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殺す鶏への贖罪

※閲覧注意
鶏を殺める際の様子を表す表現があります。苦手な方は閲覧を止めることをお勧めします。






















2022年6月26日、2カ月ぶりに鶏を殺した。

例年より早い梅雨明けのとち狂うような暑さ、真っ昼間。

今日も自分が所属しているNPOの鶏解体イベントのスタッフをしていた。

これで鶏解体は4回目。

屠殺、解体の手順もさることながら、イベントの流れも当初に比べれば大分把握できるようになった。

「慣れ」という言葉はどこか違うが、命を頂く状況であっても、幾分心に余裕ができ始めている感覚はあった。

参加者に屠殺の説明をし、鶏を捕まえ、締め、首を切り、湯につけ、蒸せ、羽を毟り、俎板の上に置き、その後は解体。

目の前に迫り来る出来事に対処してるだけで精一杯のあの時の状態とは違い、先は見えていた。

そのため、イベントの参加者全員とは何かしらコミュニケーションを取れるようにもなっていた。

特に、上手く屠殺できない人や中々羽毛をむしり取れない人を見ては優先的に話しかけるようにしている。

というように、スタッフとしての立ち回りも自分の中では手応えが掴めていた。



そんな中、鶏を羽交締めにして屠殺しようとしているが、鶏の首を絞めるのに苦戦している男性がいた。

なかなか苦戦しているな、と感じその人のところに向かうや否や

首を絞めるんですか?

このように尋ねられた。

その時、自分は締め方が分からないのだろうと思い

はい。5回ほど締めます。雑巾を絞る要領でやると上手くいきますよ。

と、答えた。

すると、一瞬その人の目線が鶏から自分に移った。

しかしそれも束の間、再び横たわってる鶏の方へ目線を移して

ごめんね

と言い、首を締めて、切った。

鶏は絶命した。



日陰が濃くなり始めた午後4時半頃に解体イベントは終わった。

イベントの最中、あの男性とのやりとりはそこまで自分の中で大きなものではなく、順調に事は進んでいった。

しかし、諸々の片付けをし終え、養鶏場から帰宅しているとき、あの人とのやり取りをふと思い出した。

そして、それはだんだんと大きなものになっていき、「後悔」と「疑問」の二つの感情が生じているのが自分でもわかった。



「後悔」とは、自分があの人に首の絞め方を教える際、「雑巾を絞る要領で」と表現した事である。

尊い命を奪うという行為を日常的な簡単な表現に置き換えてしまう。

これは、鶏を殺して命の尊さ、大切さを学ぶというイベントのコンセプトから大きく外れている行為だ。

本当に後悔している。

この言葉で説明した時、あの人の目線が鶏から一瞬自分の方へと向けられたのは、もしかしたら自分の発言が彼にとって受け入れ難いものであったのだろうか。

自分にとって屠殺は何回も経験しており、これから先も幾度となく行うであろう行為である。

しかし、あの人にとっては初めての経験で、これから先も行うことはないかもしれない。

だとしたら、「雑巾を絞る要領で」という自分の発言に耳を疑うのも無理はないだろう。

自分の発言を悔いる気持ちは日が経つにつれ後々大きくなっていき、「後悔」という言葉が持つ本当の意味を知ることとなった。



そして、「疑問」とはあの男性が屠殺するときに言った「ごめんね」という言葉についてである。

こういうイベントにおいて、屠殺するときに「ごめんね」という言葉を言う人はあまりいなかったので、自分にとっては新鮮な言葉だった。

むしろ

ごめんって言うくらいなら殺して食べるな

だとか

自分が殺す生き物だけごめんって言うのは動物の命を平等に考えていない

とかの文言はネットで度々目にしている。(自分は全くそうは思わないが)

彼が言った「ごめんね」という言葉は、イベントから数日が経ち、この記事を執筆している間もずっと考えさせられている。

命を奪うことへの謝罪、という意味なのだろうか?

別に鶏を食べなくとも生きていけるにもかかわらず食べる、そして、食べるために鶏の本意とは関係なく殺す。

鶏解体をこのように捉えたら、たしかに「ごめんね」なのだろう。

しかし、いざ食卓に並んだ鶏に対して投げかけられる言葉といえば「ごめんね」ではなく「いただきます」である。

そこに謝罪の意が込められる事はほとんどなく(無論そういう人もいるかもしれないが)、むしろ謝罪とは逆の感謝の言葉である

同じ殺された鶏を目にしているのに、なぜこうも言葉掛けが異なるのだろう。



最初に鶏を屠殺した時のことを思い出した。

あの時は、鶏に対して「ごめんね」という気持ちが全くなかったのだろうか。

そういえば嘘になる。

事前に動画で見た時は、生き物の首を締めて殺すという、文字にすると残酷な行為が可視化され、本当に自分にできるのか不安でいっぱいだった。

ごめんね」という気持ちもどこかにあったのだろう。

しかし、いざ鶏の首を掴んだ瞬間

早く殺して楽にしてやろう

躊躇ってはダメだ

という気持ちが圧倒的に勝り、首を思いっきり絞めた。

はっきり「ごめんね」とは思っていなかったが、鶏への同情心はたしかにあった。



そして今はというと、どこかである程度自分の気持ちを殺している気がする。

解体イベントの際の屠殺、そして以前養鶏場のバイトでやった出荷作業を経て、一匹一匹に感情を移入することはできないと悟ったためであろうか。

また、ふとしたときに

自分は生き物を殺している

という事実から目を背けたい気持ちもどこかにあるからだろうか。

そういった意味でも、彼が発した「ごめんね」という言葉は、命をいただくという意味を再び考えさせてくれるような、そんな言葉であった。


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