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今、タイに生きます

Mac強い

スタバなう
スタバに居る限りこの亜空間は新宿とそう変わりないですね。

今日からチェンマイに行こうとバスのチケットを買いにきたんですけど
夜行バスの出発時間が19時25分でですね。
今僕書き始めた時間がタイ時間で11時半で(日本は13時半くらいみたいです)
暇なので、いろいろあったことを書き連ねていきたいと思います。

こっちにきて一番最初に驚いたことなのですが、露店などで売っているTシャツのこの文字の多さ
               OSAKA7

なんでなんでしょうね。確かに、タイのおばちゃんたちはどことなくOSAKAっぽいですが。7ってなんやねん。
あと日本人の方多いですね。日本人に遭遇したときの「よかった一人じゃない・・・!!」感はけっこー薄れてしまいました。
それだけ現地に馴染んできた証拠なのかわからないですけど、いやそんなくだらないことを言ってるとね、ダルシムも伸びた腕が縮まらないですよ。いやダルシムの腕はタイじゃなくてインドだよねっていう、イマイチインドとタイの違いを理解していないフシがあります。
そういえばもう一つ気づいたことと言えば、wi-fiですね。
こっち来る前は「いやむこーwi-fiとかビュンビュン飛んでるから、全然いけるっしょ!いったことないけど」みたいなノリだったんだけど
こっちきてからセキュリティをパスするのがめんどくさいしめんどくさいので、
今度からはwi-fiを持っていこうとおもったんです。
10日で1000円とかだったら、1日1回スタバに入るより全然いいっすから。
あとGoogle Mapsにはすごくお世話になっています。


さて本題なのですが、結論から入りますとですね。

あんま非日常感ねぇな

でした。あいや、僕だけなのかもしれないんですけども。
うわああああああああタイにきたひげええええええええええええいうええええええええええいちんげええええええええええええいつびるげえええええええええええいつ!
みたいなテンションにならず、
おっ埼玉かな?
くらいのテンションです。別に埼玉馬鹿にしてないです。むしろ好きです。

いやとても大切な気付きなので、本当に結論から申し上げますとですね。
ああこんなにも僕達の日常はグローバルってたのか
っていうですね。そいう気づきでした。
僕結構海外に対するイメージはですね、夏目漱石がノイローゼになるくらいコワイところみたいなイメージがありまして、
すくなくとも英語と日本語と中国語は話せないと殺されるんじゃないかみたいなそんな勢いだったんですけど、
飛行機にのる直前まで、あーめんどくせえなー
っていう、なんかちょっと旅行で沖縄いくのとおんなじくらいのテンションだったんですよ。
そしたらダルシムがでてくるもんだから、まぁタイもモーマンタイってことか
みたいなテンションになりましてですね。
いやだいぶ変なこといってるんですけど。8割変なことです。

今ってタイの電車とかも、すごく先進的だし、日系のインフラ企業とかケッコーきてるし、大体みんなAndroidのスマホ持ってるし、それを使って若い子たちは音楽を聞いていて、入っているアプリはFBやLINE 
友達とチャットをするとかは当たり前で、ファッション性もどんどん日本と違いなくなってきていると思うし。
SIAMっていうタイの一番栄えているっぽいところとか、新宿ルミネよりきれいなんじゃね?っていうくらいの勢いです。
スタバとマックは新宿と同じくらいあるし。
極めつけは、本気出せば北海道や沖縄にいくのとほぼおなじ値段くらいで行けてしまう気軽さ。
こうした行動様式の同質化はインターネットの普及も相まっていて、進歩がどんどん早くなっていることが多分、自分が感じた非日常感のなさの正体っぽいような気がしました。
もしこの発展の流れが言語の同質化にまでもたらされた時、思想も同質化していって、次第に本格的にボーダーレス、どこの国に住むかどうかというのを自分で選択するのが当たり前になっていったりすんのかな。っていうのを感じることもありました。あと5年したらどうなってまうんやーみたいな。


ただ、非日常感のなさというのは、ミクロ的な視点の欠如が一因になっている可能性も否めないなっていうのを少しだけ補足しておきたくて。
どういうことかっていうと、例えば僕にはタイの野良犬がその辺をほっつき歩いているのになぜタイ人は狂犬病にならないのか(なったとしても極稀)
というタイにおける精神性を理解していなかったので、勿論おいおかしいやろ!!って思っていたりはするのですが、気にもとめない事実なんですよね。
しかし一方で、ワットポーの近くの飯屋で出会った福井の大学教授に、
タイでは動物との共存の精神性が強く、タイの人は犬や猫をいじめたりなどしないから、犬や猫もタイ人を噛もうとはしないんだよね。
っていう話を聞かせてもらったときに、
ああそうかオレの見えている体験の限界性は知識にも依存しているんだな
っていうことをすごく痛感しまして。
それだけじゃなくワットポーの中においてさえ、
なんで20バーツでお金をもらってそのお金を1枚1枚、へんなツボの中にいれていくのだろう。でもとりあえずやる。
みたいな。
でもそこにもきちんと意味があって、
お金への執着を断捨離していくっていう、そのための信仰がきちんとそこにあるんですよね。
つまり非日常を感じるためにはミクロ的な差分を認識する必要性があり、そのためには知識が必要であり、さらにその差分の趣きを感じられる感性を備えていないとだめだよね。
っていうのをすごい感じまして。
世の中のことわかりかけた気でいた23歳が、45歳との対話の中で知ることの出来る、非日常的な体験と自己のしょっぱさを認知する機会はとても有意義でしたが、
しかしその体験は実は日本にいるおっさんでもできるのに、海外という限定された希少性の中に意味づけたがっている自分というもののしょーもなさは
ほうこれはいろんなところで発生しているんだろうなという気づきでもありました。

