短編小説「医学部学士編入の焦燥」
医学部に学士編入をして5年。医師国家試験まであと1年となった。
病院実習も順調。
しかし最近、経験したことのない焦りを感じはじめた。
勉強は問題ない。
むしろ今国家試験を受験しても合格できる自信はある。
不思議だがこれまでの人生で、これほどの焦燥感を抱いたことはなかった。
小学校から大学まで
昔から頭は良かった。
小学校、特に何もしていなくてもテストはいつも満点だった。
中学校は地元の公立中学へ進んだ。通知表はオール5。
高校受験の時、担任から県下No1の進学校を勧められた。
言われるまま受験して、問題なく合格した。
高校は県下で一番の高校に入った。
特に勉強した記憶はなないが、模試の偏差値は常に70代だった。
現役で旧帝大の理学部に合格した。
模試は常にA判定だったので、合格した達成感や感動というものは薄かった。
大学では、講義、バイト、遊びを楽しんだ。
酒、タバコ、女、ギャンブル。どれも経験した。特に酒にはハマった。
理系は院に行くものだ。という暗黙の了解のもと大学院に進んだ。
就職活動は特にせず、研究室のツテで超一流企業に入社した。
学生時代を振り返ると、誰かに褒められて嬉しかった経験はあまりない。
受験で合格したときに関しては褒められたとは思う。でも、あまり努力はせずに合格してしまったので、褒められてもそこまで嬉しくなかった。
仕事、医学部に学士編入、病院実習
仕事は順調だった。給料はどんどん上がっていた。海外赴任もさせてもらった。
結婚し、子供もできた。残業や休日出勤はあまりなく家庭の時間も取れた。
30歳になった。
「誰かの役にたつ仕事をしたい。」なんとなくそう思った。
それから、仕事をしながら医学部の学士編入の勉強を始めた。
勉強を開始してから半年、ある医学部の学士編入試験に合格した。
倍率は15倍だった。
職場には「人の命を救う仕事をしたい」と言った。
上司や同僚は盛大な送別会を開いてくれた。
仕事を辞めた。
医学部の2年生に編入した。
初めての授業は解剖。環境の変化、生身の解剖、覚えることの多さにはじめは戸惑ったが、ただ覚えるだけ。なんてことはなかった。
しばらく経つと、GPAは学年1位になった。
テスト前になるとノートを見せて欲しいという人が集まった。
下級生までも自分が作ったノートを持っていた。
もちろん、CBTは学年1位だった。
そして、病院実習をそつなくこなし、6年生を迎えようとしている。
そんなこの頃、経験したことのない焦りを感じはじめた。
勉強は問題ない。今国家試験を受験しても合格できる自信はある。
思い返すと、焦燥感の始まりは病院実習で担当した患者さんからのお願いだった。
小説「山月記」と焦りの正体
担当した患者さんは、いつも暇そうにしている。
テレビに興味はなく、スマホも容量が少ないそうであまり使っていない。
病院での暇つぶしはもっぱら小説を読むことだと聞いた。
そして、読む本がなくなって暇だから小説を貸してくれないか?と頼まれた。
小説はあまり読まない。家を探したが小説はもちろんなかった。
どういう小説をお読みになるのですか?患者さんからの言葉を思い出した。
高校時代、現代文の授業で読んだ山月記を思い出した。
「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」
山月記に登場する有名なフレーズ。
短い小説だったためか、その言葉だけはいまだに憶えている。
山月記と検索し、全文を読んでみた。
山月記の主人公、李徴。
李徴には共感はできないし、ほとんどの文章は高校時代と同様、全く響かなかった
しかし、一節。目に止まったものがあった。
「何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」
李徴が虎になった自分を訝しむ場面の一節である。
「理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」
この言葉が自然と自分に重なった。
昔から頭は良かった。
県下1位の高校、旧帝大、超一流企業、そして15倍の倍率を勝ち抜き医学部に学士編入した。
選択肢として提示されたものは、あまり努力をしなくとも手に入れてきた。
振り返ると、それらは理由も分からずに押付けられたものだった。
そして、頭が良かったためにすんなり受取ることができてしまった。
これまでは、理由も分らずに生きてき良かった。常に舗装された道があった。
しかし、医師として働く姿が具体的になった今、専門性を選び取る必要が出てきた。
これまでは何かに揺られてさえいれば、なんでも掴める環境にいたのであろう。
しかし、そこから投げ出され、自分で何かを掴みにいくタイミングが迫ってきた。
年齢上、医学部学士編入という立場上、モラトリアムは許されない。
医師国家試験は必ず訪れる。
これが、焦りの正体なのかと思った。
改めて山月記を読んだ。
「臆病な自尊心」という言葉が自分の中に入ってきた。
これまで努力せずとも何かを手に入れてきた。
褒められても特に嬉しさを感じたことはなかった。
しかし、何かを手に入れること、手に入れ続けてきたこと
これらの経験が、自らの自尊心となっていたのかもしれない。
これまでは、選択肢が提示されてきた。
これからは、自分で選択をしなければいけない。
自分の中に臆病な自尊心を感じた。
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