心の病と対処療法、今、書けることの幸せ。(2)

築地のクリニックは、最初、どのくらいの頻度で通っていたかは忘れてしまったが、こちらは話を聞いてカウンセリングするというよりは、その時の心身にあった心療内科的な薬での対処療法をおこなってくれる場所だった。あとは睡眠。普通に健康な人でも大切なことだが、良く眠れていますか、という話は再三、主治医からされた。それはよかったと思っている。そのための眠剤は必要だったと思うし、実際、現在でも睡眠の調整のため、眠剤を飲んでいるから、そこは対処療法とはいえ、薬の処方通り、きちんと飲むことが大切だと考え、今も心がけている。
対処療法については、2003年に患った統合失調症の薬のことに触れておかなければならない。入院していた時や退院後の予後が思うようにいかず、辛い時期があったのだが、発症してから4年後まで病識がなかった。何で自分が入院したのか、どこが悪かったのか、どこまでその病気が治ってきているのかが、全く見当がつかないのは、やはり不安だし、そこばかりに引きずられてはいけないけれど、自分がどういう病気なのか、きちんと主治医から診断され、病識を持つことは大切だ。
病識を持った後、築地のクリニックで処方されていた薬のことを少し覚えている。向精神薬というのだけれど、この手の薬は効果相応の副作用があることを思い知らされることになった。人より多く汗をかいたり、お通じが悪くなったり、体重が太ってしまったり、気持ちを表現する表情が乏しくなったりなど、挙げればキリがない症状を経験した。だから、自分に合った薬の正しい効果と、薬の副作用で乱れてしまう自身の自律神経のコントロール、そのバランスが対処療法の難しいところだと感じた経験だった。
例えば、この築地のクリニックに通い始めた頃に処方された抗うつ薬は、主治医も言っていたが、食欲増進のための「太りぐすり」の一面もあった。だから、薬の対処療法の難しいところは、薬に頼り過ぎず、自身の体調管理で健康を保てるバランスを見つけることだと、今、改めて感じている。(中断)
あと、気になったのは、初期の頃から転院するまで十数年に渡り、減薬したこともあったけれど、徐々に薬が増量されたこと。患者側としては、その効果は主治医が簡単に説明してくれるものの、飲み合わせとか、今、考えるとオーバードーズとも言える薬の飲み方が、副作用云々前に、かなり危険なことだった。主治医が間違った処方をするとは思えないが、築地のクリニックでいちばん薬を多量に処方されていた頃は、どの薬がどの効果をもたらしているのかさえ、分からないという最悪の状態だったので、やはり、それは、きちんとその自分の感じ方を主治医に伝えるべきだった。転院して現在の新しい主治医は、同じ精神科医だが、対処療法としての薬の良くない面をきちんと認識していて、安易に薬に頼ろうとすると、保険をかけるような飲み方は良くないというアドバイスをしてくれる。これは、このタイミングで転院できて、無理なく減薬できて、薬の過剰摂取だった自分にとっては、いい先生にめぐり逢えたと思う。本当に薬に頼らなければいけない、その対処療法のウェイトが大きい時期は、築地のクリニックの方針で良かったと思うけれど、その時期を過ぎ、病気が軽快癒した自分にとって、この転院のタイミングは間違っていなかったし、また巡り合った新しい先生はとても今の自分にあっていると思う。
薬の話をもう少し話を続けると、体調不良で通院出来なかった時の薬切れによる、離脱症状がとてもきつかった。寒気がしたり、何かをやる気がなくなったり、ただベッドに眠って痛くなったり、心身のバランスが著しく崩れてしまい、本当に必要な薬が切れて、自律神経が乱れる怖さを何回か経験した。ただ、その離脱症状が収まると、比較的安定した、良くも悪くもフラットな心身状態になるという経験もした。本当にその薬が必要だったのだろうかとさえ感じた。だから、薬が一旦身体から抜け切るということも、決して悪いことではないのでは。そのフラットになった心と身体で、また、主治医に自分にいる薬、いらない薬を提案するとか、意見を聞いてもらうことも、当時もっと出来ていれば、うまく対処療法の落とし穴に落ちずに軌道修正できたのかもしれない。
