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地球物理を大いに楽しむこと

また立ち止まりの日々。書きながら、立ち止まったときに考えたいことを。

システム科学、計算科学、データ科学といろいろ分野横断的な切り口があって、とても魅力的な時代にいる私たち。システム科学は、箱と箱をつなげるイメージ。計算科学は方程式を力業で時間積分するイメージ。データ科学は、今なら機械学習するイメージ。ここ20年くらいで、風景が変わりました。

ちなみに、データ科学という言葉には、もっと広い意味があるようで、単にデータをとってきて科学する、つまり地球物理のやり方そのものを表す、といった使い方もあるらしい。あとデータ科学という言葉から連想するオープンサイエンスや市民科学については、また別な日に何か書くとして、いま気にしているのは、そういう話ではなかった。かなり素朴な地球物理の楽しみかたや、たぶん大学レベルの教育のヒントのようなこと。

たとえば、宇宙の研究をしている人が、海の論文を書いてはいけない、ということは全くないのですが、よく文化を知らず土足で他人の家に上がるようなところが実際あって、やはり理想は、論文レベルの研究をするなら、その専門の研究室で何年か揉まれておきたいところがあります。

それはそうと、自分は何がどうして、宇宙の仕事をすることになったかというと、いろいろ偶然や希望が重なった結果なのであって、もともと専門的には地球物理の基礎を学んで、そこから絞ってこうなった、という経緯があります。絞った先で、細分化の果ての1つの分野の専門家として、とても長いこと仕事をしている。そして気に入ってもいる。

ただ、不満とまでは行かないけど、たぶん自分の心の奥底で理想に思うのは、宇宙の専門家でもあるけど、同じくらい海の専門家でもあって普段から海の論文を書いていて、くらいのことは、当たり前に、平凡なレベルの論文でよいので、実現してもよい時代なのではないかと思う。しかし、そんな大学院教育はないし、そんな人材が求められていると聞いたこともない。

共通の研究手法を軸に、かなり趣向や文化の違う異分野やビジネスに枝葉を広げて活躍する研究者は、気にしてみると割と多くて、そういうことに適した時代が今なのであって、上に書いた私が理想に感じるようなのが不自然でない時代は、どうやら素朴なことなので、過去にはあったのかもしれない。たぶん寺田寅彦の頃とか?

すると、とてもダイナソーな気持ちにもなってくるのだけど、たとえば電子ジャーナルへのアクセスが完全に自由になったとき、海の論文をスピーディーに読んでいくことができて、ぐっと理想に近づく、という感触が今回あったりしたので、ほかネックになっていることが次々と限界突破された果ての未来には、そういう研究者も普通にいるんだろうな、ああ、うらやましい、楽しいだろうな、と思ったわけで。


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