36回:更新

 移動できる世界は徐々にしか広がらないのに飽きや既視感はさっさとやって来る。既視感の積み重ねによって世界観は一応更新されていると誤解して、誤解を見過ごしたままのうのうと暮らす。それなり楽しいではある。ずっと続けばいいと思う。時おり無性に虚しくなるとしても。
 11年前、新鮮さを伴って歩いた緑ヶ丘公園の近く。7年前、同じ道沿いを仕事帰り疲弊して歩いた。一昨日歩いたその道には面影だけがあった、思い出の。道路も建物も平気で変わる。それを更新と呼ぶかどうかは留保するが、思い出や記憶はその変化に無理やり付き合わされる。
 過去の話ばかりしだしたら終わりの始まりだと、心の底から恐怖する。始まりが終わらないのも恐ろしいが。anyway,昨日とあるイベントのバーカンに一日立ってみたら何かが久しぶりに更新された。台湾の生活や那覇の生活では更新されなかった何かである。詩性について新しい視野か視座のきっかけを掴んだような触れたような。14時間沖縄のhiphopの総括を爆音で聴き続けたおかげで。酸素は薄く湿気と音圧だけにさらされて生じた変化。過去にも何度か掴んだ“更新のイメージ”。一歩一歩とか積み重ねとかそういう速度感とは明らかに異なるやつ。これが来るとあれも来る、詩が生れて絵ができる。束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ系のバイブス。15年掛けての沖縄文学更新の目処。
 俺は生き残って書ききる。折れない鋼より硬く柳よりしなやかな筆を持っている。ただ重すぎて腕が痛い。少しだけ鍛えなおそう。走りながら本を読もう。歌いながら絵を描こう。俺はとりあえず進む。

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