死ぬのが怖い人へ(8)

前回までに、私は「浄土真宗の教えを正確に理解する」「念仏をとなえる」の2つに挑戦しました。しかし獲信するどころか、教えを信じていない自分が見えてくるばかりでした(※第6話第7話を参照)。このページでは、追い込まれた私が最後の望みを託したものについて書きます。


意外な発見

頼りにできるものが手元に無くなった私は、獲信者と思われる人々(※第5話を参照)に質問を続けました。

私は「獲信したいのに出来ない」「念仏しても意味が分からない」「教えの上では『念仏となえる者を仏に成らせる』と説かれるが、救われた実感が全く無い」と、自分の思いを話していきました。

ある日、阿弥陀仏について全く分からない・・・という悩みをぶつけていると、「そりゃあ、阿弥陀仏とか極楽とか輪廻とか、私も分からないよ」と答えてくれた人がいました。

それを聞いた私は「えっ!?」と、とても驚きました。

私はそれまで、獲信者は阿弥陀仏や極楽や輪廻のことを分かっているはずだと思い込んでいたからです。

というのも妙好人の特徴は、阿弥陀仏の救いを喜ぶ点にあります。私が出会った獲信者と思われる人々も、大いに阿弥陀仏の救いを喜んでいました。

だから私は「自分も阿弥陀仏の救いを喜べるように成らなければいけない。阿弥陀仏のことを分かる必要がある。そうすれば死の不安も解決できるはずだ」と思い込んでいたのです。

なのに、目の前の獲信者と思われる人が「私も阿弥陀仏のことは分からない」と言っている・・・。

正直、夢かと思うほど驚きました。だって阿弥陀仏のことが分からないなんて、私と同じじゃないか???

しかしそこで、私はあることを思い出しました。

それは獲信者と思われる人々がきわめて普通だということです。

彼らには阿弥陀仏の救いを喜ぶという特徴がありますが、それ以外はまったく凡人と変わらないのです。明るく笑うこともあれば、落ち込んだり怒ったりする時もある。そういう喜怒哀楽は全く変わらない。外見だって雰囲気だって、一般人と何も変わりません。

もしかして・・・私は何か大きな勘違いをしてるんじゃないだろうか? と思いました。どうも方向がズレているような気がする・・・。

私は獲信者のように喜びあふれる人生を送りたいと思っていましたが、彼らだって「阿弥陀仏のことなんて分からない」と言っていて、そこは私と同じです。

では一体、獲信者と私ではどんな違いがあるのか? その違いを正確に知りたいと思いました。


私と獲信者の同じ部分

そもそも獲信者だって、私と同じ凡夫なわけです。欲・怒りなどの煩悩を滅した聖者ではありません。

たとえば妙好人の記録を見ても、因幡の源左がうるさくさわぐ孫たちを大声でしかりつけ、周りの人を驚かせたという話が残されています。普段は誰よりも温厚で善良な源左が、腹底から怒りの声を出したそうです。つまり煩悩があるという点では、私も源左も同じ。

では何が違うのか。どこまでが同じで、どこからが違うのか?

ふたたび獲信者と思われる人々に質問していったところ、興味深いことが分かりました。

私と彼らに共通するのは、煩悩に振り回されて生きているところ。

たとえば、嫌なことがあれば腹が立つ、悲しいことがあれば泣きたくなる、うまい料理を食べたいと思う、死にたくない、死んだらどうなるか分からない・・・など、そういう部分は同じとのこと。

さらに驚いたことは、浄土真宗の教えについても、私と共通する部分があったのです。

たとえば

・阿弥陀仏の本願はおとぎ話に感じる
・阿弥陀仏を見たことがない
・極楽浄土も地獄も見たことがない
・輪廻があるとは思えない
・念仏をとなえるのに恥ずかしさを感じる
・聴聞するのも好きではない

など。

獲信する前も獲信した後も、これらの点は変わらないとのことでした。


私と獲信者の違う部分・・・聴聞の立ち位置

私が「本願をおとぎ話としか思えない」「念仏しても救われた実感が全く無い」という話をしていた時のことです。

ある人の「あんたは自分の思いにばかり注目しているようだね。阿弥陀仏が何を誓っておられるのか、ちゃんと聞いてるかい?」という言葉が心に残りました。

また他の人から「あんたの中の『獲信したい』とか『念仏が分からん』とか、それは全て自分の思いだろう? そうじゃなくて、阿弥陀仏が何とおっしゃっておられるか、よく聞いてごらん」と言われたこともあります。

