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結局は根性の有無次第(「根性」と「無謀」を履き違えてはならない )

 いつからか根性という言葉は悪い言葉となった感があります。その要因として、根性という言葉を適切な場面以外で、滅多矢鱈めったやたらに使ってきたことにありましょう。結果として、根性という言葉が無謀むぼうの意味をはらむか、無謀と同義となってしまっているのです。

 例えば、実は病気のためにそれができないところを、無知がゆえに「根性がないからだ!」と子供に怒る大人。例えば、部下を使うだけ使って、部下が辞めたいと言ったり、過労で倒れると、「あいつは根性がない」とぼやく上司。例えば、身体が悲鳴をあげているのに、「根性だせ!」と自分を追い込んで怪我をする人、あるいは怪我をさせる指導者。これらは根性という言葉の誤用であり、濫用らんようであります。何事も、誤用・濫用は良くない結果をもたらします。薬物においても、職権においてもそうです。

 〔 新明解 国語辞典 第八版 〕によると、根性とは「処世態度・物の考え方・行動の仕方などを支える根本にあるととらえられる性質」です。無理を自分または他人に強いて行わせる様子だとか、身体の一部または全部を壊してでも何かをやり遂げる様子だとか、理不尽な要求に自分の心や体を犠牲にしてでも応える様子ではないのです。ちなみに無謀とは「それをした結果どういうことになるかを考えないで何かをする様子」です。

 さて、根性という言葉に対する誤解や悪印象を解く試みをしたところで私が思うことは、根性の有無次第で問題を解決できるか否かは変わるということです。

 根性の有る人は問題を解決できます。別の言い方をすれば、処世態度・物の考え方・行動の仕方などを支える根本がしっかりとしている人は、積極的に困難に立ち向かおうとする気力があります。また問題解決の際に心や体が壊れそうになれば決して無理はせず、(心や体が壊れる前に)休みます。何故これができるかというと、根性があるからです。処世態度・物の考え方・行動の仕方などを支える根本がしっかりとしているからこそ、心や体を壊してはいけないと分かるのです。休み、気力を養い、そして再び積極的に困難に立ち向かうのです。

 一方で、根性の無い人は問題を解決できません。別の言い方をすれば、処世態度・物の考え方・行動の仕方などを支える根本が脆弱ぜいじゃくである人は、消極的で困難に立ち向かうだけの気力はありません。またしばしば根性の無い人は「根性」と「無謀」を履き違えます。そのために心や体を壊してしまいます。

 根性の有る人は、問題を解決することに力を注ぐことができます。根性の無い人は、問題から逃げてしまいます。同じ出来事に対してでも、根性の有る人は、処世態度を心得ており、物の考え方が柔軟で、行動の仕方を体得しており、またそれらを支える根本がしっかりとしているため、動揺することなく、良い結果をもたらすことができます。一方で、根性の無い人は、処世態度を心得ておらず、物の考え方に柔軟性がなく、行動の仕方を体得しておらず、またそれらを支える根本が脆弱であるため、動揺し、良い結果をもたらすことができません。

 ここで「根性の有る人になるにはどうしたらよいか」「根性をきたえるにはどうしたらよいか」という問いが生じます。これは飽くまでも私の持論ですが、まず「根性」と「無謀」を履き違えないことです。まずはここからです。次に処世態度・物の考え方・行動の仕方などを学び、実践することです。スポーツを通して、あるいはスポーツでなくとも厳しい環境に身を置いて挑戦・体験することで、処世態度・物の考え方・行動の仕方などを学び、実践できます。そして、学び・実践をする中で、自分に合った、一所懸命に情熱を持って取り組める(合法の)事に没頭するのです(もし自分のやりたい事が非合法なのであれば、それが合法である土地に移る手があります)。

