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心に余白がないと良いものと出会えない

日曜日、熱めのお風呂にゆっくり浸かり、テレビを見ながらダラダラして22時には寝た。月曜日は往々にしてどこか気だるさがあるのに、今朝はすっきりと出勤できた。

その気持ちよさが忘れられず、今日は早めに退社。帰宅後すぐに熱めのお風呂でのぼせるまで浸かり、からからの喉を潤そうと常温の水をごくごく飲んだ。すごく気持ちがいい。新調したシャンプーの香りも最高だ。


自分ごとではないから同感はできないけれど、とてもテンポの良い、心地良い文章だなと思った。同時に、最近こういう文章に出会ってなかったなとも思った。

最近良い文章が少ない、なんてそんな偉そうなことは言っていない。毎日毎日、誰かの心に響く文章は誰かの手によって書かれ、誰かの宝物になっているはずである。少し前ならほぼ毎日、自分の琴線に触れる文章を見つけては「あぁ、いいなぁ」と噛み締めていた。Evernoteの「言葉メモ」には、どんどん新しい言葉が投げ込まれていった。しかし、私は最近あまりこの手の感動をしていない。


今日はたまたま早く帰れて、たまたま月曜日だからまだ心身の疲労はまだ蓄積されていない。気持ちもに余裕があった。頭がすこし空っぽになっていた。だから、「いいなぁ」と思える文章に出会えた。

文章だけではない。何気ない日常の中で「あぁ、いいなぁ」と思えるものと出会える時は、多くの場合、心にも頭にも余裕がある時だ。


数カ月前社会人になってからというもの、ようやく「いそがしいから」という理由が正当化されるような気がした。また、無駄なことを考える時間があるということが、むしろ仕事に対して100%の姿勢で向かっていないような気がして罪悪感さえ覚えた。これを書いているこの時間でさえ、本を読むべきかどうか迷ったほどだ。だから、無意識にだけれど何もしない時間を作ってこなかったし、仕事に直接関係のないことを考える時間もなかった。時間は人と同じだけあるのに。

まだまだ自分はぺーぺーの底辺サラリーマンで、仕事に関係ないことなんか考えずにひたすら結果を出すために努力しなければいけない(と思っている)。けれど、そんな毎日の中で自我がどんどん失われていくような感覚がある。自分の良いところ、自分の強みがどんどん一般化し、価値がなくなってきているのではないか。

そう考えるとなんだか恐ろしくなった。


自分は文章を書くのが好きだ。下手なくせに、とか文句は受け付けない。好きなものは好きだし、定期的に吐き出さないと自分が自分でなくなってしまう。

今の仕事はすごく大変だけど、自分がしたかった仕事がとても良い環境でできているのはすごく楽しいし幸せだ。わくわくもする。ただ単純に、心を揺さぶられる感動の種類が異なるのだ。

その異なる種類の感動を同時に味わうためには、やっぱり余白が大事なんだ。仕事は楽しい、けどどこか物足りない感を感じていたのは、そこだった。

私は欲張りだから、両方味わいたい。これからは仕事がもっと大変になってきて心身共に余裕がなくなってきても、その塊を一生懸命はじっこに寄せて、無理やりにでも余白を作ろう。良いモノと出会い、それを良いと心から実感するための準備をしよう。

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