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Message ~君に逢いたくて~


第1章

私は、それを見て愕然とした!

ひとり息子「健太」の脳の中心部に「悪魔」が巣食っていたのだ!「悪魔」は息子の脳の中枢を完全に喰らい尽くしていた!直径約3センチの、最も恐ろしい「悪魔」・・・
その「悪魔」は息子の脳内に自分の分身を散りばめたように、息子の脳全体に小さな子孫を繁殖させていた。レントゲンに映るその姿は、まるで息子、健太の脳にショットガンの弾を打ち込んだように、脳の至る所に飛び散っていた。MRIで発見できた脳腫瘍は合計13か所だという。さらに健太に追い打ちをかけるように胃と大腸にまで、「悪魔」はその分身をばら撒いていると言う・・・もはや、「絶望」のひと言しか私の頭の中に浮かばなかった。


第2章

数か月前から常に健康だった健太が真っ青な顔をして頭痛と吐き気を訴えてきたことが何度かあった。私は病院に行くように、と、息子にそう言ったことがあったが、我慢強い息子は病院を拒否してきた。

「俺、もう部長になったから休むわけにはいかないんだよね」

発見が遅れたのはそんな息子の忍耐力と責任感の強さが仇となった結果だった。健太は私たちに見えないところでかなり苦しんでいたはずだ。何とも皮肉な結果だ・・・

「うぅ~、今日も頭痛と吐き気がするよ~、母さん、頭痛薬ちょうだい」

「あら!あんたずいぶん顔色が悪いわよ!大丈夫なの?」

「うん、一時的なものだから。それより部活にいかないと・・・」
 
息子の健太は横浜にある野球の強豪校である高校の2年生で3年の先輩が引退した今、その野球部の部長をしている。やっと小学生になった健太に野球を教えたのは私だ。私も高校生の頃は野球部で甲子園まで行くことができたが、初戦敗退で優勝することはできなかった。健太に野球を無理強いしたわけではない。健太の方から野球がしたいから教えて欲しいと言ってきた。私はその言葉がとても嬉しかった。親の私が言うのもなんだが、健太はとてもセンスのいい選手だ。試合の応援に行くと健太の魅せるプレーは見事なものだった。打ってよし!守ってよし!攻防のバランスの取れたとてもいい選手だ。私はそんな健太のプロ野球選手になる「夢」を応援していた。私はそんな健太に自分が果たせなかった「夢」を託していた。私は健太のプレーを見るたびに胸が躍った!健太は私に「夢」をみさせてくれる真面目な高校だ。そして自慢の息子でもある。健太の当面の目標は甲子園で「優勝」することだ。そうすればおのずと「プロ」への道が開けてくると信じて毎日遅くまで野球部の厳しい練習に励んでいた。そんな健太を蝕んでいた「悪魔」、それは、

ステージ4の「悪性脳腫瘍」

それが息子健太の脳内を支配し、頭痛と吐き気の原因になっていた「悪魔」の正体だった!もはや健太は治療も手術も不可能な状態で、ただ「死」を待つことしかできなくなってしまった・・・


第3章

「せ、先生!いったいこれは・・・」

「どうして今までこんなになるまで放っておいたのですか!・・・残念ですがこれではもう手の施しようがありません・・・覚悟をしておいてください・・・」

絶望と言う名の槍が私の身体を貫いた。全身の血液が荒波のように逆流していく。天を走る稲妻の中に放り投げだされた鳥のように怯えることしかできなかった。ショックで激しく揺れた脳が、身体中から平衡感覚を奪い去り、自分の足がフロアに着いているのか、雲の上にでもいるのかわからないようなそんな錯覚に陥った。妻は突然死刑宣告を受けた冤罪の囚人のような形相で、持っていたハンカチで口をふさいでいる。その大きく開かれたその瞳からは滝のような涙がとめどなく溢れ出しているだけだった。

「これなんですが、このままではあともって・・・『余命4カ月』でしょうか・・・このままでは息子さんは苦しんで死んでいくだけです。とりあえずこの病院で3ケ月入院してできる限りの治療をしてみましょう。今の私たちにできることは、放射線の全脳照射と化学治療になりますが、もうこの状態ではこれらの治療の結果がでるよりも先に息子さんの衰弱の方が早まる可能性が高いです。そう言うわけでもし健太さんの衰弱が激しいようでしたらこの治療は中断します。『ガン』の進行が速いので治療をしても増殖していく腫瘍と身体機能の衰弱が激しい頭痛や麻痺、そして意識を混濁していくことになるでしょう。放射線の全脳照射をして「ガン細胞」を少しでも可能な限り減らす方向で治療していこうと思います。ですが、期待はできません。そして3カ月の治療の結果が芳しくなかった場合、私としては『ホスピス』に移ることをお勧めします。そこでは死にゆく患者たちの最期の日が来るまで、鎮痛剤や精神安定剤などを使ってできるだけ患者たちの『死』への苦痛を和らげます。もちろんご自宅でもそれらを受けることができますが、その場合どちらになさいますか?」

健太の主治医はデスク上のレントゲン写真を指さして何か説明を始めていたが、その健太のレントゲン写真の状態は医学に素人の私が見ても、もう手の尽くしようがないほどになってしまっていることがすぐにわかるほどだった。胃や大腸にまで転移している。それだけなら手術で取り去ることができるという。しかし、それよりも脳に散りばめられた腫瘍の方が進行が早くて、胃や大腸に転移した悪性腫瘍を手術で取り除いても、健太の身体をいたずらに傷をつけるだけだという医師の言葉に納得した私は、健太の胃と大腸にできた腫瘍の摘出手術は諦めることにした。健太に、無駄な苦痛と傷を、私は拒んだ。


第4章

私は自分の命よりも大事なたった一人の息子を、この「悪魔」達に奪われてしまうのだ。ついに妻が雪崩のように膝を落とし、診療室全体を打ち壊すような慟哭の叫びをあげた。
もって「余命4カ月」だという。私たちは大切な一人息子の「命の砂時計」を医師から手渡されたのだ。1秒1秒がこんなに重いとは。どんな親でも自分の子供がこんな状態になったら、

「自分の命と引き換えにしてでも子どもを助けてやりたい!」

こう思うだろう。そして、なんでもいい!神と称されるすべての「神」に跪いて祈るのだ!しかし、それでもなお全知全能の「神」はただ「沈黙」を続けるだけで、祈りなど無駄なことだと気づかされる。自分の子供がついこの前産まれたように感じる。幼稚園、小学校、中学、そして今は楽しい盛りの高校生・・・健太の脳に巣食うこの「悪魔」の存在を医師から告げられた時に、

「・・・なので、覚悟をしておいてください・・・」

と言われたところだけしか私の記憶にはない。青天の霹靂とはまさにこのことだろう。誰が自分の子どもの理不尽な死刑宣告に「覚悟」などできるだろうか?私はこの医者に怒鳴ってやりたかった!

「もし、あなたのお子さんがこんな状態になって、医師から『覚悟』してください、と言われたら、あなたは『覚悟』ができますかっ!」と・・・

私は目の前にいるこの医師の胸ぐらをつかんでもっと怒鳴り倒してやりたかった。もう少し「言葉を選べ!」と。医師の話はそんな私と妻の気持ちを無視して続けられた・・・
私はもう、これ以上の説明など聞きたくもなかった・・・


第5章

そんな私の苦しむ気持ちを無視するかのように、その無神経な医師が聞いてきた。

「・・・・と言うことでよろしいでしょうか?」

中年で小太りのその医師の顔は真っすぐ私たちに向けられていたが、その視線は私たちから完全に逸らされていた。私は無理を承知でもう一度その医師にすがりついた。

「先生!健太を、健太を何とかしてください!」

溺れる者が藁にもすがる様に私は医師に詰め寄った。しかし、私たちにしっかりと向けられていた医師の顔には、健太にはもうなす術がないことを、どんな言葉よりもはっきりと物語っていた・・・
もはや私たちには健太に近づいてくる「死」への「絶望」しかなかった・・・

「・・・気休め程度にもなりませんが、『抗がん剤』を投与してみますか?」

すると妻の泣き声は悲鳴のように鳴り響き、その場の空気を切り裂いた。逆に私は涙すらでなかった。夢であって欲しかった。しかし、今の私は研ぎ澄まされたガラスのように鋭利な精神状態で自分でも恐ろしいくらい冷静だ。そう、これは現実だ。逃げることも隠れることもできない、私たち夫婦と健太に訪れた悲劇の始まりなのだ。
私は可能性が1%でもあるのなら、それが例え気休め程度にしかならなくても、健太を救うために医師に「抗がん剤治療」をお願いしたいくらいだ。「抗がん剤」による副作用の地獄のような苦しみ・・・
治る見込みのない健太がそんな地獄のような激痛と激しい嘔吐に死ぬまで苦しまねばならないことを思うと、私は健太への「抗がん剤治療」を拒否した・・・


第6章

そして月日は風のように流れていき、健太がこの病院に入院し治療に専念してから3カ月が経った。医師からは治療の効果がなく、健太の身体が衰弱しきっているため、放射線の全脳照射はすぐに中止されたことを聞かされて、何度か「ホスピス」に行くことを勧められたが、私はもう先のない健太を「牢獄」の中に閉じ込めておきたくはなかった。私は「ホスピス」も拒否して、健太に自宅療養させることを医師に相談すると、医師は何の躊躇いもなく頷いた。妻も私の意見に賛成だったので、明日、健太を退院させてこれからは家で健太の最期が来る日まで家族3人で過ごすことを決めた。
地獄の血に飢えた悪魔達が私たちをみて高嗤いをしているように鼓膜が破れそうな耳鳴りがする。私は耳を塞ぎ、頭を抱えてその場に屈み込んだ。医師と看護婦が私たちの心情を察したかのように、私たちに一礼すると静かに診察室から出ていってしまった。そこには暗闇の絶望に墜とされて身動きすらとれない私たち夫婦だけが取り残された。まるで地獄のどん底にでも放り込まれ、この身を引きちぎられるようだった・・・


第7章

俺が突然この病院に入院してから早くも3か月が過ぎていた。俺はいつも窓の景色を見てばかりいた。もう桜の季節かぁ・・・病院の庭に植えられている桜を見ながら俺はつぶやいた。
あれはちょうど3か月前だった。部活の練習途中で気が狂いそうな頭痛と嘔吐に襲われて俺は意識を失った状態で救急車に運ばれてきたらしい。そしてこの病院で診察を受けたら、いきなり検査入院させられたんだ。俺は甲子園で優勝することだけを目標にして毎日ぶっ倒れるほどの練習に耐えて続けてきた。そして、もうすぐ甲子園出場を賭けた予選が目前に迫っていた頃だった・・・まさか俺がこんなことになるなんて・・・
それからいきなり3日間も検査入院だ。しかもそのまま3か月も入院することを担当医に知らされた。担当医はすぐに良くなると言っていたが、肝心の病名を俺にもわかるようにはっきりとは教えてくれなかった。医師はただの貧血だと言っていたけれど・・・

俺の身体にいったい何が起こったんだ?

両親からもすぐに退院できるから、と言われただけで、俺は自分の病名すら知らなかった。両親も医師も看護師たちも俺の病名を聞いてもうやむやにごまかされるだけだった。だからもう病名を聞くのが面倒になった。俺は「すぐに退院できる」と言うなんの根拠もない言葉を信じるしかなかった。


第8章

来月はとうとう4月になり、俺は高3になっていて、5月には誕生日を迎え、18になっている。そして、俺の高校生活最後の野球人生を賭けて憧れの「甲子園」に絶対行くんだ!って「夢」を強く持って辛い毎日の練習にも耐えてきたのに・・・
もしこの病気が今すぐ治っても、いきなり練習には復帰できないし、甲子園のマウンドに立つことを夢見てキツく辛い練習に明け暮れた青春の日々も、文字通り枯葉のように散って「夢」に終わってしまった。その頃頻繁に起こっていた頭痛や吐き気もどんなに辛くても、俺はこの手に「夢」を掴むために必死にこらえて誰よりも練習に打ち込んできたのに・・・

それが、俺の2年間抱いていた「夢」が、血と汗と涙が、すべて水の泡となってしまった。


第9章

しかも3か月もベッドの上にいたおかげで部活で鍛えた筋肉はすっかり隆起を失くして、俺の鍛え上げてきた身体はもやしのような文学少年のように細くなり、照りつける太陽に焼かれた褐色の肌は青白く変色して、野球部の代名詞とも言える坊主頭がすっかり伸びてサラサラと風になびくようにまで伸びた。俺の野球少年の面影は風に飛ばされた木の葉のようにどこかにいってしまった。鏡を見るとまるで人間が180度変わってしまったようだ。

俺は鏡から遠ざかって行った。見知らぬ他人が鏡に写されているのだから・・・

(こんな姿になったら、誰も見舞いになんて来ないよな・・・)

入院してからしばらくは部活仲間やクラスの友人達がちょくちょく見舞いに来てくれたけれど、今は閑古鳥が鳴くように誰も俺の見舞いに来るものはいなくなった。彼女にすら俺は捨てられた。


第10章

入院して3週間ほど経ったころ、友人から俺の彼女がどうやら3組のサッカー部の奴とつき合いだしたらしい、と聞いた。その証拠にアイツはそれ以来俺の見舞いには来なくなった。たった3週間で野球部からサッカー部へお乗り換えかよ・・・もう笑うしかなかった。その話をもってきた仲間たちの前で俺は、

「そっか、そんな軽い女なんかノシつけてくれてやるよ、俺のお古だけどな!」

と言って笑って見せた。仲間たちは複雑そうな表情で笑っていた。その友人たちの隠せない俺への同情の姿もさらに俺を惨めにさせた。女は傷ついた時は泣きまくって仲のいい友達に慰めてもらえるが、男には変なプライドがあって、自分の弱みを見せたがらず、つい強がってしまう。まさにその時の俺がそれだ。俺が彼女を取られて内心悲しみと寂しさで満ちていたが、それを仲間たちに悟られまいとして俺は強がって笑った。
しかし、奴らも男だ、俺が心から笑っていないのには気づいていただろう。だから誰も俺に慰めの言葉をかける奴はいなかった。俺の男としてのプライドを傷つけまいとして。
俺は病気といい、失恋といい、人生を真っ逆さまに墜落していく気分になったが、もうそんなものには慣れた。俺は生きる意味も目的も失くしてしまっていたのだから。


第11章

春風が桜の木々を揺らしている。桜はいいな。花が咲く頃からみんなに期待され、満開の花を咲かせると「華」となり、人々を魅了して喜ばせる。そして自然の摂理によって、その短い命を終える。

(なんか、かっこいいな・・・)

俺も甲子園に行って優勝して、日本中から注目されて、高校卒業と同時にプロ野球選手になって、イチローのような「華」のあるスーパースター選手になりたかったな。みんなに期待されて、チヤホヤされて・・・俺なんかじゃイチローの足元にも及ばないけど。
ただ、小さくてもいいから、タンポポのような「花」でもいいから、「プロ野球選手」になりたかった。俺はこれからどうやって、何をやって生きていけばいいんだろう?
俺は窓の風景を見つめることしかできなかった・・・


第12章

「健太!」母さんの声が聞こえた。振り返ると平日の昼間なのに珍しく父さんの姿もみえた。2人ともとても嬉しそうな顔をしている。

「こんな朝早くから来るなんて珍しいね、それに父さん仕事は休みなの?」

「あぁ、さっき先生から話があってな。明日退院だそうだ。今までよく頑張ったな」

父さんは俺の肩に手を乗せて嬉しそうに笑って言った。母さんも、

「ほんとに今まで頑張ったわね!辛かったでしょう?やっと病院から出られるのよ!これからは家で薬を飲みながら療養して、定期的に病院に通えばいいって、先生がおっしゃったの!洗濯物、ずいぶん溜まってるわねぇ、今日持って帰るから。あと他に持って帰っていいものある?」

母さんも嬉しそうだ。せっせと俺の荷物を片付け始めている。

「退院したら、学校はどうすればいいかな?」

と、俺が一番心配していることを聞くと、父さんが、

「これだけ休んだからな・・・留年は仕方ないだろう・・・お前の考えはどうだ?留年してでも今の高校いくか?それとも転校して夜学に行く手もあるぞ?」

「そうかぁ、留年はごめんだな・・・夜学か、それでもいいや。留年よりはマシだよ」

「そうした方がいいかもな。じゃ、まずはゆっくりと身体の様子を見ながらだな」

と、俺は肝心なことを聞き忘れていた!

「ところで、もう退院してもいいということは、俺の病気はもう完治したってこと?」

そう聞くと、両親の動きが一瞬凍りついたように止まった気がした。俺は薄々感じていたけれど、その時あからさまに両親の不自然さが露呈した。すると母さんが慌てて話を逸らすように、

「ほらほら、いくらもう春だからって、パジャマのままじゃ風邪ひくわよ!」

と言って、俺の肩に半纏を被せてくれた。でも、気のせいか、その時の父さんの表情はどことなく悲しそうに見えた。

「いや、完治はまだだそうだ。だがもう入院するほどではないほど回復に向かっていて、さっきも言ったように家で薬を飲みながら病院に通えばいいと言われたんだよ。もうお前も毎日ベッドの上じゃイヤだろう?よかったじゃないか!」

父さんは真面目で嘘をつく人間ではないが、だからこそ、何かこの言動と言うか、言い方がいつもの父さんと違っていて、何か不自然さと言うか、俺はそんな父さんの様子に表現しがたい違和感があった。母さんもどことなくおかしい。気のせいか、まぶたが少し腫れているような気がする。視線もあまり俺に合わせない。2人とも、本当に俺の退院を喜んでいるのだろうか?2人の血をひいた息子だからこそ感じるこの違和感・・・
父さんも母さんも嘘は絶対につかないのはよくわかっている。でもこの払拭できない違和感は何だ?いったいどこからくる違和感だ?まるで体中に見えない蜘蛛の糸が絡みついたような不快な違和感だ。でも、俺にはそんな両親をこれ以上疑うことに抵抗があったので、素直に2人の言葉を信じることにした。


第13章

俺は長い入院生活で友人と恋人をいっぺんに失ったから、きっと「人間不信」になっていたのかもしれない。なにせ一番信用できる唯一の両親が俺に嘘をつくはずがない。2人の不自然さはきっと俺の気のせいだ。俺はどうかしていたに違いない。大事な両親を疑うほどまでに俺の精神は病んでいたのか?こんな牢獄のような自由の利かない病院に3か月も入院していたら、確かに精神的にヤラれるよな・・・

でも、もう俺の家、帰るべきところに帰れるんだ!自由な生活が待っている!そう考えると身体中に絡みついていた不快な蜘蛛の糸がするりと抜け落ちていった。窓の外を見ると、微かに曇っていた空が眩しいほどの青空に変わり、太陽に照らされてひとつふたつと咲き始めた桜の花々が美しい桃色に見えた。まるで俺の退院を祝福するかのように。俺は素直に両親に微笑んだ。

「じゃ、持って帰っていいものはこれだけでいいのね?」

ふと、母さんの声が聞こえた。俺は頷くと、父さんが、

「よし、退院は明日の午前中だそうだから、朝すぐに迎えに来るから準備しておけよ?」
「ああ、わかったよ」
「これから会計済ませてくるからもう行くぞ?他に用事はないか?」
「うん、特にないかな」
「また明日来るからね、お世話になった方々にお礼いっておきなさいね」
「はいはい、待ってるよ」
「じゃ、また明日の朝に迎えに来るからな」

と言うと両親はいつものように病室をでていった。


第14章

やった!明日退院か!俺は無意識にガッツポーズをとっていた。長い間籠の中に閉じ込められた鳥が自由に大空を飛び回れる日が来た気分だ。今までの遅れを取り戻さないと!体力作りに勉強と・・・そして恋愛も!そして時間がかかるけど野球にも復帰してやる!たったの3か月のブランクくらいで俺の「夢」を奪われてたまるか!これからの課題はたくさんあるな。まずはじっくり体力作りからだ!俺はそんな独り言を言っていた。

「おはようございます。お薬の時間ですよ~!」

と、看護婦の「桃ちゃん」が薬の入ったワゴンを引っ張ってきた。もう朝食後の「クスリ」の時間か。俺は入院してから大量の「クスリ」を飲まされるようになった。
白、赤、黄色、そして、何かの毛虫みたいな変な色・・・それらを手のひらに乗せるとまるで「クスリ」のお花畑だ。でも俺はイヤでもこれらを飲まないといけない。この「クスリ」を飲んでいるお陰で頭痛もかなり落ち着いていた。3か月も飲み続けてきたけれどこの大量の「クスリ」を飲むことだけにはついに慣れなかった。桃ちゃんが端の患者から丁寧に薬を渡している。そして最後に俺のところにくる。やっと丸顔で笑顔のかわいい大好きな桃ちゃんが俺のところに来た!