 終わりに、スポーツの効用について「なるほど、その通りだ」と感じ、思わずうなずいた文章をここに引用します。

 スポーツの効用の最たるものは、その競技でなんとか強くなってやろうと努め、つらい練習に耐えることで培われるこらしょうだ。心理学ではそれを人間の「耐性」というけど、耐性の弱い奴は人生でまともに生きてはいけない。動物行動学の泰斗たいとコンラート・ローレンツは「子供の頃肉体的な苦痛を味わわされることのなかった者は、成長した後不幸な人生を送ることになる」といっているが、これはスポーツに限らず、家族で甘やかされ厳しいしつけを受けなかった子供の将来をいっているんだ。それは単に少年期、青年期の肉体や健康のことだけではなしに、子供なりの社会の中での生き方を暗示している。

〔男の粋な生き方(著者:石原慎太郎)〕

 私にとって根性の有る人は、大変魅力的です。

あとがき

 勃起障害(Erectile Dysfunction)の人に、あるいはそのイチモツに向かって「根性だせ!」と叫んでみても、たたないものはたたないのです。EDのイチモツに「根性だせ!」と叫ぶ人の姿を想像してみてください。どうですか? なんとも滑稽こっけいな姿でしょう。「森林を増やす!」と正義感たっぷりに言いながら、同時に「二酸化炭素をゼロにします!」と、これまた正義感たっぷりに発表する姿と同じくらいに滑稽でしょう(光合成に二酸化炭素は必要)。根性云々うんぬんよりもEDの彼には治療が必要なのでは、と貴方は鼻白むことでしょう。

 根性という言葉の誤用と濫用により、根性という言葉は本来の意味を失い、あたかも悪い言葉となってしまっているわけですが、これはまるで、はたから見れば単なる幼稚な集団での嫌がらせにもかかわらず、カルト側としては飽くまでも「聖戦」なのであり、また「革命」「正義」「愛国」と主張してその言葉をけがすのと同じ様です。

 改めて根性とは「処世態度・物の考え方・行動の仕方などを支える根本にあるととらえられる性質」です。無理を自分または他人に強いて行わせる様子だとか、身体の一部または全部を壊してでも何かをやり遂げる様子だとか、理不尽な要求に自分の心や体を犠牲にしてでも応える様子ではありません。『巨人の星』は根性ものとして広く知られていますが、私からしてみれば、気の毒ではありますが、あれは無謀ものです。

 私の根性がきたえられたのは長期の勾留のためであったと確信しています。約3年に1度は県外を転々とする転勤族の子であったこと、仕事、スポーツ、勉強などを通しても、根性は無意識のうちに鍛えられていたのでしょうが、長期の勾留での根性の鍛えられっぷりを思えば、比ではありません。

 良い処世態度・良い物の考え方・良い行動の仕方、これらに共通して含まれていること、それはこらえるということです。〔新明解 国語辞典 第八版〕によると、こらえるとは「苦痛や不満などによって失われそうになる心身の安定を、なんとかして保とうと努力する」ことです。どう足掻あがいてもこらえるしかない環境は、私の根性を大いに鍛えてくれました。また、読書を通して、他者の人生を読むことを通して、処世態度・物の考え方・行動の仕方を、娑婆の空気しか知らなかった時よりも圧倒的に多く学んだのです。

 (少し話がれますが、)私は根性という言葉を口にした人をまるで侮蔑と軽蔑の目で見る同年代の人に対して違和感をずっと抱いていました。「時代遅れだ」と嫌悪し、根性を口にした人を非難する同年代の人に、ずっと違和感を抱いていました。何故なら、私は根性は必要だと考えるためです。しかし私は、この根性という言葉を毛嫌いする彼らに対して、根性は必要であると主張するための知識や経験、またそれらを言語化するだけの力を持っていなかったため、何年にも渡ってモヤモヤとしていました。と同時に、根性を毛嫌いし、「時代遅れだ」という彼らが、何か困難に直面すると、何がなんでも人のせいにしたり、酒に逃げたり、女に逃げたり、男に逃げたり、ひきこもりになったり、鬱状態になったり、すぐに「死にたい」と嘆いて絶望する姿が見られるようになったことは、より私に「根性は必要だ」という考えを強くさせました。

 年月が経過し、知識や経験が増えるにつれて、私は気づくことができました。彼らが嫌悪し、毛嫌いする根性とは、つまり無謀のことではないかと。彼らだけでなく、多くの人が根性と無謀とを混同して考えてはいないかと。履き違えてはいないかと。無謀を嫌うこと、また無謀を強いられれば抵抗・反抗するのは当然の反応です。ただ、彼らに根性が無かったのは確かです。根性と無謀を混同し、あるいは履き違えたためか、彼らが本来の意味での根性をつちかうことをおこたったのは確かです。

