【論文翻訳】ブランノン・イングラム「タリバンは反スーフィーか?:現代パキスタンにおけるデーオバンド派のスーフィズムをめぐる言説」


1. 概要

 本記事は、Brannon D. Ingram, "Is the Taliban Anti-Sufi?: Deobandi Discourses on Sufism in Contemporary Pakistan" in Katherine P. Ewing & Rosemary R. Corbet (ed.), Modern Sufis and the State: The Politics of Islam in South Asia and Beyond, New York: Columbia University Press, 2020, pp. 81-91の全文を日本語訳したものである。

解説

 タイトルが示すように、当該論考はイスラーム主義組織タリバンとスーフィズムの関係性を、同組織の思想的源泉となったデーオバンド派*の学者たちのテクストから分析することを主たる目的としている。
 2021年8月、タリバンがアフガニスタンの首都カーブルを陥落させ、同国の政権を掌握した出来事は記憶に新しいと思われる。2001年の第一次政権崩壊から20年の時を経て、タリバンはアフガニスタンの地に復活した。シャリーア(イスラーム法)の厳格な遵守を統治の第一原則として掲げるタリバンは、民主主義や人定法といったシャリーア以外の人為的原理に従うことを絶対的に認めず、それらを多神崇拝や不信仰として斥ける。
 そのタリバンにとって、スーフィー聖者の霊廟を参詣し、当の聖者に敬意を表したり、聖者から恩寵を受け取ったりする行為(聖者崇敬)も、唯一神アッラー以外の何かを崇める行為であるがゆえに、攻撃の対象となる。Ingram氏の論考が示すように、パキスタン・タリバン運動(TTP)は2009年以降、国内のスーフィー聖者廟への一連の爆破攻撃に関与している。これらの事件を契機として、「タリバンがスーフィズムに敵対的である」という言説が生まれ、「穏健志向のスーフィズムと暴力的な原理主義」といった対立図式が殊更に強調されてきた。
 こうした言説は果たして正しいのか?タリバンとスーフィズムの関係性は実際のところ如何なるものなのか?このような問いに答えるべく、Ingram氏は当該論考において、多くのタリバン構成員が学んだパキスタン北西部のデーオバンド派系マドラサであるハッカーニーヤ学院(Dār al-'Ulūm Ḥaqqāniyya)に着目し、同学院の学者たちのファトワー集である『ハッカーニー派のファトワー集(Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya)』を読み解くことで、タリバンの思想的源流に迫ろうとする。さらに本論考は、しばしば「イスラーム過激派の温床」と揶揄されるデーオバンド派が、実際のところタリバンの思想にどの程度影響を与えているのかについても重要な洞察を示してくれる。

*デーオバンド派…19世紀後半の北インドで形成されたスンナ派ウラマー諸流派の一つであり、1866年に創設されたデーオバンド学院に端を発する。伝統的なイスラーム諸学の復興を掲げることで、植民地支配下の没落しつつあったムスリム社会の再建を目指した。ほぼ同時期に形成されたバレールヴィー派やアフレ・ハディース派と比べても、デーオバンド派の影響力は群を抜いており、同派系統のマドラサは現在、南アジアのみならずイギリスや東南アジア、南アフリカなどにも点在し、その数は5〜6万に及ぶと言われる。しかし、タリバン構成員の多くがデーオバンド派系統のマドラサを卒業していることから、同派はしばしば「イスラーム過激派の温床」などと批判されることがあり、敵対流派のバレールヴィー派からは「ワッハーブ主義」のレッテルを貼られている。

著者紹介

 本論考の著者Brannon D. Ingram氏(@brannoninrgam)は、南アジア・イスラーム思想やスーフィズム、植民地主義などを専門とし、これまではデーオバンド派の学者たちや同派の思想的ネットワークに関する研究を中心に進めてきた。ノースカロライナ大学チャペルヒル校にてCarl W. Ernst教授指導の下、2011年にイスラーム学の博士号を取得した。著作にRevival from Below: Deoband Movement and Global Islam(Oakland, CA: University of California Press, 2018)がある。2013年よりノースウェスタン大学(イリノイ州)宗教学科の准教授を務めている。その他の情報は、Ingram氏の大学HPを参照のこと。

2. 全文翻訳

 以下は、Ingram, "Is the Taliban Anti-Sufi?: Deobandi Discourses on Sufism in Contemporary Pakistan"の全訳である。参照のための便宜として、各節の見出しには当該論考のページ数を記した。当該論考におけるアラビア語・ウルドゥー語の術語やムスリム名のローマ字転写に関しては訳者の手法に統一したが、一部例外もある。また、ムスリム名には適宜没年を付記した。注は全て文末に纏めて記した。
(※ 論文の翻訳・公開に際しては著者Ingram氏の許諾を得た。)

はじめに(pp. 81-83)

