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あれ?なんでおれタイにいるんだっけ?って思った時の話

ニーハオ

今チェンマイにいます。
チェンマイっていうのは、タイの中でもかなり
ミャンマーに近い都市になってます。
バンコクとかアユタヤとかみんな知ってると思うんですけど
バンコクは割と南側
さりとてマレーシアと近いかっていったらそうでもない
さりとてカンボジアと近いかっていったらそうでもないところ
タイの股間あたりにあるのがバンコクですね。
股間あたりにあるというのは言い得て妙で、
みんな股間を目指して股間しにいくのが通例みたいで
男なら若い内にタイにいけというのは
股間を目指して股間しにいくことを指していると思います。
僕は確かに股間を目指していたんですけど、ちょっと股間するのに抵抗があったので
股間ではないところに逃げたくなってチェンマイに来ました。
バンコクのモウチョット!(正確にはモーチット)っていうBTS(電車)の終点から
バスで10時間くらい700kmくらい
東京から岩手にいくのとそんな大差ない距離です。

感想なんですけど、
バンコクよりはすっきりしてる!

ってかんじです。はい。
タイはタイでもバンコクとチェンマイで国が違うんじゃないかってくらいの違いが
あるようであんまりないです。
ラオスとかカンボジアとかにいったらタイとの違いを感じるのかもしれませんが
チェンマイの良いところはですね。レンタルバイク屋がその辺に腐るほどある点で、
バンコクにはほとんどっていうかないです。多分バンコクでバイク乗るの危険なんだと思います。
これ知ってから言ったほうが良いと思うんだよマジミスった

んでね、バイクでブンブンしてたんですけど昨日
今日は大雨の天気で
せっかくチェンマイに来た目的だった パーイって街、これバックパッカーの精子(聖地)
)といわれるところね、なんで聖地なのかどうかはわからないし、精子的な要素もまったくないところだと思うんですけど、
とにかくなんかいってみたい感じあるじゃないですか、北ってなんかいきたくなるじゃないですか、
東西南北で進むとしたら一番北にいきたくなるじゃないですか。そういうテンションでその街にいってみたかったんですけどね。
その後にメーホーンソーンという、ほらあのテレビでやってる首を長くする民族が住んでいるとかいう、
それらの街に行くのを諦めるという
悲しい感じとなってしまいました。
いやなんかね、気づいたんだけど

タイも普通に雨降るわ

いやそりゃ降るっしょって思うじゃん
でもオレのしってる海外って、海外なんだけど
テレビでみるような海外っぽいことしかしらなかったのね。
だからこの降ってる雨が非現実的に感じられるんだけど
実はそれが現実で、今までの自分のイメージだった
東南アジアっていう蒸し暑い国ザッツオール!な感じが
ことごとく覆され、
「雨季はちょっとしんどいかな」
っていうリアルな情報が付け足されたのです。
正直な話、本当にタイにくるまで雨季は雨季でも
いやふんねーっしょ! 降ってもあれでしょ? すぐ止むんでしょ?
とかそんなノリだったのね。
なんだけど、「本当に降るわ、しかもふっつーに降るわ」
って感じ。
つまり、これもまたこの前とおんなじなんだけど
如何に自分がメディアや自分のイメージの中の情報で判断をしているか
っていうのがなんとなくわかってきたような感覚がしたんですよ。
僕は海外っていったら晴天の草原でジャンプするのがなにかこう、海外!って感じのすごいちょろいイメージがあったんですけど

あのうぇーい系の人生を謳歌している感は、まさに偶像崇拝っていっても過言ではないくらい、よくできたイメージ戦略でした。

まぁそれでもなんかやり残したことがあるとするならば、日本の大学生と同じように、
草原で寝そべりながら写真を取るか、草原でジャンプするか、草原でちんこだすかのどれかしか選択肢がないと思うわけで
それ以外にどんな選択肢があるのかなって思ったら、スタバで気づいたことを書いていく生き方しかなさそうだなと思って
いまはそうしてキャラメルモカを飲んで身体を温めるわけなんです。蒸し暑い国でも雨に打たれてパンツをぐしょぐしょにしたら寒くなるのは
大事な気づきでした。全然大事じゃねえよ。