「健太、調子はどう?今日の朝食はちゃんと食べた?」

桃ちゃんはまさに白衣の天使だ。いつもニコニコしていて、俺の心の中では「お姉ちゃん」のような存在だ。この病院で友達すらいない俺が何でも相談できる話し相手だ。だけど「クスリ」の時間は諸刃の剣のような時間だった。この大量の怪しい「クスリ」を飲まないと桃ちゃんには会えないし、桃ちゃんに会うためにはこの不気味な「クスリ」を飲まなければならない・・・俺にとって悩ましい選択だ。
桃ちゃんは俺に「クスリ」を渡して飲み終わるのを確認すると、

「健太、またあとでね?」

と言って、かるく煙草を吸う仕草をする。これは裏庭の隅っこにある花壇に待ち合わせすることを意味する俺と桃ちゃんだけの秘密のサインだ。俺はOKの合図を返す。すると桃ちゃんは微笑んで次の病室にワゴンを運びに行ってしまった。


第15章

この2人だけの暗黙の合図はいつの間にかできあがっていた。なぜ病院の裏庭の影にある花壇で待ち合わせって?そこは喫煙する看護婦たちの秘密の喫煙所になっていたから。この病院内には喫煙所がなかった。そう、桃ちゃんは看護婦なのに煙草を吸う。看護師が煙草なんて吸っていいの?と聞いたことがあった。意外なほど多くの看護婦たちがそこへこっそりやってきては隠れて煙草を吸っている。初めてそれを知った時、俺にとってはちょっとしたカルチャーショックみたいなものだった。反対に、医師たちは全く煙草など吸わないのに、ほとんどの看護師が喫煙者・・・桃ちゃんは煙草を吸う人には見えなかっただけに、煙草をうまそうに吸う桃ちゃんを見た時には、桃ちゃんって元不良?と思うほどだったが、今ではこの秘密の喫煙所で煙草を吸っていない桃ちゃんの姿は、バットを持たないでバッターボックスに入るバッターのようなものだった。
桃ちゃんは、「煙草でも吸ってなきゃ看護婦なんてやってらんないわよっ!」と真っ白な頬をほんのり赤く染めて膨らませながら怒った顔でそう言っていたことがあったけど、童顔の桃ちゃんが怒った顔をしても俺には何故か可愛く見えた。入院してから俺はすぐに桃ちゃんと打ち解けて、今では桃ちゃんは俺のことは何でも知っている。友達を失くしたことも彼女を取られたことも・・・そんな俺の話を桃ちゃんはいつも真面目に聞いてくれていた。でも、

「人生なんて、失うことばかりよ・・・」

煙を吐き出しながら、切ない横顔で桃ちゃんは俺に何度も呟いていた。桃ちゃんも仕事の愚痴だけでなく、プライベートのことまで俺に話してくれたから本当の姉弟の関係のようだ。俺は約束どおり例の花壇へとやってきて桃ちゃんを待っていた。すると桃ちゃんが手を振りながら駆け足でこっちに向かってきた。


第16章

「あ、いたいた!健太!ごめーん、待たせたでしょ?」

桃ちゃんは急いできてくれたのだろう、息を切らしながらそう言った。

「俺も今さっき来たばかりだよ」

と言うと、桃ちゃんは俺の横に座って、今やトレードマークとなったメビウスとライターを取り出し、大きく吸い込むと空に向かって煙を吐き出した。

「はぁ~、うまい!気分が落ち着くわぁ~!」

と、桃ちゃんは顔に似合わないおっさん臭いセリフも吐いた。俺は桃ちゃんに、明日退院が決まったことを単刀直入に切り出した。

「あのさ、桃ちゃん、俺、明日退院することになったよ」

そう言うと桃ちゃんは寝耳に水!といった表情で俺に詰め寄ってきた。

「えっ?そうなの?私そんなの全然聞いてないよ?」

桃ちゃんは相当驚いたのだろう、火を着けたばかりの煙草を花壇でもみ消しながら俺の顔をまん丸した黒目がちの瞳で見つめ返してきた。

「うん、俺も今朝両親から聞いたばかりだもん。正直、信じらんないよ」

「そ、そっか・・・健太が入院してからもう3か月だもんね・・・」

桃ちゃんは下を向きながら、また煙草を吸い始めた。そしたら、ゲホゲホと咳き込んだので、俺は桃ちゃんの小さな背中を擦りながら、

「桃ちゃん、大丈夫?」

と言って桃ちゃんの顔を覗き込むと、桃ちゃんは深呼吸をしてから、

「だ、大丈夫だよ・・・」

と、咳き込んだせいか、少し潤んだ瞳で俺を見つめた。すると桃ちゃんは、

「それじゃ、ここでこうやってひっそりお話するのも今日で最後になるんだね・・・」

そうか、俺は気づかなかった。親友のような、姉貴のような桃ちゃんともう毎日会えなくなるのか・・・


第17章

そう思った瞬間、俺たちは言葉を失い、時間だけが静かに流れた。桃ちゃんが咥えていた煙草の灰が全て落ちた時、桃ちゃんは吸い殻を携帯灰皿に入れないで、ふてくされたように人差し指でピンッと弾いて捨てた。そして、もう一本の煙草を取り出した時に、俺は桃ちゃんとこの病院で過ごした記念にしようと、

「桃ちゃん、俺も1本いいかな?」

と吸ったこともない煙草をねだった。今の2人の場面を思い出に刻みたかったから。
すると桃ちゃんは、

「健太、病人でしょ?身体に悪いからダメ!」

と小さな弟を叱る様に俺にデコピンをした。何か胸がキュンとした一瞬だった。そして初めて気がついた。俺は桃ちゃんが好きだったんだ!と。
もう桃ちゃんに会えなくなることを想像したら、寂しさで胸が苦しくなった。
恋愛はいつも忘れたころに突然やってくる。大抵の人は寂しくなると近くにいる適当な彼氏彼女で済ませてしまうけど、俺の桃ちゃんへのこの気持ちはそれとは違う!明日俺は退院する。だから今、桃ちゃんといるこの時間を大事に過ごしたかった。だからダメだと言われた煙草について、俺は桃ちゃんに食い下がった。

「頼むよ、1本だけでいいからさ?」
「じゃ、ほんとに1本だけよ?」


第18章

桃ちゃんは、しょうがないなぁ、という顔をして俺にいかにも女性が好みそうな細いサイズのメビウスを渡してくれた。俺がそれを咥えると、桃ちゃんは慣れた手つきでライターに火を着けてそっと俺の口元に運んだ。俺は一息吸うと、なんとなくそれは桃ちゃんの香りを感じた。2人の肩と肩が重なり合っていてとても温かい。優しい温もり。
そして花壇には2人だけの時間と煙だけがゆっくりと流れている。

「どう?大丈夫?」

桃ちゃんが沈黙を破る様に聞いてきたので、

「えっ?何が?」
「煙草だよ?健太のことだから、これが初めての1本なんでしょ?気持ち悪くない?」

桃ちゃんは俺の煙草を指さして聞いてきたので、

「う~ん、これがウマいの?俺には合わないや・・・でも・・・」
「・・・でも・・・?」

と桃ちゃんが怪訝そうな顔つきで聞き返してきたので、俺は素直に告げた。

「うん、桃ちゃんの香りがする!」
「えっ?私の香り?私ってそんなに煙草臭いかな?」 

と言って、桃ちゃんは慌てて白衣の匂いを嗅いだ。その仕草がハムスターのようでとても可愛かった。桃ちゃんは小柄だから、うさぎやハムスターのような小動物っぽい可愛さもある。

「そうじゃなくてさ、なんて言うんだろう?そう!安心する匂いがする!」
「私の匂いが安心するってこと?」

桃ちゃんは意味が分からない様子で聞き返してきた。

「そう、とても安心するんだ・・・」

すると桃ちゃんは照れた笑顔で、

「そ、そう?安心するんだ・・・そう言ってくれると嬉しいな・・・」

とその頬を染めてはにかんだ。その瞬間、俺の胸の中で気づかずに育まれていた桃ちゃんへの想いが、俺の意識を無視するかのように次々と溢れ出してきた。


第19章

「俺、桃ちゃんのこと好きだったのかもしれない・・・もう会えなくなるなんて寂しくなるよ・・・どうして今までこの気持ちに気づかずにいたんだろう・・・」

俺は半分も吸っていない不味い煙草をもみ消して桃ちゃんに顔を向けた。そうしたら桃ちゃんから意外な返事が返ってきた。

「ねぇ健太、アンタ本当に私のこと好きなの?」

桃ちゃんは今まで見たことのない真剣な表情で俺に聞き返してきた。

「あぁ、俺は桃ちゃんが好きだけど、こんな身体じゃどうしていいのかわからないよ」

すると、桃ちゃんは俺に向かって平手打ちをした。パチンッ!とその乾いた破裂音によって一瞬その場の風が止まった。俺は初めて女性に手をあげられた。だけどその平手打ちの意味が全く分からなかった。頬の痺れにも似た痛みを感じると同時に、桃ちゃんの瞳から大粒の涙が溢れだしていた。なんで桃ちゃんが泣いているんだ?俺はフラれたことなるのか?そんなことが頭をよぎった。俺は驚きを隠せないまま桃ちゃんの顔を恐る恐る覗き込んだ。

「私のこと好きだったかもしれない?そんないい加減なこと言わないでよっ!」

桃ちゃんは急に立ち上がり、俺にそう叫んだ!俺はとんでもない失言をしてしまったことに気がついた!


第20章

「私のこと好きなら、退院してもいつでも会いにこれるじゃない!今日で私と会うのが最後なの?それって私に会いに来る気がないってことじゃない!私のこと本当に好きなら、体調のいい日は私に会いにきなさいよ!私はいつでもここにいるんだからっ!私もね、健太のことが好きなの!健太なら退院しても私に会いに来てくれる!って信じてたんだから!健太のバカッ!」

桃ちゃんは泣きながらそう叫んだ!俺は自分の愚かさに今さらながら気づかされた!俺は桃ちゃんを傷つけてしまったんだ!
桃ちゃんも俺と同じ気持ちだったのは嬉しかったけれど、そんなことよりも桃ちゃんの言う通り桃ちゃんを本気で愛しているのなら、俺は桃ちゃんのもとへ這ってでも行くべきだ!俺は自分の、桃ちゃんへの気持ちの甘さに頭を打ちぬかれたような衝撃を受けた。俺はただ自分の愚かさと幼さを呪うことしかできなかった。桃ちゃんに謝ったり、言い訳したりする言葉すら見つからなかった。俺の身体は後悔と絶望に打ちのめされていた。病気のことも、明日退院することもすっかり頭の中から抜き取られたように忘れていた。
すると桃ちゃんが、

「健太、私をみて!」

と言ったので、俺はまた平手打ちを食らうと思い覚悟して歯を食いしばりながら立ち上がった。すると桃ちゃんは、俺に体当たりするかのように抱きついてきて、俺の胸の中で子どものようにわんわんと泣きだした。その柔らかくて温かい身体で何度も俺に、バカ!バカ!と言いながら・・・
俺はそんな桃ちゃんを力強く抱きしめた。

「桃ちゃん、ごめん。俺がバカだった・・・これから毎日這ってでも、いや、死んでも桃ちゃんに会いに来るよ!」
「最初からそう言いなさいよっ!バカっ!」

と言って、桃ちゃんは俺の両頬に手をあてると、その桃色の唇を俺の唇に重ねた。
桃ちゃんの舌が俺の舌と軽く触れあった・・・
その香りはいかにも桃ちゃんらしい、甘くて少し苦めの香りがした。

(あぁ、桃ちゃんの香りだ・・・)


第21章

と、甘い感覚に包まれた。柔らかくて温かい桃ちゃんの唇・・・
すると桃ちゃんはポケットからメモ帳とボールペンを取り出すと、なにやらササッと書いて俺に手渡してくれた。

「これ、私の連絡先よ。いつも出られるかどうかわからないけど・・・着信履歴や留守電にメッセージが入っていたら折り返し電話するから」
「桃ちゃん・・・いいの?」
「私、ちゃんと健太が迎えに来てくれるの、待ってるからね」

すると、プチンと糸が切れた凧のように桃ちゃんは俺に背を向けて小走りに仕事に戻っていってしまった。俺は自分の唇を人差し指でなぞり、まだはっきりと残っている桃ちゃんの唇の感触を確かめた。

これが「オトナノコイ」か・・・

俺は今までに3人の彼女がいたが、こんな気持ちは初めてだ。桃ちゃんに告白した言葉を思い出し、俺は今までの恋愛がいかに幼くてガキっぽい恋愛をしていたんだと気づかされた。俺は桃ちゃんに約束したんだ!俺は桃ちゃんを愛している!毎日桃ちゃんに会いにここに来ればいいだけだ!桃ちゃんの仕事が終わるまで待っていればいいだけじゃないか!なんて俺はバカなんだ!そんな簡単なことに気づかないで軽はずみな言葉で桃ちゃんを傷つけてしまって・・・最低だ!今夜の、桃ちゃんから貰う最後の「クスリ」の時間がきたら、もう一度桃ちゃんにはっきりと「告白」しなおそう!みんなに見られても恥ずかしいなんて言っていられない!
俺はもう一度、はっきりと桃ちゃんに「告白」するんだ!俺は桃ちゃんのことを愛している!だから病気が治ったら必ず桃ちゃんのことを迎えにくる!と。
俺はそう思うといつの間にか落としていた吸い殻を拾って病室に戻った。
桃ちゃんの甘さと苦さが混じった柔らかい唇の感触を思い出しながら・・・


第22章

この病院での最後の夕飯の時間が終わり、俺の胸は高鳴っていた。食後3~40分くらいで桃ちゃんが患者に薬を配る時間になるからだ。当然俺の周りには他の患者もいるが、恥ずかしがってなんていられない!かまうもんか!これが最後のチャンスだ!もう一度はっきりと俺のこの気持ちを桃ちゃんに伝えるんだ!俺は胸の鼓動の騒音を隠すかのようにベッドに入り、桃ちゃんが来る時間まで拳を握りしめながら待っていた。

白い壁に掛かった時計を何度も何度もチラ見していた。俺の「クスリ」の時間が来るまで、桃ちゃんがいつものようにくるまで、俺は息をひそめたハンターのように、一秒一秒流れる時間の中で、桃ちゃんを待っていた。そして、病室の入り口に「クスリ」を乗せているワゴンが入ってきた!桃ちゃんが来た!俺はとうに覚悟を決めている!そしてベッドからゆっくりと重い身体と引き起こすと、

「桃ちゃんっ!」
「あら?健太じゃない?どうしたの?」

予想外の出来事だった!「クスリ」が積み込まれたワゴンを運んできたのは桃ちゃんではなく、他の看護婦のマリちゃんだった。あれ?おかしいな?俺はこの予想外の出来事に戸惑ったけれど、今はそんな時間ももったいないくらい今すぐにでも桃ちゃんに会いたかったので、気を取り直して桃ちゃんの仕事を代理でしているマリちゃんに桃ちゃんのことをそれとなく聞いてみた。

「あ、あれ?『クスリ』は桃ちゃんじゃないの?どうしてマリちゃんが・・・?」

内心焦りで満ち溢れていたが、とぼけたフリをして聞いてみた。すると、

「あぁ、そうかぁ、いつもここは桃子が担当だもんね。桃子はちょっと他の看護師の代理で4階の方に回っていると思うよ?今日は臨時でいつもより忙しいのよね」

俺はそれを聞き終わる前に桃ちゃんがいると言う4階に向かって必死に身体を引きずりながらフラフラと歩いていった。病気のせいか、運動不足のせいか、いや、両方だ!身体が思う様に早く前に進まない!しかも急いできたから「クスリ」も飲んでなかった。


第23章

その時、誰もいない薄暗い病院の階段の途中で、俺の頭の中の時限爆弾が炎を上げるように爆発した!激しい頭痛がすべてを飲み込む洪水のように俺を襲ってくる!眩暈がして目の前が渦を巻いているようだ。頭痛だけでなく嘔吐まで襲ってきた!前進するのも困難だ。だけど泣き言は言っていられない、一歩でも前に進むんだ!今の俺には時間がないんだ!俺の後ろから焦りと激しい頭痛が、俺を狙っているギャングのように迫ってくる!もっと早くっ!俺は自分に喝をいれた!
階段の手すりを頼りに腕で身体をひっぱり、重い脚をひきずって永遠に続くかのように思われる階段を上がっていった。階段が2重にも3重にもみえる。俺は転びながらも一歩ずつ階段を登っていった。もうすでに身体中汗でびしょ濡れだった。自分の身体がこれほど恨めしいと思ったことはないほど俺の身体は弱り切っていた。情けなくて仕方がなかった。


第24章

でも今はそんな弱音を吐いている場合じゃない!すぐにでも、這ってでも桃ちゃんを探さないと!俺は何とかして2階病棟から4階病棟に辿り着くことができた。
いったい桃ちゃんはどこだ?薄れゆく意識の中で俺は死に物狂いで身体を引きずって4階の中央廊下にでると、10メートルほど先の病室からワゴンを運んで出てくる桃ちゃんをみつけた!

「桃ちゃんっ!」

俺はカラカラに乾いた喉の底から擦れた声で叫んだ!

「健太っ!こんなところで何やってんのよ!顔色が真っ青じゃない!」
「・・・桃・・・ちゃんに・・・会いに・・・来たんだ・・・」
「健太、アンタそんなことを・・・それよりも熱も酷いじゃない!」
「約束通り・・・這ってでも・・・桃ちゃんに・・・会いに来た・・・よ・・・」
「健太のバカ!まずは病気を治すことが先でしょ!誰かっ!誰かいませんかっ!先生を呼んでくださいっ!」
「・・・桃・・・ちゃん・・・俺、桃・・・ちゃんのことが・・・大好きだ・・・」
「健太のバカっ!死んじゃったらどうすんのよっ!健太のバカッ!」

桃ちゃんは泣きながら俺を力いっぱい抱きしめてくれている。桃ちゃんの髪の毛の香りとタバコの匂いが交わって俺の鼻孔に優しく入ってきた。
俺はそれで安堵したからだろうか?今はもう俺の身体中の神経の感覚はすべて無くなっていた。そこで俺はついに力尽きて意識を失ったようだ・・・
気がつくと自分のベッドの上だった。パジャマは着替えられ、右腕には点滴が打ち込まれていた。病室が暗い。と言うことはもう就寝時間を過ぎているのか?時計をみると午前0時を過ぎていた。

「桃ちゃん・・・」

あれが桃ちゃんを最後に見た姿になってしまった・・・


第25章

桃ちゃんにはっきりと聴こえたかどうかわからないけれど、俺は気絶寸前になるほどの頭痛と嘔吐に耐えて桃ちゃんに「告白」することができたんだ!ここまで命懸けで「告白」をしてフラれるなら、いっそ地雷を踏んで爆死した惨めな兵士のようになりたかった。何もしないで終わる後悔なんて俺は大嫌いだ!まるで試合前に負けたらどうしよう・・・なんてビビっている選手と一緒だ!玉砕上等!と覚悟して必死になってやっと見つけた桃ちゃんに、俺の気持ちは伝わっただろうか・・・
もし桃ちゃんに俺の「告白」が聞こえてなかったら、今朝桃ちゃんが言ったように退院してからもまた病院にきて桃ちゃんに面と向かってはっきりと「告白」すればいいんだ!桃ちゃんのためならまた這ってでもここへきてやる!最後まで諦めちゃダメだ!野球も9回裏ツーアウト、スリーボールからじゃないかっ!諦めない限り、逆転と奇跡は俺を見放さなかったじゃないか!絶対に最後まで諦めるもんかっ!
明日の退院が「決勝戦」だ!俺はまさに追い詰められて手に汗握る最後のバッターの気分だ。観衆が見守り、狂喜乱舞する!勝利を確信している相手ピッチャーは、コイツで最後だ!とニヤついている!俺は汗で湿った両手でバットをギュッと握りしめ、脚をしっかりバッターボックスの中で踏ん張り直し、ゴクリと喉を鳴らす・・・
「さぁ、こいっ!窮鼠、猫を噛む!」って言葉教えてやるよ!俺は覚悟を決めた!ピッチャーが振りかぶり、豪風のような球を投げてきた!奇跡が起こった!俺には見える!この超絶な直球が走るラインを見切った!侍が相手の太刀筋を見切ったかのように!
「今だっ!」俺は全身全霊を込めて、この一球にバットを思いっきり振り抜いたっ!


第26章

「う・・・うぅ~ん・・・」

やたらと眩しい。まだ寝ぼけている目を擦るとすでに朝食の時間で、病室には誰もいないようだ。俺はどうやら真夜中に一度起きて、再び眠ってしまったらしい。でも俺の気持ちは微塵も揺らいではいなかった。
その時、俺は左手に優しい温もりを感じて左側を振り返ってみると、なんとそこには俺の手を握りしめている桃ちゃんがいた!

「健太っ!よかった!具合はどう?頭痛と吐き気は?身体はだるくない?」

桃ちゃんは今にも泣きそうな顔で俺の体調を聞いてきた。俺の体調は点滴と熟睡できたお陰ですこぶるよかった。桃ちゃんはきっと俺に一晩中付き添ってくれていたんだろう。いつも丁寧に束ねている髪の毛が乱れていて、顔が疲労で青褪めている。
俺は慌ててベッドから上半身を起こした。


第27章

「桃ちゃん、そんないっぺんに言われてもわかんないよ・・・」

 桃ちゃんの慌てふためいた早口マシンガンのような質問に俺が微笑んでそう言うと、

「熱もひいたみたいだし、体調もよさそうでよかったぁ・・・ほんとによかった・・・」

桃ちゃんはその可愛らしい瞳から大粒の涙を流して小さな子どものように泣きだした。桃ちゃんは俺より4つ年上でしっかりしていて、まるで「お姉ちゃん」みたいな人だけど、たまに小さな女の子のように感じてしまう時がある。それも桃ちゃんの魅力のひとつだ。
俺はそんな泣きじゃくる桃ちゃんを安心させようと、桃ちゃんの頭を撫でながら、

「桃ちゃん、昨日の俺の『告白』、ちゃんと桃ちゃんに届いたかな・・・?」
「うん、うん!健太、ありがとう・・・私も健太のこと好きだから、もうこんな無理なことは絶対しないで?」
「うん、わかったよ。退院して病気が治ったら、俺、必ず桃ちゃんのことを迎えに来るから、それまで待っていてくれる?」
「私、健太が迎えに来てくれるまで、ずっと待ってるから!必ず迎えに来てよね?」

 俺はそんな桃ちゃんがとても愛おしくて、その赤くなった頬にそっとキスをした。すると桃ちゃんが、小さな女の子がもっとお菓子が欲しいとねだるように首を振った。

「そんなんじゃ足りないよ・・・もっと・・・」

桃ちゃんは涙を拭くと、また昨日のように俺の頬に手を当てて、柔らかく甘い唇を俺の唇に重ね合わせた・・・切なくて甘いキスだった・・・

(やった!俺の気持ちがちゃんと桃ちゃんに伝わっていたんだっ!)

俺はそんな自分を褒めてやりたくなった。桃ちゃんに教わった大人の恋愛。俺は命懸けで桃ちゃんに向かって「告白」できたんだっ!そうして桃ちゃんは俺が病気を治して迎えに来るまでずっと俺を待ってくれるって言ってくれた!俺の必死の「告白」は勝利したんだっ!俺はこの病気にも勝利して絶対に桃ちゃんを迎えに来るんだっ!


第28章

桃ちゃん、俺はこれから1日でも早く迎えに来れるように治療に専念するから!
だから俺のことを、その日が来るまで待っててくれっ!
そう俺が心の中でそう叫んでいると桃ちゃんは腕時計をちらっと見ながらつぶやいた。

「・・・健太ごめん、私、もう行かなきゃ・・・私、ずっと待ってるからね・・・」

と言って名残惜しそうな顔をして仕事に戻っていった。そろそろ朝食の時間が終わるから、各患者に配る薬の確認の仕事があるのだろう。俺はこれから退院するから、もう桃ちゃんから手渡しであの毒のような「クスリ」をもらうことがなくなった。その代わり、また桃ちゃんと甘くて苦いキスをすることができた。俺はこの味と感覚を忘れない。

ピンチの後にチャンスが来る!