薬に関して書いておかなければいけないのは、お酒との掛け合わせが良くなかった。薬が効果的に効かなかったり、時によっては、症状が悪化してしまう経験もした。またお酒自体の酔い方も不自然なものになり、心身のバランスが崩れてしまうだけだったような気がする。心の病の治療中には、もっと意識して禁酒を徹底してもよかったのではないかと反省している。
心の病という病気は、自身の休職からの職場復帰や、その後、どの仕事も続かず、重ね続けなければならなかった転職での仕事の覚えや、慣れ、取り組み方に、マイナスに働いた。
ひとつは記憶力。まだ30代なのに、何かに塞がれたように、仕事が、また、ルーティン的な単純作業(PCのコマンド等)に対しての物覚えが著しく低下してしまった。今やっているBiographyの作業で、本当に久しぶりに使ったパワーポイントは、なぜか独学でスパスパと自分の納得がいく範囲ではあるが、使えるようになった。そう考えてみると、30代の脳の記憶力の低下は、心の病に起因する、症状のひとつだったのかもしれない。
あとは、コミュニケーション力も一気に落ちた。休職や、会社を辞めて、無職期間が長い間などに、自分の好きなことだけで関われる範囲の人間関係しか持たなかったので、義務的な組織でグループの一員として働くことに必須なコミュニケーション力の低下が厳しいハードルとなった。例えば、仕事上のミスで上司に厳しく叱られると、脊髄反射のように萎縮してしまい、本当にその怒り(叱り方)が正しいものなのか、自分の正当性や、その叱り方の疑問を、冷静な話し合いの中で、時間をかけて誤解を解いたり、本当に自分が間違っていたら、素直に納得して反省して次に活かすとか、仕事上の人間関係の構築をする、自分の仕事をいい意味でやりやすくしていくことが出来なくなってしまった。そのような失敗体験が重なる生活が続くと、どうしても会社に足が向かなくなり、鬱々とした感じになり、ベッドから出られなくなり、出社拒否を始め、また休職、退職などを繰り返すことになってしまった。その繰り返しから抜け出せなかった30代の時期が本当に辛かった。
そういった、記憶力の低下やコミュニケーション力の低下について、クリニックの主治医からは、当時、具体的なアドバイスがほとんどなかった。あくまでも、よく眠れるか、鬱々とした状態に陥らないか、そのための対処療法としての薬の処方が中心の治療法だった。それで、親の勧めもあり、外部のカウンセリングに通うことにある時期からなったのだけれど、そのことは、また、30代の大きなテーマのひとつなので、別の機会に改めてまとめたい。
心の病の出来事といえば、2003年9月から11月にかけて、2ヶ月、統合失調症(急性膵炎との合併症)で精神科に入院したことについても付記しておきたい。あとで知ったが、急性期と言うらしい、幻聴や幻覚に苛まれ、最初、膵炎で入院した順天堂医院の翌日だったと思うが、点滴の異変に過敏に反応し、よく分からないまま気を失い、気がついたら、暗い病室に身体を拘束された状態で、夜、目を覚ました。暴れたのかもしれないけれど、その時の状況は、本当に全く記憶にない。入院生活のことを事細かに書かないけれど、毎日だったろうか、精神科の先生達(10名くらい)の回診があった。基本的には、あまり複雑なことを聞かれたりしなかったので、苦痛ではなかったが、症状がいい方向に向かっているか、総合的な判断をするのにひとりの主治医の判断だけでは、難しいものだったのだろう。そういうことよりも、急性膵炎の初期治療の絶飲絶食の方が、とても辛かったと感じるくらいで、あとは、精神科の点滴が徐々に減り、点滴もなくなり、飲み薬の処方になり、朝昼晩の、他の患者さんとの共通ルームでの食事が楽しみだったこと、また、退院の時期が近づくと、とても暇で、病棟内の廊下をウォーキングして身体を動かしたり、夜、みんなでクラシック音楽を聞いたりとか、また、夜遅くまでテレビでプロ野球観戦していると、他の患者さんから、あなた、どこか本当に悪いの?と不思議がられる有様だった。単純に病気が快方していたのだろう。実際その後1週間ほどで退院出来たから、たぶんそこにそれ以上長くいる必要もないと主治医も判断してくれたのかもしれない。

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