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じぶんのからだ

32歳の誕生日から6日後、両腕にそれぞれ1箇所ずつタトゥーを入れてもらった。

いろいろな人が、さまざまな考えをもっていることは承知の上だ。理解してもらえないならそれはそれでいいし、むしろ理解してもらいたいとも思っていない。わたしは、自分自身に対していくら偏見をもたれようと、暮らすなかで不便を被ることがあろうと、それでも自分の身体に墨を入れたかった。

理由は5つ。

(1)いつかは入れてもらおうと思っていた
(2)彫りたいものが決まった
(3)これまでの人生、これからの人生を讃えたかった
(4)心の底からお願いしたい彫り師さんが見つかった
(5)社会実験を行うため

それぞれの理由について説明させてもらうと、こんな感じになる。

(1)いつかは入れてもらおうと思っていた
昔から、海外の文化がとても好きだった。憧れのアーティストやスポーツ選手のなかにはタトゥーが入っている人がほとんどだったし、一人の人間の個性や信仰の表現として入れられているんだという認識だった。
高校生の頃、ホームステイでアメリカに滞在したときも、街中を歩いているなかでタトゥーを入れている人が多く見られ、その美しさやアート性に見惚れた。だからか、自然と「こんなに美しいものが描かれた身体と生きられたらどんなに幸せだろう」「身体に彫りたいほどの大切なものが見つかったとき、わたしもどこかに入れたいな」と考えていた。

(2)彫りたいものが決まった
タトゥーは、意味のあるものも、特にそうでないものも、個々人のアイデンティティや哲学を表現していると感じられるからかっこいいなと思える。ただ、わたしは自覚のある意味性にこだわりたかった。
理由は単純明快で、自分が飽き性だからだ。そのときに「可愛い」「かっこいい」と思えたとしても、10年後や20年後、同じようなレベルで思える自信がない。せっかく自分の身体にタトゥーを入れるのなら、揺るがない「絶対的な何か」ができるまで、何も入れないことにしていた。
しかしいま、表現者として、人間として、女性として生きていくなかで大切にしたい信念や、どうしても守りたい世界がある。タトゥーを入れるためだけに限らず、特に一人の表現者として「なぜ自分がこれをやらなきゃいけないのか」「何を残すのか」「何から、何を守るのか」をなん年も自問自答してきたが、自分の導きだした答えは死ぬまで絶対に揺るがないだろうと確信できるまで練り上げられた。
だからこそ、いまだった。その答えをもとに、人生をともに歩むタトゥーを決めた。

(3)これまでの人生、これからの人生を自分自身で讃えたかった
自分の誕生日周辺に合わせてタトゥーを入れてもらったことにも、実は意味がある。わたしが生まれた日はいまから約80年前に「ヴァンゼー会議」が開かれた日だと、去年知った。ヴァンゼー会議とは、ナチスによってユダヤ人を計画的に抹殺することが決められた会議である。この会議が起点となり、ホロコーストが始まったのだ。映画『ヒトラーのための虐殺会議』(マッティ・ゲショネック監督/2022年)を鑑賞したことでその事実が分かり、ショックを受けた。
中学生のとき、ホロコーストについて勉強してから国際問題や戦争・紛争などと自分なりに向き合ってきたが、まさか自分が生まれた日の数十年前に恐ろしい話し合いが平然とされていたなんて、考えたくもなかった。誕生日を毎年迎えられるのは喜ばしいことなのに、ビジネスのごとく大量虐殺が決められた過去の事実が頭をよぎり、自分自身に「おめでとう」と純粋に思えるのかも分からなくなった。それくらい複雑な感情をもってしまった。
とはいえ、誕生日くらいは自分の歩んできた道のり・選択・努力を讃えたかったし、これからの人生や世界に対しても希望をもち、周りの人たちに感謝する日にしたかった。しかし、すぐにメンタルや考えを切り替えられるほど、わたしという人間はうまくできていないので、これから先、どんな迷いや悲しみなどがあろうとも絶望感をすぐに打ち消せる<何か>がほしいと考えていた。
そんなとき。その<何か>は「自分の信念と守りたい世界をタトゥーで表現する前々からの構想と結びつけられるかも」と思い至った。「ひょっとしたらタトゥーは自分の過去・未来に対する賛美や希望の象徴にもなるんじゃないか」「誕生日だけでなく、タトゥーが常にわたしの心の拠り所になってくれるんじゃないか」と。それゆえ、誕生日を迎える周辺に墨入れの日取りを整えることで、抵抗なく自分を祝うことにしたのだ。過去を反省し、いまを受け入れ、未来への希望と平和を祈るためにも。

(4)心の底からお願いしたい彫り師さんが見つかった
信頼できる彫り師さんが見つかったことも、このタイミングでタトゥーを入れることにした大きな理由だった。彫りたいものが決まっても、彫ってくれる人を探さなければならない。一番の難関ポイントだったかもしれない。
困ったわたしは友人に「タトゥーを入れたい」と相談したところ、ステキな彫り師さんを教えてくれた。作品を見て「この彫り師さんしかいない」と直感した。これは自分の好きなところなのだが、わたしの直感はかなり当たる。
タトゥーのデザインを相談している間もワクワクしっぱなしで、心地のよい時間だった。仕上げてもらったデザインを見たときは、あまりのかっこよさに目も頭も心もクラクラした。