勝負の定石だ。俺は必ずこの病気を治して絶対に桃ちゃんを迎えにくるんだっ!
と、天井を見上げた。              


第29章

すると、昨日の約束通りの時間に両親が俺を迎えにきた。昨日母さんがほとんどの荷物を片付けておいてくれたおかげで、俺はパジャマからいつも着ていた普段着に着替え直した。3か月もの入院生活であんなに鍛え上げた身体中の筋肉がその役目を忘れたかのようになかなかうまい具合に動いてくれない。
3か月もの長い入院生活が、俺から血と汗と涙で作り上げた自慢の筋肉を削ぎ落としていった・・・その証拠にいつも着ていた普段着がブカブカだ・・・
デニムを履くと、3カ月前までは俺にぴったりでお気に入りだった俺のそのデニムがスルリと膝まで落ちていった・・・
俺はもう「あの頃」の俺じゃないんだ・・・そう思うと涙が出そうになったけれど、父さんと母さんに心配かけちゃいけないと思って我慢して泣くのを堪えた・・・


第30章

「おい健太、調子はどうだ?」

父さんが明るい笑顔を浮かべて俺の肩を叩きながら聞いてきた。

「ちょっとまだ身体が怠いかな・・・」

「先生から昨夜かなり無理をしたって聞いたぞ?いったい何をしたんだ?」

 俺はその父さんからの質問を遮って、逆に俺がカウンターをあてるように質問した。

「あのさ、俺の病気って『ガン』なんでしょ?どこにできてるかは知らないけどさ」

俺は薄々感づいていた。きっともう助かる道のない「ガン」だと思ったから正直者の両親にカマをかけてみた。俺は「ガン」であっても構わなかった。絶対に奇跡を起こして完治してやるんだ!そして最愛の桃ちゃんを迎えに来るんだ!「ガン」だろうが何だろうが、最後に勝つのはこの俺なんだっ!
俺には桃ちゃんがいる!そう考えるだけで俺には怖いものなど何もなかった!

 

第31章

さっきの俺のひと言でテキパキと動いていた両親の動きが一瞬ピタリと止まった・・・俺はその瞬間を見逃さなかった。どうやら「図星」らしい。あとでゆっくりと説明してもらおう。もちろん俺はそんな父さんや母さんが俺に嘘をついていたなんて微塵も思っていない。父さんも母さんも、俺に「ガン」であることを隠すためにどれだけ神経をすり減らしてきたか、それがよくわかるから。
するとそれを誤魔化すように母さんが、

「あんた、『ガン』なんかになってたら退院なんてできるわけないじゃないの!」

と笑いながら言ったけど、母さんは俺の顔をみていない。

(母さん、もう俺に隠さなくてもいいんだよ?)

だけど父さんは俺から視線を逸らそうとはしなかった。俺にはずっと前から両親のこの得体のしれない不自然さが気になっていたけれど、やっぱり俺の「カン」は外れていなかったようだ。自分の身体のことは自分が一番よくわかる、そんなセリフを何かのドラマや映画で観たことがある。
俺の身体は正直、回復どころか日に日に弱くなっていく一方だ。俺は死ぬことよりも、桃ちゃんに会えなくなること、それが何よりも怖かった・・・だから俺は最後の最後まで絶対に諦めない!桃ちゃんと交わした「約束の日」が訪れるまで、俺は絶対に、諦めない!


第32章

私を見つめる健太の視線が、私を苦しめる。健太の「父親」として、健太に真実を伝えるべきかどうか、私は迷った。健太は野球で培ったタフなハートを持っている。私が治る見込みのない「抗がん剤治療」を断ったことも健太に話すべきかどうか・・・
「勝負師」としての健太がそんな私の勝手な判断を聞いて、

「なんで『抗がん剤治療』断ったんだよ!俺は例え1%でも可能性があれば、しがみついてでもこの『ガン』を治したいんだよ!治して生きなきゃならないんだよっ!」
 
と怒りだすかもしれない。私は健太のそんな最後まで諦めない強い気持ちが怖かった。
しかし、今、私は健太のその問いかけに「父親」として、健太に病名を告げる義務があるとも思った。健太はもう分別のある大人だと、私は思っているからだ。
私は勇気をだして健太に向かってすべてを話した・・・
私の説明をすべて聞き終えた健太はうつむきながら何か呟いていた。

(やっぱりそうか・・・薄々感じてはいたんだ・・・そうだったのか・・・しかも余命1カ月かぁ・・・夏が来る前に俺はこの世から消えることになるのか・・・蝉ほどの儚い寿命しかないのか・・・その限られた期間に何回桃ちゃんに会えるんだろう・・・)

荷物は昨日母さんが昨日ほとんど持って帰ってくれたので、着替えを済ませて気持ちも落ち着いた俺は、

「もう準備できたよ。それにしても服がこんなにブカブカになるとは思ってもいなかったよ。後で今の身体に合った服買いに行かないと、みっともないな」

俺は平然を装って両親にお道化てみせた。父さんも、母さんも、背中が、泣いていた。

「じゃ、先生にお礼を言いにいきましょう」

そんな俺の姿を見て、遂に母さんが泣きながら俺の背中を擦ってそう促した。俺たち3人は担当医の森先生の診察室に行き、お世話になったお礼と感謝の気持ちを伝えた。
俺はそこで悟られないように桃ちゃんの姿を探した。いつもいるはずのも桃ちゃんがいない・・・


第33章

桃ちゃん、どこに行ったんだろう?きっと別の仕事で忙しいのかもしれないなぁ・・・

「あの、先生・・・桃ちゃんにもお礼言いたいんですけど今、桃ちゃんは?」
「あぁ、佐々木くんなら、確か今日は昨日から夜勤だったからもう帰ったはずだよ?」

と確かめるように隣にいる看護婦のマリちゃんの顔をみた。するとマリちゃんは、

「桃子がね、健太によろしく!って言ってたわよ。たまには顔でも出してあげたら?」
「はい、診察に来る時は桃ちゃんにも会いにきます。そう伝えておいてください!」

と、俺は先生とマリちゃんに言った。その時軽い眩暈がして少しふらついてしまった。

「おっと、あんまり無理しない方がいいですよ。これからは定期的に必ず診察にきてくださいね。ではお大事になさってください」

父さんが俺の肩を軽く支えてくれたので、俺たち家族は深々とお辞儀をしてお礼を言って診察室を出た。俺は診察室を出る時にもう一度、桃ちゃんの姿が本当にそこにいないのかと思って振り返ったが、やはりそこには桃ちゃんの姿はなかった。せめて退院する時は桃ちゃんに見送って欲しかったなぁ。今朝俺の手を握っていてくれたのは夜勤明けだったから、俺が目を覚ますまで桃ちゃんは待っていてくれたんだろうな・・・そう思うとまさに後ろ髪を引かれる思いで俺は車に乗り込み、病院をあとにした。


第34章

健太を3か月もの間治療してきた森医師は、診察室の窓から健太たちが帰宅するのを確認すると、

「おい、佐々木くん、もう出てきていいよ」

すると病室の隅に隠れていた桃子が言葉を詰まらせたような表情をしながら姿を現した。桃子は森医師に一礼すると、声を震わせながら、

「先生・・・あの子は・・・健太は・・・本当に助かる手段はもうないんですか?まだ高校生なんですよ!」

桃子は耐え切れず、泣きながら森医師にすがる様に問い詰めたが、森医師は、

「君も看護師ならわかるだろう?私だってできることなら何とかしてやりたいが、どんな名医でも神ではないんだ。人には絶対に避けることのできない寿命と言うものがある。残念だが、これが彼の寿命なんだよ。君は看護婦としてのキャリアはまだ浅いが、元気に回復していく患者と、そうでない患者・・・我々はどちらも見送っていかなくてはならないんだ・・・辛くて悲しいのは君だけじゃないんだよ・・・」

森医師は桃子に医療に携わる者の最も辛く悲しい覚悟がいることを教えた。

「はい・・・せ、先生・・・」

桃子は耐え切れず顔を両手で覆いながら声を殺して泣いた。すると看護婦として先輩である真里がそっと優しく桃子を抱きしめた。

「これからはもっと辛いこともあるから・・・辛いのはわかるけど、泣いてはダメよ」

と先輩としてのアドバイスを送る様に、桃子にしっかりとした声と口調で伝えた。

「は・・・はい・・・」

桃子はそう返事をすると覚悟を決めたかのように泣くのをやめて、

「・・・先生、ちょっと顔を洗ってきます・・・」

森医師が無言で頷くと、桃子は小走りに顔を洗いに行った。そして洗面台の蛇口をひねり、両手で水をすくうと、歯を食いしばりながら今の悲しみを洗い流すように顔を擦り、涙を洗い流した。そして桃子は鏡をみながら、医師と先輩からの言葉を噛みしめ、健太が診察に現れた時は、今度は怖くなって隠れたりせずに笑顔で迎えてあげよう、健太が診察に来られなくなるまで・・・と誓った。
桃子のその顔は看護師としての強い意志で満ち溢れていた。この身を切り裂かれるような辛く悲しい経験は桃子を看護婦として大きく成長させていくことになるだろう・・・


第35章

車に乗り込むとすぐに病院を後にした。桃ちゃんが遠ざかっていく・・・せめて退院する時に桃ちゃんに笑顔で見送って欲しかったけれど仕方ない・・・
車の中で、俺は自分の状態がどうなっているのか、改めて父さんに聞いてみた。

「ねぇ、父さん・・・俺の身体のこと、もっと教えてよ?」

すると父さんは握っていたハンドルを強く握り直し、姿勢を正すと意を決したように俺にわかりやすく、ひとつずつ丁寧に教えてくれた。助手席では母さんが嗚咽を漏らして泣いている・・・
俺は余命1か月か・・・医者も匙を投げたほど酷いらしい。抗がん剤治療も両親で拒否したそうだ。父さんは、治る見込みのない俺が苦しみ悶える姿を見たくないからだと言ってくれた。もし俺が父さんの立場だったら、俺も父さんと同じ判断をしたと思う。
そして父さんが俺にひと言、車のルームミラーを見ながら、

「健太、お前に大事な相談もしなくてごめんな・・・」

 助手席では母さんが泣き崩れている・・・

「いや、そうしてくれてありがとう。治る見込みもないまま苦しんで死んでいくのはいやだな。でも俺はこんな病気で死ぬ気はさらさらないよ。ステージ4の末期ガンだっけ?でもさ、テレビとか本とかでそんな状態から奇跡的に回復した人が闘病生活を話したりすることがあるじゃん?俺もそんな奇跡を起こすよ!まだ死ぬわけにはいかないからね。俺は『負ける』ことが何より大嫌いなんだよ!だから絶対にこの病気を治してみせるよ!」

俺は不安の塊になっている両親に力強くそう宣言した。両親に心配や不安をかけたくないこともあったけれど、でも、それよりも俺はこんな病に負けたくなかった!例え医師が俺のことを見放したとしても、俺は絶対に諦めることなく起死回生してやる!


第36章

「野球は9回2アウトからでしょ?父さん?」

それは俺が小学生になって野球を始めた時に元野球部だった父さんが、

「試合は最後まで諦めない気持ちを持ってやれ!野球は9回2アウトからが本番だぞ!」

と何度も言って俺を励ましてくれた「魔法」のような大切な言葉だ。その父さんからもらったこの言葉は今でも俺の「座右の銘」になっている。それは野球だけでなく、いろんな困難に直面した時にも呪文のように心の中で繰り返し念じて、俺は目の前の壁を乗り越えてきたんだ。今の俺はこの頭に棲みついている「悪魔」に崖っぷちまで追い込まれている状態だろう。でも俺を甘く見るなよ!この9回2アウトの状況を必ずひっくり返してお前ら「悪魔」を地獄の谷底に突き落としてやるからな!

「あぁ!もちろん父さんだってこれっぽっちも諦めちゃいないさ!お前は絶対に完治する!お前ならどんな苦しみも乗り越えて必ず完治する!父さんも母さんもお前のことをバックアップしていくから、何かあったら遠慮なく何でも言うんだぞ?」
「辛い時はちゃんと言うのよ?すぐに病院に連れて行ってあげるからね!だから健太、そんな病気に負けないで奇跡を起こしてねっ!」

父さんと母さんから心強い言葉が返ってきた!さすが俺の父さん母さんだ!その言葉を聞いただけで俺はさらに強くなった気がした!泣いてばかりいた母さんもやっと腹を括ったようだ。きりっと前を見ながら力強く俺を励ましてくれた。
だから、どんなことがあっても絶対に最後まで、俺は諦めないっ!

「あぁ、俺は自分で奇跡を起こしてみせるよ!だから、絶対に負けない!」


第37章

俺が強気でそう言うと、さっきまで暗闇の中で苦しんでいた両親に希望の光が差し込んだように2人とも希望に満ちた明るい顔になった。余命1か月と宣告されたけれど、逆に考えればあと1か月もある、と気持ちを切り替えた。俺には父さん母さん、それに桃ちゃんと言う心強い味方がいる!桃ちゃんは俺の「勝利の女神」だ!桃ちゃんを絶対に泣かせるような結果にさせるもんか!勝つのはこの俺なんだよっ!
あとは、ここから先は俺自身との勝負だ!どんなに辛くて苦しいことがあっても俺は絶対に負けない!勝利をこの手に入れるのはこの俺なんだ!


第38章

病院からだいぶ遠ざかって行った。俺は、ふぅ、とため息を一つついた。気合が入りすぎたせいか少し疲れた。俺は病気のことはいったん考えるのをやめて桃ちゃんのことを考えるようにした。何がきっかけで仲良くなっていったのだろう?いくら考えても思い当たる出来事がない。
でも、桃ちゃんのことをたくさん知ることができた。ぽっちゃりとした丸い顔、さらりとした絹のような綺麗な黒髪、笑うと頬にできるえくぼ、左目の下にある小さな泣き黒子、怒った顔もかわいい桃ちゃん、桃ちゃんが吸っている煙草の銘柄、そして優しくてなんでも相談したりできる姉貴だと思っていた桃ちゃん。
それが気づいた時には「愛」に変わっていった。でも、それに気づくには俺は遅すぎた。もっと早くこの気持ち、桃ちゃんを愛していることに気がついていればもっとたくさん俺の気持ち、桃ちゃんへの「愛」の気持ちを伝えることができたのに・・・
確かに俺の命懸けの「告白」はちゃんと桃ちゃんに伝わったけれど、どうしてもっと早くこの気持ちに気づかなかったのか?それだけがあの病院での生活の中で胸に「しこり」となって残っている。


第39章

退院する時にちゃんと桃ちゃんにお礼が言えなかったのも心残りだった。明け方まで俺の手を握り絞めて看病していてくれたことも含めて。ありがとう。そう伝えたかった。
俺は車窓に映る散り始めた桜をみながらそんなことを感じていた。次に桃ちゃんに会えるのはいつだろう?看護婦は不規則な職業だ。次の診察で病院に行ったからと言って必ず桃ちゃんに会える保証はない。例え桃ちゃんが勤務の日に通院しても、あの4階での出来事のように違う仕事で他の階にいるかもしれない。それに今の俺には毎日病院に行く体力も交通費もない。せめてこの父さんの車が運転できればいいんだけど・・・
でも俺はまだ免許がないから車を運転することもできないし、もし運転途中で容態が悪化して事故になることを考えるとそんな危ない真似をする気にはならなかった。だからといって公共交通機関を使えば人波に流された身体から体力がすぐに奪われていくと思う。それに電車やバスに乗っても体調が急変しないという保証はない。ましてやタクシーなんて論外だ。いつどこで爆発するかわからない爆弾を頭の中に植え付けられた気分だ。いったい俺はどうしたらいいのだろう?
桃ちゃんにもらった電話番号は大事にもっている。まずは桃ちゃんに電話してみるか?俺は父さんに返してもらったスマホを手のひらで転がしながら、スマホに桃ちゃんの電話番号を登録した。病室はスマホの持ち込みは禁止だった。
まぁ、どこの病院もそうだろうな・・・
せめてスマホに2人で写った写メでも撮っておきたかったな・・・


第40章

3か月ぶりに手にした俺のスマホがとても重く感じた。腕の筋肉がかなり落ちた証拠だ。入院前はあんなに手に馴染んでいたのに、たったの3カ月手にしなかっただけで自分もモノじゃないように重たく感じた。服に続いてスマホも変な違和感がした・・・
 友人たちも来なくなったこの3か月間を振り返ると、自分が浦島太郎状態になっているような気がした。俺は入院中、3カ月もの間テレビを見ることがなかった。なぜかテレビを見ていると、その光のチラつきにか?眩暈がして頭痛が酷くなるからだ。だから俺のもっぱらの情報源は桃ちゃんとの会話の中のみになっていた。
そんなことを思いながらスマホの写メフォルダーをタップすると、元カノや野球部のみんな、クラスの友達との写メがたくさん残っていた。俺はなんの躊躇いも迷いもなくそれらをひとつひとつ全て消去していった。

普通の高校生だった自分を消していくかのように・・・


第41章

もう俺は体調が安定したら夜学に転入する気でいたし、元の高校へ戻るつもりもないのだから、元カノに会うこともないし、こんな写メなんて正直もうどうでもいい。元カノや仲間たちの写メを全部消去したら胸の中に詰まっていた粗大ごみがすっと砕かれたたような爽やかな気分になった。
それは俺の過去すべてが消え去り、俺は「今の俺」になった。「今の俺」へと新しく生まれ変わった気分だ。
俺はそれらの写メを消すことで、今までの人生をリセットしてこの俺の頭の中に巣くっている「悪魔」と戦うことを決めたのだから。俺はこの「悪魔」をぶっ倒して、必ず桃ちゃんを迎えに行く!それが俺のこれからの人生であり、生きていく目標になった。だから俺は絶対に「悪魔」に負けるわけにはいかない!どんなに崖っぷちに追いやられても俺は悪あがきしてでもこの「悪魔」を喰いちぎってやるんだ!
俺は拳を強く握り絞めながら心の中で強く誓った!


第42章

俺は再び外を見つめると、見慣れた懐かしい景色が広がっていた。
もうすぐうちに着く。でも、家に帰っても俺を待っているものなどなにもない。友達も彼女もいないのだから。そう思うと寂しくなり、桃ちゃんに会いたい気持ちでいっぱいになった。俺は友達や彼女が見舞いにこなくなってから、しばらく寂しくて仕方なかったが、そんな胸に空いた穴を埋めてくれてくれたのが桃ちゃんだった。もっと早く桃ちゃんへの「愛」に気がつくべきだった。人は本当に大事なものは失くしてから気づく。縫い合わせた傷口がじわじわと開いていくように、俺の心は桃ちゃんに会えない寂しさで塞がりつつあった穴が、再び開いていくのを感じていた。


第43章

やっと家に着き、疲れた身体をベッドに横たえた。病院のベッドに慣れてしまったせいか、何故か寝心地が悪い。体調がいいのがせめてもの救いだ。でも、

(それにしても・・・ひまだな・・・)

そう思った時にフェイスブックで友人達に退院したことを知らせようとしたけれど、俺は見舞いに来なくなった友人達を少し恨んでいたみたいだ。どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。それにとてもじゃないが、あいつらにはもう会う気にならなかった。FBに退院の知らせをアップしたところで一体誰がくる?俺はそれが怖かった。
俺はすでにみんなの記憶から風化して消えた人間だ。
「夢」だけでなく「友人」と「彼女」まで失った。

(いい機会だ、みんなの記憶からこのまま静かに消え去ろう・・・)

そう思いながら仲間だった奴らのアドレスも写メと同じように一件ずつ消去していった。
そして俺のスマホに残ったのは両親と桃ちゃんの電話番号だけになった。
それを見た時、孤独になったことに寂しさと切なさで涙が零れた。するとあの嫌な眩暈と頭痛が追い打ちをかけるように襲ってきた。あの「クスリ」を飲む時間だ。俺の側にはいつも桃ちゃんから貰っていた一体何に効くのか全く分からない不気味な色彩をした「クスリ」がいっぱいに入っている袋がある。もう桃ちゃんから貰えない「クスリ」をみたらうんざりしてきた。そろそろコレを飲まなければいけない時間だ・・・
眩暈と頭痛の他に重苦しい憂鬱感までやってきた・・・


第44章

俺は残されたこの「余命」をいかに有意義に活かし、頭の中に巣くう「悪魔」をやっつけていくか考えた。俺には時間がないことも自覚しておかなくてはいけない。その間に、いったい俺に何ができるだろうか?どうすればいいのだろうか?
せめて死ぬまでに桃ちゃんと「カタチ」だけでもいいから、「恋人」として結ばれたい。
そのためだけに俺は生き抜くことに必死にしがみついていかなければならないのだから。
いつもなら桃ちゃんに「これ絶対毒だよ!」と悪ふざけを言いながら飲んでいたけれど、今日からは独りで飲まなければいけない。俺は一つ一つ取り出し、サラリーマンがやけ酒を飲むように飲みたくもない、この毒としか思えない大量の「クスリ」を一気に水で飲み込んだ。まるで一仕事終えたような脱力感が身体中に重くのしかかってきたから、今日はこのまま眠ることにした。


第45章

病院を退院して2日たった。つまりそれは桃ちゃんに2日も会っていないことを意味する。俺は孤独の中、「クスリ」に慣れることはなかった。まるで生かさず殺さず生かされている囚人のような日々。俺は「生」をこの手に入れるために、出口の見えない真っ暗な迷宮の中を彷徨っているようだ。光さえも見えない中、ただ独り手探りで無限回廊を彷徨う日々が始まった。泣き言をいうつもりはないけれど、こんな時に愛する人がそばにいてくれたら、ただそれだけでどれだけ力強いことか・・・
こんなに寂しい時に桃ちゃんにさえ会えない。昨日の俺はこの病気を克服して生き抜くことを誓ったけれど、昨日の誓いは何処へ行ってしまったのだろう?今日の俺は生きる意味を失いそうなほど精神的に参っていた。自殺も考えたけれど両親のことを想うとそれはできなかったし、病気よりも自分に負けるようで嫌だったからそんな考えは右から左へと風が吹いたように飛んで行った。
俺だって所詮凡人だ。仙人賢人じゃない。ゴールが見えない真っ暗闇の迷宮を歩かされれば弱気にもなる・・・でも勝つのは俺だ!と自分に喝を入れてみても、その裏からまた不安が一気に押し寄せてきてまた弱気になる・・・そして自分に喝を入れる・・・それの繰り返しだった。


第46章

多分部屋に一人きりで籠っているから悪い考えが浮かんでくるんだ!と思い、俺は住み慣れたこの町を少しだけ散歩してみようと思った。そうすれば、運が良ければそんな悪い考えや不安な気持ちをひと時でもいいから忘れさせてくれる「何か」に出会うことがあるかもしれない。俺は思い切って外に出てみることにした。
生憎外は冷たい雨が降っていた。だけど今日もよく眠れたようでとても体調がいい。すると俺は衝動的に桃ちゃんに会いたい気持ちで胸が押し潰されそうなほど苦しくなった。

(今すぐ桃ちゃんに会いたい!桃ちゃんに会えるだろうか?)

