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前橋で、詩と暮らすということ。

noteをはじめてみようと思う。
ほかのSNSでは長い文章をしっかり書くことをしていないので、この場で書いてみることにする。

決めごととか、予定調和とかが嫌いだから、何を書くかは気分次第で、不定期投稿になるだろう。

どんな文章を書いても、そこには詩が流れている。
そんなふうになるといい。
詩、というより、ポエジー。詩情。

高校時代に近所の本屋で近代詩人の文庫本を買うようになり、詩という形態に無限の可能性を感じた。
ほどなく高校の図書室で思潮社の現代詩文庫を見つけ、何冊か読んで、その過程でシュルレアリスムを知り、詩という形態の可能性は確信に変わった。

つじつまが合わない。
意味不明の言葉が散りばめられている。
文法を無視。
自由奔放。
我が強い。
狂っている。

なんという素晴らしい表現形態だろう。
まるでぼくたちの生きている社会そのものじゃないか。

爾来、十数年の中断期間はあったが、詩を書き続けてきた。
でも、詩はそれほど読んでいない。
詩以外の本を読んだり、音楽、アート、映画、テレビ、インターネット、散歩、おしゃべり、そういうことのほうが、詩を読むより、ぼくの書く詩を豊かにする。

ぼくは、詩を中心に、暮らしている。
詩を読んだり書いたりして生活しているという意味ではない。
ぼくのやること、話すこと、考えること、感じること、そこにはすべて、詩が寄り添っている。

寄り添っている状態の詩は、詩情、ポエジーということになる。
それがなかったら、ぼくの生は無味乾燥となってしまう。

先ごろ、何日か東京に泊りがけで行って、余りの情報量過多に調子が狂った。
情報や刺激は、多すぎても、少なすぎても、詩情がうまく働かない。
ぼくの暮らす前橋という地方都市ぐらいが、詩に寄り添われて暮らすには、ちょうどいいのかもしれない。

写真は、敷島公園の松林。
萩原朔太郎も、利根川沿いの松林を好んで歩いたという。
前橋は冬の空っ風が有名だ。
別名、赤城颪(おろし)。

詩には、適度な隙き間が必要だ。
風が吹き抜けられるから。




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