ヴィトゲンシュタインについて調べてたらなんかちょっとわかった気がした話


最近同期とこんな話をしていました。
━━以下ラインでのやり取り━━━
12:34 Sho(((hey))) いやほんまそれ思うわ
究極的に同じ問いに向かってるとは思う
そこに「世界とは」というのは入る気はするけど。
哲学の時間論とか量子力学とか宇宙論とかはちょっと違うベクトルを向いている気はする
12:35 Sho(((hey))) てかどっかで言語学とはっていう話ししたいんだよなー
12:35 Ryuichi Aida そうかそうか確かにそうかもしれない
真理の探求っていうのもあるよね
12:35 Ryuichi Aida 言語学、いまなんか文章読んでて思ったんだけどさ
12:36 Ryuichi Aida 言語の中に存在する構造というのは
それ自体が世の中の構造と似ているような感覚がしたんだけど
12:36 Ryuichi Aida それはどうしてかっていったら
人間は言語を通して世の中の事象を構造化しているから なの?
12:36 Sho(((hey))) それってまさに構造主義なのでは
ということではなくて?
12:36 Ryuichi Aida 構造主義の立場ではあるんだけど もしそうだとしたらよ
12:37 Ryuichi Aida 言語の構造ってどのようにして生まれたの
12:37 Ryuichi Aida おれたちってつまりおれたちが生み出した構造の中でしか物事を構造化できないの
12:37 Ryuichi Aida !!!
12:37 Sho(((hey))) なるほど
12:37 Sho(((hey))) 言語学界では真っ二つにその辺は分かれてる
12:38 Sho(((hey))) >おれたちってつまりおれたちが生み出した構造の中でしか物事を構造化できないの
これはまさにウィトゲンシュタインとかハイデガーの問題だと思う
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同期がハイスペなことに感謝をしながら、僕は質問を繰り返します。

私「なんだよその、ウィトゲンシュタインの言っているコトっていうのは・・・」
同期「ウィトゲンシュタインの論理哲学論考・哲学探求とかは、
要は言語と世界の対応関係について徹底的に考えることで、言語によって記述されないものはあるのか、言語のルールに外れるものは何かをあぶり出すみたいな話」

そんなことできるのかよ・・・って思って少し調べていてわかったのですが、ヴィトゲンシュタイン(僕はヴィの方がかっこよくて好きなのでゔぃでいきます)の思想というのは
前期と後期にわけられていて、
前期=論理哲学論考 
後期=哲学探究
という風に考えられているらしいのですが、
晩年のヴィトゲンシュタインが何をいっていたかっていうと
「論理哲学論考やっぱまちがってたわー言語ってゲームだわー」
みたいなことを言ってたんです。
割とこの記事がわかりやすくて参考にしていたのですが、

ヴィトゲンシュタインというのは、
「この世のあらゆる問題は、記述が論理的に正確であれば、簡単に解決できる。」
「神だとか自由だとか、その種の「形而上学」の問題は語れない」

という風に考えて、論理哲学論考を書いて、
しかも最後には、

「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない(ドヤァ)」

っていう超超名言を残して終わるというさいつよの人。
これでその時代を含めた歴代の哲学者たちが完全に論破されちゃって
「やべーよおれら、まじ無意味なことやってたっていわれちゃったよ・・・
」っていう超展開を起こした人らしいです。
なんだけど晩年になって、
「そもそも言語そのものが曖昧で、明確に定められた記号として機能していない時点でおれのやってたこと全部意味わかんねーじゃん」
ってなったらしいんですね。
つまり、僕が例えば、「人生について考えていたら疲れた笑」っていったとするじゃないですか。(前の話)
それに対して「病んでるね笑」って言う風に言われた時、
どうして、病んでいるね笑っていう返答になるのかって、本当のところよくわからないじゃないですか。
もしかしたら僕は「(自分の)人生について考えていたんだよ」っていう意味で使っていたとしたら、
これから「これからどうしていきたいの?」ってなったかもしれません。
でも「(人間の)人生について考えていたんだよ」っていう意味で使っていたとしたら、
たしかに「病んでるね笑」っていう返答になると思います。

前者においても「病んでるね笑」と言われていたとしたら、僕はすごく悲しいのですが、
要するに、人間っていうのは本当に共通の言語を使ってやり取りすることがで
きているのか?

確かに文脈や行間という言葉があるように、状況に応じて言葉の意味というのは常に変化するが、僕たちはそのニュアンスを感じ取って返答しているようにも思うけど、
もしかしたら通じ合っているように見えて実は通じていないんじゃないの?