微かな期待を胸に、俺は桃ちゃんが教えてくれた電話番号をタップした。でもコール音が数回続いた後、留守電になったので俺は桃ちゃんに、

「健太です。必ず桃ちゃんに会いに行くから!迎えに行くから!」

とだけメッセージを残して切った。


第47章

すると突然桃ちゃんの香りが俺の鼻孔に蘇ってきた。
桃ちゃんに今日は会えないだろう、そう諦めた時に俺は近所のコンビニに桃ちゃんがいつも吸っていたあの煙草とライターを買いに行った。せめて桃ちゃんの香りだけでもいいから思い出して自分を落ち着かせようと思った。
でも、コンビニで生まれて初めて買ったタバコの値段に驚いた!こんな紙くずにお金を出すくらいなら弁当ひとつ買えるんじゃないか?と思った。
俺はレジの奥に並んでいる大量のタバコの中から桃ちゃんが吸っているタバコを見つけると店員に

「45番をひと箱ください」

とだけ言うと、店員は俺が(一応まだ)高校生(つまり未成年)であることに気づかずに、お目当てのタバコを差し出してくれた。ついでにライターも買った。俺には無縁のものだと思っていたのに・・・
俺の身長は180cm近くあるし、頭も坊主じゃなかったから店員に未成年だと疑われることなく難なく普通に買うことができた。

(一箱こんなに高いのか・・・)

金のない俺には痛い出費だったけれど、せめて香りだけでもいいから桃ちゃんに逢いたいと思い、雨に濡れた公園のベンチに座ると煙草を咥えて慣れない手つきで火をつけた。

(あぁ、この香りだ・・・まるでいつものように隣に桃ちゃんがいるようだ・・・)


第48章

桃ちゃんといた病院での思い出が走馬灯のように頭の中をゆっくりと回り始めた。目を閉じていた俺は病人として入院していたのに、桃ちゃんがいたからだろう、酷い頭痛と嘔吐はあったけれど、不思議と病人としての自覚はなかった。変な言葉になるけど毎日が充実していたような気がする。それに比べて、自由に外出している今の方が病人としての自覚が強い。いつあの頭痛と嘔吐が怒涛の如くやってくるかわからないから、俺の財布の中には1回分の「クスリ」を入れて持ち歩いている。うまくもないタバコをもう一本取り出して火を着けようとした時、俺の脳を光のような音が一瞬すり抜けていった。

《・・・寒いよ・・・お腹、すいたよ・・・誰か・・・誰か助けて・・・》


第49章

俺は雨音に混じって聞こえてきたその音が気になって雨が降りしきる中、耳を澄ませてその謎の、今にも消えてしまいそうな光の音を探した。それはベンチに座っている俺の後ろにある草むらから来たと俺の直感がそう働いた。蚊が鳴くような小さな音?いや、声?か?一体何の音だ?俺は気になって、その光のような音がした方へ一歩ずつ近づいていった。俺はその今にも消えてしまいそうな光のような音に向かってさらにゆっくりと近づいてみると、そこには風前の灯火のように今にも消えてしまいそうな「何か」が微かに光を放っていた。

(なんだ?この光は・・・?)

俺はさらに注意深くなってゆっくりと近づきながらその草むらの中をかき分けて進み、何の植物だかわからない草むらの中を覗き込むと、そこには何か白くて小さな生き物らしきものが微かな光を放ちながら横たわったまま鳴いていた声?だった。
 その光と鳴き声らしき音が今にも消えそうで俺の気持ちを不安にさせる。
そっと覗き込むと、俺は自分の目を疑って何度も瞼を擦った!
そこには仄かに光る小さな龍がいた!俺の掌に乗りそうなほどの小さな龍がいたんだ!

「そ、そんなバカな・・・・!」


第50章

タイミング悪く「クスリ」が切れてきたようだ。眩暈がして、目の前が渦潮のように回り始め、いつもの頭痛が襲ってきた!俺は夢でも見ているのか?そう思って、もう一度目を擦って、その微かに光る龍のカタチをした「何か」を凝視してみた。するとそれは小さな龍なんかじゃなくて、今にも死んでしまいそうな真っ黒の仔犬だった。俺はまだ退院したばかりで、こんなに歩き回ったから疲労から来た眩暈が原因でそれが龍に見えたんだろうと思った。

「ク~ゥン・・・」

と今にも消え入りそうな蝋燭の灯のように微かな鳴き声をあげている!そう、その謎の音の正体はこの捨て犬の、今にも消えてしまいそうな小さな命の鳴き声だった。
その仔犬は春の冷たい雨に濡れて身体中が汚れていた。誰かに助けを求めるように鳴くこともろくにできない小さな仔犬は、最後のちからを振り絞って鳴いているかのように感じた。その小さな身体からは無残にも何本ものあばら骨が橋の梁のように浮き出ていた。もう何日も何も食べていないようだ。水すらも飲んでいないだろう。

(とにかくすぐにコイツを助けてやらないと!)


第51章

俺は持っていた傘を放り投げて、そのずぶ濡れになって汚れている仔犬を胸の中に抱えると家まで急いで帰った。
仔犬が風邪をひいたらマズイ!まずはシャワーで身体を温めてやらないと!俺は仔犬を抱いたまま風呂場に直行してシャワーから適度な温度のお湯を出すと、仔犬のケツの部分からゆっくりと湯を当てていった。

《・・・あ・・・温かい・・・ここは。どこだろう・・・?》

そして足、身体、最後に頭を洗ってやると、俺のバスタオルで撫でるようにコイツの身体中を拭ってやって、ドライヤーを丁寧に全身に当てて乾燥させると、身体が温まったのだろう、また弱々しく、

「クゥ~ン・・・」

と閉じたまぶたで何か助けを求めるように微かな声で鳴いた。俺はすぐに腹がかなり減っているんだろうと悟った。これだけ浮き出たあばら骨だ。だが、犬を飼ったことがない俺はいったいコイツ何をやればいいんだ?と思ったが、

(とにかくまずは温かいミルクだな!)

そう素人考えで冷蔵庫に行き、中から牛乳を取り出すと、ミルクパンにその牛乳を入れて軽く火を通した。ミルクパンに人差し指を突き込むと、牛乳はちょうど人肌の温かさになったので、

(他になにか栄養がつくものはないのか?)

俺は台所を見渡すと砂糖が目についたので、よし!と思い、砂糖適量を指で摘まんで温めた牛乳の中に入れて、そこにあったスプーンで急いでかき回してやり、小さな小皿にそれを移して仔犬がいる浴室へと持っていった。


第52章

「おい、ほら!ミルクだぞ!たくさんあるからゆっくり飲むんだぞ」

《・・・何かとてもおいしそうな匂いがする・・・僕に、それを下さい・・・》

俺はコイツにまずはミルクを舐めさせようとしたけれど、やはり体力がかなり衰弱しているようで、小皿に頭を持っていくことすらできずに横たわったまま震えている。仔犬は匂いでミルクがあることは理解できていたようだ。微かに鼻をぴくぴくとさせている。俺はコイツにどうやってミルクをやればいいのかわからず慌てふためいたが、昔テレビかなんかでみたシーンを思い出した。
俺はミルクを口に含むと、仔犬の身体を柔らかく包み込むように抱えて口移しでミルクを与えてやった。すると仔犬は、初めは震えながら俺の口元の匂いをクンクンと嗅いでいたけれどそれがミルクだとわかると俺の口元を舌で舐め始めた。仔犬はまるで砂漠で倒れた旅人が、水を与えられて我を忘れて水を飲み干すように、俺が与えた少しばかりのミルクをあっという間に舐め干してしまった。

《はぁ・・・なんておいしいんだ・・・もっと欲しいよ・・・もっとちょうだい!》


第53章

でもまだ足りないようだ!俺は再び台所に向かい、今度は口いっぱいミルクを含むと、仔犬は催促するように両足を必死に伸ばして俺の口元に向かってきた。よしよし!俺はそう思いながら、必死にミルクを舐める仔犬の身体を抱えていた。口いっぱいに俺はミルクを含んできたけれど、それもあっという間になくなってしまった。俺はまた台所に行ってミルクを口に含むと、浴室に向かっていった。

《・・・よかった・・・どうやら僕は死なずに済んだみたいだ・・・助かったんだ・・・》

仔犬は満腹になったのだろう、軽く小さなゲップをした。その満足した小さな瞳は人間の赤ちゃんと同じように眠そうにとろ~んとした瞳になっていた。肋骨が浮き出ていた腹もミルクでポッコリと膨らんでいる。これでひとまず安心だろう・・・

《・・・なんだか、眠くなってきちゃった・・・この人が、僕を助けてくれたんだ・・・》

俺は安心して張っていた気が抜けたせいか、いつものように激しい頭痛と眩暈が襲ってきた!昼に飲む「クスリ」をすっかり飲み忘れていた!このままじゃ俺もヤバい!
運悪く両親とも留守だったので、俺は自分の部屋に仔犬を抱きかかえたまま戻り、やっとの思いでベッドの枕元に常備しておいた「クスリ」を一気に水で飲み干した。俺はそのまま仔犬を抱えながら意識を失ってしまったように眠り込んだ・・・


第54章

・・・どれだけ眠っていたのだろう?俺は頬に何か温かいものを感じた。それは水仕事で荒れてざらついた小指の腹でなでられているような感覚で、しかも微かに湿っている。それが何度も何度も俺の頬を優しくなでる。目を覚ました俺がゆっくりとまぶたを開いていくと、ぼんやりと黒いモノが目についた。霧がはれるように俺の両目が視覚を取り戻していくと、その正体はさっき公園で拾ってきた仔犬だった。仔犬はだいぶ元気になったようで、俺の顔の横でしっぽを振りながら嬉しそうに、

「わん!わん!わんっ!」

と吠えている。やっと元気になった仔犬を見た俺は、

「あぁ、お前かぁ・・・元気になったみたいだな?よかった、よかった・・・」

と、俺はコイツの小さな頭を優しく包み込むように撫でると、コイツも俺が目を覚ましたのが嬉しかったのだろうか、もっと頭を撫でてくれと言わんばかりにその小さなこうべを垂れて、しっぽを機嫌よく左右に振り回した。と、その時、俺は右腕に冷たさを感じた。

(・・・なんでシーツがこんなに濡れているんだ・・・?)

体を軽く起こして見てみると、そこには黄色いシミができていた。犬を飼ったことなどなかったが、

「あぁ!こんなところにやっちまったのかっ!」

と、上半身を起こした。そう、仔犬は俺のベッドのシーツの上に粗相をしていたのだ。なんの悪びれた様子もなく、ただひたすらにご機嫌よくしっぽを振っている。

「わん!わんっ!」

仔犬は無邪気に俺にじゃれついてきた。

「わんわん!じゃねーよ!おまえ~、こんなところに小便なんかしやがって!」


第55章

呆れ顔の俺とは裏腹に、コイツは嬉しそうに俺にじゃれついてくる。
まぁ、しかたないか・・・死にそうなほど腹すかせたて、あんだけミルク飲んだんだからな。それに元気になったならなによりだ。俺は自然と笑みが零れた。俺が仔犬を抱きあげると、仔犬はまたその小さなベロで俺の顔中を舐め回し始めた。

「わかった、わかった!」

俺は思わずそう言うと、次の問題が頭の中を過ぎった。

(仔犬は元気になったけど、また公園に戻しに行く訳にはいかないな・・・)

そうなると俺が家で飼うことになる。父さんと母さんに仔犬を飼うことを許してもらおう。俺はコイツの小さくてつぶらな黒い瞳をみながら考えた。そうだ、それならコイツに名前をつけてやらなければいけないな。

(なまえ・・・ナマエ・・・名前・・・)

そう考えていると、また頭痛が始まりそうだったので名前は後回しよう・・・と思った時、いつもつけっぱなしのFMラジオから、

「・・・レオさんの『Messege』をどうぞ!」

DJが曲紹介をすると、まだ微かに残っている幼さと一生懸命歌う歌声が流れてきた。俺はその歌声に引き寄せられ、その歌詞に耳を預けた。俺はこの曲を聴いて、陳腐な言い方になるけれど全身に鳥肌が走った!俺に、生きていくために大事なものを教えてくれているような歌詞で感動を与えてくれた!


第56章

病室のベッドに伏せる俺には明日などなかった。「病魔」は俺の身体を蝕みながら、大事な仲間たちや彼女、それだけでなく、プロの野球選手になる「夢」をも俺の身体から引き千切るように奪っていった。俺には明日のことすら考える余裕さえもなくなっていた。そして涙を知った・・・
その歌手は、まだ新人のようだったけれど、まだ幼さが抜けない声で一生懸命身体中から溢れ出る「Message」を俺に伝えているかのように歌っていた!俺はその歌手から感動と生きることに勇気づけられたお陰で仔犬を強く抱きしめてしまった!

「きゅ~んっ!」

苦しそうに仔犬が鳴いた。俺は興奮と閃きでコイツを抱き上げると、

「・・・レオ・・・お前の名前は今日から『レオ』だ!」

レオは俺の言葉が理解できたかのように、「わん!」と元気よく返事をした。

「レオ!レオ!」

俺は孤独の中でやっと「親友」ができたように何度もレオの名を呼んだ。レオは俺に呼応するように、「わん!わん!」と部屋の中を走り回った。


第57章

しかし、運命とは皮肉なもので、そんなレオの次なる悲劇を知ったのはその瞬間だった。
 
「レ、レオ・・・お前・・・」

俺はあまりのショックに愕然とした・・・俺はレオを震えた手で抱え上げ、レオの左後ろ足を見た。やはり・・・レオは左後ろ足に障害を持っていた。
左後ろ足の膝が内側に捻じれ曲がっている・・・
俺の部屋を走り回るレオが左後ろ足を引きずるわけだ。心ない飼い主から捨てられ、さらに左後ろ足に障害を持っているなんて・・・逆も考えられるな。障害を持つ仔犬だからこそ面倒で邪魔になる前に、あの冷たい雨の中で生まれて間もない仔犬を捨てていったことも考えられる。今はレオを捨て去った人間のことなんてどうでもいい。犬は喜んで走りまわるものなのに、レオにはその自由までもが奪われているなんて・・・
まるで翼をもがれ、飛べなくなった鳥のようだ・・・
運命とはどこまで残酷なんだろう?弱いものをさらに叩くような運命なんて、いくらなんでも酷すぎる!何も悪いことなんてしていないのに不公平だ!
俺はやり場のない怒りで震えている!俺はこの時初めて、この世には神も仏もいないんだと悟った。だからどんなことからもレオはこの俺が守ってやるんだ!と決心した。

「レオ、もう大丈夫だからな!」

俺はまだ小さくてあばら骨が浮き出ているレオを胸の中に抱きしめた。


第58章

「くぅ~ん?」と、レオは不思議そうな顔で俺の顔を覗き返したが、俺はさっきラジオから流れてきた曲を思い出し、

「レオ、これからは俺と一緒に生きていこう!」

そう強く心に誓った。俺とお前で、光の射すほうへ向かって生きて行こう!きっと何かがあるはずだ!諦めちゃいけないんだ!俺に残された時間はほんの一握り程度かもしれない。でも、俺たちは何事にも負けないように強く生きていけばいいんだ!
「親友」がたったひとりいるだけで、こんなにも勇気づけられるとは思わなかった。
 さっき俺はこの世に神も仏もいないのかっ!と思ったけれど、俺とレオとのこの出会いは、きっとそんな神や仏が俺とレオを運命共同体として生きることを教えてくれた。そんな「プレゼント」のようなものなのかもしれないな・・・そう思ったら、レオがさらに愛おしくてたまらなくなった。俺にはレオがいる!レオには俺がいる!俺たちは最後の最後まで諦めることなく、お互い励ましあって生きていこう!俺にそんなことを思わせるほどレオは不思議なチカラを持っていた。その小さなレオの身体を抱いていると、死ぬほど苦しめられている激烈な頭痛と嘔吐感を忘れることができた。レオはまさに俺の元に舞い降りてきた天使のような仔犬だ!

「レオ、これから俺とお前でどんなことがあっても一緒に生きていこうな!」
「ワンッ!ワンッ!」

レオが俺に応えるように元気に吠えた。あの冷たい雨の中、諦めることなく助けを求めて泣きづづけたレオ・・・そう、諦めなければ、「奇跡」は起こるんだ!
俺は改めて今この病気に打ち勝つことを、そんな小さなレオを抱きしめながらそう強く誓った。


第59章

そんな喜びに満ち溢れていた時、俺のスマホが鳴った。誰にも退院したことなんて伝えてないのに・・・いったい誰からだろう・・・?
そう思いながら画面をみると、昨日登録したばかりの桃ちゃんからだった!きっと俺の留守電メッセージを聞いて掛け直してくれたのだろう。俺は急いで「桃ちゃん」と画面に踊るように浮き出ている電子記号を素早くタップした!

「桃ちゃんっ?桃ちゃんなのっ?」
「あ、健太?今日の具合はどう?電話ありがとうね。でも仕事中は電源切ってるから電話に出られないの。ごめんね。せっかく電話してくれたのに・・・」
「桃ちゃん看護師だもん、仕事優先になるのはわかってるから気にしないでよ?それより桃ちゃんが俺の留守電聞いて電話くれたことの方が嬉しいよ!もう仕事は終わったの?」
「うん、今病院を出て電源いれたとこだよ。そうしたら健太から留守電入っていたからかけ直したんだ。そうそう、大事な事言うね。あのね、健太が検診にくる金曜日は看護婦長さんの林さんにお願いして全部日勤にしてもらったの!だから健太が診察に来る時は必ず会えるから安心してね。あと、休みは今のところ調整中だから、決まったらまた連絡するよ」
「うん、ありがとう。疲れてるのに返事くれてありがとう!金曜日、楽しみにしてるよ!」
「私もだよ。でも、無理だけはしないでね?じゃ、金曜日にね!」
「うん、ありがとう!気をつけて帰ってね」

もっと桃ちゃんと話したいことがたくさんあったけれど、桃ちゃんは疲れているだろうから俺は遠慮して電話を切った。


第60章

その時ちょうど家の駐車場から車の音が聞こえた。どうやら両親が帰ってきたようだ。
俺はレオを抱き抱えたまま部屋を出て玄関で両親を迎えた。ドアが開いたので、

「おかえり。どこ行ってたの?」

と声をかけた。両親は買い物に行っていたようだ。特に母さんは俺が起きているのが心配な様子で、

「あんた、起きてて大丈夫なの?お薬はちゃんと飲んだの?」
「あぁ、ちゃんと飲んだよ。さっきまで眠ってたから調子はいいよ。でさ・・・」

と、俺はレオのことを切り出そうとした時に、父さんが、

「おい、その仔犬はどうしたんだ?」
「あぁ、コイツはね・・・今朝公園を散歩してたら、コイツを見つけたんだ。ねぇ、コイツを飼っても良いかな?」

と、無理を承知で懇願した。せっかくできた「親友」なんだ!と俺が説得すると、両親は顔を見合わせて、一瞬困ったような顔をしたけれどレオを飼うことを許してくれた!


第61章

「父さん、母さん、ありがとう!」

両親は俺がレオといることで元気がでたようにみえたらしい。そこで俺はレオの障害について恐る恐る話した。両親は意外な事実に困惑した顔をみせた。

「あんた、その体調でその仔犬の散歩いけるの?」

痛いところを突かれた質問に俺は躊躇したが、レオの顔をみると、レオの面倒をみるのは俺だ!とさっきの誓いを思い出し、俺は毅然とした態度で、

「あぁ、俺なら問題ないよ。それにレオはビッコでもちゃんと走れるから!」

俺は両親を説き伏せるように言った。すると父さんが、

「わかった。飼ってもいいぞ。それならこれからエサやいろんなものがいるな。今から父さんがホームセンターに行って必要なものを買ってきてやるから、お前は犬の躾のことについてどんなことが必要なのか調べておいてくれないか?」

そうだ、レオを飼うならエサとかいろいろ揃えないといけないな・・・
それに犬の躾の方法も。そうして俺はレオを連れて部屋に戻るとパソコンでレオを飼うのに必要なものや躾の方法を調べた。


第62章

「・・・けっこうするもんだなぁ・・・」

俺の我儘で飼うことになったレオだが、エサ代やらなにやら全部買って揃えてくれるのは両親だ。調べていくうちに、毎年の予防接種代、避妊手術代、もし病気や怪我をした時の医療費の高さなどなど・・・馬鹿にならない金額に驚いた。
父さんと母さんは俺の入院費だけでもかなりかかっただろうことは俺でも容易に想像できた。そして、これからはレオにも金がかかるのか・・・
せめて俺が2~3時間でもバイトできる程度の病気だったら、父さんと母さんに経済的な負担をかけずに済むんだけど・・・
俺は自分の身体を呪った。そんな時、俺を励ますかのようにレオが、わん!と吠えた。なるべく父さん母さんには迷惑をかけないように、レオと生きていこう!


第63章

どうやら時間切れのようだ、頭痛と眩暈が同時にやってくる不快な足音が聞こえてきた。気のせいか?退院してから「クスリ」の効果が弱くなったように感じる。しかも、効いている時間も確実に短くなっている・・・気のせいだろうな・・・病は気から!とも言うけれど、今の俺には桃ちゃんが1番の「薬」だ。桃ちゃんに会えなくて気が滅入っているのも確かなことだった。桃ちゃんと毎日会えなくなった今、そんな自覚症状がでてきた。

(俺の「余命」が減ってきている証拠だな・・・急いでなんとかしないと!)

