「胸が苦しいから、たくさん恋がしたかった」

「死んだ人間って、どうしてああ口をきかないものかしらね。」
読んでいた本から顔を上げ、祖母を見る。
「夢の話よ。夢で、死人って喋らないでしょう。」
あんたの歳だと死人の知り合いなんか居やしないか、と祖母は溜め息をついた。死人の知り合い…。口の中で反芻する。

「あいつのお兄さんなんだけどさ。前の、ほら、別れた方の旦那のね。」

わたしには父方の祖父がふたりいる。祖母が言っているのは初婚の方だ。
「マ、兄って言っても沢山いるのよ、次兄。よく家に訪ねてきたんだけど、お邪魔しますって言わないの。玄関で咳払いして、来たぞって合図するのよ。嫌な男でしょ。別に、来たって何を話すわけでもなし。」
そんな態度をおくびにも出さず、よくぞいらっしゃいましたと笑顔で出迎えるのにもすっかり慣れたという。

「でも、一回だけ気付かなかったの。たぶん料理をしてたとかそういう時に来たんだと思うけど、戸を引いたのも咳払いにも全く気付かなかった。玄関から、「兄貴、来てたのか」って、仕事から帰ってきたおじいちゃんの声がして、血の気が引いたわ。玄関にずっと立ってたのよ。」

次兄が亡くなったのは祖母が離婚をした後だったが、報せを受け葬儀に出向き、かつての義姉にお悔やみを言った。
「あの人が悪かったわね。度々そちらに伺って。」
「そんな、良いんです。いつも楽しかった。」
「本当に?そしたら良かった。あの人ね、たぶんだけど、あなたの事を気に入っていたんだわ。」
義姉はそう言って、力なく笑った。


「夢に出るの、でも何も言わないのよ。もう、咳もしない。」
呟き、猫の柔い頰を撫ぜる祖母に、顔を見た事もないその人を思った。

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