死ぬのが怖い人へ(6)

前回まで、親鸞会を退会した私は、死の問題を解決するために浄土真宗の獲信者(ぎゃくしんしゃ)を探し、キヨマルさんと出会った話を書きました。本で読んだ妙好人と同じように、浄土真宗の救いを疑いなく喜ぶその姿に驚かされたものです(※第5話を参照)。


葛藤(かっとう)の始まり

キヨマルさんと出会った後もあきらめずに情報収集を続けていた私は、数人の獲信者と思われる人々と知り合いました。なぜ私はその人々を獲信者だと思ったのか? それは妙好人の特徴と一致していたからです。その特徴とは「阿弥陀仏の本願に対して疑いが無い」というもの。

彼らが言うのはどれも同じで、獲信すると(他力信心を得ると)あのおとぎ話のような阿弥陀仏の話が真実として聞こえる、とのことでした。たしかに妙好人の言行録を読んでみると、彼らは阿弥陀仏の本願に対して全く疑いが無く、それによって死の不安を超越していました。これはキヨマルさんにも共通していた点です。

浄土真宗にのめり込んでいた私は、あることに気づきました。獲信者と思われる人々と話をしていると、急に理解できなくなる部分があるのです。

それは阿弥陀仏の本願についてです。特に「極楽に生まれさせてもらう」「仏に成らせてもらう」というところでした。確かに阿弥陀仏の本願には「あなたを極楽に生まれさせて成仏させる」と説かれてはあります。

しかし目の前の人間から「僕が死んだらね、極楽に生まれて仏に成らせてもらうんだよ」と、まるで死ぬのを楽しみにしているかのように話されると、宇宙人と話している気分になりました。

(大げさかもしれませんが、本当に宇宙人のように感じました)

話していると宇宙人のようでしたが、彼らの中で死後に対する不安が解決されているのはよく伝わってきました。

中には「あんたはもう阿弥陀仏の網(あみ)にかかっとる」と言ってくれる人もいました。他力が働きかけているのだという意味らしいのですが、私には阿弥陀仏が自分に働きかけてくれているとは思えませんでした。阿弥陀仏の存在を全く信じていないのですから当たり前です。阿弥陀仏なんてどこにいるんだ・・・という感じでした。

ここで読者のみなさまに「阿弥陀仏の本願を疑い無く聞く」ということがどれほど特殊なものかを知っていただくため、阿弥陀仏の本願の話を再掲します。

阿弥陀仏の本願

仏教では「仏に成る(悟りを開く)」ということが最高のゴールである。なぜなら仏というのは、全く執着や苦しみのない理想の境地だから。

しかし仏に成るには、普通の人間には不可能なほど厳しい修行をしないといけない。それでは修行ができない一般人は、いつまでたっても苦しみの世界から抜け出ることができない。

ところがはるか昔、法蔵(ほうぞう)という修行者がいた。その修行者はとても慈悲深く「迷い苦しみ続けている者たちを、極楽に往生させ、仏に成らせてみせる」という願いを起こした。

気が遠くなるほど長い間、厳しい修行をして善根を積み続けた法蔵は、その修行の功徳を「南無阿弥陀仏」に詰め込んだ。迷い苦しむ者を救う「南無阿弥陀仏」を完成させたわけである。法蔵は阿弥陀仏という仏になった。

そして今、私が南無阿弥陀仏ととなえること(いわゆる念仏)は、阿弥陀仏から与えられたものである。

南無阿弥陀仏ととなえる者は、死ぬと同時に、極楽浄土と呼ばれる素晴らしい世界へ生まれ、仏に成らせてもらえる―――これが阿弥陀仏の誓願(約束)であり、阿弥陀仏の本願と呼ばれる。

というお話です。

「法蔵という修行者がいて、私のような苦しむ衆生のために修行をして、ついに南無阿弥陀仏を完成させて、阿弥陀仏という仏と成った」・・・

・・・困ったことには、何度この話を聞いても、全く信じられませんでした。

こんな物語を現代人の私が信じられるわけもありません。何回聞こうが内容が変わるわけもない。おとぎ話としか思えないものは、おとぎ話としか思えませんでした。

しかし妙好人たちは、このお話を真実として聞けていたわけです。つまり妙好人のようになりたければ、 阿弥陀仏の本願に対する疑いが無くならなければならない。それは妙好人の言行録を読んでも、浄土真宗の聖典を読んでも、あまりに明らかなことでした。

