27回:夜行者

 夜道を一人歩いてもただ汗をかくばかり。文字通り「人通り」がなければ襲われる心配も車に轢かれる危険性も一切ない。正直今晩は疲れた。フィジカル的には程々に、メンタル的にはガッツリ持っていかれた、どこか人知れないところに。
 さっきまで緊張するような相手と滅入るように飲んでいた。人と飲みに行くことなんて滅多にないからそれで既に人間の気力体力を司るポイント的なものが目減りしていた。ともかく疲労感があると会話も気持ちもはかどらない、グルーヴが生じない。だから余計に疲れる。私はその人と別れた後「送っていくよ」の言葉も振り切り、私はせっせと夜道を進んでいる。せめてこの流れを変えるために。足元をゴキブリだけが這う道を。

 私は行きつけのバーだかクラブだか違いがよくわからない場所に着く。着くなりカウンターに腰掛けてジントニックを頼む。「ジントニックってさぁ労働者の酒なんだよ、知ってる?」知らんがなタコ。大学の頃、こんな絡まれ方をしたこともありました。ここにはそこまで素っ頓狂な客は来ない。座ったり立ったり揺れたりしながら各々が自分の時間を過ごしていた。今日はサンバが掛かっている。と言ってもズンドコズンドコ踊り狂うようなものではない。真夜中に聴くようなサンバ。チルいやつ。店主はレコードと酒にしか興味のないような人だった。私は作ってもらったジントニックを黙って飲む。今日飲んだどの酒よりも美味しかった。一人って良いよな、と息をつく。帰ったら帰ったで、一人で生きていけるのだろうか、と怯えるのだろうが。

 ジントニックの後はジンフィズを、そして今はマティーニ。いい塩梅になった私はフロア、というには若干狭い多目的スペースに目を遣る。女と男が密着しながら立ち話をしていた。音が鳴り酒が振る舞われる環境ではあまりにも自然な光景なので普段なら気にも留めない。何かが私の琴線ポイントを満たした。まず女、一見30代?と思わせながら結構いい歳だ。下手したらママより上だ(ちなみにママは1972年生まれ。通称・復帰っ子) そして年甲斐もなく真っ黒なドレス、色は別に良いんだけど布面積がどうにも少ない。横の男は私と同じくらい。痩せぎすで、服のコーデはダイエーの衣料品売り場を思わせる。すると女の方が私に顔を向けた。重なる視線、無言、愛想笑い。私はマティーニに口をつける。視線の間隔がじりじりと狭まる。全てが緩慢としていた。音楽までもスロー再生のように聞こえる。サンバの間に冷房の唸るような音が、店主が棚に瓶を置く音がある。距離感が乱れ、舌にはオリーブの渋みが滲む。これは酔いから来るものだろうか?女は笑みを浮かべながら一歩ずつ近づいてくる。私は捕食されるのを待つ蛙ように黙っていた。男はずっと向こうで立ち尽くしている。
 「一緒に飲みません?」艶のある声だった。耳の奥にねっとりと入り込むような。「いいですけど。お邪魔じゃありませんか」低めの自分の声が岩みたいに思えた。「とんでもない。こんな楽しい夜に」楽しいことが起こる予感がした。説得力があった。私はゆっくり立ち上がり、マティーニを飲み干した。

 私たち3人は場に立って他愛のない話をしていた。本当に内容自体はどうでもよかった。 この男がラオスから来た実習生だとか面倒をかなり個人的な領域まで見ているとか。「今はしおらしくしているけど、本当は凄いのよ」とのことだ。化学繊維に包まれたこの男に凄いものが潜んでいるのか。「へぇ」と相槌を打つしかない。男は何か言いたげで、しかしおどおどしてて、立ち振舞全般が不自然だった。つまり無意識のうちに帰りたいオーラを出している。さっきまでの私がそうだった。「ぼく、明日も仕事有るから」「そうなんだ、何の仕事?」「袋詰め」一体何の実習だ。女は「そうよね」と言って、男にキスして駄賃を渡した。2000円札が2枚。男の首に真っ赤なルージュ跡が付いている。何故かそれが昭和っぽく思えた。男は何事もないように帰っていった。二人きりになってもやはり特別記憶に残るような会話もなく、夜は漠然と過ぎていった。