確かに私は、獲信したいという思いだけが先走っていました。

そのため、いくら浄土真宗の教えを学んでも念仏をとなえても、ずっと「分からん、なんで獲信できないんだ」と、自分の思いにばかり注目していたのです。

しかし上記の助言を聞いてから、私は「自分の思いにばかり目を向けるのは、おそらく間違いだろう」と考えるようになりました。

なぜなら自分の思いにばかり注目するのは、浄土真宗の教えを聴聞するのではなく、自分の心の声を聴聞しているようなものだからです。

もちろん、自分の思いが出てくるのは仕方ありませんし、無くすことはできません。

ですが私は、自分の思いだけをガッシリ握っているような状態でした。いくら教えを聴聞しても「私にはおとぎ話のように感じる」という理由で、「だからこの教えには価値が無いのだ」という結論を出していました。

そのため、教えの内容を自分に当てはめたこともなかった。

つまり下の図のように、阿弥陀仏の本願よりも自分の思いを重要視していたわけです。


一方、獲信者と思われる人々は、まず阿弥陀仏の本願に注目していました。自分の思いよりも、阿弥陀仏の本願をスタート地点にして聴聞していたのです。


では私が人生の先輩だと考えていた妙好人はどうだったのか? それを調べてみると、やはり妙好人たちは、自分の思いではなく阿弥陀仏の本願を優先していました。

明らかに彼らは阿弥陀仏の視点に立って自分自身を見ていたのです。


自分の思いをいったん横に置いてみる

妙好人たちは本願の内容を自分に当てはめて聴聞していました。これは阿弥陀仏の本願を前提にした聴聞と言えるでしょう。

以前も書きましたが、たとえば因幡の源左には「このまま死んで行きさえすりゃ親の所(極楽)だけんのう。こっちは持ち前の通り、死んで行きさえすりゃええだいのう」という言葉があります。自分は死後に対して悩む必要など無く、ただ死んでいけばよいということです。

また六連島のお軽は「亡きあとに かる(お軽)をたずぬる人あらば 弥陀の浄土(極楽)に 行たと答えよ」という歌を詠みました。ここにも死ねばそのまま極楽に生まれるのだという境地が表現されています。

つまり妙好人たちは、自分側の「おとぎ話のように感じる」という思いではなく、阿弥陀仏側の「あなたを極楽に生まれさせ仏に成らせる」という視点から自分自身を見ていたわけです。

もちろんこれは、彼らが獲信者だからこそ可能だったという面もあるかもしれません。

しかしながら「自分にはおとぎ話のように感じる」という理由で教えを切り捨てる姿勢と、「自分にはおとぎ話のように感じるけれど、この思いをいったん横に置いて、教えを自分に当てはめてみよう」という姿勢では、大きな違いがあるはずだと私は考えました。

これを図にすると、以下のようになります。

この図のように、たとえ未信であっても「自分の思いはいったん横において、阿弥陀仏の本願を優先しながら聴聞する」のが大切ではないかと感じたのです。


  *   *   *   *   *


そこで私は視点を変えることにしました。

自分側の視点ではなく、妙好人を見習って阿弥陀仏側の視点で考えるようにしたのです。

これをイラストで表現すれば、下の図のようになるでしょう。

(阿弥陀仏から見た私の姿は?)


取り組んだこと3、自分側の視点ではなく、阿弥陀仏側の視点で考えるようにした

というわけで私は、阿弥陀仏側の視点に立って、自分の姿について考えてみたのです。

・・・が、いきなり「自分側の視点ではなく、阿弥陀仏側の視点で考えた」と言われても、よく分からないかもしれませんね。

なので1つずつ分けて、

 A、自分側の視点とはどのようなものか
 B、阿弥陀仏側の視点とはどのようなものか
 C、阿弥陀仏側の視点で考えた結果、何が明らかになったか

の順番に説明します。


  *   *   *   *   *


まず「A、自分側の視点とはどのようなものか」について。

自分側の視点とは、これまで書いてきたように、たとえば

・阿弥陀仏の本願はおとぎ話に感じる
・念仏しても救われた実感が無い

といったものです。

つまり自分側の思い・感覚・主張などですね。


  *   *   *   *   *


では「B、阿弥陀仏側の視点とはどのようなものか」について。

阿弥陀仏側の視点とは、たとえば

・私(龍雲)は輪廻をくり返し、迷い苦しみ続けている存在である
・そんな哀れな存在のために、気が遠くなるほどの修行をして南無阿弥陀仏(念仏)を完成させた
・阿弥陀仏の本願は真実である
・念仏となえる者は、極楽浄土に生まれて仏に成る

