SAAB900。その助手席の女性、通り過ぎた街。(3)

彼女がSAAB900の助手席に座っていたのは、都会でのドライブだけではない。小淵沢のリゾートホテル「リゾナーレ小淵沢」に旅行に出かけたこともあった。クルマをフルレストアして、YANASEからギリギリ納車された翌日だったろうか、どこも故障の心配のないクルマで、彼女と小淵沢に出かけた。
高速で向かった時のことはすっかり忘れてしまったが、彼女とどんな話をしたのだろう。ふたりとも、東京の忙しない生活から少し離れてリラックスしてこようと、とても楽しみにしていた旅行ということは確かだった。
高速は渋滞することなく順調で、小淵沢インターを降りて、下道を少し迷いながらホテルを探し、到着した。そのリゾナーレ小淵沢の外観は、少し予想していたものと違った。沖縄などのリゾートホテルにも泊まったことがあるけれど、メイン棟とは別に、どこか外国のリゾート地を想わせる欧風な石造りのコテージがあり、そのコテージがホテルのコテージという感じではなく、全体としてひとつの街並みのように設計されていた。自分たちが泊まった部屋は、メイン棟だったが、自分たちの年齢や彼女との旅行スタイルを考えると、コテージの部屋は、今日ではなく、生活にもう少し余裕ができてから、次にもし訪れることがあったら楽しみにとっておきたいと思ったし、そのくらい素敵だった。
チェックインを済ませて、部屋に通してもらい、少し休憩して、楽しみにしていた施設、室内プールに着替えて行った。
事前に雑誌で知ってはいたが、高原の中のリゾートホテルなのに、ここには大きな造波プールがあり、地中海の海沿いのリゾート地の雰囲気を楽しめ、自分たちは、デッキチェアを借りて、波打際から少しだけ離れた場所で寝そべることにした。それは、雑誌で見てきた期待通りの休日を過ごせそうという満たされた気持ちにさせ、また、実際にゆっくりとくつろげる時間を過ごし始め、すっかりリラックスしてしまう程だった。
あくまでも、造波プールはアクティビティではなく、リゾート地の演出をしているかのような設計で、大きな波もここにはいらないし、デッキチェアに寝そべって、波打際で波の音を聞いているスタイルが好ましいし、実際にあまりプールの中には入らなかった。たぶん、本当の地中海などにある海沿いのリゾート地の楽しみ方にかなり近い感じで過ごせたのではないだろうか。そう考えると、まだ、到着してそんなに時間が経っていないのに、少し高いな、と思っていたホテルの料金だったが、リゾナーレは、相応のサービスを提供している気がした。
波打際もいいけれど、彼女と実際にプールの中に入ってみることにした。レンタルしたボードに乗り、ふたりで波に身を任せてみると、緩やかな波が心地よく、彼女は、本当に何も考えずにゆっくりと過ぎていく時間だけを楽しんでいるようだった。基本的に、自分より先に、次は何をしたい、とか、次はどこどこに行きたい、というようなことを言わない人だった。それが、いつも先のプランを立て、旅のスケジュールを添乗員のようにリードしてしまう自分には、バランスが取れる関係になっていた。そういう意味でも、一緒にいると、とても居心地のいい空間を創り出してくれる女性だった。意図的にしない、彼女のちょっとした振る舞いや時間の使い方が、そこにいる相手に安らぎを与えてくれるような人だった。そのことは、今までお付き合いをしてきた女性たちとの間では、ほとんど気づかなかった。そういうことを教えてくれる女性だった。
部屋に戻って、少しゆっくりした後、夕食をいただいた。イタリアンのコース料理は、おそらくその土地の食材を使用していたと思うが、そのどれもがとても美味しかった。
美味しい食事を頂き、ホテルの周辺を散策してみてもよかったのだろうけれど、なんとなく、プールにまた入りたくなったので、彼女も賛成してくれたので、夜のプールに行くことにした。
プールには温水プールもあった。その中に、温泉にでも浸かるようにして彼女と過ごしていたのだけれど、外に出られるプールに少し人が集まっていそうだったので、自分たちも、屋外につながる方へ移動して外に出てみた。
