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人とうまく付き合うための手引き

私が思うには、エゴイズム、というのは、芸術に昇華するほかないようです。これは実体験から来る主観的な想念ではあるんですが、しかし、ある種の有効性はもっているのではないかと思います。

私は生活上、よくみじめな気分に陥りますが、それらは皆エゴイズムを突き通そうとすることによって生じているのではないかと、最近、私の数々の憂鬱はそう集約されるような気がするのです。

例えば、友人間で意見の相違が生じた場合いかようにすればよいか。私はつい先日、自らが相手を屈伏させようとしているのではないかと、そんな恐怖に苛まれました。要は、私は一般的に「頑固」と形容されるような性質を持っているわけでありまして、この性質にはニ種類あると思われますが、その場合、それは積極的か消極的かどうかという二方向に分かれる。そのうち、理想的なのは言わずもがな消極的な「頑固」であります。

そして、そのような「頑固」を実現するには、エゴイズムが排斥される必要があります。エゴイズムというのは、他者に対して認められたいという気持ちと相似していますが、そのような他者に対して積極的な方向性を持った瞬間に、「頑固」というのは支配的なものになる、すなわち、論理的に自分が正しいと相手を屈服させることへと帰結するのであります。

ですから、エゴイズムの頑強な者は、えてして友人関係に亀裂を生じやすいのではないかと思われます。と、このように一元化することには多少の危険が含まれているため、これはあくまでも、私自身が経験した上で抽出された観念であるという注意書きをしつつ、しかし、やはり、自己保身をその背後に控えたエゴイズムというものは、大変厄介で、こと人間関係については、忌むべきものであるのだと私は確信しています。

自己保身という言葉が出てきましたが、これが最も人間関係において、自己をみじめに感じさせる厭な機能です。

守るという行為は、相手の攻撃に対して同程度の火力を持って対処するという点で、常に攻撃性を帯びているということは抑えておかなければなりません。すなわち、自己保身は相手を攻撃することによって、初めて成り立つのであり、ある種の暴力と不可分の関係にあるわけであります。

ですから、図星を突かれた時に、人はカッとくるのです。それは、相手の攻撃を跳ね返さねばと、心が牙を向けるからです。

そういった防衛規制は、私をとかくみじめにします。友人と別れたのち、私はよく立ち止まることがある。それは、ひとりになった途端、脳内に私自身のみじめさがどっと流れ込み絶望するからでありますが、その水源は私が「正しさ」を押し通そうとするエゴイズムの漏出にこそあります。

エゴイズムは、外に方向を持って出発した時点で攻撃になる、それを理解することは、人間関係を「円滑」にする上で非常に大事でありつつ、通常の生活を送ることを苦しくしました。それは、私が、エゴイズムの表出なしに、人間と関わる術を持たない者だったからであります。

明らかに相入れない相手の意見を、そういう意見もあるのかと保留することは、私には「関係」とは思えない、それは、「あなたがそう思うならそう信じておかれるのがよいかと思われます」、という無関心にしかならない、しかし、多くの友人の指摘するように、そうした態度こそがまさに多様性なのであって、今もっとも「正しい」ものなのだと、頭では理解できても、なかなか心が追いつかないのです。

私は、軋轢や、衝突があろうとも、その先に「納得」がほしい。そこで初めて関心が生まれ、関心が生まれて初めて関係が生まれるのだ、と、私は心の底では思っていますが、これはどこまでもひとりよがりの考え方であることも最近では理解していて、こうした考えを押し付けること自体が「間違い」なのだと、ようやく自覚せられました。

私はこのように人を傷つけ、自分も傷つくことでしか関係を築けない人間であり、そのような人間が、社会化するためには、どうすればよいのかと、しばらく模索してみた結果、ある一つの手法に道が開かれていることを発見し、幾分か生活の苦しみは和らぎました。

私が苦肉の策として見出した光明は、「道化」であります。これは、恥ずかしながら、『人間失格』を高校生の頃、その青臭い感性のまま無防備に読んだ際、心の奥まで深く影響が染み付いてしまったために、選びとらざるを得なかった表現でありますが、要は、私のような人間が社会で粗相なく暮らしていくには、「演技」をするほかないということであります。

どこまでも自己を隠し通す、太宰流に言うなれば、それは「ご奉仕」するということにでもなりましょうが、そうして、徹底的に周囲の求める反応を追求し、社会の歯車になる、それはすなわち、どこまでもエゴイズムを押し殺し、一生涯「演技」をして生きていくということになります。

これは、一見すると苦しいことのように思われますが、しかし、みなさんやっておられることであります。誰しもが、相手との立場を見定めて、適切に距離を取り、おべっかを使い、同調し、溜まった鬱憤は陰で吐き出しているのです。そこには、少なからず「ご奉仕」が存在し、「演技」が存在します。

言ってしまえば、この世の全ての人間の言葉は信じるに値しない、悪口ならまだしも、それが褒め言葉ならなおさらで、つまるところ、すべての人間は「嘘つき」なのであります。それは、言葉自体の不自由さも影響していて、「嘘つき」は時に、自らの思考を、それに相似した言葉にあてこんで、すると、その言葉の力で自ら洗脳されてしまって、自分がついた嘘をあたかも本当の自分の思考かと信じ込んでしまっていることがあり、それはとても厄介で、しかし、どうしようもないことです。

とにかく、人はみな「嘘つき」なのでありますから、「ほんとうの関係性」や「ほんとうの自己」などというまやかしなどに惑わされず、いっそそれを自覚して、むしろ積極的に「演技」する方向に歩むことこそが、少なくとも私にとって、生活を「円滑」にする唯一の手立てなのでありまして、しかし、俳優でもない私に「演技」に徹することも難しく、近代人の性でもありましょうが、どうしても私の胸中にはエゴイスティックな想念が湧き出て湧き出て仕方ない、今にも溢れんばかりで、行き場を失い、私の心を暗くする塊になって腐っていく一方なのですが、だからといって、もう「道化」手放せない、そんなジレンマが私を締め付けていたのでした。

けれども、今日、私は、やっと、自らの宿命を自覚し、それによって、「演技」という手立てへと傾倒する覚悟もまた決まったのであります。

私の中に無限のごとくくすぶる醜いエゴイズム、それを芸術に吐き出すこと、それが私の救われる唯一の道です。私は、もう、創作なしでは、生きていけないのだと、今日、はっきりと誓約させられたのです。

私は、高校生の頃の、あの、青臭い「道化」をこの身に引きずり戻し、何重もの仮面を身につけ、改めて、社会的な自己を作り上げていこうと思っています。この時世的にも、それはちょうど良いでしょうし、これから「立派」な社会人として活躍してかねばならない私の身の上からも、それは要請されるべきことです。

何より、私自身、この醜いエゴイズムによって多くの人を傷つけ、どす黒いもやを抱え続けることにはもう大変疲れましたし、これからは、もう誰も彼も傷つけない、どんな人間も、私に対して不快を覚えない、かといって快感も覚えない、そんな透明な存在になろうと努めていくつもりです。

そうして、いずれ、すべての人間が、私を忘れて、私が去っても誰も悲しまない状態になったら、ひっそり消滅したいと思います。

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