実存のあれこれ

ついに明日は内定式となってしまいました。全国の4年生の中でも就職する人たちが多分きっと僕とおなじようにそわそわしているのではないかと思うと、このそわそわを是非共有したい!という思いから、今からつらつらと書いていきたいと思います。書きません。

すいません多分、「共感してもらいたい!」という思いで「かきたい!」って思ってないでした。
なんか多分なーにいってだこいつって思われるような気がします。その時はどうかてきとーに流しておいてください。
じゃあなんで書くのかといわれたら、最近考えていたことをただ今この段階で書くことはとても大事なことだなーという風に思ったからで、
だからこのタイミングで書きたいのです。
僕は、人生にはなにかと節目みたいなものが存在しているように感じています。
その節目を節目にするかどうかは僕次第で、今の僕は、「じゃあ節目を節目にしよう」と思っているのだと思います。
というのも、未来に到達した時に「あの時の自分って何を考えていたのかなー」と思って振り返ってみても、どうしても未来の自分が過去の自分の意味づけに干渉しているような感覚があるので、
だからこそ、"今の自分の言葉!"で書いておかないといけないような気がしています。同様に、書くということの結果が未来に干渉することになることを認めた上で書いていきます。

最近は、「あれ就職すんの?」って聞かれることよりも「なんかお前あの会社いくみたいじゃん?」みたいなことを言われることの方が増えてきたので多分大丈夫だと思うんですけど、
そうなんです。ついに社会進出することになりました。今のところ就職します。クサナギくんやベッキーみたいなことにならなければ順調に社会人になることができるような気がしています。
んで多分今から書くことって今の自分の悩みみたいなのをけっこー赤裸々に書いているはずなので、誤解を招きそうなことを予め弁解しておくと、
・自分は自ら望んでその会社に入って働きたいと思っています。
・その会社に対し、改善点は勿論存在していると思っていて、不満点を感じていることはまだありません。
・自由が素敵な会社でみんながサラリーマンっぽくないところに魅力を感じている気がします。
引くくらいこれから自分が何をしていくことになるのかわかっていないっぽいのであまり詳しく説明できないのですが、
求人や旅行やブライダルや衣食住の広告をやっているような会社で最初はwebマーケティングをやることになるような気がしています(あってんのかな・・・)
お前なにしたいの?っていう問いに関しては、うん飲もうや!で返信したいと思います。

さて。
僕結構しつこく、「幸せなる為にはどうしたらいいんだっけ?」っていう問いの答えを探しているとか言っていました。
多分それは今でも思っていて、しかも「あれこの問いナンセンスじゃね?」って思っているんですけど、
「でもあれ?どうやらここに答えの糸口がありそうじゃん!?」ってなったポイントがあって、
「あー自分ってこのポイントにとても興味があったんだー」って思うようになるとなんか大学の授業がとてもおもしろく感じられるようになりましてですね。
それがなにかっていうと、ひとつは
"この世界の仕組みについて理解したい!"っていう原理原則の紐解きと、もうひとつは
"実存主義つよくね?"みたいな哲学的アプローチ
の2つでした。ああだから僕は政治学科にいるのかーという後付けの納得感をひしひしと感じています。
今日は実存のあれこれ、ということなので結構メインがニーチェ、ハイデガーやサルトルがなにいってんだ?ってところになってくると思いますが、僕はまったくもって詳しくないです。
ただネットの記事をひたすら読み耽るくらいのことだけはしたような気がするので、「ハイデガーが何を言いたいんだろうっていうのを仮に一言でいうとこうなる」
くらいの超訳は理解しているくらいの人間というくらいの前提でお願いします。というか詳しい人がいたら是非師事したいです←

ほいで、僕が実存主義にはじめて触れたきっかけっていうあったんですけど、それが実はゼミの先生からゼミ生に送られたひとつの文章だったんです。
引用してもいいのかわからないんだけど、この文章は僕の今後の人生に常に影響するほどのインパクトがあったので、全文のせます(先生ごめんなさい)

"バタバタしてしまってお礼を言いそびれました。みなさん、ありがとう。
妻の妊娠が分かってから、あと十数年は今までのように研究と教育に時間が割けなくなることは分かっていました。あと十数年後と言ったら僕はもう50代です。体力も頭の回転も衰えているでしょう。

