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日本人のドM性と仕事のやり方について

昨今は働き方改革でだいぶ残業が短くなったと聞きますがどうでしょうか。残業が短くなっても仕事量は変わらない、強制的に帰宅しているだけ、というケースも少なくないと思います。

仕事のやり方を変えずに無理矢理突破しようとするわけですから気合いと根性の文化がまだ根強く残っているのかもしれません。今日は日本企業の仕事のポリシーというか雰囲気について書こうと思います。

普段日本で会社勤めをしていると以下のようなことに気付くと思います。

1.すべてのことに全力(時間とリソース)を注いでやり遂げようとする
 重要度が低いものでも細かく完璧にやり遂げようとして、大事なものに時間をかけられなくなっています。インバスケットなどで訓練したはずの管理職を含めて優先度が付けられない状態です。なぜでしょう?管理職が現場を理解できていない、あるいはしようとしない、というのも原因の一つですが、責任回避同調圧力が大きな原因だと感じます。いつもと異なるやり方で仕事を省略して行った場合、仮に問題が起きた際にその責任を取りたくないため、すべて全力で完璧に、あるいはいつものやり方に固執しようとするのです。これでいい、と誰も言えないわけです。またそうした空気を読んで周りも従うだけという状態が続きます。いつもと異なるやり方がOKであることを証明することはかなり難しいからです。健康の問題と同じように「やらなかった場合にどうなったか」はわかりません。他のすべての条件が同じ場合(健康で言えば同じ人間、環境)というのはあり得ないからです。

2.わかりやすい内容や自分の得意な分野に首を突っ込み限界までやろうとする
 仕事は単純で理解しやすい内容(例えば製品はできるだけ小さくて軽く、安い方がいい等)から複雑で理解しづらい内容(例えば特許侵害や法律絡みよ問題、人の感性に関わる調査など)まで多岐に渡ります。また人それぞれ得意分野を持っているため、自分が得意なところを突きたくなります。そして自分のやり方や考え方と異なるところを見つけるとそれでいいのかと詰問しだします。これも1と同様、そうでないケースにどうなるか、というのはなかなか証明が難しいために上の人間がそうした固い考え方を持っていると下は振り回されて大変です。目についたところや自分が詳しいところを掘って粗探しに近い指摘をし出すのです。それが重要かどうかは関係がなく、それを見た人の特性に依存してしまうのが問題です。人それぞれ得意分野があることは組織としては良いことのように思えますが、意見が割れて進行が遅れてしまうことがあります。

3.長時間働いた人や限界までやった人を頑張っているとみなす
 組織の仕事というのは基本的に1人で完結するものが少ないため、個人の成果がわかりにくい場合が多いです。なので会社への貢献度を評価することが難しい。そうするとどうなるか、わかりやすいところを見つけて評価します。それは一生懸命働いている、とか声が大きい(会議で発する意見が強い)とか、表面的に見てわかりやすいところになります。またそれを従業員もなんとなくわかっているので、無理矢理にでも意見を通そうとしたり、頑張っているアピールをするために限界までやる、あるいはやらせるように指摘したりします。そうしてみんな互いに疲弊し不満を募らせる環境を自ら築いている、ということがあります。

最後に、1の章で書き忘れましたが責任なんて完全に取ることはできません。大体の物事が不可逆で、取り返しなんてつかないからです。タイムマシンがない限り元に戻すことは無理なのですから、責任逃れするような環境(過剰なプレッシャーをかける)をつくっていること自体が問題だと考えています。責任を持って行う、何か良い響きに聞こえますが本当のところは責任は取れません。責任という言葉が宙に浮いたプレッシャーを生成するだけの言葉にならないようにすることが必要です。必要なのは最善を尽くすように努める姿勢であって責任を取ることではないと思います。

と、私個人の意見や独自の環境によって全体の考えからずれているところがあるかもしれませんが、いつも疑問に感じている内容を書きました。それでは!読んでいただきありがとうございました。

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