まぁ今回も前回の内容と同様に、海外にきたからこそ気づいたっていいたいだけのことを少しだけ書いていくことにします
イイタイコトは2つくらい。

まずひとつ目が、体験のファッション性の話。
もう一つが、タイの極北で生活しているむらびとたちを見て思ったこと。


まずひとつ目
体験のファッション性について

体験のファッション性ってどういうことなんだろう。っていうことで、
造語なんですけど、
これ、なんでこんなこと考えたかっていうと、
「あれ、なんでおれ今タイにいるんだっけ?」
ってふと思ったことがあって。それは悪いニュアンスで思ったんじゃなくて、
なんつうか、オレのこの行動原理ってどんなメカニズムなんだろう?
っていうのを理解したくて立てた問い、みたいな感じです。

この体験のファッション性というのは平たくいうと、大学生が草原でちんこを出すのをうぇーいということだと思ってもらっていいんですけど、
もう少し深く考えていくと、
なぜタイでちんこをだすとそのちんこに"タイでだしたちんこ"として特別な価値が付与されるのか
なんかちょっと例えが明後日の方向にいってしまったのでもうちょっと適した例えがいいです

たとえば、僕たちは海外に行くことを経験だと言い、成長だと言います。
好んで食べようとしない料理を食べたり、汚いゲストハウスに泊まることを挑戦といい、経験といいます。

それ自体、構わないと思います。その体験を成長に落とし込む方法はあるし、その方法を実際に行えばいいと思うので良いんですけど、
じゃあそれって何のためにするんだろう。っていうことを考えていくと、
無作為に選択している経験=アクセサリーのような価値の付与
であるケースが頻発しているなー
という所感です。 "タイにいったことがある"や"パクチーを食べたことがある"
という透明なアクセサリーを生身の自分に身につけていく感じ


結論から、自分はこうなんじゃないかなって思ったことを言うと多分、
僕たちはこのアクセサリーを身に着けていく連続の中で自分というものを形成しようとしているんじゃね?
僕達が僕達として、明確に線引きしていくためにはどうしたらいいのかなっていうのもこの問いに関わってくるひとつの問いだと思うんですけど、
人が自分はこういう人なんです。っていうのを相対的に示す方法というか、自分はこういう自分であるというのを認知する方法って
論理的客観的に物事の原理原則を理解していく総量ではなく、
感覚的主観的に物事に対する好き嫌いをはっきりさせていくこと
にかなり近いんじゃないかなーっていうのをすごく感じました。

そのために人は判断を行う必要があり、判断を行うためには知る必要があり、知るための方法はいくつかあるけど、より的確に判断するために経験する必要がある。
故に人は経験/体験 をして何かに対して好き嫌いの判断を行うことを繰り返していきたい
んじゃねーかなー
みたいな。

ちょっとこっから脱線するんですけど
人の継続力や、得意不得意の差分みたいなのがどこで生み出されるのかなって考えていったんですけど、
突き詰めていくと、やりたいこと=好きなこと であって
好きなこと=やり続けることができること であって
好きなこと=やり続けることができること=継続することで人と差分が生まれること=得意なこと
でしかないんじゃないかなぁ 

だから人が動く動機って感情からしか発生されていないはずなんだよね。
得意なことは得意だからこそ好きになるし、 だから次に挑戦するし、そうするとまた得意になっていく。
面白いのは、この好きなこと→やり続けられること→得意なこと の遷移は、
なにかひとつの事象だけで完結しているわけではなくて、応用的に別のコトに継承されていくんですよね。

クラスの継承は クラス名 < 継承したいクラス
でいけるのとおんなじくらい簡単に継承されます。
例えば。
算数が得意だった少年は算数が好きになり
算数が好きな少年は数学も得意。
数学も得意だから物理も好きだし、ロジカルなものが好き
ロジカルなものが好きだからプログラミングも好き
プログラミングが面白いからずっとプログラミングしちゃう
だからプログラミングが得意
みたいな感じで、
物事の得意不得意は連続性のなかで継承されていくっぽいです。
これは運動が得意な子が運動を好きになって、運動神経がよくなっていくのもおんなじ感じだと思う。
脱線終わり

