という項目は、不明瞭で、あいまいなものだから、目に見える感想文の“量”や“質”といったものは、評価しやすくもろにここに直結する要素を持っている。

でも教師は、「一人一人が今日の授業内容を振り返ることで、学びや気づきがあるから感想文を書くんだよ」と言うんだよね。表向きにはね。
もちろん、学生はそんなこととうに見透かしてる。すると、どうなるだろうというと、学生は「これを書けば褒められる」、「評価される」というような、いわゆる“教師のウケ”がいいであろう文章を書き始める。文章の嘘つき大会が開催されるわけだ。
成績の材料という後ろ盾が、学生たちの文章を制限させる

しかし、きっと先生には、授業の構成をしていく上で参考にしたいという想いもあると思う。だからこそ、教師は学生に対して、自分がどう感じ、どう考えたかを求めるし、知りたい。

教師の感想文を書かせる意図と、学生の感想文を書く理由がここで大きく食い違っている。

こんな感想文は、何度書こうが学生のためになんかならない。次第に学生は、感想文を書くことに何の意味が、誰のためなのかが分からなくなる。教師の機嫌取りのために書く感想文は、結果として誰も望んでいない空間を作り出してしまっている。

もうこんなのやめませんか?

学生は、
自分の思考にフタをせず、素直に自分がどう感じ、どう考えたかを振り返りの意味も込めて素直に書けるといけるといいな。

教師は、
そういうありのままの等身大の学生をきちんと評価して、目に見える単純な文章量とか薄い内容に惑わされないようになるといいな。

せっかくやることなんだし、教師と学生のお互いにとって、意味のあるやり取りの方がいいに決まってるもんね。

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原田遼太郎

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