以前にも書きましたが、妙好人・庄松(しょうま)には「どこにいても、寝ているところが、極楽の次の間(ま)だ」という言葉があります。この言葉を読んだ私は、妙好人について1つ理解できました。人間は常に死と隣り合わせで生きていますが、「いつ死んでも極楽浄土に生まれて仏に成れる」ならば、それはとても大きな安心が得られることでしょう。妙好人たちは死の問題を超越した言葉を残していますが、獲信を抜きにしては話が始まらないのだな、ということがよく分かりました。

つまり

 阿弥陀仏の本願に対する疑いが無くなる(獲信する)
    ↓
 死に対する不安が解決される

という順番です。


疑いの正体

ではこの「阿弥陀仏の本願に対する疑い(本願疑惑心)」とは、具体的にはどんなものなのでしょうか?

「疑い」といえば、私も日常生活の中で疑いを持つことはあります。「あの人はウソをついてるんじゃないか?」「この商品は本物だろうか?」といった疑いです。

しかし浄土真宗においては、そのような一般的な疑いは問題にしないとのことでした。なぜなら人間には欲望、怒り、憎しみ、そして疑い・・・いわゆる煩悩がたくさんあります。そして浄土真宗では煩悩は死ぬまで無くならないと教えるのです。つまり「あの人はウソをついてるのでは?」「このダイヤは本物か?」というタイプの疑いは、無くならなくてよいわけです。

しかし、ある特別な疑いだけは無くなるべきであり、それが阿弥陀仏の本願専用の疑いなのです。これを本願疑惑心(ほんがんぎわくしん)とか疑蓋(ぎがい)と呼びます。

では妙好人たちはいつの時点で本願疑惑心が無くなったのでしょうか? 彼らが浄土真宗の教えを聴聞する前は、まだ本願疑惑心があったことになります。お寺で法話を聞くようになってからも、獲信できずに長い間ずっと悩んだという記録が残されています。つまり私と同じように、阿弥陀仏の本願が分からずに悩んでいた時期があるということです。

しかし妙好人たちは、ある瞬間を境に、阿弥陀仏の本願を真実として聞けるようになっています。本願疑惑心が除かれた(獲信した)わけです。

図で説明すると以下のようになります。

この図のような変化が起きたことになります。では何が変わったのか? それはたった1点だけ。阿弥陀仏の本願に対する疑いが無くなったのです。

ちなみに獲信のことを「疑蓋(ぎがい)が外れる」とも表現されます。これはどういうことかというと、阿弥陀仏の誓いに対する疑いの蓋(ふた)が取られる、という意味です。

上の図のように、最初は疑いの蓋が邪魔をして、阿弥陀仏の誓いをそのまま聞くことができません。
 
そして獲信すると、下の図のように疑いの蓋が外れて、阿弥陀仏の誓いを疑い無く聞けるようになります。

 
妙好人たちは獲信していた、つまり「本願疑惑心が無かった=疑蓋が外されていた」ということになります。

例えば妙好人の源左をモデルにしてみますと、下の図のようになります。

獲信前(未信)の源左には、まだ疑蓋がありました(図の左側)。しかし獲信後には、疑い無く阿弥陀仏の本願を聞くことができました(図の右側)。妙好人の独特な言動は、疑蓋が外されたことによって生まれたものなのです。

 *  *  *  *  * 

というわけで私の目標は明確になりました。本願疑惑心(疑蓋)が除かれた身になればよいのです。私はこの目標を達成するために、行動しつづけました。

※ちなみに本願疑惑心が除かれることを「他力信心を得る」「真実信心を得る」とも言います。疑い無く本願を聞くことは、本来ならば、煩悩まみれの凡夫には不可能です。たとえ私のような凡夫が自力で信心を起こしたとしても、本願を疑い無く聞けるような清らかで真実な信心は作れない。

しかし疑蓋が除かれて本願を真実として聞けるようになった人は、阿弥陀仏による(他力による)清らかな信心を頂いたとも表現できます。よって獲信することを「他力信心を得る」とも言うわけです。

本願疑惑心を除かれる・獲信する・他力信心を得る・・・色んな言い方がありますが、いずれも中身は同じなのです。


試行錯誤の日々

さて、目標は決まったものの、どうすれば本願疑惑心が除かれるのか、よく分かりませんでした。

そこで獲信者と思われる人々に相談してみました。すると「あなたはまだ阿弥陀仏の本願をはからっているようだから、思いつくことを全部やってみればいい」と助言してくれた人が複数いました。私は思いつくことを全部やってみることにしました。

