見出し画像

『デュエル』の必然性

ロシアワールドカップが開幕した。実際はあまり試合を見れてないので『この試合が!』などと言うつもりはないが、ドイツVSメキシコを観ていてふと思ったことがある。それは【デュエルの必然性】だ。

『デュエル』に関して思ったことをそのまま書いていく


試合内容に関してはざっくり言えばドイツが作ってメキシコがカウンターで突くというような形だった。結果的にはメキシコのイルビング・ロサーノの1点でメキシコが前回王者であるドイツに歴史的勝利を挙げた。

さて、ここで本題である【デュエルの必然性】について書いていく。『デュエル』という言葉を日本で頻繁に聞くようになったのは前日本代表監督であるヴァヒド・ハリルホジッチ氏がこの言葉にフォーカスしていたからだ。確かに彼の言葉が与えた影響は強かったかもしれない。Jリーグを観ていてもボールへの”執着心”が強くなり、球際の攻防は激しさを増した。しかし、この言葉に日本人は少し敏感になりすぎているのかもしれない。実際、『デュエル』がフォーカスされる機会は以前に比べたら急速に増えた。今では”当たり前”になりつつあることであるが、ワールドカップを観ればそれは”必然”いわゆる”当たり前”のことだったと再認識することができた。

他の国では”当たり前”にやっていることが日本では少し『デュエル』という言葉が浮いているように見えてしまっている。確かに大切なことであるがあくまで”それ”を前提としていなければならない。

書く程のようなことではなかっただろう。現に日本代表は『デュエル』を前提として戦っている。ただ、少し遅かったかもしれない。なぜかと言えば、それは『デュエル』を新しい物として受け入れてしまったからだ。本来、言われなくても無ければいけないもの。それが『デュエル』であるに違いない。

(RYUJI.I)

サッカーライターを目指し投稿中。 更新頻度は異なりますが、思ったことを投稿していければ。 川崎フロンターレを応援しています。