 ここ数十年の間、パキスタンではスーフィー聖者廟への攻撃が数多く見られ、それらの多くはパキスタン・タリバン運動(Taḥrīk-i Ṭālibān-i Pākistān, TTP)やその傘下組織によって実行されたものである[1]。これら一連の出来事は、2009年3月、ペシャワール郊外にあるラフマーン・バーバー(Raḥmān Bābā, d. 1706)というパシュトゥーン詩人の廟が、彼のウルス(‘urs, 聖者の命日祭)の期間中に爆破された事件を発端とする[2]。その直後の2009年6月、タリバンの自爆攻撃を公然と非難したバレールヴィー派のムフティーであるサルファラーズ・アフマド・ナイーミー(Sarfarāz Aḥmad Na‘īmī, d. 2009)が自爆攻撃によって殺害され、TTP指導者ベイトゥッラー・メフスード(Beitullah Mehsud)は、それを自らの組織による犯行だと主張した[3]。そして2010年7月、ダーター・ガンジ・バフシュ(Dātā Ganj Bakhsh, d. 1072)の名で知られる聖者フジュウィーリーの廟(ラーホール)の爆破事件が発生したが、これはスーフィーらへの攻撃の中でもパキスタンでは最も露骨なものの一つであった[4]。さらに2010年10月にも聖者廟への攻撃が立て続けに発生し、第一はファリードゥッディーン・ガンジェ・シャッカル(Farīd al-Dīn Ganj-i Shakkar, d. 1266)の廟を擁するパークパッタンの寺院群に対して[5]、第二はカラーチーにあるアブドゥッラー・シャー・ガーズィー(‘Abd Allāh Shāh Ghāzī, d. 768)の寺院群に対するものであり、TTPは双方の事件に関して犯行を認めている[6]。その僅か数ヶ月後の2011年4月、TTPの下部組織は、デーラー・ガーズィー・ハーンにあるサヒー・サルワル(Sakhī Sarwar, d. 1181)という聖者のウルス期間中に攻撃を加えている。TTPのスポークスマンであるエフサーヌッラー・エフサン(Ehsanullah Ehsan)がロイター通信に語ったところによると、それはTTPに敵対的なパキスタン政府に対する報復であるという[7]。遂には2011年12月、バハードゥル・バーバー廟が爆撃されたことに加えて、シャイフ・バーバー・ニサー廟が放火に見舞われ、両事件ともにTTPによる犯行なのではないかと推測されている[8]。
 メディアや政策決定者たちは、これら一連の攻撃の原因が、タリバンのスーフィズムに対する根深い敵意にあったと考えてきた。こうした見方を採る場合、これらの出来事は、本質的に平和志向のスーフィズムと暴力的な原理主義との間に生じた衝突として、部分的には理解されよう。それはすなわち、両者の系譜が18世紀のオリエンタリストたちのスーフィズム言説にまで遡るところの対立であるが、この対立は対テロ戦争の結果として新たな政治的意味を獲得するに至った[9]。それゆえ、2010年の『タイム紙』がこれらの出来事について考察したところによれば、タリバンがスーフィーたちを攻撃したのは、彼らが「スーフィズムを…異端と見做した」からであって、逆に「通常は非暴力的であり、政治的には静観主義の立場を採る」スーフィーたちの方は、タリバンからの攻撃によって「戦いに向けた備え」を始めるよう促されたのである[10]。学術研究においても同様に、タリバンは「スーフィーたちや彼らの廟のみならず、スーフィズムそれ自体をも敵視している」という単純な見解がしばしば見られる[11]。
 学術研究において、タリバンのスーフィズムに対する敵対心についての説明がなされる際に決まって言及されるのは、タリバン台頭の要因がデーオバンド派系統のマドラサにあるという点である。デーオバンド派とは、1866年に創設されたデーオバンド学院(Dār al-‘Ulūm Deoband)という有名なマドラサを起源とするイスラームの機関的ネットワークである[12]。本章では、タリバン及びデーオバンド派に関するこうした言説を再検討するとともに、その説明効果に対しても意義を唱えたい。当の言説が看過しているのは、デーオバンド派の歴史全体を通して見られる、スーフィズムやスーフィー聖者たち、そして彼らの寺院群に向けられる深い葛藤である。確かに、デーオバンド派のスーフィズム批判というのは、実際のところスーフィーたち自身によるスーフィズム批判を最も大きな特徴とする[13]。デーオバンド派は、自分たちが完全な意味でスーフィーであることをしばしば否定するが、このことはスーフィズムの定義をめぐる現代の政治について、その中でのデーオバンド派の位置付けよりもはるかに多くのことを語っていると言えよう。しかし、より重要なことは、彼らの葛藤がタリバンと直接に関係する諸組織にも影響を及ぼしていることを見落としているという点である。本章が探究するのはまさにそうした葛藤であり、とりわけ多くのタリバン指導者たちが学んだと言われる、パキスタン北西部にあるデーオバンド派系統のマドラサであるハッカーニーヤ学院(Dār al-‘Ulūm Ḥaqqāniyya)の学者たちに見える葛藤に着目する。このような手法を採るのは、パキスタン・タリバンとアフガン・タリバン、あるいは各々のグループの指導者を合成するためではない。こうした意味において、本章のタイトルに見られる問い——タリバンは反スーフィーか?——は修辞的であるのみならず、答えることが困難でもある。すなわち、スーフィズムに対するタリバンの単一的立場というのは存在せず、ハッカーニー派の学者たちがタリバンという組織を必然的に「代表する」という訳でもない。しかしながら、本章で検討するハッカーニー派の指導者たちの教説や著作の数々は、タリバンの組織的・知的系譜やスーフィー的な敬虔さとの係争関係に対して幅広い洞察を示してくれるはずである。1988年から没年(2018年)までハッカーニーヤ学院の総長を務めたサミーウルハック(Samī‘ al-Ḥaqq, d. 2018)によれば、実際のところ「タリバン指導者の90%近くがハッカーニーヤ学院を卒業している」という[14]。同学院の卒業生には、ハッカーニー派のテロ・ネットワーク指導者ジャラールッディーン・ハッカーニー(Jalāl al-Dīn Ḥaqqānī, d. 2018)[15]の他、アフガン・タリバン創始者ムッラー・ウマル(Mullā ‘Umar, d. 2013)も含まれている。
 本章が具体的に扱うのは、タリバンによるスーフィー聖者廟の攻撃に関する「イデオロギー的」な説明が限定的であるという点だ。ハッカーニーヤ学院の学者たちは聖者廟における献身的実践の幾つかを批判してきた一方、当の聖者廟やそこでの実践者たちに対する攻撃を訴えかけてきた訳ではない[16]。それどころか、彼らの立場はデーオバンド派全体のスーフィズムに対する立場に合致する。すなわち、デーオバンド派にとって、スーフィズムはイスラーム的な敬虔さの本質とまでは言えないが、それにとって不可欠の要素であり、スーフィー導師への随伴は自己改革を達成する上で最良の手段であり、スーフィー導師は媒介者ではなく倫理的模範として崇敬されるべきであり、スーフィー聖者廟の周辺で行われてきた儀礼の多くは新奇な逸脱(ビドア)であり、神の性質を聖者たちにも関連付けること(シルク, 多神崇拝)を誘発する[17]
 
ここで読者たちの中には、次のように問う者もいるだろう——それでは、ビドアやシルクに関するデーオバンド派の諸言説に見える「イデオロギー的」な暴力の中に、真の暴力の種が撒かれているのか?この問いはこの文脈のみならず、他の文脈にも当て嵌まるかもしれない。しかし、少なくとも本章が明らかにするのは、タリバンの前身であるデーオバンド派の中で反射的に反スーフィーの姿勢を示す者はおらず、デーオバンド派の思想全体にもそうした姿勢は見られないという点である。より広範に言えば、Brian Bondの論考(第6章)がサマーウと呼ばれるスーフィー音楽の集会に関する論争を、空間の地域的理解の中に位置付けることを提起したのとほとんど同じような仕方で、本章では近年のスーフィー聖者廟への攻撃を、生来的な反スーフィー感情と言われるものではなく、地域の政治という視点から眺めることを提案する。

ハッカーニーヤ学院(pp. 83-85)