ただし「全部やる」といっても、親鸞会(※第四章を参照)のように師匠の本を売り歩いたりなどは、決してしませんでした。なぜなら妙好人がやっていなかったからです。

私にとっては妙好人が人生の先輩でしたから、まずは彼らがやったことを調べて同じことをしようと考えました。妙好人たちはお寺にいって法話を聴聞し、分からないことを質問していたと記録してあります。なので私も同じようにしてみました。

法話ではお坊さんが浄土真宗の教えを話してくれます。そして法話を聞いて出てきた疑問を、獲信者と思われる人々に質問していきました。

すると、少しずつ「これに取り組めばよいのではないか?」と思えることが見えてきました。
私が取り組んだことは主に、以下の1、2、3となります。

 1、教えの内容を正確に理解した
 2、念仏するようになった
 3、自分側の視点ではなく、阿弥陀仏側の視点で考えるようにした

長くなりますが、順に説明しましょう。


取り組んだこと1、教えの内容を正確に理解した

さて、阿弥陀仏の本願はまるでおとぎ話のようなものですが「おとぎ話みたいで分からん」とばかり言っていても仕方ありません。私は浄土真宗の教えについて、基本から理解することにしました。

以前から大ざっぱに浄土真宗の教えを知っていましたが、間違いや見落としが無いように、正確に学ぶことにしました。

浄土真宗の基本となる思想には、無常・罪悪・輪廻・仏願があります。1つずつ説明し、私が持った感想も書きましょう。

●無常・・・「諸行無常のひびきあり」という平家物語のフレーズが有名ですが、無常とは物事はかならず変化するということです。人の気持ちから世界情勢まで、あらゆるものが時間とともに移り変わっていきます。特に「私の命も無常である」と、ごまかさずに教えます。

しかも仏教の説く無常は厳しく「もし今、この息が吐けなかったら死ぬ。もし次の息を吸えなかったら死ぬ」というもの。

ここからは無常の教えに対する私の感想です。
たしかに変化しないものはありませんし、厳密に考えれば、災害や事故や急病などで私が今死ぬ可能性もあります。実際に日本では年間100万以上もの人間が死んでいるので、これは科学的な考えといえます。

まだまだ生きていられると思うからこそ、身近な人が死んだ時に「まさかあの人が・・・」「昨日まで生きていたのに」と驚くのでしょう。

むしろ私の中の「まあ今年いっぱいは生きているだろう」といった思い込みの方が、はるかに非科学的だと言えるでしょう。


●罪悪・・・私たちが住む人間社会では、物を盗んだり人を殺したりすると、大きな罪となります。つまり悪い行動をすると、捕まえられて罰せられるわけです。
しかし仏教における罪は、人間社会で罰せられる罪よりも厳しいものです。なにせ罰せられるのは行動だけではありません。心の中で怒ったり、妬んだり、憎んだりしただけでも罪となるのです。

参考までに、仏教で罪となる代表例を挙げておきます。

十悪(じゅうあく)・・・体・口・心で起こしてしまう悪いことです。仏教用語なのでむずかしい言葉に見えますが、その中身は私たちが思い当たるものばかりです。

 殺生(せっしょう)・・・生き物を殺す。
 偸盗(ちゅうとう)・・・人の物を盗むこと。泥棒やスリ、強盗。
 邪婬(じゃいん)・・・・配偶者ではない人と性的な関係を持つ 。
 妄語(もうご)・・・・・嘘をつくこと。
 両舌(りょうぜつ)・・・仲たがいをさせる言葉。二枚舌。
 悪口(あっこう)・・・・人を傷つける言葉。
 綺語(きご)・・・・・・誠実でない言葉。おべんちゃら。
 貪欲(とんよく)・・・・とても欲深いこと。我欲。
 瞋恚(しんに)・・・・・怒りの心。
 邪見(じゃけん)・・・・因果の道理が分からず、恨んだり嫉妬すること。

(ちなみに、これらを犯さないことを十善といいます)

さらに重い罪として、五逆(ごぎゃく)があります。五逆罪は、以下の5つです。

 殺父(せっぷ)・・・父を殺すこと。
 殺母(せつも)・・・母を殺すこと。
 殺阿羅漢(せつあらかん)・・・阿羅漢 (聖者) を殺すこと。
 破和合僧(はわごうそう)・・・仏教の集まりの輪を乱すこと。
 出仏身血(しゅつぶっしんけつ)・・・仏様の身体を傷つけて血を出させること。