そう思いながらレオの粗相で濡れたままのベッドに潜ると、再び毒のような「クスリ」を水で押し流すように一気に飲んで、レオをそっと腕の中で抱きながら、その日は運よく穏やかに眠ることができた。レオはすでに夢の中らしい・・・スヤスヤと小さな寝息が心地よく聞こえる。レオの温かさが俺を安心されて落ち着かせてくれる。まるで桃ちゃんのようだ。俺は孤独なんてものはとっくに忘れていたから寂しくも悲しくもなかった。これもレオと出会えたお陰だ。家ではレオがいて、病院と電話では桃ちゃんがいる。俺はそれだけで充分なほど心が満たされている。どんな「クスリ」よりも効くこの温もり。
「クスリ」を飲み終えた俺は、沈むようにベッドの海に沈んでいった・・・


第64章

《この、僕を助けてくれた人、健太君って言うんだ?とても優しい人だけど、何かに苦しんでいるみたいだ。とても辛そうな顔をして眠っている・・・僕は今、仔犬の姿をしているけど、
「魔法」が使えるかどうか試してみよう!この健太君を僕の回復魔法で助けてあげなくっちゃ!》

 僕は健太君の横に添い寝して身体を密着させると「回復の魔法」の呪文を唱えた。僕の身体が温かい光に包まれて、その光が健太君に伝わり、そして健太君を包んでいった。やった!この仔犬の姿のままでも僕の魔法が使えるんだ!でも、まだ僕の力じゃ健太君その苦痛を完全に取り除くことは・・・無理・・・みたいだ・・・ハァ、ハァ・・・健太君・・・ごめんね・・・ここまでが、僕の限界・・・みたいだよ・・・ごめんね・・・健太君・・・僕の放った魔法の光が僕と健太君からスッと霧が晴れたように消えていった。僕の体力の限界だった。僕もとても疲れちゃったから、そのまま健太君に寄り添いながら眠ってしまった・・・


第65章

俺が目覚めるともう昼近くになっていた。レオは俺の頬のあたりの匂いを嗅ぎながら、クンクンと鼻先を鳴らしている。目を覚ますと、今朝はベッドの上では粗相はしてないようだ。レオは嬉しそうにワンワンと元気に吠えている。 
ここまで元気になってよかった!そうか、きっと腹が減ったに違いない。昨日ネットで調べてわかったが、仔犬に牛乳はNGらしい。そこで昨日父さんが買ってきてくれた仔犬用のミルクを作ってやった。レオは、待ってました!と言わんばかりに舌をだし、しっぽを嬉しそうに振っている。

俺がミルクの入った器を床に置くと、一目散にレオは器に顔を突っ込んで勢いよくミルクを舐め始めた。いくら元気になったとはいえ、レオの体にはまだくっきりとあばら骨が浮き出ている。見ていて可哀そうになるくらい痛々しい。肉でも食わせてやりたいが、レオはまだ歯が生え揃っていない仔犬だ。レオは俺のそんな心配をよそに、酒を一気飲みする酔っぱらいのようにミルクを嘗め回していた。どんどん飲んで栄養つけろよ!
レオの腹はみるみる膨らんでいく。メタボの仔犬の姿を見て俺はつい笑ってしまった。元気な証拠だ。こんなに笑ったのは、いつ以来だろう・・・ふと、そう思った。
レオはすっかり飲み干した器に残ったミルクを一滴でも残さないようにぺろぺろと舐めまわしていた。俺がレオの食欲に呆れていたら、レオは満足したのだろう、人間の赤ちゃんのようにゲップをして俺の顔を見つめている。そのメタボのような腹、今までよほど腹が減っていたのだろうなぁ、浮き出たあばらが何度見ても本当に痛々しい・・・俺はこんなレオを捨てた見知らぬ元の飼い主を憎んだ。左足が不自由な生まれたてのレオを捨てたのか?冷たい雨に濡れながら、どんなにレオが悲しくて寂しい思いをしたのか、俺はそのレオを捨てた飼い主にレオの苦しみと悲しみを叩き付けてやりたくなった。
でも皮肉にもその飼い主がレオを捨てたことで俺とレオは出会うことができた・・・
レオがいなかったらきっと俺は、孤独に圧し潰されて毎日沈んだ気持ちになっていただろう。


第66章

レオと俺を出会わせてくれた元飼い主に感謝すべきか?そう考えると、レオにとても申し訳ない気分になった。
ミルクをたらふく飲み終わったレオの小さな目がとろ~んとしてきて、今にも眠りについてしまいそうだった。そうだ、俺もクスリを飲まないと・・・俺はレオを抱え上げ部屋に戻り、今ではもう嫌だとは言っていられない毒々しい「クスリ」を一気に飲み干した。いつになったらこの危険そうな色をした「クスリ」から俺は解放されるのだろう?と思っているうちに、レオはベッドの中ですやすやと眠りに落ちていた。
俺はそんなレオを撫でながら、ゆっくりとベッドに入って小さく丸まって気持ちよさそうに眠っているレオを見つめていた。すると、レオは夢でもみているのだろうか?
「くぅ~ん・・・」とか、「わふっ!」と寝言(?)を言っている。俺は犬が寝言なんて言わないと思っていたので、レオの寝言を聞いて少し驚いた。俺はそんなレオをみてますます愛おしくなった。俺はレオの湿った鼻先を指でくすぐると、レオはくすぐったそうに前足で鼻をこすって、また丸まってしまった。俺も「クスリ」が聞いてきたせいか、そのまま静かに眠りにつくことができた・・・
そう言えば、今日は全然頭痛や吐き気などの痛みや苦しみはまったくなかったな。「クスリ」がうまく効いたのか?毎日こんな体調だったらいいんだけどな・・・


第67章

俺は1時間ほど眠っていたようだ。頭痛も嘔吐感もない。隣にはレオがまだすやすやと眠っている。

(まだ生まれて間もない仔犬だもんな、人間の赤ちゃんと全くかわらないな・・・)

俺は自然と笑みがこぼれた。そっとベッドから抜け出すとパソコンを立ち上げて、仔犬の躾について調べてみた。

(まずはトイレを覚えさせないとな)

俺はトイレ用具を部屋の隅においた。レオにどうやって教えたらいいのか、俺はさらに調べた。仔犬の場合、トイレ以外で粗相をしても叱ってはいけないそうだ。自分が何をしたのか理解できないらしい。なるほど・・・
俺はその隣にミルクの器を置いた。仔犬用ミルクについては特に問題はなさそうだ。トイレのしつけは根気よく・・・か。俺はパソコンをカタカタと鳴らしながらいろんなことについて調べた。すると横からどしっ!と音がしたので、横を向くと寝起きのレオがベッドから飛び降りて、しっぽを振って俺のもとにやってきた。わんわん!と機嫌がよさそうだ。元気にしっぽを振っている。俺は椅子から下りて床に座り込んだ。

するとレオは俺の膝の上にぴょんとのってきた。そしておはよう!と挨拶でもするかのように俺の顔中をぺろぺろと舐めまわしている。レオはもう俺のことをご主人様と思っているようだ。ますますかわいいヤツだな、とつい抱きしめてしまう。
飼い主に裏切られ捨てられたレオが「人間不信」にならないでよかった、と安心した。もし俺がレオを拾わなかったら、寒さと飢えで死んでいたかも知れないし、保健所に連れていかれていたかもしれない。俺は保健所のこともネットで調べた。
それを見た時、俺は身体中が凍った!


第68章

捨て犬猫たちは処刑用の「二酸化炭素ガス室」の中で殺されるということに!二酸化炭素が処刑部屋に注ぎ込まれる。つまりこれは罪なき犬猫たちを窒息死させることだ!中には苦しみのあまり自分の舌や口内を噛み切って顔を血塗れにして殺された犬猫たちの写真まであった!窒息死がどれほど怖くて苦しいか?そんなこと誰でもわかるだろ?なんでこんな拷問みたいなかたちで殺処分なんかするんだよ!せめて、こんなことは言いたくないけれど、せめてもっと楽な安楽死にしてやってくれ!こんな殺処分方法なんて苦しみの上塗りじゃないか!
死刑執行の前の罪なき捨て犬猫たちは、これから起きる恐ろしい出来事を感じとって恐怖のあまり震えながら失禁してしまうそうだ。
そんな犬猫たちの、これから殺される恐怖心が俺の胸に痛いほど突き刺さってきた!
なぜ無責任な飼い主から捨てられた罪なき犬猫だけがこんな目に会うんだ?捨てた飼い主にも重い罰則をしないと、罪もない犬猫たちは飽きたおもちゃのように捨てられて殺されるだけじゃないか!しかも毒殺でもまだ息のある動物までもがそのまま生きたまま焼却炉で燃やされてしまうなんて!これを人間に置き換えてみろよ?どれだけ残酷なことか想像できるだろ?ペットは犬猫に限らずオモチャじゃないんだよ!俺たちと同じ「命」があるんだよ!保健所も保健所だ!そんな無抵抗な罪なき怯える犬猫たちをいとも簡単に殺して焼き捨てるなんて・・・誰にも「命」を消す権利なんてないんだよ!この「殺処分制度」を何とかして欲しい!アメリカのように犬猫にマイクロチップの植え込みをすればいい。そして捨てた飼い主から多額の罰金をとればいい。捨てられた犬猫たちはもう元の飼い主の元に戻るつもりはないだろう。それなら犬猫専用の里親制度を充実させたり、捨て犬猫たちの施設を作ればいい。その心ない飼い主たちから搾り取った罰金で!「命」はみんな平等なものなんだから!


第69章

ちょっと寄り道をしてしまったけれど、一通り調べ物が終わったからさっそくレオにトイレを教えないといけない。俺はネットに書いてあった通りにレオをトイレシートの上に座らせた。ネットによると、トイレの上に仔犬を乗せて、用を済ますまでジックリと待って、用が済んだらたくさん褒めてやるそうだ。トイレの上に座ったレオは、俺の顔をじっとみながら小首をかしげている。すると数秒もたたないうちに飽きてしまって、トイレの上にぺたんと腹這いになったしまった。

「レオ!違うだろ!もう一度お座り!」

と言ってはみたが、まだレオにお座りなんて教えていなかった。できるわけがない。

「先が思いやられるなぁ・・・」

俺は長く先の見えない階段を登っている気分になった。俺が頭を抱えていると、レオは自分には関係ないような顔でしっぽを振ってご機嫌でいる。俺は再びレオをお座りさせてみたが、レオはすぐに腹這いになってしまう。それの繰り返しだ。こうなったらレオと根競べだ!こうしてレオのトイレ特訓が始まった。
俺はレオに「お座り!」と言って座らせる。レオは舌をだして、ハァハァとしている。そしてごろりとトイレシートの上に伏せてしまう。これの繰り返しだ。すぐにレオは飽きてしまって俺の膝の上にのってこようとするが、俺はまたトイレシートの上にレオをのせて、「お座り!」と何度も繰り返した。レオも懲りずに何度も俺の膝の上にのってきて甘えてきた。これで何度目だろう、またレオをシートの上にのせて「お座り!」と言った時、レオは足をそろえてきちんと「お座り」をした!


第70章

レオは、これでいいの?と言わんばかりにつぶらな瞳で俺をみつめている。俺の目的とは違ったが、レオは「お座り」を覚えた!俺はそんなレオを抱きしめて頭を撫でまわした。

「なんだ、レオ!お前賢いな!」

俺はグルングルンとレオの小さな頭をもみくちゃに撫でまわして抱きしめた。レオは褒められているのがわかっているのだろう。
俺の頬に両前足をあてて、俺の顔をぺろぺろと舐めまわした。

「レオ!よくやった!」

俺は本当にレオが「お座り」を理解できたか確かめるために、レオを床に置いて、

「レオ!お座り!」

と言うと、レオは忠犬ハチ公のように「お座り」をビシッ!と決めた!よし!お座りはもう完璧だな!俺は自分のことのように嬉しかった。病気になってからこんなに喜んだのは初めてだった。俺はまだ病人だけど、それを忘れさせてくれるくらいの喜びをレオは俺に与えてくれる。これならトイレもすぐに覚えてくれるかな?俺は期待を込めてレオをみつめると、レオはそんな俺の気持ちが分かったかのように、わんわん!と吠えた。

「よしよし、いい子だ!いい子だ!」

俺は何度もレオの頭とまだやせ細っている身体を撫でまわした。よし!次は本番のトイレの特訓だ!さっきレオはたくさんのミルクを飲んだから、すぐにおしっこをするだろうと決めつけていた俺が甘かった。どうやら俺もレオも疲れの限界がきたようだ。レオは大きなあくびをして俺をベッドに誘うように俺の膝へと飛び跳ねてきた。俺も夢中になりすぎたせいか、頭痛がしてきた。いっぺんにいろんなことを教えるのはまだ仔犬のレオには酷だろうと思い、俺も「クスリ」を飲んでレオを抱きながらベッドへと向かった。俺とレオは呼吸を合わせるかのように眠りに落ちていった。
明日は診察の日だ!やっと桃ちゃんに会えるんだ・・・


第71章

翌朝目を覚ますと、レオもまだ眠そうにゆっくりと身体を起こし、ミルクの催促をしてきた。俺はミルクの器をもってキッチンに行くと母さんが、

「あら、おはよう。調子はどう?今日は診察に行く日よ。9時に病院に行くからそれまでに準備しておくのよ?」

と言われた。俺はレオのミルクを用意しながら、またあそこに行くのか・・・と憂鬱になったけれど、すぐに桃ちゃんに会えるチャンスだ!と思ったら、憂鬱な気分は霧が晴れたようにどこかへ消えてしまった。

(桃ちゃんと会うのは5日ぶりかぁ、長かったなぁ。桃ちゃん、どうしてるかな?)

今日から隔週金曜日は日勤だと言ってたな。また一緒にタバコ吸えるといいな・・・
とりあえず桃ちゃんに今日の10時半に診察を受けることをメールしておこう。
俺はそんな気持ちでワクワクしながら着替えをしていると、レオは自分も一緒にお出かけするものだと思っているようだった。びっこを引きながら嬉しそうに部屋中を駆け回っている。かわいそうだけど、レオを病院に連れていくことはできない。だからと言ってこの家にまだ幼いレオだけ置いて一人ぼっちにはさせられない・・・
レオはきっと捨てられた時のことを本能的に思い出して、レオに苦しくて寂しい思いをさせてしまうかもしれない・・・それはどうしても避けたいことだった。
俺は父さんにレオも車で連れていくよう懇願したが、やはりダメだと言われてしまった。支度を終えた俺の足元にレオは無邪気にじゃれついてきた。俺はそんなレオを抱き上げると、

「レオ、ごめんな。すぐに帰ってくるから!」

レオは置いてきぼりになるのを悟ったようで、寂しそうに、くぅ~ん・・・と鳴いた。俺はそのままレオをゲージの中に入れると、レオは覚束ない後ろ足で身体を起こして手足を広げた。その姿はまるで無罪の囚人が牢獄から「ここから出してくれっ!」と言わんばかりに鳴き続けているように見えた。その鳴き声は俺がレオを雨降る公園で見つけた時のような悲しげに満ちた鳴き声だった・・・

「僕を独りにしないで!」
「健太君!僕を捨てるの?」
「もう独りになりたくないよ!」
「健太君っ!」

そう叫んでいるように俺には聞こえた。レオの叫び声は俺の耳を引きちぎりそうなほど痛かった。


第72章

独りになることの寂しさ、悲しみ、苦しみ、そして・・・孤独感・・・

レオだけじゃない。俺もイヤというほどそれを知っている。俺は泣きたい気持ちになった。俺たちは孤独の辛さと寂しさを知っている者同士だ。仲間?いや、違う!レオと俺は「親友」であり家族だ!俺はついに我を忘れてレオをゲージから出すと、再び父さんにレオも一緒に連れていくように懇願した。すると父さんは、俺を諭すようにこう言った。

「なぁ、健太・・・お前の気持ちはよくわかるが、また今度入院したらどうするんだ?もしかしたらまた長い入院生活になるかもしれないんだぞ?そうなったらレオはどうするんだ?レオがかわいそうなのはよくわかるが、レオにお前の病気を教えるいい機会なんじゃないか?」

悲しいけれど、父さんの言う通りだと思った。レオは無邪気に俺の頬を舐めているが、またいつか入院しなければならない時が来るかもしれない。今度入院する時は、俺はもうここへは帰ってこられないものだと覚悟している。そうしたらレオは戻らぬ飼い主の俺を必死になって探すだろう。俺の余命がまだ続くなら・・・でも、俺の予想より近いうちに終わりが来るかもしれない。俺は自分の身体が日に日に弱っていくことを実感している。考えたくはないけれど最悪の場合のこともきちんと考えておかないと、レオの世話で父さんと母さんに迷惑をかけるだろう。


第73章

だからここは父さんの言う通りにすることにした。これから何度病院に行って留守にすることになるかわからないから。こんな状態になることをレオにしっかりと教えておかないといけない。苦肉の策になるけれど、レオに「独り」でいることに我慢させることを教えなければならない。まだ仔犬のレオには酷だけれど、「独り」になることに慣れてもらわなければならない。幸い、まだ俺の最期が来るまでもう少しだけ「時間」がありそうだ。
俺はいつ、どうなるかわからない身体なのだから・・・
だから俺は父さんが言った言葉に納得して、

「そうだね、父さんの言う通りだね、レオを置いてくるよ・・・」

俺は部屋に戻ると再びレオをゲージに入れた。寂し気に泣きわめくレオ。その悲痛な鳴き声に俺は後ろ髪を引き千切られるような思いで振り返らずにドアを閉めた。部屋の中からレオの悲しみに満ちた叫び声が聞こえる・・・

《健太君!どうして僕を檻の中に入れるの?僕を独りにしてどこに行くの?ねぇ!健太君!》

俺は両耳を塞いで階段を駆け下りた・・・
車に向かうと、すでに両親が車内にいたので急いで乗り込んだ。そして俺はヘッドフォンのボリュームを最大にして気を紛らわせた。
病院へは往復2時間、診察で10分・・・早くても家に着くのは2時間半後だ。それまでレオは狭いゲージの中で孤独に怯えながら俺の帰りを待っている。病院までの道のりがこんなに長く感じたのは初めてだった。俺はすっかり桃ちゃんに会える嬉しさを忘れていた。軽い頭痛と眩暈の中で・・・


第74章

俺は今、診察を受けている。退院してから初めての診察だ。担当医はもちろんいつもの森先生だ。両親は付き添いで来て森先生の話を聞いている。しかも、今日から桃ちゃんが俺の側にいてくれた!
でも、桃ちゃんの表情は俺に会えて嬉しいのか?それとも俺の病気が心配で堪らないのか?どちらかわからない複雑な表情をしている。
俺が弱っていく姿を見ておかなければいけないのだから・・・
俺はそんな桃ちゃんに微笑んでみせた。すると、桃ちゃんも安心したのか?いつもの可愛い俺の大好きな笑顔で返してくれた。俺は先生の言葉が耳に入らず、桃ちゃんをチラ見ばかりしていた。


第75章

「退院してから、その後どうですか?」
「はい・・・頭痛と眩暈がします。それに身体中も痛いです。だから夜もここにいた時ほど普通に眠ることができません。そんな時は『クスリ』をもう一度飲んでから眠ります。1日に飲む薬が4回になってしまいました・・・それに頭痛や吐き気以外の身体の痛みで起きてしまうこともあります・・・」
「そうですか・・・食欲の方はどうですか?」
「そうですね・・・あまりないです・・・」
「とにかく今は栄養をつけるようにして下さい。身体が弱りますから。あとは調子のいい時には近所で構わないので軽く散歩などもして下さい」
「はい。これからそうします」
「じゃ、その調子で食事を摂りながら『薬』を飲み続けてください。来週は採血とCTをとりましょう」

先生がカルテに何か書きながら俺に質問するだけだった。特に注意されることもない。そう、俺はこの先生、病院に見捨てられた人間なのだから・・・仕方がない。それに俺は森先生から俺の病気について詳しく聞く気にはなれなかった。聞いても生きられる可能性のないことを知らされるだけだろうと思ったから。それに今さら聞いても遅いよな?そんな気持ちで面倒だった。
森先生がカルテに何か書き終わると俺はお礼を言って診察室を出ようとした。
その時に桃ちゃんがタバコを吸うポーズをした。なんだか懐かしいな・・・俺は嬉しくなってすぐにOKサインをすると桃ちゃんは笑顔で頷いてくれた。
今、両親が先生から詳しく話を聞くために診察室に残っている。
俺は「やっぱりそうなのか・・・」と思ったが、そんなことより肝心の桃ちゃんに会うために俺は急いで病院裏の花壇に向かった。


第76章

俺はいつもの花壇に座って桃ちゃんを待っていた。すると桃ちゃんがこっそりとやってきた。相当急いでいたんだろうな、息をぜぇぜぇと切らしている。

「健太、待たせてゴメン!抜け出すタイミングがなかなか掴めないのよ・・・」
「いいよ、そんなに無理しなくてもさ。俺がここで桃ちゃんを待っていればいいんだから」
「よかった。ありがとうね、健太」

やっと呼吸が整った桃ちゃんが俺の横に座った。久しぶりに俺の鼻孔を淡くくすぐる桃ちゃんの甘い香りがした・・・とても幸せな気持ちになれる、優しい香り。

「退院してからの体調はどう?ちゃんと規則正しくお薬飲んでる?」

この「クスリ」を飲めば、入院したころはある程度症状は軽くなったけど、最近になって頭痛と眩暈が和らぐ感覚時間が短くなってきたような気がする。痛みも頭痛や吐き気だけでなく、身体全身が痛くてたまらないことがある・・・昨日はたまたま調子がよかっただけかもしれない。でも、そう言えば今日もあの俺を苦しめる頭痛と嘔吐感、身体が軋むような痛みをまったく感じない・・・偶然か?入院していた時も、こんなに気分のいい時なんて1度もなかったのに・・・


第77章

俺の身体にこの「クスリ」が合ってきたのか?そう言えば俺は家に帰ってからどの「クスリ」が何の効果があるのか、ちゃんと調べてなかった。家に帰ったらネットで調べてみるか・・・俺は桃ちゃんにそのことを相談してみようと思ったけれど、これ以上桃ちゃんに心配をかけちゃいけないと思って、そのことは黙っておいた。

「うん、ちゃんと食後に飲んでるよ。でも、もう『クスリ』飲むのイヤだなぁ」
「何言ってるの!それ飲まないと、健太の病気よくならないんだからね!イヤなのはわかるけど頑張って飲み続けて病気治さないとダメだよ?」

桃ちゃんが言った、「頑張って飲み続けて」その言葉が俺の頭の中に響いた。
いったいいつまでこの「クスリ」を飲まなきゃいけないんだ?死ぬまで、か?こんな「クスリ」で確実に「悪魔」に勝てるなら、いくらでも浴びるように飲んでやるのに・・・
そう思ったら無意識にうな垂れてしまっていたようだ。桃ちゃんが、

「そんなに気を落とさないで、私のためだと思って飲んで?健太の身体はもう健太だけのものじゃないんだから・・・」

そう桃ちゃんに言われて元気がでた!