 この20年の間で、ハッカーニーヤ学院(Dār al-‘Ulūm Ḥaqqāniyya)は、パキスタンのマドラサを批判するジャーナリズムのほとんどに登場してきた。それゆえ、Philadelphia Inquirerが早くも1998年に「ハーヴァード大学がケネディ政権に向かっているように、ハッカーニーヤ学院もタリバンに向かっている」と述べている[18]。LambはイギリスのSunday Timesに寄稿した記事の中で、ハッカーニーヤ学院を「イスラーム戦士の卵たちのイートン校」と呼んだ[19]。このように西洋の著名な教育機関と類比させることで、ハッカーニーヤ学院がパキスタンの数あるマドラサの中でも群を抜いて重要であることを伝えようとしている。確かに、同学院は分離独立後に初めて創設されたマドラサである。ハッカーニーヤ学院が新聞や政策研究から多くの取材を受けてきたにも拘らず、同学院はイスラーム及び南アジア研究者の間で注目を集めたことはほとんどなく、とりわけ本章が頻繁に依拠する同学院のファトワー集(『ハッカーニー派のファトワー集(Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya)』)に関しては、学術研究の如何なる文脈においても看過されてきた[20]。
 ハッカーニーヤ学院は1947年、マウラーナー・アブドゥルハック(Mawlānā ‘Abd al-Ḥaqq, d. 1988)によって創設された。アブドゥルハックはこのマドラサを、自身の生まれ故郷アコーラー・ハッタク(Akoṙā Khaṭṭak)——当時の北西辺境州、現在のハイバル・パフトゥーンフワー州の一部——に創設した。1909年1月に生まれたアブドゥルハックは、メーラトとアムローハーのマドラサで学んだ後、1928-29年の間にデーオバンド学院の門を叩いた。他の学生と同様、彼はデーオバンド学院でスンナ派の真正ハディース集(六書)の習得に注力し、デーオバンド派の歴史の中でも傑出した人物の一人であるフサイン・アフマド・マダニー(Ḥusayn Aḥmad Madanī, d. 1957)の下で学んだ。また、ダール・アル=ウルーム・カラーチー(Dār al-‘Ulūm Karāchī)の創設者であり、恐らくパキスタンにおいて最も重要なデーオバンド派の学者でもあるムハンマド・シャフィーウ・ウスマーニー(Muḥammad Shafī‘ Uthmānī, d. 1976)の下でも彼は学んでいる。
 アブドゥルハックは1933-34年の間にデーオバンド学院を卒業し、その後は1943年から1947年の印パ分離独立時まで同学院の教師を務めた[21]。デーオバンド派の運動やそこから生じた改革主義の潮流とアブドゥルハックの繋がりは、ハッカーニーヤ学院の創設を促したものとして言及される。ハッカーニーヤ学院は、その究極的起源をサイイド・アフマド・バレールヴィー(Sayyid Aḥmad Barelvī, d. 1831)を介して伝えられたシャー・ワリーウッラー(Shāh Walī Allāh, d. 1762)の思想に求める[22]。ハッカーニー派の学者たちは、サイイド・アフマドの軍隊が後のハッカーニーヤ学院創設の地(アコーラー・ハッタク)で攻撃されたという逸話を、「殉教者たちの聖なる血」がその土に「吸収された」ものとして語る[23]。こうした流れはデーオバンド学院の創設において頂点に達した。それゆえ、デーオバンド派の学者の一人はハッカーニーヤ学院が「デーオバンド[学院]と瓜二つ」であると説明する[24]。
 1947年のラマダーン月、アブドゥルハックはアコーラー・ハッタクに帰郷したが、それ以降は分離独立後の騒乱の影響でデーオバンドに戻ることができなかった。彼がハッカーニーヤ学院をアコーラー・ハッタクに創設したのは、デーオバンド行きが不可能となった同地の学生を受け入れるためであった。ダール・アル=イフター(Dār al-Iftā’, ファトワー発布部門)は学院の創設直後に設置され、アブドゥルハックは当部門の主要ムフティーを務めた[25]。アブドゥルハックは、マドラサの運営やファトワー集の編纂という業務を日々こなしたが、彼は他のデーオバンド派の学者と同様にスーフィズムを学んでいた。彼はハーッジー・サーヒブ・トゥラングザイー(Ḥājjī Ṣāḥib Turangza’ī, d. 1937)に師事し[26]、彼の没後はフサイン・アフマド・マダニーに仕えることで、「スーフィーの修行道の全段階を完遂した」[27]。しかし、他のデーオバンド派のスーフィーらと同様に、「彼は新奇な逸脱(bid‘a)や諸々の慣習(rusūmāt)の打倒を目指すジハードを主導し、結果的に彼はアコーラー・ハッタクとその周辺地域における不必要な慣習を廃絶させた」[28]。
 
1988年、アブドゥルハックの没後、その息子サミーウルハックがハッカーニーヤ学院の総長に任命され、彼は自身が亡くなる2018年までその職を務めた。1937年、アコーラー・ハッタクに生まれたサミーウルハックは、1957年にハディース学を、1958-59年の間に啓典解釈学(tafsīr)を学び終えた後、ハッカーニーヤ学院を卒業した[29]。彼は1958年から同学院で教鞭を執り始め、1965年には月刊誌『真理(al-Ḥaqq)』を立ち上げ、そこに自身のファトワーの多くを掲載した[30]。サミーウルハックの著作には、預言者ムハンマドの美徳に関するハディース集であるムハンマド・イブン・ティルミズィーの『ムハンマドの美徳(Shamā’il Muḥammdiyya)』(あるいは『ティルミズィーの美徳(Shamā’il al-Tirmidhī)』)に対する2巻本の注釈書の他[31]、反アフマディー派論争に関する幾つかの論考、そして近年刊行された戦争とテロリズムに関する政治論考などがある[32]。彼はまた、政治活動家としてのキャリアも有している。1974年、サミーウルハックはパキスタン国会でアフマディー派の「問題」に関する講演を行った他、1985-91年までパキスタン上院議会の議員でもあった[33]。しかし、サミーウルハックのキャリアの中で最も有名なのは、ソ連軍と戦うアフガン人ムジャーヒディーンを支持したことや、タリバン指導部との密接な繋がりである(p. 85)。『ハッカーニー派のファトワー集』の編者の一人であるムフタールッラー・ハッカーニー(Mukhtār Allāh Ḥaqqānī)が述べるように、「アフガン人のジハードやタリバンの運動におけるマウラーナー・サミーウルハックの主な役割は明らかである。彼はこのジハードにおいて指導的役割を演じた」。彼は「タリバン運動の後援者であり、数千人ものハッカーニーヤ学院の学生やウラマーがその運動に関与していた」[34]。 

ハッカーニーヤ学院(アコーラー・ハッタク)* 訳者による追加
『ハッカーニー派のファトワー集』* 訳者による追加

ハッカーニー派におけるスーフィズム・聖者・スーフィー的献身(p. 85)

 以下では、スーフィズムやスーフィー聖者、聖者崇敬に対するデーオバンド派の理解を、現代パキスタン北西部、とりわけハッカーニーヤ学院の文脈において論じるため、アブドゥルハックとサミーウルハックの著作群の中でも「ハッカーニー派のファトワー集」に依拠する。そうすることで、当の学者たちがスーフィズムを正当と見做したのみならず、預言者ムハンマドの慣行(スンナ)に合致した敬虔さや生活にとって必須の手段として考えていたことを示す。
 他のファトワー集と同様、『ハッカーニー派のファトワー集』に収録されたファトワーのほとんどは、宗教的な信仰や実践の日常的な諸側面——礼拝・断食・喜捨など——を扱っている。それらの裁定に関する詳細な論拠が提示されることは滅多にないが、大抵の場合はハナフィー派法学の解釈が広範囲にわたって参照されている[35]。ほとんどのファトワーには日付が記されておらず、誰が質問したのか、あるいはどのようなムフティーがそれに回答したのかも不明である。しかし、当のファトワー集によると、ほとんどの質問はハッカーニーヤ学院近郊の地域から寄せられたものであるという[36]。重要なことに、スーフィズムを扱ったファトワーのほとんどが、第2巻『スーフィー修行道の書(Kitāb al-Sulūk)』に、スーフィーの諸実践に批判的なファトワーのほとんどが第1巻『信条と信仰の書(Kitāb al-‘Aqā’id wa al-Īmāniyyāt)』に収められているという点である。後者は「正しい」信仰を論じるのみならず、誤った信仰を正すことをも試みている。こうした区分は、ハッカーニー派の学者たちがどのようにスーフィズムを概念化しているのかを示唆するものである。例えば、聖者廟参詣のような「新奇な逸脱」はスーフィズムそれ自体に内在する誤りではなく、より広い意味における信仰の誤りであると見做されている。

スーフィズム・スーフィー導師・瞑想実践について(p. 86)

