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ありがとうお義父さん

バリ島の舅が他界した。
先月、2021年8月18日に、ギャニアールの病院で息を引き取った。

2016年の年始早々、姑の薬(糖尿病の血糖値を下げる薬)と、自分の薬(喘息の薬)の飲み違えが発端で、急性低血糖症に陥り、錯乱、けいれん発作、一時意識不明だったお義父さん。
その時を境に、元々持っていた喘息の発作と、胃痙攣の発作を繰り返し起こすように。
喘息の薬で胃を壊し、薬を飲まないと喘息の発作を起こす。それの繰り返しで、どんどん体調が悪くなっていった。
そして、入退院を繰り返すようになり、先月、とうとう帰らぬ人となってしまった。
我が宿のお客様や、よく来てくれる私の友人たちにもお馴染みの、優しく朴訥なお義父さんであった。

舅は、画家で農夫だ。
この村の男性は、殆どがそうだ。
うちの場合、近隣の村から少年たちが集まり、舅の弟子として家に住み込みながら、大勢で絵の作成を行っていたそうである。
そんなお義父さんは、当然ながら絵が上手い。
私が嫁に入ったときは既に、視力の衰えで、絵を描くのを止めてしまっていた。それ以降は農業一本。時折、孫にせがまれて絵を描いてやっていたが、それももうずいぶん昔。
一男四女をもうけたが、三女が9歳の時に、病気で亡くなったそうだ。唯一の男の子であった私の夫は、赤ちゃんの頃から舅の膝の上で、絵を描いて育ったそうで、したがって夫も絵が上手い。
私が夫に惚れたのは、顔が好みだったということと、絵の上手さによるところが大きい。

バリの絵画の売り方、というのは、絵描き(職人)のところから絵を集めて、それを大きなギャラリーに持って行って売る、という仲買制度で、斡旋人にコミッションが入る。実際に絵描き本人に入るお金は少なかったと思うが、たくさん売れれば稼ぎになるわけで、画家は売れそうな絵を、弟子と一緒に大量生産するのだ。お義父さんの場合、姑の父、つまり舅の舅が、この斡旋人で、沢山の絵を売りさばく、腕利きだったそうだ。
私が、バリ人はアーティストではなく、職人だ、と思うのはこのように、売れる絵を大量生産するせいである。

ちなみに、結婚するならアーティストより、職人のほうがいい。

というわけで、舅の描いた絵は、一枚も家に残っていないし、私は一回だけしか見たことが無い。描いたものは全て売れた。職人だから売れないものを作らない。
うちの村、プネスタナンは、「ヤング・アーティスト・スタイル」という絵画スタイルの村と言われているが、舅はトラディショナル・スタイルで、昔ながらのバリの農村や花鳥風月を、枯れた色調で描く作風だった。
出来れば、探し出して一枚くらい手元に置いておきたい。

舅は、普段は寡黙で、目が合えばいつも優しい目で微笑んでくれる、いい人だった。手先が器用で、頼めば何でも作ってくれ、修理してくれた。
椰子の木や、高い木にもするすると登り、実を取ってくれた。
闘鶏用の立派な雄鶏を育てるのが趣味で、自分は闘鶏賭博はやらないが、よく闘鶏の見物に行っていた。バリの農村ではどこもそうであったが、家の中に養鶏場のように、鶏が何十羽も居たし、その世話は舅がメインで行っていた。
鶏をペットとして可愛がる心情は、私には理解できなかったが、舅と鶏の間には、確かに愛情のやり取りがあったように思う。
煙草を吸う人であった。さすがに、体調が悪くなりだした、7年ほど前からは吸ってなかったが、サムネイルの画像の様に、屋外のテラスで、ゆったりと美味しそうに喫煙する姿は、一番記憶に残っている舅の姿だ。

そんな愛すべきバリの男性が、亡くなってしまった。

立ち会うこともできず、最後に声を聴くこともできなかった。

入院した舅を心配する、日本にいる私を動揺させまいと、亡くなってすぐに家族は知らせてこなかったのだが、隣人の仲のいい女性から、お悔やみのメールが来て、舅の死を知った。

まず湧いてきたのは涙と後悔の念である。
たくさん、いっぱい、お世話になったのに、何もしてあげられなかった。二十年以上、異国の地で、二番目のお父さんで居てくれたのに、私はいい娘ではなかった。

本当にありがとうございました、お義父さん。

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