ただ、こうして人は
自分というのはプログラミングが好きで得意で、それによって新しいものを生み出していくことができるのだ
というように、
好き嫌いを出発点とした、自分というものを認識していきたい。
だから体験をファッション的に、蓄積することで、
服と同じように、自分がどういう服を好んでいるのか、
自分はどういう人間であるのか、自分は他者からどういう人間として思われたいか
というのを理解したい。

同様に、好き嫌いを通して、自分というのはどういう自分になっていきたいのか、というのを無意識的に求めて経験しているのかもしれなくて、
しかしそれは、いわゆる能力やスキルとしての成長っぽいやつとは別物で、
さっきも言ったように、「私はパクチーをたべることができます」
というのと同じようなレベル感においてさえ、
私を形成するパーツとして十分なアクセサリーになっているっぽいです。
例えばタイでジャンプしている写真をFBのプロフ画像にするということで、
「私はこういうタイプの人間ですよー」
っていうのを自分で認識することと同時に、他者に対して理解を求めている
みたいな感じ。

自分は汚いゲストハウスに泊まることを喜ぶ人間だとか
自分は汚いゲストハウスに泊まることを許せないとか
そういう自分の感情に気づいていく作業は
たとえどんなにその事象が他人から見てくだらないように見えても
その人にとっては重要な作業なんだよね。


そうした記号みたいな、二進法のような方法で人は自分はこういう人間であるというのを
形成していきたいと思っているんだろうなー、というお話でした。

勿論、好き嫌いの程度は、人によって異なるので、
たとえばなんでも好きになる人もいれば、なんでも批判する人もいるし、
物事の好き嫌いのアップダウンが限りなく静かな人もいるんだろうと思います。多分ね。


さて、ここででてくる問いがちょっとやめてよってなる内容なんですけど、
その身につけていく自分というミノみたいなモノに価値があるんだっけ?


それはまだ、自分でもよくわかってないです。
多分だけど、自分というのはほぼからっぽの状態から存在しはじめていることはわかっているんですけど、
それは本当にあなたの本質的な価値なのか
っていわれたら
うーん多分ポジショントーク的な感じでファッショントークしている時もあるよね。って思うんです。
例えば服とかに興味ないのに頑張ってお洒落して、
セレクトショップをディスってみるみたいなやつ(わかりにくい)

確かに経験の中で自分に気づいていく作業は存在しているが、その作業をしないこともままあるので、
たとえば、
自分は車に全く興味ないんだけど、親が愛知県民で、喜んでもらえるからTOYOTAに就職するみたいな。
自分は実はそれほどお酒が好きなわけじゃないんだけど、KIRINといった会社が社会的に価値のありそうな会社っぽいから
面接のときにお酒が好きです といってみたり。

他人からみてどうみえるかーを意識しすぎた結果として、自分というミノを作り違えていて、
それに気づけない
ってパターンはよく見かけるような気がします。

んなんだけど、自覚症状がないとそれを自分だ!って言い切るのに十分だったりするし、
自覚症状がありすぎても、「オレっていったい・・」とかいって悩みまくる
みたいな。

だから僕たちができることとしては、
自分にとって利害が発生しない何かをもっと重要とする
もしくは、 それは自動でアップデートしてくれるから気にしすぎなくておっけーよ? って思う
って感じですかね。ただ感情をもっと大切にしていきたいなーって思っている自分としては、今まで自動アップデートにまかせてきたところをもっと意識的にこれは好き、これはあんまり好きじゃない。っていうのをはっきりさせていきたいなーって思っています。

わからないけど、今のところはそんな感じで
答えっぽいのが見えてくるのを今は待つことにしておきます。

長くなったのでバイクで超隔絶された村にいって思ったこととタイのオイルマッサージでそういえばおっぱいをしきりに揉まれた話については
また今度書くことにします。

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