第78章

「もう健太だけの身体じゃない」

これほど俺を励ましてくれる言葉があるだろうか?俺は微笑みながら、その桃ちゃんの柔らかくて、甘くてほろ苦い唇にキスをした。いつもよりも長い長いキスだった。桃ちゃんの舌が俺の舌に絡みつく。桃ちゃんが俺の肩に俺の身体を離さないかのように両腕を添えている。お互いの気持ちである「愛」を伝えるかのように・・・
桃ちゃんを抱きしめながら長いキスをしていると不思議と俺の寿命が延びているんじゃないかと感じるほどになった。俺にとってこれ以上の「薬」はないんだとつくづくそう思った。


第79章

桃ちゃんは死の淵にいる俺を拒むことも嫌がることもなく、俺とキスをしてくれる。
甘くて長いキス・・・桃ちゃんの柔らかい厚めの唇とタバコの香り・・・
その桃ちゃんの愛情に俺は悲しくなるほど胸が痛んだ・・・
今までの「彼女たち」から、こんなにも「愛」のこもったキスをされたことがなかったから・・・桃ちゃんの俺への「愛」が、唇から、その舌先から充分なほど伝わってくる・・・
まるで俺と桃ちゃんの細胞が融合してお互いの熱い生きた血潮を交換しながら身体中を駆け巡っていくようだ。お互いの「愛」が絆となって俺たち2人を離れさせないように。
桃ちゃんのほのかに色づいた頬が、涙で濡れている・・・
俺はそんな桃ちゃんをもっと強く抱きしめた・・・

「・・・そんなに強く抱きしめたら痛いよ・・・健太・・・」
「あ・・・つい・・・ごめん・・・」

俺が腕の力を緩めようとしたら、それを拒むように桃ちゃんが囁いた。

「ダメ・・・もっと強く抱きしめて・・・お願いだから・・・」
「うん・・・俺、桃ちゃんを離したくないよ・・・」
「ありがとう、健太・・・私もずっとこうしていたいなぁ・・・私、健太のこと信じてるから・・・絶対に病気を治して、そして私のことを迎えに来てくれるって、そう信じてるから・・・」
「あぁ、必ずこの病気を治して桃ちゃんを迎えに来るから・・・それまで・・・時間はかかるかもしれないけれど、俺のことを信じて待っていて欲しい・・・必ず、桃ちゃんを迎えに来るから・・・約束するよ」
「うん、『約束』・・・だよ?」

その時、患者の昼食時間を告げるチャイムがなった。桃ちゃんはいつものように患者に「薬」を渡す準備をしなくてはいけない時間になった。
こうして2人の甘い時間はあっという間に時間切れになってしまった。迷子になった幼い少女のような不安顔を浮かべる桃ちゃんを諭すように、

「また今度、元気な姿で桃ちゃんに会いに来るよ!」

俺はそう思いながら職場に戻っていく桃ちゃんの小さな後ろ姿を見送っていた。
すると、桃ちゃんは何かを思いついたように止まって踵を返して再び俺の元へ戻ってきた。いったい、どうしたんだろう・・・?


第80章

私と妻は診察室に残り、引き続き森医師から健太の状態を静かに聞いていた。

「先生、健太の様子はどうですか?」
「私も考えられるだけの薬を処方してみたのですが、健太さんの症状は全く改善していませんね・・・しかも退院時よりさらに痩せていました・・・顔色も酷いです。今健太さんはかなりの頭痛と嘔吐感、それに入院1か月目の検査で発覚した、胃と大腸に転移したガンの痛みにも相当苦しんでいるはずです。先ほどの健太さんの話から、次回の検査では恐らく骨にまで転移していることもわかると思います。今は少し元気のように見えますが、退院してからかなり強力な痛み止めである硫酸モルヒネ除放錠のMSコンチンを入院時の30mlから倍の60mlにしてみます。かなり強いので飲めばすぐに眠れるでしょう。健太さんが言っていた不眠気味の症状もなくなります。それでもじきに効果がなくなるほど酷い激痛に襲われることになるでしょう。そうなると健太さんの余命は1週間もつかどうか・・・」

森医師はうな垂れてそう言った。健太の寿命は砂時計のようにゆっくりと、しかし、止まることなく終焉へと向かっている。そう思うと狭い診察室は燃え尽きた灰のような色になり、私と妻の時間は凍りついてしまった。私は泣き崩れる妻の肩を抱いていた。どんな親でも自分の子供がこんなことになったら、代わってやりたいと思うだろう。当然妻もそう思っているはずだ。
しかし、無情にも人には誰にでも平等に寿命というものがある。どこの国の国王だろうと、大統領だろうと、凡人、貧民だろうと、みんな平等に作られた寿命という普遍的なシステムがある。もちろん健太にも私にもある。そんなことは頭では理解しているが、子供が自分より先に寿命を迎えることに納得できる親などいるはずがない!
私は拳を強く握りしめた。健太は自分が「ガン」であることをすでに理解している。
この先どうやって健太に人生の終焉が近づいていることを悟られずに接していけばいいのか?私には、わからなかった・・・


第81章

残念ながら私も妻も役者ではない。健太には「ガン」であることを説明したが、きっと健太に終焉を気づかれるのは時間の問題だろう。健太にこのことがバレたらどうすればいい?健太はまだ高校生だ。人生で一番楽しい時期だ。自分の寿命など知ってしまったら健太は正気でいられるだろうか?できることなら、不可能なのはわかっているが、できることならこの私が健太と変わってやりたい!健太のためなら私は自分のこの「命」を喜んで捧げよう!どうして私たち家族にこんな不幸な出来事が突然やってきたのか?私は運命というものを憎んだ。

この世には神も仏もいないのか!

私は泣くことすらできないで身動き一つしないでいる妻を抱え上げ、診察室を後にした。


第82章

さっき花壇に座っていた健太の顔と身体を見て私は一瞬ぞっとした・・・
その青褪めた顔は、目がくぼみ、さらに頬が削げたようにこけていた。
退院してからまだ2週間しか経っていないのに・・・健太の身体が、風が吹くたびに砂山が削られていくように痩せ細っていく・・・入院中は毎日見慣れていたからかもしれないけれど、2週間後の、次回の診察の健太はどんな酷い風貌にまで落ちて行ってしまっているんだろう?
その手はまるで老人のようで、頬は頬骨が突き出しているほど痩せこけていた。こんな状態で本当に健太は余命1ケ月なのだろうか?私には今日明日にでも健太が死んでしまいそうな、そんな押さえられないほどの不吉な気持ちになった。
でも、今日は偶然体調が良かったのかな?やつれた姿だったけどいつものように痛いとか言わなかったし、見かけのわりに元気そうだった。このまま健太の調子が良くなっていけばいいんだけど・・・
そう思うと私は今のうちに、健太が動けるうちに、健太と「思い出」を作っておきたくなった。私は健太と『約束』したけれど最悪の場合も考えておかないといけない。むしろ最悪の状態のことしか頭に浮かんでこない・・・そう思ったら私は振り返り、再び健太のところへ戻ると、
 
「健太・・・あのね、来週の月曜日なんだけど、私仕事休みなの。もし健太の調子がよかったら江の島までドライブに行かない?」
「ドライブかぁ、いいなぁ。桃ちゃんとの『思い出』作りになるね。うん、いいよ。俺も最後の海がみたいな」
「最後?私にそんな言葉使わないでよ・・・」
「あっ、ごめん桃ちゃん・・・楽しいドライブデートにしようね」
「うん、もちろん。お昼頃健太のお家に迎えにいくから。それじゃ私仕事に戻るね。また月曜日にね。健太・・・あと、またここでキスしようね」

 そう言って桃ちゃんは照れながら仕事に戻っていった。明後日は桃ちゃんと海デートか・・・楽しみだな。そう思いながら俺は桃ちゃんを見送ると、今度は両親がいる診察室へ戻っていった。


第83章

俺が診察室前に戻ろうとした時に、ちょうど父さんと母さんが出てきた。

「先生、何か俺のこと言ってたの?」
「あぁ、ちょっと今回から身体中の痛みが取れない時に楽になれる『薬』がちょっと変わるそうだ。お前が飲んでいる『薬』の中に、錠剤で紫色の『薬』があっただろう?それが今日からはオレンジ色の『薬』になるそうだ。それを飲めば今よりずっと痛みも無くなって、夜中に痛みで目を覚ますこともないって先生が仰るから、その使用方法を教えてもらっていたんだよ」

 森先生はついに健太に切り札となる「薬」を処方してくれた。私もこれで健太が楽になれるなら・・・とそう思い、先生の申し出にお願いした。

モルヒネ・・・

それは最後を迎えるガン患者を激しい苦痛から解放するための本物の「麻薬」。
先生の意見に私は最後通牒を受けた気分になった。今の健太はまさに死の崖っぷちにひとりぶら下がっていて、落ちたら二度と登ってくることができない谷底へ真っ逆さまに落ちて行ってしまいそうな状態であることを私は悟った。


第84章

「その『薬』なんだけどな、今のよりも効果のある痛み止めだそうだ。この薬を飲んでいれば身体中の痛みがラクになるそうだ。よかったな、これでかなりラクになるらしいぞ」
「ふ~ん、そっか・・・いつも通り飲むだけでいいんだね」

俺は父さんからその新しい『クスリ』の話を聞くと、母さんが、

「病気治すためなんだから、我慢してね?」

と微笑んだので、俺は両親に心配をかけまいと素直に言うことに従った。母さんが、

「それじゃお会計済ませてくるわね。お薬も頂いてくるから、2人とも車で待ってて」

と言ってさっと行ってしまった。俺はそんな母さんにどことなく他人行儀と言うか、なんとも表現しきれない不自然さを感じた。俺にもう「ガン」であることを包み隠さず話しているのに、何で母さんから入院中に感じていた、あの違和感を感じたんだろう?
そんなことを呆然と思っていた。かなり長い時間俺は耽っていたようだ。母さんが車に戻ってきているのにも気づかずにいた俺に父さんが、

「それじゃ帰るぞ?なんか必要な物あるか?」
「う~ん、特にないかな」
「夕飯は冷蔵庫の中にあるもので済ませましょう?」

母さんがそう言うと、父さんは頷いてエンジンをかけた。父さんが運転する車はそのまま家に寄り道することなく家に向かって走り出した。
俺はその時やっとレオのことを思い出し、すぐにでもレオのもとに飛んでいきたい焦燥感に全身を駆り立てられた。
俺はレオがどんな気持ちで俺の帰りを待っているかと思うと、じっとしていられなかった。帰ったら思い切り抱きしめてやろう!そう思いながら車の中で家に着くまでじっと我慢していた。


第85章

病院を出てからちょうど1時間ほどで車が家の駐車場に着くと、微かにレオが吠えている声が聞こえてきた!車の音を聞いたレオが俺を呼んでいる!俺は居てもたっても居られず、一目散に部屋に戻った。

「レオっ!」

《健太君!どこに行っていたの?寂しかったよ!》

俺は急いでゲージからレオを出すと、ぎゅっと抱きしめてやった。

「レオ、独りぼっちにさせてごめんな、病院に行ってきたんだ。もう大丈夫だからな!」

《そうか、健太君は病院に行ってきたんだ・・・僕の魔法で健太君の病気を完全に治せたらいいんだけど・・・今の僕のこの小さな身体じゃ無理みたいだ・・・健太君、ごめんね・・・》

するとレオは俺の帰りが相当嬉しかったようで顔中がヒリヒリするほど俺の顔を舐めまわした。すると父さんが「健太、ちょっといいか?」と言って俺の部屋に入ってきて、見たくもないうんざりするほどの「クスリ」の入った袋を持ってきてくれた。

「決まった時間にちゃんと飲むんだぞ?」

俺は父さんに心配をかけたくなかったので、

「毎回忘れずにちゃんと飲んでるよ」

と安心させるように言うと、

「そうか、これが今日から飲む新しい『薬』だそうだ。今まで飲んでいた紫色の錠剤じゃなくて、これからはこっちのオレンジ色の『薬』を飲めば痛みが取れるらしいぞ。それにお前が言っていた不眠の症状も改善されるそうだ。よかったな!」
「あぁ、わかったよ。でもそんなので身体中の痛みも取れるのかな?試してみるよ」

と言って健太は私から薬の入った袋を受け取った。入院中の時の健太は、激しい頭痛と嘔吐感だけを訴えてきていたはずだ。それなのに今日の診察で健太は、「身体中の痛み」と言っていた。それは「ガン」が入院中に健太の身体中を蝕んでいったことを意味する。今日の森医師の話ではもう骨にまで「ガン」が転移している可能性があると言っていた。そのために私たちの想像を絶する、身を焼き尽くすような激痛から健太を救うために、森医師は最後の砦となる60mlのMSコンチンを処方してくれたのだ。そしてこの「薬」が効かなくなった時、「もってあと1週間」以内に健太に終焉がやってくる・・・


第86章

いくら我慢強い健太でも「末期ガン」の激痛には耐えることはできないだろう。もし健太に最期が来て、「モルヒネ」の点滴を受けるようになったら私の母がそうだったように、人間らしさと言うものを喪失した「麻薬患者」のようになってしまうだろう。私の母もガンで亡くなったが、その尋常でない苦しみに悶絶する姿を見た医師が母に「モルヒネ」の点滴をした。それは私の父の判断だった。それからすぐに母はベッドの上で暴れ、廃人のように大声で意味の分からないことを喚き散らすようになった。私にはもうすでに母が人間ではないように見えて、恐ろしくなってまともに見舞いにも行けず、最期を看取ることができなかった・・・
 こんなことになる前に、安楽死をさせてあげたかった。早くこの激痛から解放させてあげたかった。父も私と同じ気持ちだったと後日私にそう言った。だから母の葬儀は、悲しみよりも激痛から解放されて天に召された母に、

「今までとても痛くて辛かったね。もう痛みも苦しみもない天国で安らかに眠れるんだよ。今までありがとうね、母さん・・・」

 と、見送ることができた。でも、もし健太が私の母と同じように「モルヒネ」の点滴を打たれて、あの時の母のようになったら・・・
私は、健太のそばで冷静さを保ったまま見送ることができるだろうか?もしその時までに日本でも安楽死が認められたら、私は躊躇なく「モルヒネ」を打たれる前に健太を安楽死させるつもりだ。でも今の日本の医療ではそれはまだ許されていない。
その時に私にできることは、いったい何ができるのだろうか・・・?
目の前が真っ暗になった・・・


第87章

俺に「クスリ」が入った袋を渡して新しい「クスリ」の説明を終えると、父さんはそのまま部屋を出て行った。床にお座りしているレオはしっぽを振ってご機嫌だった。今日は通院で疲れたので、レオのトイレ特訓はやめて床の上でレオとボール遊びをした。俺が投げるボールをレオが追いかけて咥えて戻ってきては俺にそのボールを手渡す。そしてまた投げるように催促をする。その繰り返しだ。この遊びは俺が教えたわけではないが、犬の本能だろうか?自然にできるようになった遊びだった。

(なんか懐かしいな。昔、父さんとこんな感じでボール遊びしてたっけな)

あと、ネットにも書いてあったが、仔犬は歯が痒いらしくていろんなものに噛みつくらしい。だからこのボールもレオの歯型でボロボロだ。この前新しい同じボールを買ってきてやったのだがどういうわけか、レオは新しいボールには全く反応しなかった。俺が新しいボールを投げても知らん顔で、歯形だらけの汚いボールを見つめている。レオはその隅っこにあった汚れたボールを咥えながら戻ってきては俺に手渡した。すると、

「健太君!早く投げて投げて!」

と言わんばかりに尻尾を振るので、しょうがないなぁ、と投げてやると、レオはそのボールを3本の手足で追いかけていく。そしてボールを咥えると、またピョンピョンと跳ねるように俺のもとに戻ってきて、ボールを俺に手渡すと、飽きもしないで、

「もっともっと!」

とその小さな目をキラキラさせながら、次の投球を待っている。俺と違ってレオは足の障害を除けば健康な仔犬だ。もうすっかりあばら骨はみえなくなり、健康な仔犬の身体になっていた。遊びたい盛りのレオだ。俺はこんなレオを見ていたらこんな小さなレオが俺に、

「野球を諦めないで!」

と言っているように感じた。俺はボールの感触で身体中が疼き、

「早く野球がやりたい!」

そう思って仕方がなかった。でも、そんな元気なレオの相手をしていたら、疲れもあるんだろうけど病気の症状がでてきた。頭痛と吐き気はいつもより酷く感じた。目の前の物が2重にも3重にも見えてきた。
俺は今日貰った「クスリ」を飲もうとしてすぐ目の前のベッドに向かったけれど、まっすぐ歩いているつもりなのに目の焦点が合わないせいで、目の前にあるベッドにたどり着くまでに3回もよろけてしまった。しかも最近はどう言うわけか、激しい頭痛だけでなく身体中に言いようのない激痛が走る様になっていた。今日病院に行く前に「クスリ」を飲んでから、まだ3時間しか経っていない。「クスリ」の効果の時間が削られるように短くなっているようだ。それに比例するように「クスリ」の効き目までもが薄くなってきている気がした。


第88章

俺は自分の症状が坂を転がる石のように悪化へと向かっているのを実感した。

俺はあとどのくらい生きていられるのだろう?まだ死にたくない!助けてくれ!
いや、桃ちゃんと約束したんだ!「病は気から」!絶対に治してやる!
桃ちゃんもレオも残したまま死ねるもんかっ!

俺は自分にそう喝を入れて「クスリ」を飲んで、レオを抱えてベッドに入った。俺たちは夕飯まで休むことにした。新しい「クスリ」を飲んだ俺は横で眠るレオをうつらうつらしながら見ていた。新しい「クスリ」のせいか?今にも眠ってしまいそうだ。レオは相当遊び疲れて満足したようだ。すぐに寝息をたてていた。俺はそんなレオを撫でながら、今日、桃ちゃんに会えたことと、キスをしたこと、そして桃ちゃんからデートのお誘いがあったことなどを思い出していた。 
俺にとってこんな「クスリ」なんかより、桃ちゃんの笑顔、優しさ、可愛さ、そしてお互いの愛を伝えるような舌を絡めるキスのほうがこんな「クスリ」よりよっぽど効く気がした。病院から帰ってきたら「クスリ」についてネットで調べてみようと思ったけれど、あまりの眠気にネット検索する気が失せていた。俺はベッドの上で天井を見つめながら、明後日また桃ちゃんと会える日が来るのが待ち遠しくてしかたなかった。だけど、この激しい頭痛と吐き気と、最近発症した原因不明の身体中の激痛に弱気になってしまうことが増えた。正直、死ぬのが怖い・・・

俺という存在がこの世から消えてしまうのだから。


第89章

まだまだやりたいことは山ほどあるのに・・・死ぬときは脳や心臓をえぐり取られるような感覚なのだろうか?死ぬことは未経験だから怖いのかもしれない。俺はネガティブな気持ちに圧し潰されてしまいそうな時、桃ちゃんのことを考えるようになっていた。不思議と死の恐怖から逃げることができる唯一の手段だった。
 
(今頃、桃ちゃんは何をしているんだろう・・・?)

人は恋に落ちると、きっと誰もがこんな空想に駆られるだろう。桃ちゃんはまだ仕事中でワゴンでも運んでいるのかな?それとも花壇で煙草でも吸ってるのかな?もう帰宅して家事をしているだろうか?非番の日、桃ちゃんはどんなことをしているのだろう?
しかも人を好きになると、どうして嬉しさや楽しさよりも、切なさと寂しさで胸が苦しくなるのだろう?「恋愛」の摂理かもしれない・・・しかも恋愛は障害があったほうが燃えるものだと人は言う。でも俺はそんな障害なんて欲しくなかった。
友達と彼女を失った寂しさにはとっくに慣れていたけど、桃ちゃんに会えない日については慣れることはなかった。想えば想うほど桃ちゃんに逢いたくなる。あのかわいい笑顔が見たくなる。どうして俺は退院が決まるまで桃ちゃんが好きになっていたことに気がつかなかったのだろう?毎日会って、秘密の花壇でおしゃべりして楽しかったから、この気持ちに気づかなかったのか?そう言えば、桃ちゃんが独りごとのように呟いた時のことを思い出した。

 人生なんて、失うことばかりよ・・・

この桃ちゃんが呟いた言葉の意味が今になって痛いほど身に染みてわかった。今まで当たり前のようにいた友達も失い、彼女も奪われ、行くべき学校での居場所もなくなってしまった。人はあって当たり前と思うものを、その手のひらから失うまで、それらがいかに大切なものか気づかない。失くして、奪われて初めてそれらがいかに大切なものだったのかと言うことに気づき、そして苦しいほどの後悔に襲われる・・・そして自分がいかに取り返しのつかないことをしてしまったことを痛感する。まさに今の俺のように・・・
俺は胸にツルハシを思い切り叩きこまれたようなで痛みを感じた。時が逆上りしないように、失くしたものもまた手に戻ることはない。この桃ちゃんのため息にも似た独りごとにその時に気がついていれば、こんな苦しい気持ちにならなくて済んだのに・・・


第90章

でもあの時の俺に、桃ちゃんのあの独り言を理解することなんて到底できなかっただろう。だから今こうして苦しんでいるんだ。だから俺はこの命が終わるまで絶対に桃ちゃんを失うことなどできなかった。桃ちゃんまで失ってたまるか!
呑気に明後日までなんて待てない!俺には時間がないんだ!とにかく今すぐにでも桃ちゃんに逢いたい!気が狂いそうだ!叫びたい気分だ!電話してせめて桃ちゃんの声だけでも聴きたかったけれど、桃ちゃんは忙しい看護師だ。余計なことをして迷惑をかけたくなかった。いったい俺はどうしたらいいんだ?こんなこと学校の教科書にも載っていない!なんで教科書にはこんな大事なことが書かれていないんだ?今まで学んだ数学、理科、英語。どれも役に立たないじゃないか!なんのために人は学校へ行って、人生で役にたたない勉強をするんだ?俺は机に並べられた教科書や問題集を一気に燃やしてやりたい衝動に駆られた。

(どうして俺がこんな苦しい目に合わなければいけないんだ?「死」が俺を呼んでいる!)


第91章

この苛立ちをいったいどこにぶつけたらいいんだ?誰か教えてくれ!俺は狂人のようにベッドにしがみついた。そんな俺に追い打ちをかけるようにまた爆弾が暴発したような頭痛と眩暈が襲ってきた!苦悩と苦痛の二重攻撃だ!こんな効き目もないインチキな「クスリ」なんて投げ捨ててやりたかった!俺はこんな毒蛇のような色をした「クスリ」で生かさず殺さず、生かされているようだ!俺は実験動物なんかじゃないんだ!
いったい俺が何をしてこんな「罰」を受けなければならないんだ?いつになったら、どこまで苦しんだら俺は許されるんだ?俺をこんなにしたのは一体何者だ?俺は何を恨み、何を憎めばいい?なんでこんな時に桃ちゃんがそばにいてくれないんだ?俺にとって桃ちゃんが1番の「良薬」なのに!ドス黒い不気味な何かが近づいてくるかのように「クスリ」を飲んでも脳が破裂しそうなほどの頭痛と、内臓全てを吐き出してしまいそうなほどの激しい嘔吐が襲ってくる!「死」が一歩前進しては、また一歩前進して近づいてくるかのようにジワジワと俺を苦しめながらやってくる!俺のこのやり場のない苛立ちは頂点に達していた。その時だった。俺の耳元で「くぅ~ん」と、俺を心配するかのようなレオの鳴き声がした。


第92章

「くぅ~ん・・・くぅ~ん・・・」

《健太君が病気の不安でとても動揺している!僕の魔法じゃ寝ている健太君の痛みを一時的に取り除くことしかできない・・・健太君を治してあげたい!僕が、もっと強力な魔法を使えたら健太君の身体の病気を完全に治してあげられるのに・・・健太君、ごめんね・・・》

「くぅ~ん、くぅ~ん」

と何度も聞こえた。俺にはそれがとても耳障りで余計に俺をイラつかせた!
そして俺は、最低なことにこのやり場のない激痛からくる苛立ちをレオにぶつけてしまった!