だから僕は最後のつもりでやりました。学会Pも、ASPも、ゼミ試も。僕は基本的に放任タイプの教員でしたが、今年度のゼミのみなさんには口を出しすぎたかもしれません。ごめんなさい。でも、思いを超えた以上の成果をみなさん自身が自分たちの力で出してくれました。

娘の名前「有(ある)」には、existentialisme(実存主義)の”実存”を漢字一文字で表現したという意味もあります。実存主義を詳しく知りたい人は、ヤスパースなどを読むか、重田先生などにも聞いてみてください。異なる他者や実社会と積極的に交わることで、自らを作り上げて行く。それではのちほど。"

すごく素敵な先生で、この人みたいな人になりたいなーってたまによく思います。
なんでこの文章に衝撃を受けたのか、その感じ方捉え方を説明するのは難しいですが、
いうなれば、人生を何周も何周も強くてニューゲームをやってきて、そうしてようやく大切にしたい何かを大切にしているような・・・

うーん例えるならば
今の自分は、ツァラトゥストラが対岸にロープをかけていて、その綱を渡ろうか渡るまいかをひたすら問答しているような感じです。
先生の文章には、その綱を渡りきったような清々しさと対岸で手を差し伸べてくれているような暖かさを感じます。

また、今の自分は精神の思春期みたいなところにいるような気がしていて、
"das man"から実存に気づく人たちを実存主義者だとした場合、その先にあるのが謳歌主義(造語)として、
僕の周りにはエンジョイライフが全面に出ていて、その積極的な態度が他者に影響している謳歌主義のおっさんやおばちゃんたちがいます。
僕はこの人達をこの上なく羨ましいと思っている状態です。
つまり今の自分は謳歌主義になりきれておらず、とてもうじうじしている。というわけです。


理想と現実の乖離値の大きさ=自己否定の大きさ に押しつぶされる感覚

えーいや大前提としてみんな人間ですよね?人間っていうことはみんなこの世界に生きていますよね?
この世界に生きているということはこの世界の四苦八苦に悩みますよね? てか悩んだことありますよね?
じゃあ僕が悩んでいるのもそいうことですよね?
ヤスパースは仏教でいうところの"四苦八苦"を"限界状況"と呼んでいました。厳密には違うんですけど、それ自体がもう、
「あれなんでドイツ人のヤスパースがお坊さんみたいなこと言ってるんだろう」っていう面白さがあるんですけど、それを話すと脱線しちゃうので笑
ウィキペディアから限界状況について引用しておきますとこんな感じです。

"限界状況(げんかいじょうきょう、英:limit situation、独:Grenzsituation)とは、カール・ヤスパースの実存哲学における用語のひとつで、ヤスパース哲学の起点となった基本概念。現存在としての人間が、いかなる人間の力や科学の力をもってしても克服できない、逃れることのできない状況、すなわち、これは人間を限界づけている普遍的な状況である。死、苦、争、責、由来、偶然など、われわれの日常的現実を粉砕してしまう状況のことである。"

なるほど。・・・(^^)?

多分僕はヤスパースのいうところの限界状況似た、自分自身に対する"挫折"や"限界"を感じているなうなんだと思います。
しかし僕は戦争を経験したこともなければ死に直面したこともないパリピっぷりなので、多分ヤスパースがいまの僕をみたら「甘えてんじゃねーよ」
って言われちゃうと思うんですけど、ただひとつ言えるのは、人の煩悩は社会的背景が違えど似たような所で直面しているなーという実感があるということです。

なんか前置きが長くなる病みたいなのが発症しだしていますね、本題はというと
「しなければならないが苦しい」
「あれおれいま凡庸への道を歩こうとしてる」
2つとも原因は自己否定性にあると思っていて
いまうじうじしている理由はそれだと思います。


あれおれいま凡庸への道を歩こうとしているについて

日本人って意識しないと積み上げ思考に陥っちゃう罠みたいなのがあるんですよ。
特にエリート的であればあるほど"キャリア"という言葉が大好きです。僕も乱用していました。乱用は何事もだめですね。