といったものです。

つまり阿弥陀仏の本願に説かれている内容であり、阿弥陀仏から見たらどうなるのか? という視点になります。

このように、自分側の視点と比べると、阿弥陀仏側の視点は全くの別物です。

では、どうしたら阿弥陀仏側の視点に立てるのか? そのためには、まず阿弥陀仏の視点についてよく知る必要があります。

「もしも自分が阿弥陀仏だったら・・・」と想像できるほどに阿弥陀仏について詳しく知り、浄土真宗の教えを自分に当てはめる必要があるわけです。


ここで少し、復習をしましょう。

第6話で説明した浄土真宗の教えに沿って考えてみると、法蔵菩薩が本願を建てると決めた理由は、罪悪をやめられず迷い続けている私を見たからです。


十悪や五逆といった罪悪を犯す者には、その報いが返ってくるので、次の世(来世)でも苦しい世界に生まれることになる。

阿弥陀仏の目から見れば、私は煩悩まみれで罪悪をやめられず、くり返し苦界を迷い続けている存在・・・つまり六道輪廻を続けているあわれな者ということになります。阿弥陀仏にとって私はとても大切な存在であるため、私を苦しみの世界(六道輪廻)から脱出させようとしておられる・・・それが阿弥陀仏である、と。

そのために、法蔵菩薩であったときに膨大な修行をして南無阿弥陀仏を完成させ、阿弥陀仏となられた。そして今、私に念仏をとなえさせることで、極楽に生まれさせ仏に成らせようとしている。

・・・と、復習はここまで。


浄土真宗の教えを簡単にいえば上記のようになりますが、これだけでは抽象的でよく分かりません。

さらに具体的に、現実を生きている私は、どのように阿弥陀仏の目にうつっているのか? それを調べる必要があります。

私は日常生活においてどんな罪を犯しているのか? 家族といるとき、嬉しいことがあったとき、悲しいことがあったとき、ケンカして怒っているとき、食事しているとき、仕事や家事の時間・・・。自分の体と心でどんな罪を犯しているのか? 

ここでキーワードになるのが「自分の都合」です。

私は基本的に、自分が心地良く生きられるように、自分が得をするように・・・という基準で行動しています。

つまり自分の都合を優先しているわけです。

そして自分の都合が邪魔された場合は、怒りの心が生まれます。

もちろん自分以外の存在を大切にすることもあるのですが、それもよく調べてみると、自分の都合で考えています。全ての生き物をちゃんと平等に愛しているかというと、そうではないのです。

たとえば人間に限っていうと、私はまず、家族や友達を優先して大切にする。なぜなら自分に近い存在だからです。だから災害などが起こったら、はじめに家族の安否を確認します。けっして平等ではなく、自己中心の優先順位があるわけですね。

また他の動物のことまで考えれば、牛・豚・鶏・魚などは、愛するどころか、食べ物として見ています。殺すことを前提にできるほど、自分から遠い存在だということです。

(しかし、もし牛や豚が私とよく似た姿をしていたら、食べるのに大きなためらいを感じると思います。なぜなら自分に近い外見になるからです。)

この「自分の都合」を図で説明すると、以下のようになります。

このように中心(自分の都合)に近ければ近いほど大切にできますし、遠い場合には食べたり殺したりすることができます。

牛・豚・鶏などの動物は食料として見ていますから、いくら動物愛護したいと思ったとしても、私や家族が餓死するような状況に追い込まれれば、動物から先に殺して食べることになるでしょう。虫などはもっと極端で、蚊や蝿が私の視界に入ったら、ほぼ無意識に、叩き潰そうとして手がピクッと動いてしまうほどです。

仏教では命の平等を説くのですが、その素晴らしい教えとはかけ離れた存在=私、ということになります。

さて、この自己中心的な私の姿をまとめると、以下のようになります。

・いくら罪悪の教えを聴聞しても、食事で肉や魚を食べるし、蚊や蝿が飛んでいれば殺そうとしてしまう自分(殺生をやめられない)

・いくら無常の教えを聴聞しても、知人の葬式に出席しても、有名人の訃報を聞いても、なぜか「他の人は死んでも、自分はまだまだ死なない」と考えている自分(無常が分からない)

・刑務所に入っている犯罪者を見たら「悪いやつだ」とは思うが、牛や豚や虫を殺してきた自分を悪人とは思えない自分(罪悪が分からない)

・罪悪や因果の道理を聞いたことがあるが、苦しい世界に生まれ変わるとは思えない自分(輪廻が分からない)

・真実の心で善いことをしようとしても、見返りを期待した善(雑毒の善)しかできない。

・本音をいえば、阿弥陀仏の本願はおとぎ話だと思っている(仏願を信じていない)

・本音をいえば、聴聞するのも好きではない

・いくら南無阿弥陀仏の素晴らしさを聴聞しても、念仏をとなえるのは恥ずかしい(念仏に大した価値を認めていない)