罪悪については以上です。

ここからは罪悪の教えに対する私の感想ですが、はっきりいって「厳しすぎるのではないか?」と思いました。心の中の怒りや口でウソをつくだけでも大罪になるのならば、みんな悪人になってしまうじゃないか・・・。
しかし妙好人たちは「自分こそ悪人である」という意味の言葉を多数残しています。なぜそこまで自分を悪い人間だと思えるのか、分かりませんでした。


●輪廻(りんね)・・・十悪・五逆罪を見ると、私は五逆罪は犯していませんが、十悪はいくつもやっています。
では罪を犯した者はどうなるのか? というと、輪廻(りんね)すると教えられます。悪いことをした結果として、苦しい世界へ生まれることになる。いわゆる因果応報ですね。

どんな世界へ生まれ変わるかというと、仏教では6つの世界(人間・天上・修羅・餓鬼・畜生・地獄)を説きます。これを六道(ろくどう)と呼びます。

煩悩を断ちきれずに罪悪を作りつづける私のような人は、6つの迷いの世界から抜けられず、ぐるぐる回るように迷い続けているというわけです。これを六道輪廻(ろくどうりんね)といいます。

1つずつ説明すると、

・人間・・・私たち人間の世界です。煩悩による苦しみの多い世界。ただし六道で唯一、仏教に出会える可能性がある。
・天上・・・天人(てんにん)の世界。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命も長く、人間に比べて苦しみも少ない。しかし煩悩から解放されていない。天人が死ぬときには、それまで楽の多い暮らしをしてきたがゆえに、多大な衰えを味わう(天人五衰といい、三島由紀夫が小説のタイトルに使ったことでも有名)。
・地獄・・・重い罪悪を犯した者が生まれる世界。罪が重い者ほど大きな苦しみを受ける。
・餓鬼・・・餓鬼(がき)の世界。餓鬼とはお腹がふくれた鬼のこと。食べ物を口に入れようとしても火になって消えてしまう。餓えに苦しみ続ける。
・畜生・・・犬・牛・馬など動物の世界。本能で生きており、仏教の救いを得ることができない。
・修羅・・・戦いの鬼である阿修羅(あしゅら)が住む世界。争いが絶えない。

となります。

ここから輪廻の教えに対する私の感想です。

輪廻については正直いってかなり抵抗がありました。
「次の世界へ生まれ変わる」というだけでも非科学的に聞こえました。六道輪廻のことを聞いて「科学技術が発達した時代に、地獄や天上や極楽の話なんて・・・」と思いました。昔の人なら信じたかもしれないけど、地獄なんて非科学的だなあ、と感じたのです。

ところが妙好人たちは、地獄や極楽についての言葉をいくつも残しています。ならば私としては、とりあえず理解しないわけにはいきません。

前述しましたが、仏教における罪の基準は厳しいので、下のNAVERまとめページにもあるように、私が地獄に行く可能性もあるということになります。

Naverまとめ『怖いもの見たさで・・・地獄ってこんなとこ!』https://matome.naver.jp/odai/2136395808823301901

地獄の存在など信じられませんでしたが、死後は100%不明ですから、全くあり得ない話とも言い切れません。「もし地獄に落ちないといけなかったら嫌だなあ」と思いました。

輪廻の感想はここまでです。

なお次は仏願(ぶつがん)の話になります。これは何かというと、このページでも再掲した「阿弥陀仏の本願」をより詳しく開いた部分です。くり返しに見えますし長くなりますが、浄土真宗の重要なところですので、正確に説明します。


●仏願(ぶつがん)・・・輪廻までの話だけだと、私のような凡夫には救いが無いように思えます。悪いことをしているので死んだら苦しい世界へ生まれ変わり続ける存在・・・。しかし、です。そんな悲しい存在を救うべく、遠い遠い昔に、立ち上がった方がおられました。

その方は元々、ある国の王様でしたが、あるとき、すばらしい仏様の教えを聞きました。それは世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏様で、感激した王様は出家し、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)と名乗って修行を始めました。

優れた修行者であった法蔵は「迷い苦しむ全ての衆生を救おう」と思いました。罪悪をやめられず輪廻を繰り返している衆生をも救う、と決めたのです。

どのようにすれば仏道修行のできない凡夫までも救えるのか? 法蔵は、世自在王仏に助言を求めました。そして長い長い間、救う手段を考えました。これを五劫思惟(ごこうしゆい)と言います。とは非常に長い時間の単位で、思惟とは考えるということです。