ほんで、キャリアの語源、みたいなのを授業で先生が教えてくれたんですけど、キャリアとは轍のことだったらしいんです。(確かにキャリーがア~だもんな・・)
キャリアというのは、馬車かなんかが通った跡のことだったわけなんですね。
今では、その人の実績であったりとか、その人の出世や昇進、転職のことをひっくるめてキャリアっていったりしますよね。
しかもなんたーらキャリア!みたいな会社名もあったりするくらいなので、やっぱりみんな"キャリア"っていうことば、大好きだと思います。

なんだけど、キャリアって本質は誰かの通った足跡なんです。

凡庸への道を歩こうとしているというのはすなわち、積み上げ的に思考することで、
それはつまり、誰かの通ってきた轍を見て自分の通る道を選択することなんですね。

もうすこし強烈にいうと、
僕たちはキャリアを歩もうとすればするほど、代替可能な人材へと変貌を遂げていくのです。ひいいいい

ビジネスパーソンになるぜ!っていうのが、みんなとおんなじような能力やスキルを身につけていくことだとした場合、
環境の差こそあれ、その差分は時間量でしか生まれないわけなんですよね。ということは成長したかったらいっぱい働いた方が良いわけです。
だけど、社会人になったらみんな死ぬほど働いて、頑張ってるわけです。(僕はam2時に寝てam5時に起きるみたいな生活はちょっとやだなーって思っています)
しかも社会人って今までのように、大学生は大学生同士でバトるみたいなU-22みたいな制度ないじゃないですか。(僕はオーバーエイジ枠だったんですけど)
これからは一億総A代表候補!みたいな世界なので、もしその中で突き抜けたかったら本当に時間量を稼ぐ、しかないわけです。
そうして勝ちまくってきた人たち(そもそも勝ち負けってなんやねん)はもちろん、「勝ちたかったら死ぬほど働け」
っていうわけですね。
2回目なんですけど、僕は2時に寝て5時におきる生活はちょっとやだなーと思っているし、
そもそも根本的にだらしなくて怠け者な人間なので、どうにかしてそういうのは避けたいわけなんです。
でも理想の自分には到達したいと思っている。うーんこの。

しなければならないの正体は、このなんかしらないけど人と肩をならべてゴールがあるのかよくわからない競争をし続ける馬車馬のような環境を積極的に望んでいることからどうやら由来していて、それは苦しいと。
また、代替可能な人材になろうとしている自分のしょっぱさを自覚しながらも、さりとて他に仕方がわからない。

そういう「いったいどないしたらええねん!!!!」って心の悲痛な叫びを聞いているとなんだか気を病んでくるよね、っていうやつが今の自分であり、だいぶうじうじしています。

※この前占いをしにいってきたんですけど、占い師さんに今の不安定な状態あと3年は続くよ(占星学的に)しかも来年の方がもっと悩んでるよ
っていわれていておいまじか!ってなっているなうです。来年の僕はいまよりうじうじしてるんでしょうか笑

更に傷口に塩を塗るかのように今の経済の実体とか、そういうのも頑張って勉強しようとするわけです。
すると、
「なんかいまの経済を基盤とした社会はなんか根本的におかしいぞ・・?」
「そもそもなんで経済って成長するの? 生産性? お金刷ってるから?」
「あれビジネスっていうのはつまりどういうことなんだってばよ・・・?」
というように、この世界の仕組みの理解に努めていると、肩パンを顎にダブルパンチされるくらいのダメージを喰らいます。

経済成長というのはもしかしたら富の偏りによってなされていて、そうだとしたら搾取される側であるのと同時に、しらずしらずのうちに搾取する側に加担することになるのかー
えっそれってやじゃね?
みたいなことを考え始めると、これはとても生きにくくなってきてしまうわけです。まさに思春期。

「そもそも、自己成長ってなんですの?」
ってなったらもう末期で、
自分の根源的な欲求に愛情の歪みがもたらした承認の渇望があるとして、
それをひたすら否定して排除したがる自分になるといよいよ身動きがとれなくなってきます。(経験あるひといます?)