 デーオバンド派の運動全体と同様、『ハッカーニー派のファトワー集』もまた、スーフィズムをムスリムの敬虔さにとって不可欠の要素と見做す。アフマド・スィルヒンディー(Aḥmad Sirhindī, d. 1624)を引用したファトワーにおいては、スーフィズムとシャリーアがそれぞれイスラームの内面と外面を単に説明したものであるという点が繰り返し述べられている——「実際のところ、それら二つ(スーフィズムとシャリーア)は全く同一のものである。それゆえ、それらが別々であると言う者は誰であれ逸脱に陥ってきた」[37]。別のファトワーでは、インド亜大陸における四つの主要なスーフィー諸流派(カーディリー派、スフラワルディー派、チシュティー派、ナクシュバンディー派)[38]の正当性が主張されており、これはアブドゥルハックが繰り返し述べている点である[39]。
 スーフィズムの倫理レベルにおいて、当のファトワーは明らかに個々人の低次の自己の純化(tadhkiya-yi nafs)を説き、その修行をスーフィー導師の指導の下で行うことが最良であり、それこそが「神への到達(wuṣūl ilā Allāh)」を達成するための主要な方法であると強調する[40]。それでは、どのようにして導師を選べば良いのだろうか?導師は自身の感性において、学者(‘ālim)であり、敬虔者(muttaqī)であり、禁欲者(zāhid)でなければならない。彼は善を勧め、悪を禁じなければならない。彼は交友関係(ṣuḥbat)を持てる者でなければならない[41]。彼は新奇な逸脱(bid‘a)を断たねばならない[42]。サミーウルハックも同じように、スーフィー導師の下での霊的修行は完全なムスリムになるための重要な要素であると主張するが、その修行は「罪深き導師」と共にではなく、必ず「完全な導師(kāmil shaykh)」と共に行わなければならないと警告する[43]。ある者はスーフィー導師にバイア(bay‘a, 忠義の誓い)を立てることの意味について、次のように問う——「人々の中にはバイアをジハードの文脈においてのみ理解し、師弟間のバイアが真の形態ではないと言う。これは正しいのか?」これに対してムフティーは次のように答える——「霊的完成(iḥsān)の段階[に至ること]と低次の自己の純化は、全てのムスリムにとって必要とされる。現代の人々は、スーフィズムを通じて霊的完成の段階を獲得し、自己を純化する。…そしてバイアを行うことは、預言者ムハンマドと彼の教友たちによって具現化される」[44]。
 多くのファトワーでは、スーフィーの瞑想実践(dhikr)と他の霊的修養についても明かされている。例えば、当の集成はズィクル・ハッダーディー(dhikr ḥaddādī)として知られるチシュティー派のズィクルを、ニザームッディーン・アウランガーバーディー(Ṇiẓām al-Dīn Awrangābādī, 没年不詳)の『諸心の統御(Niẓām al-Qulūb)』という、同派最初のズィクル入門書に依拠しながら支持する[45]。当のファトワーはまた、シャー・ワリーウッラーなどを引用しながら、チッラ(chilla)として知られる40日間の隠遁の法的地位に対する質問者の関心を満たすため、次のように述べる——「[その実践が]許容されることは如何なる疑いもなく明らかである」[46]。

聖者たちと彼らの霊廟について(pp. 86-89)

 聖者とその聖者性という主題に関しても同じように、『ハッカーニー派のファトワー集』はデーオバンド派やそれ以外の流派のスーフィーらが共有する立場を再度認めている。当該ファトワー集は、ハナフィー派の法学者イブン・アービディーン(Ibn ‘Ābidīn, d. 1836)を引用しつつ、奇跡(karāmāt)が聖者性の基本的特徴であり、それは聖者が自身の霊的地位を確立するための方法であると見做す——「敬虔かつシャリーアに従順な人間から生じ、物事の基本的摂理と対照的な行いが奇跡(karāmat)と呼ばれるが、それは一般民衆には奇妙な行いに映るかもしれない。しかし、聖者になるために奇跡が必須であるという訳ではない」[47]。当該ファトワー集は個々人の敬虔さというより広範な観点から、そしてほとんど全てのデーオバンド派のテクストがそうするような仕方で、聖者というものを次のように定義する——「シャリーアに従順であり、醒めていて禁欲的であり、大小に拘らず罪を避けるムスリム全ては、聖者かつ神の友である」[48]。但し、当該ファトワー集はまた、ガウス(ghawth, 援助者)やクトゥブ(quṭb, 枢軸)、アブダール(abdāl, 代理人)といった霊的位階の法的地位に関する質問に答える際、初期スーフィーらのテクストに依拠することで——少なくともアブダールに関しては、ハディースそれ自体を典拠としているが——、聖者のヒエラルキーを認めている[49]。
 大衆の聖者観に対するデーオバンド派の懸念の大半が、彼らの霊廟に関するものである限りにおいて、ハッカーニー派のムフティーらが、聖者たちは自身の生前も奇跡(karāmāt)を起こし、それを死後も続けることができると考えていることは、特筆に値する[50]。また、死後の聖者との霊的繋がり(nisba)を築くことさえも可能であると彼らは考えている[51]。不信仰に接近する危険な行為となるのは、聖者が神から独立した力を有し、それによって信奉者たちを執り成すことができると信じる時である[52]。同じように、神以外の実体に助けを求めること(istimdād)——それは当の実体が「預言者であるか聖者であるかに拘らず」、この世の出来事を変える力を有するという理解を伴う——もまた、「許容されず、禁じられている」[53]。ある者が預言者ムハンマドに嘆願することは可能であるが、その時にムハンマドが何処にでも姿を現すと考えることは不信仰である。したがって全体としては、聖者による執成しを信奉することは、当の聖者の生死に拘らず許容されるが、そうした力を神のみが有することが明らかである限りにおいてそれは許容される。ちょうど、第二代正統カリフのウマルが、預言者ムハンマドの叔父ムッタリブを媒介として雨乞いをしたと言われるように[54]。
 聖者の力に関する誤解は、大衆をシルク(shirk)、すなわち聖者に神性を認める多神崇拝に導く。ある者は、墓に向かって跪拝する人間は単なる罪人なのか、それとも不信仰者なのかと問うた。ムフティーが答えて曰く、墓の近辺で自ら跪拝することは「極めて望ましくない(makrūh taḥrīmī)」が、「自ら直接墓に向かって、崇敬の意を込めて跪拝することは禁じられている。そして、それを崇拝行為と見做すことは多神崇拝(shirk)である」[55]。また、次のことはファトワー集の至る所ではっきりと断言されている——「ウンマ全体にとって、神以外の何かを崇拝することは許容されず、実際のところ、それは不信仰(kufr)であり、多神崇拝(shirk)でもある」[56]。
 但し、他のファトワーはその他の似たような崇拝儀礼に関して、法学的説明をほとんど示すことなく断罪するが、規範的イスラームの儀礼的実践の類比として頻繁に言及されるものは例外である。例えば、次のような文言がある——「聖者(buzurg)の墓に触れたり、口付けしたりすること、聖者の身体の上に石や土を置いたりすることは禁じられている。それらは卑劣な逸脱である。同じような仕方で、墓を周回することも禁じられる。というのも、周回は神の館[であるカアバ神殿]に対してのみ許された崇拝行為だからである」[57]。さらに当該ファトワー集は、非イスラーム的実践との著しい類似性を理由に、特定の実践を禁ずることがある——「墓への口付けは、それに敬意を表する目的があれば不信仰(kufr)であり、意図せず行った場合は大罪(gunāh kabīra)である。というのも、それはユダヤ教徒やキリスト教徒の実践に類似するからである」[58]。
 さらに、彼らの説明によれば、スーフィズムの信条や実践の中には、エリート層に対しては認められるが、初心者や初学者に対しては禁じられているものもある。その理由はまさに、それらが誤解された場合、彼らを多神崇拝に導いてしまうからである。ある者は「諸霊魂の実体化(tajassud al-arwāḥ)」を信ずることの正当性について尋ねた。当の概念は、最も一般的にはイブン・アラビー(Ibn 'Arabī, d. 1240)のスーフィズムに関連付けられ、聖者や預言者の霊魂が現実世界(dunyā)においてどのように実体化するのかを描写する[59]。当のムフティーは次のように回答する——「預言者や聖者の諸霊魂(arwāḥ)は現実世界(dunyā)で実体化することが可能である。ラシード・アフマド・ガンゴーヒー(Rashīd Aḥmad Gangohī, d. 1905)やカーズィー・サナーウッラー・パーニーパティー(Qāḍī Thanā Allāh Pānīpatī, d. 1810)、シャー・ワリーウッラーなどがこれを認めている[60]。しかし、それは多神崇拝を導きかねないため、大衆が信ずるべきものではない」[61]。他の多くのファトワーも同様に、スーフィー導師が霊力を行使すること(taṣarruf-i shaykh)によって、弟子の修行の手助けをするという実践を認めている。スーフィー導師が初心者たちの個人的闘争あるいは精神的な病を克服する手助けを、目に見えない形で行うことができると信じることは許容される。しかし、「それは[導師が]不可視の知識(‘ilm-i ghayb)[を有する]という、多神崇拝に繋がりかねない考えを抱かせるがゆえに、大衆の信仰の一部となるべきではない」[62]。聖者もまた、霊力の行使(taṣarruf)と類似の仕方で個々の修行者を助けるような力を行使することができる。しかし、当のムフティーが再び警告して曰く、そうした考えは初心者たちによって容易に誤解されてしまう。神のみがそのような霊力を行使するための能力を聖者に与えることができるのであって、仮に聖者自らがそのような力を行使できると信じてしまった場合、同じくこれも、当の聖者が神の専有物である不可視の知識(‘ilm-i ghayb)を有するという信仰を必然的なものにし、多神崇拝への扉を開けてしまうことになる[63]。
 