そして法蔵は48の願いを起こしました。これらの願いは、

 ・衆生を仏にするための素晴らしい世界(極楽浄土)をどんな所にするか
 ・どうすれば衆生は極楽浄土に生まれられるのか
 ・極楽浄土に生まれた衆生はどうなるのか

などを表わしたものです。

この中の18番目の願い(第十八願)は、「南無阿弥陀仏をとなえる者を必ず極楽浄土へ生まれさせ、成仏させる」という内容です。凡夫の救いに直接関わってくる重要な願いなので、王本願(おうほんがん)とも呼ばれます。

さて、全ての衆生を救うとを誓った法蔵は、この願いを完成させるための修行を始めました。永遠のように長い時間がかかったので、これを兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行と呼びます。

この修行の間、法蔵菩薩は欲望や怒りの心など持たず、何にも執着せず、どんな辛いことにも耐え忍びました。

限りない智慧を持ち、慈愛に満ちた顔と優しい言葉を使い、仏・法・僧をうやまいました。悟りの世界へ至るための修行を続け、他の人にもこれを教え導きました。兆載永劫という長い間、功徳(善)を積み重ね続けました。

ところで、なぜ法蔵はこのように膨大な修行をされたのでしょうか? それは善行のできない劣った衆生のためです。心が清らかで積極的に善を行う衆生ばかりであれば、法蔵がこれほどの修行をする必要はありませんでした。仏道修行ができない、怒りや憎しみの心を消せない、殺生などの悪を止めることができない凡夫の代わりに、法蔵が修行して功徳を積んでくださったということです。

では、法蔵のご修行の結果はどうなったのか? 今から十劫の昔に、法蔵はついに本願を成就させました。とうとう救いが完成したのです。

法蔵は悟りを開き、阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏様になられました。阿弥陀仏の国である極楽浄土も完成したのです。極楽浄土は清らかな場所であり、一切の苦しみがありません。そこに生まれた者はすぐに仏の悟りを開きます。さらに仏の悟りを開いた後には、苦悩する衆生を自由に救いにいけるようになります。これを還相回向(げんそうえこう)と言います。

法蔵の長い長いご修行の功徳(善)はすべて、南無阿弥陀仏に詰め込まれました。

「南無阿弥陀仏をとなえる者を極楽浄土に生まれさせ、成仏させる」という救いが完成したのです。

南無阿弥陀仏とは何かというと、阿弥陀仏からのプレゼントなのです。なぜなら私たちが称える南無阿弥陀仏には、極楽浄土に生まれて成仏する功徳が詰め込まれているからです。

ー ー ー(教えの内容は以上です。)ー ー ー


さて、ここまで浄土真宗の教え(無常・罪悪・輪廻・仏願)について詳しく説明してきました。獲信したかった私は「教えを正しく理解すれば何かが変わるだろう」と期待していたので、むさぼるように教えを学んだわけです。

しかし教えを正確に理解して判明したことは、私にはとても信じられない教えだとより明らかになっただけでした。

無常はとても納得できたのですが、罪悪は厳しすぎると感じました。また輪廻の話はファンタジーのようでしたし、仏願の法蔵や阿弥陀仏の話はそれこそおとぎ話としか思えない。

私は浄土真宗の教えを本で調べつづけ、お坊さんの法話もくり返し聴聞しました。

お坊さんがする法話では、前述した教えがくわしく説かれます。しかし教えをひととおり理解してしまったところで、限界が来ました。お坊さんによって学問的に説く人もいれば、感情的に説く人もいましたが・・・。どちらにしても阿弥陀仏の本願を説明したものなので、私の本願疑惑心が除かれていなければ、おとぎ話のままであることに変わりは無かったのです。

学問的な説明を聞いて「なるほど」と頭で納得できても、もしくは感情的な法話を聞いて「私はそんなにも阿弥陀仏から大切にされている存在だったんだ」と感動しても、それらは獲信とは違います。本願に対する疑いが除かれていなければ、獲信者とは言えないのです。

いくら信じ込もうとしても、自分の中の「おとぎ話みたいだ、信じられない」という思いは、ごまかせませんでした。

その後も法座には顔を出しつづけたのですが、実質的にはここで「教えや法話を正確に理解すれば獲信できるはず」という望みが断たれました。

ガッカリした私は、次なる手段を探すことになります。


(次回の記事は、困り果てた私がもがきながら浄土真宗と取り組んだ日々を書く予定。興味がある人、続きを読みたい人はシェア・ツイートしてくださると執筆の励みになります)

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久保龍雲

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