 状態を正しく認識して具体的に言語化することは、簡単ではありませんが、しかしとても大切なことです。例えばそれができない鬱状態の人は、しばしば「死にたい」と口にします。あるいは、そう書き込みます。ですが彼らは本当に「死にたい」のではありません。「私は今、死にたいと思う程つらい状態だ。でも、このつらい状態から抜けだすにはどうしたらよいのか分からない。誰か助けて!」というのが本当のところです。周りの人からしても、「死にたい」と言われるより、「私は今、死にたいと思う程つらい状態だ」と言われた方が、どうしたの? どうしてそう思うようになったの? と手を差しのべやすく、鬱状態の人にとっても、そのように質問され、手を差しのべてもらうことで、自分を客観視する機会になり、よって問題解決のための糸口を見いだしやすくなります。今の自分の状態を正しく認識して具体的に言語化できないからこそ、また、鬱状態だからこそ、「死にたい」と言うことになるのですが、これでは周りの人からしてみれば手を差しのべづらく、また、「死にたい」ということで脳は実際にそのように認識しますから、鬱状態はより深刻になります。悪循環です。

 状態を正しく認識して具体的に言語化できるか否かは、大袈裟おおげさではなく、命を左右します。人生の明暗を左右します(私が今流行はやりのカタカナ語の多用、つまり「フラットな関係」だとか「コンセンサスを得る」だとか「ファクター」だとか「コミット」などといった言葉の使用を極力避けている理由は、状態を正しく具体的に把握し、認識したいためです。相手に自分の伝えたいことを正しく伝えたいためです。無論、相手が英語圏の人であれば、頑張って英語を使用します)。

 (少し逸れていた話を戻します。)こらえることを続けられれば、堪え性が身に付きます。堪え性が身に付いている人は、多くの人が不運・不幸だとして嘆き、悲しみ、あるいは不平不満をいつまでもグダグダと口にしてそれで終わらせてしまう出来事を僥倖ぎょうこう(=予想もしなかったような幸運)に変える力があります。また、堪え性が身に付いている人は「待つ」ことができます。「やり抜く」ことができます。「成功の大きな秘訣はいかに待つかを知ることである」とはホセ・マルティ氏(キューバ建国の英雄)の言葉です。そして次の引用は『エメラルド王』早田英志氏の言葉です。

 失意のどん底にある人に「発想の転換をして希望の人生を」と言うのはいたって簡単なこと、理論的にも正しい。但し、そういう重大な心の問題が一片の言葉の理論で解決できるものではない。教則本流行りの日本でもあるが、人間の資質の根底である根性というものは教則本では決して作れない。
 それは経験をもとに本人が体で学習していくものであるからだ。それはまず悩める本人が《失意の人生から立ち直ろう》と強い自覚と決意をすることから始まる。そこに夢すなわち目標を描き、少しずつでも計画を実行していくことだ。一番大事なことは途中で絶対にあきらめないこと、必ずやり抜いてみせるという信念を持つことである。このやり抜いていく《力》が根性である。何がなんでもやり抜き通せ! 成果に関係なくやり通せた時、あなたに一端の根性が身についているはずである。そうなればもう人生に怖いものなし、新しい人生観が生まれ、そこから新しい人生が開けるのだ。
 《人生は打算的なものではない。やってみて何が生まれるかである》
 それが価値あるものなら、何でもよい。少しばかり時間がかかろうが、決して格好よくなかろうが、たとえ危険であろうが、やってみることだ。やり通した時、そこで得るものは未だあなたが想像できない大きいものであることを保障しよう。私は自分の人生経験からそう言っている。

〔死なない限り問題はない(著者:早田英志)〕

これらの人生に対する積極的な姿勢を支えるものこそが鍛えられた根性であります。

 この随筆が貴方の根性をつちかうきっかけとなれば嬉しいです。最後まで読んでくださり、有り難うございます。