最後に、「不可視の知識」についての質問に対する以下の回答では、『ハッカーニー派のファトワー集』の中で唯一バレールヴィー派への言及が見られる。

 バレールヴィー派はアフマド・リザー・ハーン(Aḥmad Riḍā Khān, d. 1921)によって創始されたが、彼はデーオバンド派や他のウラマーに関して多くの間違ったことを述べた。さらに彼は、デーオバンド派の発言を恣意的に削除することで、二聖都(Ḥaramayn)のウラマーから[デーオバンド派に対する]不信仰宣告のファトワーを受け取った。それに基づいて、多くの純真なムスリムたちは真のウラマー[たるデーオバンド派]を忌避してきた。彼はまた、多くの逸脱(bid‘a)や不要な慣習(rusūmāt)を拡散した。しかしながら、真のウラマー[たるデーオバンド派]はアフマド・リザーあるいは彼の支持者たちに不信仰宣告を下すことはなかった。不可視の知識という考えや[預言者ムハンマドの]遍在性と全能性(ḥāḍir-o-nāẓir)の観念を支持する者は不信仰宣告に値するにも拘らず、である。例えば、神は「[預言者ムハンマドよ、]言え。我は汝らと同じ人間に過ぎないが、我は汝らの神は唯一なる神であるという啓示が下された者である」(Q 18: 110)と仰った。あるいは、「言え。我が主に栄光あれ!我は人間の預言者でないとしたら一体何だというのか?」(Q 17: 93)とも仰った[64]。

 アフマド・リザーに対する立場は敵意に満ちているが、バレールヴィー派一般に対する立場は慎重かつ融和的である。上記の引用が示唆するのは、バレールヴィー派が非ムスリムとしては見做されていないという点である。また、筆者は本稿以外の至る所で、デーオバンド派とバレールヴィー派はスーフィズムの献身主義をめぐる両者の対立点よりも遥かに多くの共通点を有することを主張してきた。Usha Sanyalが本書の第5章で明らかにしたように、デーオバンド派と同様、バレールヴィー派も自らの運動をシャリーア遵守の表現と見做す。彼らもデーオバンド派と同じようにビドアを批判する他、聖者廟を中心とする特定の実践が多神崇拝を招くと考える[65]。 

政治への回帰(pp. 89-90)

 『ハッカーニー派のファトワー集』におけるバレールヴィー派の位置付けは、筆者が本章の冒頭で示した現代の対立に我々を回帰させる。ハッカーニーヤ学院のムフティーたちが中核となるスーフィズムの思想や実践に通暁し、かつそれらを支持する一方、他の諸要素を批判していることは明確である。しかし、そうである一方で、彼らがファトワー以外のテクストにおいてスーフィズムに関心を示すことは滅多にない。アブドゥルハックやサミーウルハックが残した数多くの著作を見渡しても、スーフィズムへの言及はほんの僅かである。確かに、彼らはスーフィズムに関する論考や教導書を著していないばかりか、自分たちが弟子として指導した人物に言及することもない[66]。そして、次に示す二つの考察は互いに密接な関係にある。すなわち、アシュラフ・アリー・ターナヴィー(Ashraf ‘Alī Thānavī, d. 1943)のようなデーオバンド派の学者による多くの論考や教導書、注釈書などは、自らの弟子たちに利益をもたらすことを主たる目的として書かれたのみならず、それらはスーフィズムに関する問題を一般読者たちに解き明かすためのものでもあった[67]。少なくともターナヴィーと比較した場合、当該ファトワー集以外の文献においてスーフィズムへの関心はほとんど見られない——このこと自体は、当該文献の著者たちの関心というよりはむしろ、ハイバル・パフトゥーンフワー州や他の諸地域におけるムスリムらの関心に対応している。
 上記の点は何を示唆するのだろうか?実際のところ、フサイン・アフマド・マダニーの遺産の方が、ターナヴィーのそれよりもハッカーニー派の学者たちの著作群に大きな影響を及ぼしている[68]。Zamanがタリバンに言及しつつ指摘したように、「マダニーは…今日の武装主義的なデーオバンド派サークルの間では、ターナヴィーよりも遥かに大きな敬意を払われている」[69]。Metcalfはこの皮肉について、まさにサミーウルハックからマダニーへの称賛が述べられた書簡を引用しつつ、次のように指摘する——「今日において、マダニーはタリバンの養成に貢献したと考えられるが、タリバンの政治が彼のそれと著しく異なることは明白である」[70]。しかし、マダニーがパキスタン国家の建設に強く批判的であったことを考慮すると、それもまた皮肉なことである[71]。先述の書簡において、サミーウルハックはマダニーの豊富な知識と非の打ち所がない美徳を称賛しており、たとえマダニーの「政治的立場(siyāsī maslak)」をめぐってデーオバンド派の系譜内で対立があったとしても、学者や教師としての彼の名声に関しては絶対的合意が成立していることを認める。しかし、サミーウルハックは当該書簡の中で一度もパキスタンに言及していない[72]。それにも拘らず、パキスタンにおける多くのデーオバンド派にとって、マダニーはイギリスへの抵抗活動に代表される政治的貢献を果たした行動主義的な学者の模範と見做されてきた一方、ターナヴィーはその対照をなす存在であり、意図的に政治から距離を取り、特にインド・ナショナリズムの保護の下に政治に関わったウラマーを批判したように、社会から隔離された神秘家志向の学者と見做されてきた[73]。とりわけハッカーニー派にとって、「マダニー派」の系譜は「ターナヴィー派」の系譜よりも遥かに大きな影響力を持っている[74]。この点は、なぜ彼らにとってスーフィズムが関心の中心ではないのかを説明する際には役立つかもしれないが、完全に説明し切るには不十分である。
 上記の点はより重大な何かを示唆するだろうか?デーオバンド派とスーフィズムの関係性がここ数十年の間で変化してきたのか、そうであるならば、どれ程変化したのか。これら二つの問いはいずれも未解決の問題である。本章で論じたハッカーニー派の学者たちの著作以外にも、嘗てのようにスーフィズムがデーオバンド派の思想の中心をもはや占めていないという点を示唆する根拠は幾つかある。というのも、ガンゴーヒーからターナヴィーに至るデーオバンド派の主要学者たちや、彼ら以降の同派の学者たち、そして彼らによって担われてきたデーオバンド派のスーフィズムは、同派それ自体の「衰退の言説」に支配されてきたからである[75]。しかし、他の証拠はこうした考えを覆い隠すものである。一つだけ例を挙げるとすれば、ダール・アル=ウルーム・カラーチーの総長であり、今日のパキスタンで最も傑出したデーオバンド派の学者であるムハンマド・ラフィーウ・ウスマーニー(Muḥammad Rafī‘ Uthmānī, d. 2022)は、スーフィズムがイスラームにとって不可欠の要素であるという、一般によく見られる説明を示すのみならず、スーフィズムの諸原理を学ぶことがムスリム個々人にとっての義務(farḍ-i ‘ayn)であり、スーフィズムの習得がムスリム全体にとっての義務(farḍ-i kifāya)であると主張している[76]。少なくとも我々は、デーオバンド派に内在する現在進行形の複雑性を念頭に置かねばならない。我々は同派の思想の包括的な輪郭を描くことができる一方、スーフィズムであれ他の如何なる主題であれ、一つの確立された「デーオバンド派の」立場というものは存在しないのである。