と、今ミクロ的な視点のお話をしたのですが(まだまだいっぱいあるんですけど)マクロ的な視点で見るのがとても好きなので、タイにいる間、しきりにそうした考察をしていました。

マクロ的視点とミクロ的視点は当然のことながら相反しているのですが、
主義主張の観点において、相反していることを認識せずに相手の主張を認めなくなるという現象は時々発生すると思います。
たとえば
僕「タイも日本もかわんねーよ(社会構造の点において)」
相手「いやいやめっちゃかわるくね?頭大丈夫?(そもそも食べてるものからちゃうやんけ)」

っていう水掛け合いになるみたいな。
これは対話においては補足説明ができるのでいいんですけど、文章だとよく発生する伝わらなさの要因だったりする気がします。
予め自分の立場を主張しておくと、自分はマクロ的な視点でみる世界の原理原則に非常に興味があったので、基本的なスタンスは
日本もタイも多分ほかの国も行動原理や社会の原理原則に大差はなく、その差分は誤差の範囲だよね
っていう結論を言いたいのです。

それをごっちゃにすると、例えば
海外の優秀な人材はみな英語を話すのに日本人ときたら・・・
っていう論理の裏側は実は
優秀な人材の出身国は英語を母語としている とか
母語が英語でない国の中で英語が喋れる学生は上位10%
みたいなことがあったりします。
大学進学率が110%のギリシャではみんな優秀なのかっていったら
もちろんそんなことないと思います。入学難度の低い大学が多分多いはずです。
日本においても、有名私立大学に通っている学生の割にちゃらんぽらんしているよねとか、ほとんどの若者が思考停止してるよね
みたいな話をしたくなるんですけど、
じゃあ他の国はどうなんだってなったときにどこを引き合いに出すかで話がすごく変わってくると思います。それが例えアメリカであったとしても、
アメリカの学生はみんな自分で考えて動いている
という主張の裏に、実はそのアメリカの学生はスタンフォードやハーバード、MITの学生のことを指していたりして、そうした学生は小さいころからめっちゃんこ教育にお金を投資してもらっているっていう超格差社会だったり。
大半の学生は日本の学生と大差がない。みたいなことってあるあるだったり。

こういう主張のいいところは、常に上昇思考的であることなんですが(1番になっても宇宙規模でみたらうんことか言ってそう) 
結局のところ、どこにスコープをあてているのかで全然論調が変わるんですよね。その論調の前提や骨格を読み解かないと簡単に影響されてしまうので注意しなきゃいけないんですけど、それも結局相対性の錯覚に陥っているということと、自分の知識量に左右されているというのが面白いところです。論理構造的に齟齬が発生していることを指摘するのは結構難しいので。


とまぁ全く本題に入らずにダラダラと書いてしまったのですが、
社会の構造には国と国に大差がなく、あるとするならばその階層化された構造の各階に所属する割合が異なる
もしくはその階層の固着度合いが異なる

と解釈するのが適切っぽいなっていう理解
いやそれは資本主義なら同じような構造になるのは当たり前なんですけど。

タイのタクシーの運ちゃんと自分は間違いなく階層が異なっているんです。
それを誤認したまま解釈すると
タイ人はふんだくろうとする悪いやつだ!
ってなっちゃうんですよね。
いやなんでタイで一括りにすんねんと。
じゃあタイのタクシーの運ちゃんは日本でいうとどんな仕事をしているのかー
みたいなことを考えると
もちろん日本にも犯罪じみた出来事や詐欺、ガラの悪い人がマックで暴れていたりとかそんなことよくあると思います。
一方で僕がタイのバスを乗り間違えた時、
降りた先にいた高校生の子たちは少し英語が喋れたし、
お父さんの車で家まで送ってくれて、
チップを渡そうとしたら頑なに拒み、「THAILAND!」とニッコリ笑っていたんですよね。
これーはすごいギャップを感じまして。


同じ環境に住んでいるはずなのに、
一方では観光客からふんだくろうとする人たちもいれば
一方では超親切にホテルまで届けてくれる人たちもいる。
それは日本もそうだよなーって思ったんです。
その仕組みはどの国でも同じような気がします。
もちろんタイの運ちゃんたちも出来る限り多く生活を安定させる為にしていることだとわかっているんですけどね。
一昨日だかにトゥクトゥクのおにいやんに「これがあなたの仕事です?仕事は楽しい?」
ってきいてみたんですけど、あんま反応なくて。
ああそうか、彼らは自分が望んでその仕事をしているとかそういうわけではなさそうだな。っていうかそもそもそんなことも考えてないな。
ってそこで思ったし、別にそれは日本人もそんなもんだし。
じゃあなんで生きているんだろうとか、私は誰なんだ
みたいな問いに興味が無いのは日本も世界もおんなじだったんだよなぁと。

でもね、
実は助けてくれた高校生に、勉強頑張ってる?なんか夢はあるの?
ってきいてみたんです。すごく恥ずかしそうにしてなにも言わなかったのだけど、きっと彼はなにかしらをしたいと思っているのかなって期待したいよね。
なにもないから言わない。っていうのではなく、傍に茶化してくる友人がいるから言わない。っていうそういう印象を受けたから。
前途ある若者が頑張って国を豊かにしていくという構造もまた、
等しく世界にあるべきだし、自分も若者代表として頑張っていかないと、
その若者に食わされるような気がしています。それもまた楽しみでもあるのかもしれないけど。


長くなったので、体験のファッション性とホモっぽいおっさんにオイルマッサージしてもらったらしきりにケツを弄られた話についてはまた次回書いていこうと思います。


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