だとしたら、言語によって論理的に正確な状況って本当に作れるの?
いやつくれなくね?
僕達がやっていたのはつまり、ただの言語ゲームだったのだ・・・

っていって後期ヴィトゲンシュタインプロジェクトが発足するわけです。

そうなったら普通、どうにかして自分の傑作を正当化したくなるじゃないですか、いやあれは正しかったのだと。
なのに「やっぱあれ、間違ってたわ。本当はこうだわ」
って言えるところにヴィトゲンシュタインの凄さを感じるわけです。



はい、実はここからが本題なのですが、

じゃあお前、なにが言いたいねん!
っていうところに対して、ちょっと喋っていきたいなっていう風に思います。

僕が最近考えていたのはですね、
「あれ?生きることに意義や目的を見出そうとする姿勢こそが執着でありエゴなんじゃね?」
って言う風にふと思ったことがあって、
成功とか、成し遂げることとかっていうのもそれ自体、"欲"なんじゃないかと思って考えてたんです。

ほいでヴィトゲンシュタインについて調べていたら、こんなコトがわかったんです。

ヴィ「言語ゲームというのは、ルールを自覚化しないまま、それを前提として、あるゲームを営んでいるということ」
ハイデガー「世界内存在の「世界」というのも、自覚しないまま、そこをもとに行動している「了解」の束」
参考:http://www007.upp.so-net.ne.jp/inuhashi/rede041.htm

「あれ、つまり、ヴィトゲンシュタインが言語ゲームって言ったかもしれないけど、それでいったら仕事もゲームってことだよね?」
"人生というのは、ルールを自覚化しないまま、それを前提として、あるゲームを営んでいるということ"
と置き換えても意味が通じる、というかめちゃくちゃしっくりくる。


ということは、
"生きることに意義や目的を見出そうとする姿勢"というのは

ルールを自覚しないまま、社会のしなければならないを前提としてゲームに参加していることにすぎなくね??!??!?!

っという風に思うようになりまして、

仕事=生きる意味
みたいな思考方法が持て囃されているような気がしているけど、
いやね、実は生きる意味を見出そうとするのが間違っていて、それもゲームだから。といえるのかどうか。

例えばドラクエで全キャラLv99にしたいって思うとするじゃないですか、それでひたすらメタルキングを狩り続けるとするじゃないですか。その人にとっては熱中してやりたいことだけど、ゲームしない人にとっては、なにたかがデータに本気になってるの?
思いますよね。いやならない人もいると思うんですけど!

じゃあその人が次に超一流のバイオリニストになりたいとするじゃないですか、めちゃくちゃひたむきに練習するじゃないですか、そしたらウィーンとかに行くようなプロになれたとするじゃないですか。
でもそうなったときには「おお素晴らしい!」って思うじゃないですか。
この違いは何なんでしょうか。

お金になるかどうかでしょうか。こなにかしらの影響度、貢献度でしょうか。
前者なら今だったら多分メルカリにLv99のデータ売ることができるかもしれないです。(笑)


要するに、
自己実現の欲求(やりたいことをやればいいんだ!)というのがこんなにも持て囃されているのは
結局のところ、だれしもに共通して備わっているエゴイスティックな欲求が共感しているだけにしかすぎず
なにかを成そうと思って生きているというのは、
人生ゲームのルールに則ってこれやったら成功っていえるやで!
っていう曖昧な社会のルールを出発点としてしまっていね? 

やりたいことやろうぜ!
みたいなものが いいね!となるのはつまり、
全員に利己的な欲求が存在しているからであり、
もしその欲がなかったり、真理を理解している超人的な存在からみたりすると、
ゲームの中でおーおーよろしくやってんな!
いや、だからそういう執着捨てていこうぜ。
ってことになるのかもしれねええええええええええええ

「あれ?生きることに意義や目的を見出そうとする姿勢こそが執着でありエゴなんじゃね?」っていう問いの答えはよくわからんけど、もし仮に人生も人生ゲームだったとしたら、

社会をよりよくする、というのも実はただの高尚な暇つぶしでしかなくて、
市場経済で荒稼ぎする、というのも実はハイレベルなゲームでしかないのかもしれない・・・

ってなったときに、(´・ω・`)←こんなかおしてました

そしてさらに人間というのは自分の感情と共感するものだけを分かると言い、それ以外のものを分かることができないのかもしれない。
ドラクエのゲームにはいいねって言わないのにバイオリンのプロになることにはいいねっていうのは、暗黙の共感がそこにあるから。という。