そんなこんなで救済の措置がわからなくなってきたので、
僕はあえてなにもしないをすることにしてみました。


何もしないをしてみたら何かしてた話

今日大学の先生が面白いことを言っていたのですが、
大学生のうちにしかできないことってあんまないですよねー
あるとしたら、何もしないができることですかねー
っていっていて、
あ、そうそう、そうなんです。って思ったことがあります。

前提として何もしないをしようと思って何もしないをあたかもしたように書いてあるんですけど、
本当のところを言ってしまえば多分自分は疲れていて、
これからもずっとこの調子なのかなって思ったときにいやー休憩ほしいなーって思っていたのが正直なところです。
それで休息できたらよかったはずなんですけど、人間(現存在であったならば)っていうのは何もしないということが究極的に本当にできないものなのでした。

ちょうど4月過ぎたあたりから、今自分がしたいことを精一杯したいなーって思ったことをこう、とにかくやってみようと思って
例えばノリだけでタイの航空券をとってみるとか、モンハンに100時間捧げてみたりとか、ビリヤードを上達させてみようと思ったりとか。
それもきっと、何かをしていたい"不安"からとった行動なのかもしれないし、一方で死に向かっていることから逃げたくなる衝動からくる行動なのかもしれないです。
なんだけど、特に自分がその時に熱烈に、もーーーこれは本当にしたくてたまらん!思っていたことは、勉強したい!だったんですよね。

ちょっと話脱線するんですけど、この文章、引用します。
"いつも欠乏感を感じながら、ここではないどこかを目指し、将来「何者かにならなければいけない」という焦りと不安を抱えている人は、少なくないのではないでしょうか。
でも、実はそれは自分の頭の中にあるフィクションに過ぎない。本来、人は何者でもなくて、「私」という実体はどこにもありません。"
「東大生は悟りから遠い人が多いですね」MBA僧侶・松本紹圭氏が語る! todai-umeet.com/article/373/

この僧侶のおっさんと同じことを、タイで出会った福井の大学教授のおっさんに言われた話は多分した気がします。
おっさん「私は何者なのかという問いの答えを探しても、一向に私に出会えないのは、「私」というのは空っぽな存在だから。」


「しなければならないのが苦しい」
僕達ってなんかわからないけど忙しい自分でありたいと思っているじゃないですか、本当に忙しくする必要があるものなんて本質的にはほんの少ししかないはずなのに、他人の目を気にしていたり、なにかをしていないとまわりの人に置いていかれるんじゃないかと思ったりするじゃないですか。さっきの馬車馬の競争の話と通ずるところあるんですけども。
いやもちろんみんなのことを知ったように書くことはできないしわかんないですけど、僕にはそんな感情がありまして。

それってなんでだろうなーって思っていたときに目に触れた記事がとても示唆に富んでいまして、そうそう、そうなんだよな。
まるで意識高い系ぶってる自分の脳天を貫いて覗かれたような気恥ずかしさを覚えた内容でした。
このどこから湧き出てくるのかわからない「不安」というのを承認に紐付けると、自分の人生の責任を他人に転嫁してしまう普通の人になり変わってしまうと思っていて。

ハイデガーのおっさんに言わせると、
自分という一人の人間の生き方が完成する瞬間っていうのは誰しも平等に訪れる死の瞬間であり、故に、生きている以上、人生というのは常に未完成の状態なんです。
だから自分というものが実体のない存在のように思えるのは常に未完成であるからであり、そして未完成であるからこそ、生まれてから今までに積み重ねてきた実体を改変するのにありあまる可能性もまた、有限な時間の中に存在していることになります。

"明日死ぬかも知れないと悟った人間は、自分の人生の有限性と、残された時間の大切さを思い知らされる。死に向かって刻々と進む自己を見つめるとき、自分は「今この瞬間、確実に実存している」ことを自覚する"

ハイデガーのおっさんはしきりに、ふつうの人たちをこういいやります。
「死に向かっていることを隠蔽することで、その確実さを弱め、死の中に投げ込まれていることの負担を軽くしようとする」日常性における頽落の人たち
これをdas manというらしいんですけど、多分自分もその例にもれず、ダスマンになろうとしてしまうところがあることをいまのところ否定できてないです。