結論(pp. 90-91)

 本章の冒頭で触れた主題——スーフィー聖者廟をめぐる現代的論争の政治——に戻った上で結論を述べたい。Ernstは、ワッハーブ派による「聖者崇敬」の不信仰宣告に言及した上で次のように指摘する——「当の論争の言語は神学的であるが、その闘争の形態は著しく政治的である」[77]。似たような文脈において、Zamanはタリバンによる聖者廟への攻撃が、9/11以降のパキスタン政府による高度に政治化されたスーフィズムの受容と切り離すことはできないと考察する。というのも、9/11以降というのは、パルヴェーズ・ムシャッラフ(Parvez Musharraf)やユースフ・リザー・ギーラーニー(Yusuf Riza Gilani)といった同国の首相が、「国民スーフィー評議会(National Sufi Council)」と「スーフィー諮問委員会(Sufi Advisory Council)」をそれぞれ設立することで、「過激主義と狂信主義」の撲滅を図った時期であるからだ[78]。タリバンもまた、西洋におけるスーフィズムの受容を大いに意識していた。2010年、アメリカ大使はパンジャーブ州における三つの聖者廟を保全するために、15万ドルもの予算を割り当てた。Zamanは次のように結論付ける——「崇敬対象の聖者廟が対テロ戦争と結び付けられてきた以上、テロ行為の幾つかがそうした聖者廟に向けられてきたことは驚くに足らない」[79]。
 2001年3月、タリバンによるバーミヤン仏像群の爆破事件が起こった時、EliasやFloodといった研究者たちは、こうした行動を「イスラーム的な」偶像破壊の原初的表現としてではなく、中世から前近代にかけて先行する文脈特有の権力闘争として捉えることを呼び掛けた[80]。Moinが論じたように、我々は同じような観点から、スーフィー聖者廟の破壊に関する問題に取り組むのが良いと思われる[81]。それに従って筆者は、スーフィーたちや彼らの廟への攻撃を、単にデーオバンド派によるスーフィズム批判の「武装化された」形態として見做すことの誘惑に、我々は抵抗すべきであると主張した。確かに、同派のスーフィズム批判は聖者廟への敵対心を伝えるものであるが、その敵対心をそれのみに還元することはできない。我々は、ある実践がビドアあるいはシルクであると考えることが、当の実践に従事する人々への暴力を肯定することと、どの程度等しいのかという点を議論することはできるが、一方が他方を必然的かつ不可避的に導くと考えることには慎重でなければならない。


[1] パキスタン・タリバンの台頭については、Hassan Abbas, The Taliban Revival: Violence and Extremism on the Pakistan-Afghanistan Border, New Haven, CT: Yale University Press, 2014, pp. 141-167を参照のこと。

[2] Sher Alam Shinwari, “Footprints: Rahman Baba’s Devotees in Grip of Fear,” Dawn, April 5, 2015.

[3] Alix Philippon, Soufisme et politique au Pakistan: Le mouvement barelwi à l’heure de “la guerre contre le terrorisme”, Paris: Éditions Karthala/Sciences Po Aix, 2011, p. 284.

[4] Declan Walsh, “Suicide Bombers Kill Dozens at Pakistan Shrine,” The Guardian, July 2, 2010.

[5] TTPはこの攻撃への関与を真っ向から否定している(“TTP Condemns Lahore Strike, Denies Involvement,” Dawn, July 3, 2010)。

[6] Huma Imtiaz, “Sufi Shrine in Pakistan Is Hit by a Lethal Double Bombing,” New York Times, October 7, 2010.

[7] Ashraf Buzdar, “Suicide Hits at Sakhi Sarwar Shrine Kill 41,” The Nation (Pakistan), April 4, 2011. これら一連の攻撃と政府に対するタリバンの態度の関連性については後述する。

[8] Iftikhar Firdous, “Extremists Pull Down Two Shrines in Khyber,” Express Tribune, December 11, 2011.

[9] この主題に関しては、Rosemary R. Corbett, Making Moderate Islam: Sufism, Service, and the “Ground Zero Mosque” Controversy, Stanford, CA: Stanford University Press, 2017; Carl W. Ernst, Sufism: An Introduction to the Mystical Tradition of Islam, Boston: Shambhala, 2011; Fait Muedini, Sponsoring Sufism: How Governments Promote “Mystical Islam” in Their Domestic and Foreign Policies, New York: Palgrave MacMillan, 2015; Mark Sedgwick, “Sufis as ‘Good Muslims’: Sufism in the Battle Against Jihadi Salafism,” in Lloyd Ridgeon (ed.), Sufis and Salafis in the Contemporary Age, London: Bloomsbury, 2015, pp. 105-117などを参照のこと。

[10] Rania Abouzeid, “Taliban Targets, Pakistan’s Sufi Muslims Fight Back,” Time, November 10, 2010. 本記事の著者Abouzeidは、バレールヴィー派系統の組織であるスンナ派統合委員会(Sunni Ittehad Council)の長サイイド・サフダル・シャー・ギーラーニー(Sayyid Safdar Shāh Gīlānī)氏にインタビューを行っている。Abouzeidによると、ギーラーニー氏は「煽動的なデーオバンド派関連の文献」の発禁を提案したことで知られる。

[11] Thomas Barfield, Afghanistan: A Cultural and Political History, Princeton, NJ: Princeton University Press, 2010, 261.

[12] 初期デーオバンド派の歴史については、Barbara D. Metcalf, Islamic Revival in British India: Deoband, 1860-1900, Princeton, NJ: Princeton University Press, 1982を参照のこと。

[13] デーオバンド派の運動とスーフィズムについては、Brannon D. Ingram, Revival from Below: The Deoband Movement and Global Islam, Oakland: University of California Press, 2018を参照のこと。

[14] Samiul Haq, Afghan Taliban: War of Ideology, Struggle for Peace, Islamabad: Emel Publications, 2015, p. xvii.

[15] 「ハッカーニー」とは、ハッカーニーヤ学院を卒業することで得られる称号である。ハッカーニー派のネットワークについては、Vahid Brown and Don Rassler, Fountainhead of Jihad: The Haqqani Nexus, 1973- 2012, New York: Oxford University Press, 2013を参照のこと。

[16] 実際のところ、ハッカーニーヤ学院のムフティーの一人は、「非イスラーム的」な実践が行われている聖者廟の管理人を殺害することの正当性に関する問合せに回答を寄せているが、彼は管理人の殺害が容認され得ないことを明言した。当のムフティーはまた、廟の破壊が「ナジュド的」な(すなわちワッハーブ主義的な)実践であると至る所で主張している。詳しくは、Muhammad Q. Zaman, Islam in Pakistan: A History, Princeton, NJ: Princeton University Press, 2018, p. 343n174を参照のこと。

[17] デーオバンド派は、預言者ムハンマドと彼の教友たちの時代以降に見られる信仰や実践としてのみならず、啓示された宗教(dīn)を模倣したり、あるいはそれと競合したりする信仰や実践としてビドアを概念化した。詳しくは、Ingram, Revival from Below, pp. 56-64, 77-80を参照のこと。

[18] Quoted in Ali Riaz, Faithful Education: Madrassahs in South Asia, New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 2008, p. 31.