「お前なんかに俺のなにがわかるっていうんだよっ!」

 俺は右腕でレオを思い切り払いのけた。レオは、キャン!と叫んで転がる石のようにベッドから転げ落ちていった。俺はそのままベッドの上でレオを睨んでいた。レオはベッドから1メートルは吹き飛んだだろうか?丸まった身体をゆっくりと起こし、プルプルと震えながら立ち上がろうと必死だった。やがてレオは立ち上がると、不自由な左後ろ足を引きずったまま、俺がいるベッドめがけてフラフラと近づいてきた。俺はレオに

「こっちに来るなっ!」

と俺はレオを睨みながら叫んだ!


第93章

しかし、レオは障害のある足を引きずりながらも俺のもとへ向かってくる。俺は、お前なんかの同情はいらないんだよ!そう心の中で叫んだ。そんな必死なレオの姿が俺を無性に腹立たしくさせた。レオはよたよたとしながらベッドの下にたどり着くと、精一杯両腕を伸ばし、不自由な足で何度もジャンプをして、ベッドに這い上がってこようとしている。レオはベッドにしがみつくことはできても、なかなかベッドの上に登ることはできない。何度もその不自由な足でジャンプを試みるが、両足が揃わないのでベッドの縁から転げ落ちてしまう。
それでもレオはふらふらと立ち上がると、またベッドの縁に前足をかけてジャンプを繰り返すが、それでも失敗して転げ落ちてしまう。

(・・・レオ、お前はいったい何をしたいんだ?)

そう思いながら、レオの不可思議な行動を見ていた。何度ベッドに上ろうとしても転げ落ちていくだけのレオに、

「もう無駄なことはやめろよ・・・お前じゃ無理だよ、もう諦めろよ・・・」

そう呟いた。だが、レオは決して諦めることなく、何度も何度も転げ落ちては再びベッドに這い上がろうと必死になっている。

「レオ・・・今の俺には、お前の慰めなんていらないんだよ!」

 俺はレオを睨み続けている!それでもレオは必死で諦めることなく何度も俺が横になっているベッドの上に這い上がろうと挑み続けた。


第93章

さすがに体力的に限界がきたのだろうか?両手の筋肉までもがプルプルと震えだして、前足はベッドの縁になかなかひっかからなくなってきた。最近わかったのだが、犬にも人間と同じように表情があることを知った。そんなレオの表情をみると、それは俺を慰めるためでも、甘えるための顔つきではなかった!強い意志を秘めた真っ直ぐなその瞳は、

「なにがなんでも健太君のところに行くんだ!」

その小さな体からレオの強い決意が感じられた。俺は、いったい何のために?と不思議にレオをみつめていた。今にも力尽きそうなレオは最後の覚悟を決めた表情で、力いっぱい飛び跳ねて、やっとベッドに飛び乗ることができた!その小さな身体は、はぁはぁ、と長い舌を出しながら乱れた呼吸をしていたが、その小さな瞳は力強く一直線に俺を見つめている!俺はてっきりいつものようにレオが俺に甘えてくるものだと思っていたが、この時のレオは違った!俺の目の錯覚か?まだ小さな仔犬のレオが光輝く小さな龍のように強く見えた!

「わんっ!わんっ!わんっ!」

と、何度も力強く俺に向かってけたたましく吠え続けた。まるで弱気になった俺を叱咤するかのように。ベッドへのチャレンジは、レオから俺への「Message」だったのだ!

僕は叫んだ!

《健太君!決して最後まで諦めちゃダメだよ!どんなことがあっても前に進むんだ!》

レオの、今まで聞いたことのないその力強く吠える姿に俺はそう感じずにはいられなかった!レオは俺に最後まで諦めることなく生きることを教えていたのだった!

僕は健太君に向かって叫んだ!

《健太君!やればできるんだよ!最後まで諦めちゃだめなんだ!》


第94章

レオの顔はそんな誇らしげな表情に見えた。俺は自分が恥ずかしくなった。こんな仔犬に生きる意味を教えてもらうなんて、俺はどうかしてたんだ・・・
そうだ、辛いのは俺だけじゃない!レオだってそうじゃないか!生後間もなく心ない酷い飼い主に捨てられ、何日も飲まず食わずで冷たい雨の中で声をだすこともできずにいたんだ。レオは親、兄弟の顔すら知らない天涯孤独の状態で、俺に気づかれなければすぐに死んでいただろうに・・・
しかも、足には障害を持っているが、そんな自分の不幸を見せつけることは一切なかった。実はレオは「負けず嫌い」の芯の強い犬なんじゃないか?俺はそう思って、誇らし気に凛々しく俺を見つめるレオに、

最後まで諦めちゃいけない!どんなに苦しくても生き続けるんだ!

と言う、生きていくうえで一番大事なことを教わった。もちろん、レオは人間のように喋ることなどできない。吠えることしかできない普通の仔犬だ。
だが、俺にどうしても伝えたい「Message」があって、それを自分の小さな身体全身を使って、生きる意味を失いかけていた俺に伝えようとしたのではないか?その証拠にレオは俺に近寄らず、いつものように甘えることもなく「凛として花一輪」のように、枕元にお座りの姿勢で俺をじっと見つめている。まるで誇り高き狼のように・・・

「健太君!これが生きるということだよ!」

 そう俺に伝えたかったのが、痛いほどよくわかった・・・

「レオ・・・お前・・・」

俺がレオの「Message」を悟ったのがわかったのだろうか?レオは力強く、わんっ!と吠えた。そしていつものようにしっぽを振りながら俺の懐にはいってくると、ぺろぺろと俺の顔中を舐めまわした。


第95章

「健太君!僕からの「Message」、わかってくれたんだね!」

と言わんばかりに、レオは嬉しそうに俺の顔を舐めまくる。レオの必死の「Message」はしっかりと俺の胸に伝わった!決して諦めちゃいけないと言うことを!

「レオ、ごめんな・・・俺はどうなるかわからないけれど、最後の最後まで悪あがきしてでも諦めないで2人で生きていこうな!」

《よかった!やっと健太君に僕の気持ちが伝わったんだ!やった!》

そう言って俺はレオを抱きしめた。レオは俺のそんな決意の言葉を理解したかのように元気よく、わん!わん!わん!と吠え続けた。そう、俺もレオももう独りじゃないんだ!俺はレオから生きていく「強さ」を学んだ。こんなちっぽけなレオのどこにこんなに強い意志が宿っていたのだろうか?
俺はすでに「諦める」という粗大ゴミを心から捨て去り、レオとともに小さい希望かもしれないが、石に齧りついてでもこの病気を治してやる!と言う奇跡の光に向かって進んでいくことを決心した!

《うん!健太君!健太君と僕で一緒にチカラを合わせて生きていこう!》

 僕は健太君が眠っていることを確認すると、いつものように僕の身体を健太君に摺り寄せてから回復の魔法を使った。とても、疲れるけど・・・この魔法で、少しでも・・・健太君がラクになれるなら・・・


第96章

翌朝、時計を見るとすでに7時近くになっていて眩しいほどの朝日が昇っていた。
俺はいつもの時間どおりに朝食を食べ終えた後「クスリ」を飲み込んだ。新しく処方された「クスリ」の効果か?夜中に激痛で目を覚ますこともなかったし、今のように食事もおいしく食べられるようになった!それに身体がひと回り大きくなったようだ。
それと、あと昨日レオに元気づけられたせいだろうか?今朝もすこぶる調子がいい。俺は窓の外を眺めながら、毎日部屋に籠っているから気が滅入るんだ・・・レオを連れてこれから毎日散歩にいこう!そう決めた。

俺はさっそくブカブカの服に着替えると、レオに仔犬用のリードをつけて外に出た。朝日が2人の新しい出発を祝うかのように眩しかったが、澄んだ空気と暖かい陽射しがとても気持ちよかった。やっぱり動ける時は動いた方がいい。身体の血流がよくなるから。今ならキャッチボールくらいできそうなほど調子がいい。元気を取り戻してから初めて外に出るレオは初めての散歩に喜びまくっていた。俺はエチケット袋を持って玄関から道路へでると、向こうから幼馴染の香織が偶然にもやってきた。普通なら、とっくに学校にいっているはずの香織がどうしてこんな時間に?何か特別な理由があってどこかへ行くのだろうと思った。でも俺は久しぶりに見た香織に戸惑ってしまい、声すらかけられなかった。 


第97章

俺は香織に気づかれないように下を向きながら、香織に声をかけるべきか?と躊躇していると、香織のほうから、

「あれ?もしかして・・・健太?」

私は健太を見て驚かずにはいられなかった! 青白い顔に落ちくぼんだ目、そげた頬。
野球をしていた時の逞しい筋肉は姿を消してしまっていて、すっかり痩せっぽちになって別人のようになってしまっていたから・・・たった3か月そこそこでこんなにも人って変わってしまうものなの?私はそんな健太になんて言葉をかけたらいいのかわからなかった・・・

「お、おはよう、香織・・・久しぶりだね・・・」

と、俺が顔を上げた時だった!俺は香織の異変に気づいた!香織は松葉杖をついていたのだった!俺は慌てて、

「か、香織!その松葉づえは?いったいどうしたんだ?」
「あぁ・・・これ、ね・・・あんたが入院してすぐだったかなぁ?部活のランニング中に脇見運転の車が、私たちに突っ込んできてさ・・・」

俺たちの久しぶりの再会がこんな形になるとは夢にも思わなかった。そう言えば香織も俺の見舞いに来てくれなかった。入院中に、冷たいやつだな・・・と恨んだこともあったけど、見舞いにこられなかった理由がわかった。ギブス姿の香織が痛々しかった。いつも元気の塊のような香織の笑顔がどことなく悲し気な笑顔にみえた。それをみた俺も香織の気持ちが痛いほどよくわかった。その事故は陸上部の副部長である香織から、「走ること」を奪っていったのだ!


第98章

俺は香織のケガが気になったので、

「最近よくある事故だな・・・まさか香織が巻き込まれるなんて・・・で、全治何カ月なの?」

俺はそんな香織の足の骨折がいつかは完治するものだと思って自然に聞いてみた。すると香織は黙ったまま首を左右に振った。香織が自慢していたセミロングの綺麗な黒髪を揺らしながら・・・

「・・・私の足、治らないって・・・神経までやられて一生松葉杖だってさ・・・」

俺たち2人は春の暖かな陽射しとは裏腹に凍りついてしまった。俺は香織にかける言葉が見当たらなかった。下手な励ましや同情は、患者や怪我人をさらに惨めに傷つけてしまうことを俺は痛いほど知っていたから。
そんな2人の凍りついた沈黙を打ち破るかのようにレオが香織の足元に絡みつき、きゃんきゃん!とじゃれついてきた。
レオ!ナイスタイミングだ!その場の凍った空気が一気に溶けた!

「わぁ~かわいいワンちゃん!健太、わんちゃん飼いだしたの?」

と言ってしゃがんでレオの頭を撫でた。レオは香織に甘えるように頭をさしだし、嬉しそうにしっぽを振っている。と、思ったのだが、レオが家族以外の人に接するのは香織が初めてのはずだ。レオは人見知りしないのか?自分を捨てていった「人間」が怖くないのか?俺はレオの新しい一面を知った。レオは人間恐怖症になっていなかった。あんなに辛く苦しい思いをさせられた「人間」と言うものに対して微塵も恐れや憎しみを抱いていないようだ。レオはやっぱり強い仔犬だ!名前負けしない立派な仔犬として成長している。 
本当ならもう学校へ行く時間になっていた。俺はまだどこの夜学に通うか決めていなかったし、病気の症状が酷いので学校どころじゃなかった。香織はもう慣れた松葉杖で制服ではなく普段着のままどこかへ出かけるようだ。


第99章

香織はまだ学校へ通える状態じゃないのかもしれない。だから俺は香織に学校のことは聞かなかった。

「こんな朝からどこにいくの?」
「うん、ウチにいても身体が鈍っちゃうから朝は散歩していることにしているの」

香織はレオとじゃれあいながら俺に言った。

「健太は?」
「俺も散歩だよ。本当にうちに籠りっぱなしだと気が滅入るよな」
「そうよね!あ、でも健太・・・」
「ん?なに?」
「健太が重い病気になったのに、お見舞いいけなくてごめんね・・・私・・・こんなになっちゃったから・・・」

と言って右足を指さした。俺は慌てて、

「そんなこと気にするなよ。俺も香織がこんなことになったなんて全然知らなかったんだから・・・俺こそ香織のお見舞いにいけなくてごめんな・・・」
「しかたないよ・・・お互いタイミングが悪かったのよ・・・」
「そうだな・・・」
「いつもこの時間にお散歩するの?」
「いや、今日からだよ。実は今日がレオの散歩デビューなんだ」
「ん?レオ?」
「あぁ、こいつの名前だよ」
「ふ~ん、レオちゃんは男の子なんだね!」
「そう、まだ仔犬だけどね。レオなんて強そうな名前つけたけど、名前負けしなきゃいいけど」

俺たちはやっといつもの幼馴染に戻ることができた。レオは相変わらず香織の足元にじゃれついている。このスケベ犬が!と思ったが、陸上で鍛えた香織の引き締まった綺麗な足にじゃれつくレオがちょっと羨ましかった。


第100章

すると、香織が、

「なら、これから一緒に公園いこうよ!」

と言ったので、俺はあの雨の日のことを思い出してしまい、身動きがとれなくなった。そう、香織が言ったその公園はレオが捨てられていた公園だからだ。レオは記憶にはないだろうが、犬は嗅覚が鋭い。もしかしたら公園の匂いを嗅いで、苦しくて辛かったあの冷たい雨の日のことを思い出すかもしれない・・・と思うととてもじゃないがレオを公園に連れていく気にはならなかった。するとその事を知らない香織が俺の異変に気づいたのか?

「健太?どうしたの?大丈夫?もしかして具合悪くなったの?」
「あ、いや、大丈夫だよ」

と心配そうな顔で俺の顔を覗き込んできた。俺が戸惑っているとレオが俺のデニムの裾を噛んで公園の方へひっぱっている。

(レオ、お前、大丈夫なのか?あの公園はお前のトラウマになってるんじゃないか?)

俺はそれが心配だったが、俺の心配をよそにレオは俺をあの忌まわしい公園にぐいぐい引っ張っていく。

「ほら!レオちゃんも行きたがっているから行こうよ!」

香織は松葉杖を器用に使いながら公園の方に向かっていった。それを追いかけるようにレオが香織を追いかけていく。レオに繋いだリードがぐいぐいと俺を引っ張る。俺は不安だったが、2人についていくことにした。


第101章

レオが嬉しそうにわんわん!と吠える。新しい友達ができたようで嬉しそうだ。そんなレオの嬉しそうな呼びかけに応えるように、香織が振り向いた瞬間だった。

「レオちゃん、こっちにおい・・・」

香織は軽快な歩みを止めて立ち止まってしまった。どうやら香織も気がついたようだ。

「け、健太・・・まさか・・・レオちゃんって・・・」

香織はそれ以上言えなかった。俺はただ頷いた。

「レオちゃん・・・」

香織はとても悲しそうな表情になり、レオをその胸の中に抱きしめた。

「レオちゃん・・・キミもなのね・・・」

レオは香織の気持ちを察したかのようにぺろぺろと香織の頬を舐めまわした。そんなレオに励まされたのか、香織はレオを下すと、

「レオちゃん!公園まで競争しよう!」

と、松葉杖で公園の方を指した。レオは、わんっ!と元気よくひょこひょこと走り出して、俺が持っているリードをぐいぐい引っ張っていった。


第102章

公園に到着してすぐに俺はレオが心配になってレオの様子をみてみると、どうやらあの雨の日のトラウマはないようだった。元気に香織と遊んでいる。
ホッと胸を撫で下ろすと、俺は少し疲れたのでベンチに座り込んだ。香織とレオは同じ障害を持つ者同士、気が合ったのだろうか?楽しそうに遊ぶ2人を俺は眺めながら、スマホでじゃれあう香織とレオの写メを撮っていた。

「2人ともはしゃぎすぎて転んでケガするなよ~!」

俺は親心にも似た心情でそう叫んだ。しばらくすると香織も疲れたのだろう、俺のもとに歩み寄ってきて隣に座った。そして香織はレオを抱え上げると膝の上に乗せてまるでレオと会話をするように何か話しかけていた。そんな香織に俺はレオとの出会いを話した。

「・・・そうなんだ・・・レオちゃんはここで・・・」
「あぁ、俺が気づかなかったら死んでいただろうな」
「レオちゃん、優しいご主人様でよかったね~!」

レオは大きく、わんっ!と応えた。俺たちはベンチに座りながらお互いのことを話し始めていた。俺は進学のことについて聞かれたので夜学に通うつもりでいることを話した。 
そしてここ3カ月間のこともたくさん話した。彼女に捨てられたこと、友人を失くしたこと、病院での長い生活のこと・・・そんなことを香織に話したけれど、俺の身体を蝕んでいる「ガン」のことと、余命宣告を受けたことは黙っておいた。


第103章

「そっか・・・仕方ないね。でもそれもアリでしょ?夜学だって卒業すれば大学に通うことも、就職することもできるんだから。焦らずゆっくりと頑張って!」

香織は眩しそうに春の木漏れ日を見ながら言った。

「そうだな。進学するにしても、就職するにしてもまだ先のことだから・・・とりあえず学校へ行けるように体力作りからだな」

俺は遠くを見つめながら答えた。すると香織は急に真剣な表情になり、

「健太・・・さっきから薄々気がついていたんだけど・・・健太は今の病気の他に、もう一つ大きくて、どんな名医でも治せない病気を持っているわ・・・」

突然の香織の発言に俺は耳を疑った!しかもどんな名医でも治すことができない病気?俺にはそんな自覚がなかっただけに驚きを隠せなかった。しかも医学に素人の香織でさえわかる不治の病?一体どんな病気だ?俺は今のこの身体中に巣食っている「悪魔たち」のことで精一杯なのに、これ以上大きな病気も抱えているのか?それは俺の身体のどこにあって、どんな症状なんだ?森先生や俺でさえわからなかった不治の病・・・
やっぱり・・・俺はもうダメなのか・・・?桃ちゃんと交わしたあの日の「約束」を果たすことなく俺は死んでしまうのか・・・?俺の頭の中は病に対する敗北感で何も考えることができなかった・・・頭の中が真っ白に染まってしまった・・・
すると眉間にシワを寄せた香織は俺の顔を指さして、

「いい?健太・・・あんたのもう一つの病気はね・・・」


第104章

俺は死刑の判決を聞く死刑囚のような気持ちで、ゴクリと唾を飲み込んだ・・・
香織にわかる俺の、治ることのない「病気」とはいったいなんなんだ・・・?
額に、背中に、イヤな汗が流れて止まらなかった・・・

「ズバリ!」

俺の身体から血の気が引いていく・・・香織が、口を開いた!

「コ・イ・ワ・ズ・ラ・イ!」
 
俺にはそんな病気もあったのか!と一瞬思ったけれど・・・コイワズライ?って、あの「恋わずらい」ってことか?俺のあたふたした表情がよほど面白かったのだろう、香織はおなかを抱えながら笑っている。

「コイワズライ?」

俺は力の抜けた間抜けな表情で香織に聞いた。死と隣り合わせにいる病人の俺に、そんな冗談はきつすぎるよ・・・心臓が停まるかと思った・・・

「そう!あんたのもう一つの病気は、コイワズライ!」
「な、なんだよ、それ?」
「だってあんたの入院中の話聞いてれば誰だってわかるわよ!あんたって昔からほんとに単純なんだから~!」

いたずらっ子のように香織は無邪気に笑う。いくら冗談とは言え、今の俺には洒落にならないよ・・・腹を抱えて泣き笑いしている香織をみると俺は怒る気にもならなかった。
「コイワズライ」・・・か・・・


第105章

確かにある意味どんな名医でも治せない重い病気だ・・・そういう意味では香織の言う通りだった。

「で、その愛しの桃ちゃんって看護婦さんには会えてるの?」

今度は興味深々に自分の肩を俺の肩にぴったりとくっつけながら聞いてきた。俺のすぐ横には年々可愛く綺麗になっていく香織の顔があった。そんな香織の顔に一瞬ドキッとしてしまった。俺は少し赤面しながら、桃ちゃんと来週の月曜日にドライブデートをすることになっていることを話した。

「患者と看護婦の恋かぁ、よくある話ねぇ~!で、どうなの?どこまでいったの?」
「えっ?ど、どこまで?」
「またぁ、トボけないではっきり言いなさいよ!」

香織は黙ったままの俺を叱りながら、さらにその肩をグッと詰め寄ってきた。

「キスぐらいはいったんでしょ?ね?ね?」

もう香織は止まらない!俺は桃ちゃんとのことをすべてを話すと、

「健太!凄いじゃない!男ならもっと強引にいきなさいよっ!じゃないと桃ちゃんと最後までいけないわよっ!」
「さ、最後までって・・・お前なぁ・・・」

香織は俺に女性の「落とし方」を熱心に語り始めた。俺だって今まで3人と付き合ってきたんだ。今さら香織に聞くこともないと思ってた。でも、俺は桃ちゃんに「告白」して今までの恋愛を否定してしまった。ここで女の子のことを復習するつもりで香織の話を聞いておくのも悪くないと思った。


第106章

「いい?次にその桃ちゃんに逢ったら、男らしくビシッとキメなさいよ!恋愛に年の差も学歴も病気も関係ないんだからねっ?」

香織は興奮気味にそう言うと、

「今度病院行くのはいつ?」

俺に尋問をする刑事のように香織は聞いてきた。

「隔週で金曜日だよ」
「それじゃ、会うのは来週の月曜日の方が早いね。じゃ、決戦は月曜日のドライブデート!」
「なんだよ?それ?」
「桃ちゃんと最後までいくための作戦の名前よ!」
「作戦って・・・お前なぁ、俺と桃ちゃんはもうちゃんとした『恋人同士』なんだよ」
「ウジウジしないっ!いい?絶対最後までキメなさいよ!しつこく行くのよ!オンナは押しに弱いんだから!」

(ふむふむ・・・なるほど・・・俺は押したことなんてなかったな・・・)

「でもね・・・押してダメなら、引いてみろっ!て言うのもオンナには効果的よ!」

(う~ん、どこかで聞いたことがあるセリフだな・・・)

「ま、とにかく、デートが済んだら、私に報告すること!ホウレンソウよっ!」
「はぁ?ホウレンソウ?」
「そう!報告!連絡!相談!基本中の基本でしょ!」
「そんなことわかってるよ!なんでお前に報告しなきゃいけないんだよっ?」
「ごちゃごちゃ言わない!私が気になるでしょ?いい?ホウレンソウだからね!」

そう言って俺は無理やりメールの交換をさせられた。しかも、桃ちゃんの写メまで撮ってきて送信しろとのオマケつきだ。やれやれ、香織にはいいアドバイスももらったけど、余計な宿題まで突きつけられてしまった。でも香織の言うことも確かだ!せっかく桃ちゃんに会えるんだ!また桃ちゃんに逢えたら香織の言う通りに何度でもこの気持ちを桃ちゃんに伝えよう!俺がどれだけ桃ちゃんのことを愛しているかと言うことを、何度でも、何度でも伝えよう!