仮説は進みます。

人間は言語を通して世の中の事象を構造化していて
人間は生み出した構造の中でしか物事を構造化できない
という前提に立った時、

今までは、人は言葉によって理解をしているはずなんだけど、実は理解をしたような気になっているだけで、その理解が本当に全人類的に同じかどうかなんて結局のところわからない。という話でした。クオリアみたいですが。

ということはですよ。

そもそも人間の生み出した構造や社会規範や常識、ルールといったものが本当にあるべき姿なのかどうかさえわかっていないにも関わらず、

社会的に決められているものを絶対的なものと感じていたり、
みんながそうしているから私もそうするとか、親が〜っていうからとか、
そういう"他人の評価軸で生きてしまうこと"というのは、
自分とは感じ方が異なっているかもしれないものを自分の価値だと思い込もうとしてしまうところにありますよね。

何者かになろうとすればするほど自分ではなくなる感覚は
自分という存在の認識を社会の幻想を枠組みとした公理(のようなもの)から行おうとすればするほどそれは不自由な自分になり変わってしまう
ということで、

それは、"こうなることが成功なのだ!"と決められているなにかが幻想であることを認識していないからそうなってしまい、
だからみんな、なんかわからんけど苦しんでいるのではないかと。


だとしたら、
なぜ僕たちは明らかに間違っている社会に溶けようとしてしまうんですかね。

いやなぜ間違っているかも私の解釈でしかないのであれば、私が社会を正しいと解釈すれば社会は正しく、私も正しいんですかね

しかしこの社会を何十年も正しいと解釈し続けることはこの社会が間違っていることを受け入れるよりもよほど難しくないですかね

いやでも間違っている人が作った社会が正しくあることなんてないですよね。
悲しいのは、誰も正しい人など存在していないがゆえに社会は常に間違えているということ?


あ、そうか、俺らは常に間違えているのか!

あーこれかー彼らに感じている憧憬は!


考えれば考えるほどこの世の中っていうのは人が考えたことが具現化されて出来ていて、人が考えたことというのは常に間違っている。

という仮説を立てると、なんかすげーしっくりくる。


この前、実存のあれこれ(https://note.mu/ryu3877/n/n575a79decdcb)に書いていたことの中に
謳歌主義の人たちってどうなってるの?みたいな問いがあったと思うんですけどなんとなくその正体に気づいた気がしました。

━━記事のハイライト━━━

・最近していること
→「幸せなる為にはどうしたらいいんだっけ?」っていう問いの答えを探している

・考えているポイント
→"この世界の仕組みについて理解したい!"っていう原理原則の紐解き
→"実存主義つよくね?"みたいな哲学的アプローチ


・このときに感じていたこと
→謳歌主義のおっさんやおばちゃんたちはどうしてそんなにエンジョイングなのか
 →欧化主義:エンジョイライフが全面に出ていて、その積極的な態度が他者に影響している


・昇華した新たな問い
→欧化主義者への憧憬の正体
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つまり欧化主義者の正体というのはもしかしたら、
自分を含め、社会全体が間違っていることを認識した人たちであり、

もう少し意味の通りやすいように言うと
"社会から自立した個人"
みたいな表現になるんじゃないかなって。個人っていうのがなんかしっくりこないけど。

多分、本来何が正しくて何が間違っているとかそんなもんは存在していないはずなんですよ。ライオンがシマウマ食うのが間違っているのかどうかなんて議論しないじゃないですか。「ライオンも菜食主義になろうよぉ〜」って思わないですよね。

なんだけど多分、人間はみんなで一緒に間違って生きているのかもしれなくて、
僕たちはその間違った社会の中で間違えることによって、
新しい学びを得て、
そうしてみんなで一緒に成長していくのだと。

その中で生きていくことを、選択している人たちというのはきっと
僕達よりも少し、前向きに、そしてきっと楽しく生きられる。

だから僕は、「だから逆に好きなことをしててもいいのかなー」
という風に思いました。


ヒトラーは
「わたしは間違っているが、世間はもっと間違っている」
って言っていました。
どっちがどのくらい間違っているかは僕にはわからないし、どんな意味で言ったのかもわからないけど、
この言葉の意味を少しばかり理解できるようになってきたのかなっていう感じがしました。

トランプが大統領になったことも、きっといろんな人が、
自分の認識の間違いに気づいたことだと思います。(ここではどちらが大統領になるべきかという話はしませんが)
でもそうやって少しずつ、僕たちはみんなで認識できる間違いを増やしていくことによって
少しずつ、より良い社会に向かっていくんだろうなー



だとしたら、僕たちはどうしたらみんなが謳歌主義になれるのだろうか。







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