すると、屋外の温水プールは円形のジャグジーのような施設になっていて、みんなでテーブルを囲むように座っていた。友人と楽しそうにおしゃべりしている人もいた。ふと、夜空を見上げてみると、星空が広がっていて、その瞬きの美しさにすっかり魅了されてしまった。おそらく彼女もそうだったのだろう。円形ジャグジーは、この星空を眺める夜に利用するために作られた施設ではないかとさえ思えてきた。今日は星が綺麗だね、今日観ることができた人はラッキーだね、と言っていた人もいたので、天気にも恵まれていたのだろう。造波プールのリラクゼーションとは違う、天体ショーのような体験もできるリゾナーレのプールは、やはりこのホテルの最大の魅力だった。
次の日の朝、ホテルのチェックアウトを済ませ、八ヶ岳へクルマを走らせた。高原のドライブは都会にはないさわやかな空気を感じさせ、彼女と自分は、サンルーフや窓を全開にした。オープンカーのようにSAAB900が高原の中を走り抜けている風景を感じながら、自分たちはドライブを楽しんだ。
途中見晴らしのいいスポットで休憩して、その日もよく晴れていたので、思いがけず八ヶ岳の裾野に広がる景色を眺めることができた。そこは柵があったので、放牧されている牛や、もしかしたら乗馬のできる馬がいた場所だったのかもしれない。その広大な芝生をバックに、八ヶ岳の彼女を撮った写真は、もう紛失してしまったけれど、そこに写っていた彼女の本当に嬉しそうな笑顔が、今でも目に浮かぶ。
清里には寄らなかった。八ヶ岳の高原の中をJR小海線と平行するように東へクルマを走らせた。大きな観光スポットに立ち寄らなくても、自然を存分に感じることができたので、都会から来たふたりには、それだけで十分のようにも思えた。
―ヶ所だけ、雑誌で事前に調べて、お互い行きたかった小海町高原美術館に立ち寄ることにした。
小さな美術館だったけれど、高原美術館という名前にふさわしいロケーションと建物で、企画展では彫金の作品を展示していた。これは、彼女が彫金師だったから、事前にその企画展を観に行こうということだったのか、今では思い出せない。美術館に行ったら偶然展示していたということだと、なんとなく話が出来すぎている気もする。とにかく、その彫金の作品をゆっくりと丁寧に観ている彼女は、もしかしたら東京の他の美術展に一緒に観に行った彼女より、とても彼女らしい感じがした。
スタッフの人にル・コルビジェ展のポスターを3枚も頂いてしまったのも懐かしい。つい最近まで、自分の部屋に額装して飾っていたし、それを見せた時の父親もうらやましそうだったので、遠方から来たお客さんに、美術館からの贈り物を思いがけずしていただいたのだと今では思っている。
次の目的地は、特には決めていなかった。八ヶ岳を小淵沢から横断し、あとは帰路になるのだけれど、リゾート地というよりは、もう少し避暑地のような場所を求めて、軽井沢に向かった。
やはり、林の中をSAAB900でドライブし、しかも、助手席に大切な女性が座っているということが、とてもしあわせに感じずにはいられなかった。
目当てにしていた木立の中のイタリアンに着いたら、駐車場が満車だった。店内も満席で、他のお店で食事をしようか少し迷ったが、そこのお店の雰囲気が、その時の自分たちの軽井沢にとてもふさわしい気がしたので、並んで待つことにした。
2時間くらい並び、やっと店内へ通された。シンプルでアットホームな店内は、席についたふたりの旅の疲れをとても癒してくれた。自分たちはパスタのセットを頼んだ。もう何のメニューかは忘れてしまったが、どちらのパスタもとても美味しかった。
そのあとは、高速を使って彼女を家まで送り届けて、旅を終えたのだけれど、自分にしては、予定をがっちり決めなかった旅をした2日間は、改めて、ふたりのバランスを象徴していて、やはり、自分には、この女性はとても合う人だなと思った。それはなぜなのか、最後にもう少し考えてみたい。

この連載は「人生を折り返す前に」と称して、手帳を元に書き起こしたマガジンの基本、無料の記事ですが、もし読んでくださった方が、興味があり、面白かったと感じてくださったならば、投げ銭を頂けると幸いです。長期連載となりますが、よろしくお願いいたします。

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