などです。

つまり、そんなお粗末な存在を見て「あわれな者よ、かならず念仏をとなえさせて極楽に生まれさせるぞ、仏に成らせるぞ」というのが阿弥陀仏の視点なのです。

ここまでが「B、阿弥陀仏側の視点とはどのようなものか」の説明です。


  *   *   *   *   *


それでは「C、阿弥陀仏側の視点で考えた結果、何が明らかになったか」について説明します。

阿弥陀仏側の視点で考えた後、自分側の視点に戻ってみると、怒りの心がわいていることに気づきました。

阿弥陀仏の視点を知れば知るほど、怒りの心が大きくなりました。

さらにひどいことには、信じてもいない阿弥陀仏に対して私は激怒していたのです。

(救いようがないとはまさにこのことだと、今になって思いますが・・・。)

当時の私は精神的に追い詰められていたため、何度も「浄土真宗になど出会わなければよかった」と思ったものです。しかし死の問題を解決できそうなものは他に見当たらない・・・。人生を捧げていたこともあり、やめるにやめられない状態で、「いつまでも獲信できないのは阿弥陀仏のせいだ」「まるでヘビの生殺しだ」と、大きな不満を抱いていました。

しかし怒りの理由は、それだけではありませんでした。

何が私に大きな怒りの心を起こさせたのか? それは仏願の内容と私が欲しいものが違うことでした。

仏願には「私を仏に成らせる」と説かれている。しかし私の本心は・・・「仏になんか成らなくていい! そんなことに興味は無い! おれは一日も早く獲信者となって、死に対する不安の無い最高の人生を味わいたいのだ!」と叫んでいたのです。つまり成仏という聖なるものではなくて、実は俗世での満足を求めていたわけですね。

まとめると以下のようになります。

 ・阿弥陀仏の願い → 私を仏に成らせる
 ・私の願い → 最高の人生を味わいたい

つまり私は、自分の「最高の人生を味わいたい!」という願いを満たすために法話を聴聞していたわけです。仏願の内容も、私の願いを満たしてくれるものだと考えていた。

しかし法話で説かれる中身は、私の欲するものとはまるで違いました。

仏願と比べてみてよく分かりましたが、私は完全な俗物でした。

ここまでが「C、阿弥陀仏側の視点で考えた結果、何が明らかになったか」の説明です。


もしも自分が阿弥陀仏だったら・・・

上記のように不満いっぱいだった私ですが・・・、少し落ち着いた後に、こんなことを考えてみました。

「もし自分が阿弥陀仏だったら、私のような存在を救いたいと思うだろうか?」と。

つまりふたたび阿弥陀仏の立場になって考えてたのです。

すると、自分がどれほどお粗末なのか、さらによく見えてきました。

罪を作り続けながら「本願はおとぎ話だ」「念仏は嫌い。恥ずかしいから人前ではとなえたくない」という存在・・・それが私です。
もしも私が阿弥陀仏だったら、そんな存在を命をかけて救わなくてはならない。

その存在が犯す罪の全てを肩代わりして、膨大な善行(仏道修行)をしなければならない。私のような存在を仏に成らせるためには、それが必要だからです。

本来ならば、その存在が自分で頑張って修行しないと仏には成れません。しかし、それを全て身代わりになってやらないといけないわけです。

その存在が虫を一匹殺したら、その殺された命を償うだけの仏道修行をしないといけない。しかもその存在は、日々反省も無く、殺生をくり返している。

さらには、逆恨みのように「獲信できないのは阿弥陀仏のせいだ!」と怒る。

・・・私が法蔵だとしたら、そんな存在を救うために仏道修行したいだろうか? と考えてみました。

もちろん答えはNOです。

少しでも仏道修行ができる善人ならまだしも・・・。素直に阿弥陀仏の本願を信じる者ならまだしも・・・。阿弥陀仏の存在を信じてもいないのに、獲信できないのを阿弥陀仏のせいにして激しく怒るような存在。

どこからどう考えても、私には「自分のような存在を救うために厳しい修行などしたくない」という結論しかありませんでした。


本音が暴かれていくサイクル

このようにして、私の中で

 ・阿弥陀仏側の視点に立ってみる → 自分の本性が見えてくる

というサイクルが何度か繰り返されました。

これによって、いかに自分が仏教からかけ離れた存在なのか、思い知らされることになりました。

まるで正体を隠すのに疲れた化け物が、少しずつ姿を見せていくかのようでした。

外見では仏教の救いを追い求めているが、一皮むけば、私はどうしようもない俗物だった・・・。

子供の頃から死の不安を解決しようと試行錯誤し、浄土真宗に希望を見出し、もがき続けて最後に見えてきたのは、とても救われそうにない自分だったわけです。

そんな自分の本性が明らかになってきて、獲信の手がかりが無くなった私の頭には、とうとう次の言葉が浮かんできました。


「まさか・・・もしかして・・・もしかしたら・・・私は一生、獲信できないのではないだろうか?」



(次回の記事は、私が出さざるを得なかった結論について書く予定です。興味がある人、続きを読みたい人はシェア・ツイートしていただけると執筆の励みになります)

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久保龍雲

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