 「遅いし送っていくわよ」私たちはもはや会話もせずに店の外でタバコを吹かしていた。久しぶりのガラム重い。「いいんですかぁ」とか愚か者っぽい返事をした。そして店主に代行を呼んでもらう。
 店から少し離れたコインパーキングに停まっている車はアウディだった。「うわっ、外車やんけ。しかも妙に生々しい感じの」と心のなかで呟いてしまった。さっきまでの話でこの女が2年前に東京からこの街に引っ越してきたこと、東京時代は割りと高級な飲み屋のホステスをしていたことなどの個人的な背景も多少は聞いた。何故この街に来たのかは聞かなかったが。
「良い車乗ってますね」私は一応言っておいた。「最初ビックリしちゃった。この街の人みんな軽四乗ってるじゃない」一瞬ぎょっとした。この人は外から来た人間なのだ、と認識してしまった。差別、というには些細だが良くない。代行を待つ十数分が重く感じられた。
 「どうしたの?急に黙り込んで。まだ飲み足りない?」女、名は耀子という。色っぽく、気配りも出来る。いや水商売してたとか抜きにしても見習う部分は大いにある。「私、これ以上飲んだらもう止まらなくなると思うんで」「いいじゃない。飲める間に飲んでおかないと」「そうですね」そうなのか?深い考えもなしに同意してしまったが。「代行、遅いわね」「きっとみんな飲み歩いているんですよ」程なくしてスターライト代行とペイントされた軽四がやって来た。私たちは耀子さんのお家に向かった。

 グーグルマップの現在地表示によるとここはパシフィックマンション西、という名前らしい。私たちは生きていく上でこのダサさみたいなものと折り合いをつけていかなければならない。どんなに着飾っても、部屋の中に北欧の家具を並べても、あるいは私の高校からは誰も行けなかったような良い大学を出ていても、野暮ったさはどこからともなく侵入してくる。追い出そうと思ってもムリだから、耐えられない人は自然とこの街から出ていく仕組みになっている。10階のベランダから眺める街並みやオーシャンビュー()からは見えづらいが地上に降りれば嫌でもわかる。私は耀子さんとソファに座りながらそんなことを考えている。左手にウィスキーの入ったグラスを持って、右手は軽く握られている。耀子さん、やはり手も柔らかい。もう少し酔いが深まったら自然とキスされて床に入るのが自然な流れなのだろうか。昭和っぽいな。「そろそろ横になりませんか?」私は単純にそう思った。「寝室はこっち」スカンジナビア半島から来ました、と自己紹介をしそうなベッドがだった。耀子さんはとっくの昔に黒いドレスを脱いでいて、胸ははだけているし、太腿もそのほとんど見える。耀子さんは先にベッドに入ると毛布に包まって、隙間から下着が排出された。とりあえず私も下着一丁の形になって横になった。ああ、シャワー借りれば良かったと後悔している自分をよそに耳元に寝息が聞こえた。毛布を挟んで私と耀子さんは密着している。その質感を覚えながら私も寝た。浅い眠りが続いた。

 「今日は仕事休みます」起きると9時半だったし、昨晩の段階で今日の出勤拒否は望んでいることだったのかもしれない。起きると既に耀子さんはいなかったし、書き置きがテーブルの上にあってドラマチックだと思った。私は書いてあった連絡先にお礼を送った。秒で「部屋を好きに使っていいよ」と来た。なるほど私もこのままあのラオスから来た男のように飼われていくのだろうか。20代の間はそういうのもいいかな、と思いつつシャワーを浴びて頭を冷やした。会社に連絡して、飲みさしのウィスキーを口に含む。朝からラフロイグはキツい。鼻の奥に風味が突き刺さる。冷蔵庫からチーズも取り出して「ヒモっぽくていいな」と言いながら酒を飲み続ける。気付いたらソファで寝ていた。よだれまで垂らして急いでタオルで拭き取った。高級マンションでクズみたいな生活、これを続けられるなら身体とか全然差し出せると思った。心の底で憧れていたものが現前して私はたぶん壊れかけている。
 私はずっと何かを諦めてきた。具体的には上げづらいし、それによって自暴自棄になったりするわけでもないけれど、日常から少し逸脱した生活がしたかったのだ。幼稚かもしれないけどいいじゃない、少しぐらい夢見させてよ。今日耀子さんが帰ってきたら私はいきなりキスとかするだろうし、もっと取り返しのつかないこととかするかもしれない。
 私はベランダでタバコを吸いながらオーシャンビューとやらを眺める。陽が海の向こうに行こうとしている。どこにも行かない私はただ夜を待つ他なかった。

サポートを得る→生活が豊かになり様々なモチベーションが向上する→記事が質、量ともに充実する