[19] Christina Lamb, “The Pakistan Connection: Focus Special,” Sunday Times, July 17, 2005. Foreign Affairsに寄稿したJessica Sternもまた2000年、ハッカーニーヤ学院がグローバルな規模で「聖戦を輸出している」ことを仄めかした。詳しくは、Jessica Stern, “Pakistan’s Jihad Culture,” Foreign Affairs, 79(6), 2000, pp. 115-126を参照のこと。

[20] 管見の限り、このファトワー集を分析した他の研究者はZamanのみであり、彼は現代のウラマーが名誉犯罪をどのように扱っているのかに関する議論の中でこれに言及している。詳しくは、Muhammad Q. Zaman, Modern Islamic Thought in a Radical Age: Religious Authority and Internal Criticism, Cambridge: Cambridge University Press, 2012, p. 179(n. 15)を参照のこと。

[21] Muḥamamd Akbar Shāh Bukhārī, Akābir-i ‘Ulamā-yi Deoband, Karachi: Idāra-yi Islāmiyya, 1999, p. 417.

[22] サイイド・アフマドとバレールヴィー派の名祖アフマド・リザー・ハーン(Aḥmad Riḍā Khān, d. 1921)は、互いに別の人物である。アフマド・リザーは北インドのバレーイリーに生まれ、その出生地に因んで「バレールヴィー」と呼ばれた。他方、1786年にラーエ・バレーイリーで生まれたサイイド・アフマドは、イスラーム復興を志向した改革主義者である。彼は非常に多くの支持者を獲得したが、1831年にバーラーコート(現在はハイバル・パフトゥーンフワー州の一部)でスィク教徒の軍隊によって殺害された。彼の同胞シャー・ムハンマド・イスマーイール(Shāh Muḥammad Ismā‘īl, d. 1831)は初期デーオバンド派に多大な思想的影響を与えた。詳しくは、Ingram, Revival from Below, chap. 2を参照のこと。

[23] Haq, Afghan Taliban, p. 4.

[24] Bukhārī, Akābir-i ‘Ulamā-yi Deoband, p. 419.

[25] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, Mukhtār Allāh Ḥaqqānī et al. (ed.), Akoṙā Khaṭṭak: Jāmi‘a Dār al-‘Ulūm Ḥaqqāniyya, 2002, vol. 1, pp. 82-88. ダール・アル=イフターは設立当初より、アコーラー・ハッタクとその周辺地域に居住する一般信徒の要望を受け入れることを目指していたが、それらを要求する人々の背景に関する何らかの情報を提供することは滅多になかった。ファトワーの需要がアブドゥルハックの許容能力を超えると、第二のダール・アル=イフターがムフティー・グラーム・ラフマーン(Muftī Ghulām al-Raḥmān)によって設立され、そこでアブドゥルハックの仕事の補助が行われた。アブドゥルハックはハッカーニーヤ学院の他のムフティーが書いたファトワーを添削した後、それらに署名していた。

[26] マフムード・ハサンの下で学び、スーフィーとしてはイムダードゥッラーに師事したトゥラングザイーは19世紀後半、イギリスに対するパシュトゥーン人の抵抗運動を指揮した。詳しくは、Sana Haroon, Frontier of Faith: Islam in the Indo-Afghan Borderland, New York: Columbia University Press, 2007, pp. 98-99; James Caron, “Sufism and Liberation across the Indo-Afghan Border: 1880-1928,” South Asian History and Culture 7(2), 2016, pp. 135-154などを参照のこと。

[27] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 87. 当該ファトワー集の翻訳は全て筆者自身によるものである。

[28] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 87. デーオバンド派による「慣習」批判については、Brannon D. Ingram, “Crises of the Public in Muslim India: Critiquing ‘Custom’ at Aligarh and Deoband,” South Asia: Journal of South Asian Studies 38(3), 2015, pp. 403-418を参照のこと。

[29] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 110.

[30] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 112. 彼のファトワーの多くは『真理』のみならず、ラーホールの週刊誌『宗教の奉仕者(Khuddām al-Dīn)』にも掲載された。

[31] Samī‘ al-Ḥaqq and Iṣlāḥ al-Dīn Ḥaqqānī (ed.), Zayn al-Maḥāfil: Sharḥ al-Shamā’il li-Imām al-Tirmidhī, Lahore: al-Maṭba‘ al-‘Arabiyya, 2007.

[32] Samī‘ al-Ḥaqq and Iṣlāḥ al-Dīn Ḥaqqānī (ed.), Ṣalībī Dahshatgardī awr ‘Ālam al-Islām, Akoṙā Khaṭṭak: Dār al-‘Ulūm Ḥaqqāniyya, 2004.

[33] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 111. 事実、20世紀後半のほとんどの時期において、サミーウルハックとハッカーニーヤ学院はジハード主義活動よりも、専ら反アフマディー派運動や反スーフィー感情によってその名が知られていた。詳しくは、Samī‘ al-Ḥaqq and Muḥammad Taqī ‘Uthmānī, Qādiyānī Fitna awr Millat-i Islāmiyya kā Mawqif, London: Khatme Nubuwwat Academy, 2005を参照のこと。当該論考の一部は、1974年にサミーウルハックがパキスタン国会で行った反アフマディー派演説が基になっている。また、Samī‘ al-Ḥaqq, Qādiyān se Isrā’īl tak, Akoṙā Khaṭṭak: n. p., 1978も参照のこと。

[34] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 114.

[35] 例えば、アラーウッディーン・カーサーニー('Alā al-Dīn al-Kāsānī, d. 1191)の『奇跡の行い(Badā’i‘ al-Ṣanā’i‘)』やブルハーヌッディーン・マルギーナーニー(Burhān al-Dīn al-Marghinānī, d. 1193)の『導き(al-Ḥidāya)』、イブン・アービディーンの『選ばれし者の除去に向けた迷える者の反駁(Raḍḍ al-Muḥtār ‘alā al-Dūr al-Mukhtār)』などが特に含まれる。

[36] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. ii.

[37] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, p. 243.

[38] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, p. 261.

[39] ‘Abd al-Ḥaqq ed., Ṣuḥbat bā-Ahl-i Ḥaqq, Nowshera: Idārat al-‘Ilm wa al-Taḥqīq, 1998, p. 170.

[40] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, p. 247.

[41] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, p. 245.

[42] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, p. 247.

[43] Samī‘ al-Ḥaqq, Islāmī Mu‘āsharat ke Lāzimī Khad-o-Khāl, Nowshera: al-Qāsim Academy, n. d., vol. 1, p. 155.

[44] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, pp. 243-244.

[45] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, p. 249.『諸心の統御』とチシュティー・サービリー派における当該著作の中心性——初期デーオバンド派の中では、特にハーッジー・イムダードゥッラー(Ḥājjī Imdād Allāh, d. 1899)が当該著作を宣教する際に中心的役割を果たした——については、Scott Kugle, Sufis and Saints’ Bodies: Mysticism, Corporeality, and Sacred Power in Islam, Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2007, p. 232を参照のこと。イムダードゥッラーは自身の論考『諸心の光彩(Ḍiyā al-Qulūb)』(in his Kulliyāt-i Imdādiyya, Karachi: Dār al-Ishā‘at, 1977, pp. 21-22)において、ズィクル・ハッダーディーに言及している。

[46] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, p. 254.