結論的にこのハイデガーのおっさんが言っていることを僕なりに一言で言うならば、
死ぬ直前までの時間は有限なんだから大切にして生き切れよ!となりそうで

もうちょっと難しくいうと、
現存在は時間の有限性の中でのみ存在しており、その有限性を知覚して死に対する責任を負うことで実存に気づく。

いつしかジョブズが言っていたような、
「明日死ぬとしたらお前は今やっていることをやりたいのか?」
という問いは、ハイデガーの言う現存在であり続ける為の魔法の言葉であり、おまじないなんだなーと納得した瞬間でした。
普通の人は、その問いかけから逃げたいわけです。ぼくもちょっと逃げたくなる感じがします。
なんだけど、いくら逃げようとしてもなんかどうしようもない不安に駆られて気づいたらなんかしている時、
というのがまさに現存在として在る時、なのではないではないのかなーーー
"勉強がしたい!と思って気づいたら勉強っぽいことをしていた"というのは有限な時間をいかに有効に生き抜くか、のエッセンスをより効率的に得ようとする営みであり、
怠惰でだらしない僕がとった方法のひとつだったのではないか。

"何もしない"をしたことに以上のような効能があったように感じたので、
そんな風に解釈することにします。

あ、だからだと思うんだけど、馬車馬のように生きてもいいんだけど間違っても人の人生をなぞるように生きてはいけないと思います。
本来であれば誰もあなたにやれなんて言っていないし、あなたが選択していることなのに、心のどこかで誰かにやらされている感を抱いてはいけないわけなんですよね。
不安を比較から生み出してしまうのはよくなくて、もっともっと根源的な、時間の有限性から生じるオレ何シテルンダ感であったほうがよさそうだなーなんてことを
前向きに考えてみたりしていました。


異なる他者や実社会と積極的に交わることで、自らを作り上げて行く。

本質的に自己の内部に実体が存在していないとするならば、もしくは、自己の実体が死ぬまで常に未完で有り続けるならば、
内部ではなく外部にその自己の可能性を模索しなければならない
そんな感覚がしていたときに、先生の文章を読み返して衝撃が走りました。

いつしか知ったような言葉、使い古されて刃こぼれしている刀が鍛冶師に鍛え磨かれて生まれ変わったような鋭さで脳内に訴えかけてくる感覚
この言葉にはそれがありまして、そのときにやべーなおいってなったんですけど(感想がパリピのようなチープさ)
この言葉は、他者との相対性の中で自己を規定していくような評価のことでは全くもってないんですよね。僕たちは相対化をとてもしたがる生き物なので、もはや仕方ないんじゃないかって思っちゃったりもするんですけど。

でも私という空虚な実体に少しずつ自分をつくっていく営みは、
他者、もしくは実社会に対する積極的な態度、能動的な態度でもってはじめて成されていくという考え方がちゃーんと感情的にも納得がいってさえいれば、
繰り返し行うことでもっともっと目の前の人のことを大切にしたくなるじゃないですか。
まるで対岸で綱渡りをできずに困っている人に手を差し伸べるような。

僕は実存主義のそれ自体を全くもって理解していなく、その文字列みたこと在る!程度の理解だったんですけど、様々な分野を螺旋状に習得していくにつれて、
嫌われる勇気に触れたときのような衝撃が「他者との一体感」を引き連れてまた戻ってきましたみたいな
そんな救済があったような気がしました。
(僕はサルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉をなーにいってだこいつwって思っていたし、ニーチェの「神は死んだ」に対して、おいこの人ひでーやつだなあ!って思っていました。でも実はそうではなくて、実は高尚で、人間思いで、とても素敵なお方だったことを最近知るという・・笑)

哲学が役に立たないというのもよくわかるけど、でも、多分哲学ってけっこう優しいよ、人に。
なぜなら、哲学をすることが哲学者である彼らにとっての他者との積極的な関わりであり、それが故に自己の超越を目指す営みだから、なんだと思う。

多分ね、自分にしかできないことをしてやろうっていう態度はきっと、本当に自分にしかできないことをさせてくれなくて、そういう打算的な感情じゃない根源的なしちゃうことを大切にしていけたらなぁと思うんです。
それがちょっと馬鹿にされがちな哲学的思考であっても、気にせずに。

うじうじしている僕が、うじうじしている僕に、明日に向けてこんな名言を残して終わりたいと思います。

「これが人生か、さらばもう一度。」

謳歌主義、目指していきます。

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