(5)社会実験を行うため
小学5〜6年生くらいの頃だっただろうか。「男の目」が怖くて、一時期、わたしはスカートを穿くことをやめた。できるだけ肌を隠すようにして過ごした。
詳しい理由はふせるが、とにかく「気持ち悪い」よりも「怖い」が勝った。当時はその恐怖を見てみぬふりするしかできず、ボーイッシュな格好をすることで自分を安心させていた。
小学生のときに経験したことは大人になっても影を落としていて、知らない男性の集団は恐怖の対象になりやすくなっている。社会人になったいまでも、見下されているのか、痴漢まがいのことをされたり、つきまとわれたりする。理不尽な叱責や八つ当たりをぶつけられたりすることもある。そのたびに「なぜこんなにも変な男たちから軽く扱われなければいけないのか、なぜ人間として尊重してもらえないのか、なぜ自分はこんなにもちっぽけで弱いのか」と涙がボロボロ止まらなくなるのが、いまのわたしの現実だ。
さらに異性だけでなく、関係の薄い同性にも見た目で勝手にイメージをつくりあげられ、まるでわたしの全てを理解しているかのような言動や態度をとられることに辟易している。しかし一方では、こんなことを考えた。見た目だけでいろいろ判断されやすいのであれば、あらかじめ意志や自分自身のことをより強く顕在化できたら、周りの言動や態度はどう変化するのだろうか。
友人曰く「男性に嫌がらせされやすい人がいたんだけど髪色を明るくしたら、被害がなくなったらしい」とのこと。髪色を明るくする手もあったが、わたしは自分の黒髪が好きで、なによりもメンテナンスのことを考えたら、やはりタトゥーを入れたほうが経済的にもやさしく強い意志や自分らしさを顕在化できるかもしれない、という結論に落ち着いた。
ちなみに、心の友にLINEでタトゥーを入れたことを報告したところ、こんなお返事をくれた。

シンプルなスタイリングでも、タトゥーがあればそれだけで魅力を引き出してくれそう!
あと思ったのは、ぶつかりおじさんとか痴漢とか、そういうしょうもない奴らからも身を守ってくれそう!
そもそも見た目で判断して、見下したり舐めてくること自体ムカつくんだけど、悲しいかなそういう奴は世の中まだまだ多いようだし、自分のビジュアルで蹴散らせるなら蹴散らしちまいたいぜ!

わたしの場合、タトゥーは両腕に入れたので春秋冬はお洋服で隠れてしまう。しかし、夏は両腕をだせる。基本的に夏は嫌いだし、日焼けが気になるのであまり肌をだしたくないのだが、今夏は社会実験のために喜んでフェミニンを解放して常夏ファッションを楽しんでいこうと思う。さてさて、どんな実験結果が導き出されるのだろうか。記録魂がふつふつと燃えている。夏はまだかい。


このように、5つの理由から念願のタトゥーを入れてもらったが、早速自分自身のなかで変化があった。

身体に墨を入れてもらったあと、わたしの第一声は「かっこいい」だった。
続けて、こんなことを発した。
「わたし、やっと自分のからだを好きになれました」

「ボディポジティブ」という言葉があるけれど、わたしはいまいち自分のからだを前向きに捉えられなかった。自分以外のからだには、どんな体型であっても「美しい」「かわいらしい」「かっこいい」と感じられた。しかし、自分のからだだけには、どうしても同じように思えなかった。
全身鏡に映る自分のからだを見てはすぐに粗探しをはじめて、ここがもっとこうだったらいいのに、きれいじゃない、ここの余計な脂肪をどうにかできないか、とばかり考えていた。物心ついてからずっと、である。自分のからだに理想を押し付けてばかりいて、ちゃんと目を向けることができなかった。
ところが、コンプレックスの塊だった自分のからだにタトゥーを入れてもらったとたん、「なんてきれいなんだろう」と思えた。それはタトゥーのある二の腕や肩周辺だけでなく、からだ全体を鏡でみて「うわぁ、すごくきれい」と思えた。タトゥーが入ったことで、もっと自分のからだを大切にしなければと反省したのだ。
そのことにいたく感動したわたしは、心の友に再度LINEで気持ちを伝えた。心の友からのお返事はこうだった。

自分の体をそうやってポジティブに肯定できるだなんて!メンタリティも強く後押ししてくれるものなんだね…。
ネイルも気分は上がるけど一過性のものやし、タトゥーは一生ものだからより強い気持ちが宿るんだろうね。
それなのに、ネガティブなイメージがつきまとうのが勿体無いね!

ほんとだね。


タトゥーを入れたからといって、わたし自身が強い人間になれたというわけではない。「強さを手に入れた」と簡単に言いたくもない。だが、自分の弱さを受け入れられた気がする。まだ目を向けなければならない弱さもたくさんある。しかし、少しだとしても己の弱さを認められたことは、大きな進歩といってまちがいない。弱さを認めることは、人間的な深みを得ることと同時に、さまざまな立場の人への思いやりにもつながるのだと思う。
これから先も、たくさんの理不尽や悲しみ、怒り、恐怖、絶望などを経験していくだろう。それでもわたしは希望を見失うことなく、気高く、美しく生きていきたい。たとえ落ち込んだしても、下を向いた先にはわたしの両腕に刻まれたお守りがある。さあ、どんときやがれ。知性と品をもって、しなやかに闘ってやる。

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