[47] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, pp. 166-167, 242.

[48] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, p. 255.

[49] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, pp. 264-265. これらのカテゴリーは、少なくともティルミズィー(Ḥakīm al-Tirmidhī, d. 869)の時代には、スーフィー的宇宙論の重要な要素であった。クトゥブとガウスは一般的に、聖者のヒエラルキーにおける最高位であり、特に後者は世界が回転する際の軸であるとされる。この類型の概要については、Annemarie Schimmel, Mystical Dimensions of Islam, Chapel Hill: University of North Carolina Press, 1975, pp. 200-203を参照のこと。

[50] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, p. 267.

[51] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, pp. 256-257.

[52] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 189.

[53] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 190.

[54] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 217.

[55] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 182-183.

[56] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 186.

[57] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 187.

[58] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 186.

[59] 詳しくは、William C. Chittick, The Sufi Path of Knowledge: Ibn al-‘Arabi’s Metaphysics of Imagination, Albany: SUNY Press, 1989, p. 15を参照のこと。

[60] ラシード・アフマド・ガンゴーヒーは初期デーオバンド派の傑出した学者であり、カーズィー・サナーウッラー・パーニーパティーはナクシュバンディー派のスーフィーかつその著作がデーオバンド派によって参照されている法学者である。そしてシャー・ワリーウッラーは、18世紀インドにおける先駆的なイスラーム改革思想家であり、彼の作品はデーオバンド派のみならず、競合する学者サークルにも絶大な影響をもたらした。

[61] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, p. 254.

[62] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, p. 268.

[63] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 2, p. 274.

[64] ‘Abd al-Ḥaqq et al., Fatāwā-yi Ḥaqqāniyya, vol. 1, p. 402.

[65] Ingram, Revival from Below, pp. 7-8. また、Brian Bondが本書の第6章で論じているように、イスラームにおいて音楽を「禁止」と断定するファトワーを発布したのはデーオバンド派ではなく、バレールヴィー派のムフティーであった。Bondの章は、昨今のバレールヴィー派の支配的イメージを詳細に論じた論考の一つである。

[66] サミーウルハックの著作の一つであるクルアーンの倫理に関する論考は、スーフィズムに関するデーオバンド派の諸著作に見える標準的見解——自己の倫理的改革(iṣlāḥ-i akhlāq)など——に依拠している。富への執着(ḥubb-i māl)や欲望(shahwat)は「非難に値する倫理的性質(radhā’il-i akhlāq)」の中でも特に有害と見做されており、それらはデーオバンド派のスーフィー文献のほぼ全てに共通して見られる否定的属性である。しかし、サミーウルハックの当該論考にはスーフィズムへの言及が一切見られない。確かにサミーウルハックにとって、クルアーンのみがイスラームの中核をなす儀礼的命令を下し、自己の倫理的改革に唯一無二の効果をもたらすとされている。詳しくは、Samī‘ al-Ḥaqq, Qur’ān awr Ta‘mīr-i Akhlāq, Akoṙā Khaṭṭak: Maktabat al-Ḥaqq, 1984, p. 46などを参照のこと。

[67] ターナヴィーのスーフィズム観については、Muhammad Q. Zaman, Ashraf ‘Ali Thanawi: Islam in Modern South Asia, Oxford: Oneworld, 2008, chap. 4; Ingram, Revival from Below, chap. 4などを参照のこと。

[68] アブドゥルハックは、ターナヴィーが膨大な量の著作を残すことでイスラームの発展に貢献したとして称賛し、彼を「神的恩寵の源泉(chashma-yi fayḍ)」と呼んだ。しかし、アブドゥルハックに着想を与え、真に彼を導いたのはマダニーであり、彼はマダニーの行動主義的な政治をウラマーにとっての模範と見做した。詳しくは、‘Abd al-Ḥaqq, Ṣuḥbat bā-Ahl-i Ḥaqq, p. 49などを参照のこと。

[69] Zaman, Modern Islamic Thought in a Radical Age, p. 292.

[70] Barbara D. Metcalf, Husain Ahmad Madani: The Jihad for Islam and India’s Freedom, Oxford: Oneworld, 2009, p. 7

[71] 詳しくは、Barbara D. Metcalf, “Maulana Husain Ahmad Madani and the Jami‘at ‘Ulama-i-Hind: Against Pakistan, Against the Muslim League,” in Ali Usman Qasmi and Megan Eaton Robb (ed.), Muslims Against the Muslim League: Critiques of the Idea of Pakistan, New York: Oxford University Press, 2017, pp. 35-64を参照のこと。

[72] ‘Abd al-Wāhid Bukharī, Shaykh Ḥusayn Aḥmad Madanī, Yak Shakhsiyat, Yak Muṭāla‘a, Gujarat: Maktaba-yi Ẓafar, 1972, p. 218.

[73] ターナヴィーとマダニーの政治的遺産については、Zaman, Ashraf ‘Ali ThanawiとMetcalf, Husain Ahmad Madaniをそれぞれ参照のこと。マダニーと彼のスーフィー導師であるラシード・アフマド・ガンゴーヒーとの関係については、Metcalf, Husain Ahmad Madani, pp. 62-64を参照のこと。

[74] しかし、この点はダール・アル=ウルーム・カラーチーに属するデーオバンド派には当て嵌まらない。当の学院は、恐らくその特権と評判という点においてハッカーニーヤ学院を上回るパキスタンでは唯一のデーオバンド派のマドラサである。ダール・アル=ウルーム・カラーチーの創設者はムハンマド・シャフィーウ(Muftī Muḥammad Shafī‘, d. 1976)であり、ターナヴィーに師事した彼の著作にはスーフィズムへの多岐にわたる関心が見られ、それは彼の息子であるムハンマド・ラフィーウ・ウスマーニーとムハンマド・タキー・ウスマーニー(Muḥammad Taqī ‘Uthmānī, 1943-)も同様である。このことが示唆するのは、「ターナヴィー派」の系譜はカラチにおいて、「マダニー派」の系譜はアコーラー・ハッタクにおいて支配的であるという点であろう。

[75] Ron Geaves, “The Contested Milieu of Deoband: ‘Salafis’ or ‘Sufis?,’ ” in Lloyd Ridgeon (ed.), Sufis and Salafis in the Contemporary Age, London: Bloomsbury Academic, 2015, pp. 191-216.

[76] Muftī Muḥammad Rafī‘ ‘Uthmānī, Fiqh awr Taṣawwuf: Yak Ta‘arruf, Karachi: Idārat al-Ma‘ārif, 2004, p. 37.

[77] Ernst, Sufism, p. 79. また、Alix Philippon, “Sunnis Against Sunnis: The Politicization of Doctrinal Fractures in Pakistan,” The Muslim World 101(2), 2011, p. 348も参照のこと。

[78] Zaman, Islam in Pakistan, p. 223.

[79] Zaman, Islam in Pakistan, p. 223.

[80] 詳しくは、Finbarr Barry Flood, “Between Cult and Culture: Bamiyan, Islamic Iconoclasm, and the Museum,” Art Bulletin 84(4), 2002, pp. 641-659; Jamal Elias, “Un/Making Idolatry: From Mecca to Bamiyan,” Future Anterior: Journal of Historic Preservation 4(2), 2007, pp. 2-29を参照のこと。

[81] A. Afzar Moin, The Millennial Sovereign: Sacred Kingship and Sainthood in Islam, New York: Columbia University Press, 2012, p. 271 (n121).

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