「香織、ありがとう!俺、がんばるよっ!」
「その意気よ!ホウレンソウ、忘れずにね!はい、指切り!」

2人の小指が絡まると、レオが、わんわんっ!と吠えた。そう、俺たちはつい熱く語りすぎて、レオのことをすっかり忘れていたのだった。

「おお、レオ、ごめんな・・・じゃもう帰ろうか?」

香織もこくりと頷いて俺たちは狭い十字路を挟んで、それぞれの家に帰った。


第107章

俺は家について昼食を食べた。今日の昼食もおいしく食べることができた!その後、もうすでに条件反射となっている食後の「クスリ」を飲もうとした時に気がついた。

「あれ?今日も痛みが、まったくない・・・それどころか、なんかすがすがしい気分だ!」

俺はこの新しい「クスリ」があれば、こんな病気なんてすぐに治るんじゃないか?と期待して元気になった。落ち着いた俺はそばで眠っているレオを見つめた。
そばにレオがいてくれるだけで俺は落ち着きを取り戻すことができた。
レオの回復力は早いな。まだ拾って10日しか経ってなのに身体がしっかりしてきた。予防接種も父さんと一緒に受けに行ったし、順調に健康に育っている。レオが俺の家族以外の人である、初めて会った香織にあんなに懐いたのは意外だったな。
レオは捨て犬だから、人間を恐れたり、憎んだりするかと思っていたけど・・・
これからは人間だけでなく、同じ犬の友達もできるといいなぁ、と思いながら、俺も眠ろうとした時だった。スマホが急を告げるように鳴り出した!画面を見ると桃ちゃんからだった。俺は速攻で画面をタップした。「クスリ」が間に合ってよかったと心底思った。


第108章

「健太?起きてた?桃子だけど。調子はどう?月曜日は外に出られそうかな?」
「あぁ、桃ちゃん。今さっき新しく処方されたオレンジ色の『クスリ』を前回の診察の時に処方して貰ったんだけど、それを飲むようになってから凄くいい気分になったんだよ!これなら絶対に俺の『ガン』なんてすぐによくなるよ!どうして先生は最初からこの『クスリ』をくれなかったんだろう?だから調子はバッチリだよ!桃ちゃんとデートだもん、今から凄く楽しみだよ!!」

 私は健太がついに60mlのMSコンチンを処方されてしまったのか・・・と思った。
それはガン患者にのみ許された最後の砦・・・それに手を出してしまったことを聞いて心臓が停まりそうになった。今まで健太に渡していたお薬は治療のためのお薬じゃなくて、痛みを止めるだけの一番強い鎮痛剤と精神安定剤が中心だったから・・・その中に30mlのMSコンチンも入っていたのに・・・それでも、そんな強いお薬も効かなくなってしまったなんて・・・健太は新しいお薬のことを、「オレンジ色」と言っていた。私が健太の入院中に渡していたMSコンチンは紫色の30mlだった・・・それが一気に倍の量になっていたなんて・・・私は言葉を失った。
なぜなら否が応でもそれは私に、健太が「死」への階段を一歩ずつ確実に登っていることを意味しているから・・・

「そ、そう、よかったね・・・それなら安心だわ・・・もし体調が悪くなったらドタキャンしてもいいから、遠慮なく言ってね?」
「そんなことしないよ!桃ちゃんは俺にとって一番の『薬』なんだから!」
「あはは・・・そんなこと言えるなら大丈夫そうね。月曜日はお昼ごろ健太の家に迎えに行こうと思ってるんだけど、大丈夫?」
「うん、その時間ならもう問題ないよ。長い間病院にいたから、早寝早起きになっちゃったよ。あ、そうだ!ねぇ桃ちゃん、俺さ、退院してから捨て犬を拾って飼っているんだけど、ソイツも連れて行っていいかな?」
「えっ?捨て犬拾ったの?そう・・・それくらいならいいわよ?」
「ありがとう、桃ちゃん。じゃ、お昼に待ってるね」
「うん。月曜は晴れるといいね!じゃ、おやすみなさい」


第109章

俺は新しい「クスリ」と桃ちゃんからの電話で、さっきまでのたうち回るほどの激痛に襲われていたことをすっかりと忘れていた。月曜日のデートが待ち遠しくてしかたなかった。でも俺は大事なことに気がついた。それは、

俺と桃ちゃんの関係・・・

この前までは患者と看護師の関係だったけれど、退院の日にお互い「好き」だと言ってキスをした。しかも月曜はドライブデートだ。もう俺と桃ちゃんは「恋人関係」なのだろうか?それとも桃ちゃんの俺への優しさか?ただお互いが「好きだ」と言って、そして「キス」をすれば、それはもう完全に「恋人関係」になるのだろうか?今まで俺は何を境界線にして3人の女の子と「恋人関係」になっていったのだろう?思い出せない・・・
夕飯を食べ終わったあと、俺は「恋人関係」の定義って言うのはどんなことで決まるのか考えてみた。俺の心の中で「恋人関係」と言う重りと、「好きな友達」と言う重りを乗せた天秤が右へ左へと激しく揺れている・・・桃ちゃんとの関係に不安になった俺は香織に相談しようと思って早速スマホで香織の番号をタップした。
俺は今の気持ちを正直に香織に話した。香織は女の子だから、女性の気持ちを聴けば、俺が抱えているこの恋愛の悩みについて、しっかりとしたアドバイスをくれると思う。
さっそく香織にホウレンソウだ!


第110章

そんなことを話すと香織はいきなり、

「アンタ、馬鹿じゃないの?もうそこまでいってデートまでするなら「恋人関係」に決まってるじゃないの!よく考えてみなよ?忙しくて疲れている看護師さんがわざわざ休暇の日にデートに誘ってくれたんだよ?どうでもいいオトコや好きでもないオトコをデートになんか誘うわけないじゃない!アンタたちはもう立派な「恋人関係」だよ!でもまだ手を出すのは早いからね!せいぜい『キス』までにしておきなさいよ!わかった?」

最後の方は香織が興奮しだして俺の鼓膜が破れそうだった。でも、桃ちゃんと同じ女性である香織にそう言ってもらえて、俺はかなり安心できた。

「ありがとうな、香織。またホウレンソウするよ!」
「がんばりなさいよ!あたしも、本当のこと言うと、ずっと前から健太のこと好きだったんだから・・・あたし、ずっと前にアンタに『コク』ろうと思っていたらいつの間にかアンタが他の女の子とつき合いだしちゃったからさ、つい言えずじまいで失恋しちゃったんだよね・・・すっごく悲しかった・・・アンタ超鈍感だから知らなかったと思うけど、アンタ学校内でかなりモテていたんだよ?だってウチの高校の野球部ってさ、全国から野球推薦で入ってきた実力者ばかりでしょ?それなのにアンタは1年生の頃から3年生先輩にも負けないくらい実力のあった野球部のエースだったもんね。グラウンドで汗と砂で汚れながら大声出してるアンタの姿とってもかっこよかったんだ。女子たちの『ウワサの的』だったんだよ?知らなかったでしょ?でさ、あたしたちって幼馴染じゃない?だからいろんな女の子にアンタにどうやって『告白』すればいいか、よく聞かれたんだ・・・あたしは・・・アンタのことが大好きなあたしは、なんて答えていいかわからなかったよ・・・だって、アンタのこと、誰にもとられたくなかったんだもんっ!結局モタモタしてたからアンタを他の女の子にとられちゃったけどさ・・・だから、アンタもタイミングは絶対間違えちゃダメよ!ちゃんと、その桃ちゃんって人にアンタの気持ちをぶつけるように『愛してる』って言葉で言って、あんたが納得いくような「恋人関係」になってきなさいよ!健太、アンタなら絶対大丈夫だからね!」

 香織はそう言うと、一方的に電話を切ってしまった。まさか香織が俺のことを「好き」だったなんてまったく気づかなかった。何でも話せる友達だとばかり思っていた。香織は最後の方、微かに泣いていたような気がした・・・
それならそうと早くそう言ってくれればよかったのに・・・
俺だって香織のこと・・・桃ちゃんに出会うまでは、香織のこと好きだったのに・・・
 タイミングが大事、か・・・たしかにそうだよな。まるで香織に発破をかけられたようだ。桃ちゃんとのデート、絶対にキメてやろう!
そう思っていたら新しい「クスリ」の副作用か?凄く眠くなってきた・・・


第111章

眠くなった俺はレオの横に並ぶとそのまますぐに眠ってしまった。レオはもう完全にご主人様だと思っているようだ。俺がベッドに入って眠ろうとするとすぐにベッドに飛び乗ってきて、俺の身体に寄り添いながら眠るようになった。こんな仔犬でも感情があるんだなと思った。レオがいつも俺を励ましてくれる。だから俺は頑張れる。レオ、お前は最高の「友達」だよ・・・       月曜の朝。今日は桃ちゃんと初めてのデートの日だ。凄く調子がいい。「クスリ」の副作用もここ3日ほど不思議なくらいに全くない!
カーテンを開けると気持ちがいいくらいの春の陽射しが部屋中を明るくしてくれた。今日はいいことがありそうだ!そう思えるほど俺は調子がよかった。あの身体中を襲う激痛が静かな波のように引いていた。

「よし!これなら桃ちゃんとのデートも問題ないな」
 
俺がレオを抱きかかえると、いつものようにレオは俺の顔をペロペロと舐めまわした。俺は台所に行ってレオのミルクを作ってやった。レオはいつも通りに元気よくミルクを飲んでいる。やっとあの地獄のような苦しみが、まるで嘘のように感じなくなっていた。ハイな気分だ! これなら桃ちゃんと問題なくデートに行ける!今日は楽しいデートになりそうだ!
俺は約束の正午前には準備を済ませて、ベッドに腰かけてレオを膝に置いたまま桃ちゃんを待っていた。するとスマホが鳴り出したので、桃ちゃんからだろうと思って画面をみてみたらやっぱり桃ちゃんからの電話だった。


第112章

「おはよう、健太。今日の具合はどう?」
「うん、すごくいい気分だよ!ちょっと眠いけど、たぶん『クスリ』の副作用だと思うけどデートするのに問題はないよ?」
「えっ?そんなにいい気分なの?なら安心だわ」

(MSコンチンが60mlになった効果ね・・・眠気の方は大丈夫かしら・・・)

私は念のためもう一度健太に聞いてみた。健太は何の猜疑心もなく、同じ言葉を私に教えてくれた。もう怖くてたまらなかった・・・健太が「ガン」によってどんどん肉体を削り取られていく姿をみることが何よりも怖かった・・・健太の命も削られていく。
前回会った時にはたったの1週間もしないのに、露骨に健太の顔が削られたものになっていた・・・
じゃ、今日は?健太はさらに酷い顔と身体になっているの?怖い!健太の身体と命が、鉱石を取るために削られていく鉱山のように、会うたびに削られていく・・・
そんな姿を、見るのがとても怖い・・・そんな健太をみたら、私は冷静でいられるかどうか自信がなかった・・・



第113章

私は健太がついに「モルヒネ」を使う段階に来てしまっていたことに愕然としていた。健太に「モルヒネ」の説明をしたら、きっと自分の「余命」を告げる時間が残りわずかであることがわかってしまうかもしれない。
「モルヒネ」のことなんて、普通の大人ならほとんどの人が知っている。どんな時に使う物なのか・・・健太は幸いにも「ガン」には無関係な高校生・・・ガン患者の死への苦痛を和らげるために合法的に認められた末期ガン患者のみに許された本物の「麻薬」・・・
この事は健太には口が裂けても言えない。私の目の前から光が奪われ、真っ暗な闇の中に突き落とされていく・・・冷たい汗が、身体中に流れ出してきた・・・私は、そんな健太に会うのが怖くなって、今日のデートから逃げ出したい気分に襲われた・・・今すぐここから逃げ出したい・・・でも、健太に会いたい・・・でも怖い・・・健太に私の、隠しきれない不安が読まれてしまいそうで、怖くてたまらない・・・

「ガン」によって削られた健太の身体と命をこの目で見なければいけないことが、何よりも怖くてたまらない・・・

私は、前回会った時よりも酷くなっているそんな健太をみたら、きっと泣いてしまいそうで・・・そうなったら、健太に自分の「余命」が風前の灯火であることがわかってしまうことになる。私は、泣かないでいる自信がなかった。とにかく今は健太に会いたい。健太が私のことを「モルヒネ」によって完全に認識できなくなるまで、最後の最後の日がくるまで、私は健太を支えていこう!健太は不治の病と闘っているんだから、私も未熟で微力だけど、健太のことを支えていこう!私も強くならなきゃいけないんだから!
私は気を取り直してそう強く決心した。

「桃ちゃん、今どこにいるの?」
「ちょうど健太の家の前だよ。真っ白の車だから、準備ができたらおいで」


第114章

俺はレオを抱えたままリードとエチケットバッグを持って玄関を飛び出すと、目の前に真っ白でキレイな車が停まっていた。その運転席に初めて見る私服姿の桃ちゃんがいた。デニムに真っ白な長袖のシャツが良く似合っている。髪の毛は病院ではいつも束ねていたけれど、今日は束ねていなくて、セミロングより少し長めの絹のような黒髪が春の微風に揺れていた。そして顔にはサングラスをかけている。俺には今日の桃ちゃんが完全な「大人」にみえて少しばかり緊張してしまった。それに対して俺は、健康だったころの服しかもっていなかったので、デニムもTシャツもぶかぶかになってしまっていて、桃ちゃんのきちんとした装いと比べたら惨めな気持ちになってしまった。そんな気持ちをかき消すように、レオがキャンキャン!と吠えた。俺が桃ちゃんの車の助手席に座ると、

「この子が拾ってきたワンちゃんなの?かわいいわねぇ~!」

するとレオは桃ちゃんにもなついて桃ちゃんの頬を舐め始めた。やっぱりレオは人見知りしない性格なんだな、とほっとした。人間恐怖症を心配していた俺の不安はもう完全に消えた。

「レオって言うんだよ。元気すぎて困るよ」

俺が苦笑いをすると、桃ちゃんが、「あれ・・・?」と何かに気がついた顔をした。

「ねぇ健太?レオちゃんの足・・・曲がってない?」

さすがに看護師らしいことを桃ちゃんが言ったので、俺は、

「うん・・・レオは生まれつき左後ろ足に障害を持っているんだ。でも、それ以外は元気だから、今日はレオとも遊んであげてね」
「そう、わかった。それじゃシートベルトしてね?忘れ物はない?」

 そんな健太を見て私は内心驚きを隠せずにいた!私の健太への死への予想が、いい意味で裏切られていたから!いくら『60mlのMSコンチン』を飲んでいるとは言え、あの悍ましい「死相」がどこか遠くへ吹き飛ばされていったように、肌の血色もよく、身体も入院当時よりも一回り大きくなったように戻っていたから!いくら健太が若いからと言って、そう簡単に短期間でこうも変わるはずないのに・・・健太の、私との「約束」がそうさせているのとしか今の私には説明がつかなかった。そんな元気な姿の健太をみて、嬉し泣きしそうだったけれど、必死にこらえていつも通りの私で健太に笑顔を見せることができた。

どうか、健太がこのまま回復していきますように・・・私は祈った。


第115章

俺はレオを抱えたままリードとエチケットバッグを持って玄関を飛び出すと、目の前に真っ白でキレイな車が停まっていた。その運転席に初めて見る私服姿の桃ちゃんがいた。デニムに真っ白な長袖のシャツが良く似合っている。髪の毛は病院ではいつも束ねていたけれど、今日は束ねていなくて、セミロングより少し長めの絹のような黒髪が春の微風に揺れていた。そして顔にはサングラスをかけている。俺には今日の桃ちゃんが完全な「大人」にみえて少しばかり緊張してしまった。それに対して俺は、健康だったころの服しかもっていなかったので、デニムもTシャツもぶかぶかになってしまっていて、桃ちゃんのきちんとした装いと比べたら惨めな気持ちになってしまった。そんな気持ちをかき消すように、レオがキャンキャン!と吠えた。俺が桃ちゃんの車の助手席に座ると、

「この子が拾ってきたワンちゃんなの?かわいいわねぇ~!」

するとレオは桃ちゃんにもなついて桃ちゃんの頬を舐め始めた。やっぱりレオは人見知りしない性格なんだな、とほっとした。人間恐怖症を心配していた俺の不安はもう完全に消えた。

「レオって言うんだよ。元気すぎて困るよ」

俺が苦笑いをすると、桃ちゃんが、「あれ・・・?」と何かに気がついた顔をした。

「ねぇ健太?レオちゃんの足・・・曲がってない?」

さすがに看護師らしいことを桃ちゃんが言ったので、俺は、

「うん・・・レオは生まれつき左後ろ足に障害を持っているんだ。でも、それ以外は元気だから、今日はレオとも遊んであげてね」
「そう、わかった。それじゃシートベルトしてね?忘れ物はない?」

 そんな健太を見て私は内心驚きを隠せずにいた!私の健太への死への予想が、いい意味で裏切られていたから!いくら『60mlのMSコンチン』を飲んでいるとは言え、あの悍ましい「死相」がどこか遠くへ吹き飛ばされていったように、肌の血色もよく、身体も入院当時よりも一回り大きくなったように戻っていたから!いくら健太が若いからと言って、そう簡単に短期間でこうも変わるはずないのに・・・健太の、私との「約束」がそうさせているのとしか今の私には説明がつかなかった。そんな元気な姿の健太をみて、嬉し泣きしそうだったけれど、必死にこらえていつも通りの私で健太に笑顔を見せることができた。

どうか、健太がこのまま回復していきますように・・・私は祈った。


第116章

「俺も18になったら教習所に通うよ。家にいても退屈だしね」
「そうした方がいいよ。気晴らしになるし。でも、免許取ったら絶対自分の車が欲しくなるよ?」
「そうなんだ?俺、車のことは詳しくないから車は父さんのを借りるよ。でも桃ちゃん、よくこんな凄いBMWなんか買えたね?看護師ってそんなに給料いいの?」
「看護師の給料なんていいわけないじゃない。激務薄給だよ、イヤになるくらいね~。もし私に『彼氏』がいたら、こんな車買えなかったよ。悲しきボッチだったから、デートでお金使うことも、オシャレにお金使うこともなくてお金使う機会がなかったのよ。だからこの車買えたようなもんだよ?」

でもね・・・と桃ちゃんが嬉しそうに微笑みながらつぶやいた。

「今は健太がいるから、これからオシャレやデート代にお金使うことになるわね!」
「えっ?俺、そんなつもりじゃ・・・デートのお金は俺も出すよ!」
「健太働けないじゃない?ご両親からもらったお小遣いでしょ?大事にとっておきなさいよ?」
「う、うん・・・桃ちゃん・・・ごめん・・・ありがとう」
「その代わり・・・健太がちゃんと病気治して、私を迎えに来て働けるようになったらちゃんと返してもらうからね!それまでデート代は出世払いにしてあげる!」
「あはは!しっかりしてんなぁ。桃ちゃんにはかなわないよ」
「私と一緒になったらたくさん尻に敷いてあげるから覚悟しておきなさいよ!」
「病人にそんなこと言わないでよ!心臓に悪いよ!」

 俺はいつかきっとそんな日が来そうで嬉しかった。いろんなことを話しながら俺は桃ちゃんの愛車で江の島までやってきた。俺たちは車を止めると砂浜に向かっていった。桃ちゃんは看護師だから休みが不規則だ。だから今日みたいな平日に人が少ない江の島に遊びに来ることができた。久しぶりに来た江の島。人はまばらだった。


第117章

初めて見る海に、レオは喜びを隠せないようだ。いつも見慣れていた白衣の桃ちゃんがシンプルな私服姿できたからちょっと緊張したけれど、桃ちゃんの中身も変わってなかったから安心した。
そして俺と桃ちゃんとレオはほとんど人がいない砂浜に降りて座り込んだ。俺たち2人は黙ったまましばらく海をみつめていた。波の音が穏やかで心地いい。
 遠くにはウィンドサーフィンをしている人たちがみえる。春らしい温かな陽気。そして隣には大好きな桃ちゃんがいる。レオは初めて見る海の、寄せては返す波と戯れている。

(最高の一日だ。こんな日がずっと続くといいな・・・)

最近は新しい「クスリ」のおかげで頭痛と嘔吐感が薄くなっただけでなく、身体中の骨にまで響いていた激痛までもがだいぶ柔らかくなった。
 桃ちゃんが俺の腕にしがみついている。今、俺の身体に寄りかかっている。そのシャンプーの香りがする頭を俺の肩にちょこんとのせている。とても落ち着く気分だ・・・俺は桃ちゃんに顔を向けて、その瞳に訴えるように誓った。

「ねぇ、桃ちゃん・・・俺、こんな病気絶対治して、そして桃ちゃんのこと必ず迎えにくるから。俺は桃ちゃんだけを愛してるから。桃ちゃんがいてくれるだけで俺は強くなれるんだ!だから、俺は絶対にこんな病気に負けたりしない!俺はずっと桃ちゃんと一緒にいたいんだ!だから、最後まで絶対に諦めない!だから、桃ちゃん、俺が迎えに行くまで俺の『彼女』でいてね」

 俺は両手で桃ちゃんの肩を掴みながら、俺の心の中にある桃ちゃんへの想いをすべてぶつけた!すると桃ちゃんは、ハラハラと涙を流しながら俺にしがみついてきた。

「うん、うん!私も健太が治る事信じているから・・・こんなに大事な『彼氏』を病気でなんか亡くしたくないもん・・・だから私がいつも側にいて助けてあげるから。健太はそんな病気なんかに絶対負けないでね!私も健太を誰よりも愛しているんだから!」

 静かな波の音がふたりを優しく包み込んでいく・・・


第118章

俺はやっと愛する桃ちゃんと「恋人同士」なんだなぁ、と実感することができた。俺はこのままこんな病気なんかでくたばるわけにはいかない!絶対に完治させて、今度は俺が桃ちゃんを守るんだ!そのためなら、俺はどんな激痛にも耐えてやる!そう心に誓いながら俺は桃ちゃんの肩を抱き寄せて、誰もいない砂浜で甘いキスをした・・・

この日の桃ちゃんはタバコを吸っていなかったので、いつもの苦みのない、本当の桃ちゃんの味がした、とても甘いキスだった。俺はこの今の桃ちゃんとのキスの味は死ぬまで忘れない・・・
今日は俺にとって最高の一日となった。

レオはそんな俺たちを邪魔することなく、寄せては返す波と戯れていた。


第119章

診察2回目の金曜日。今日も桃ちゃんが診察室にいて、先生のお手伝いをしている。たまに俺に見せる笑顔がとてもかわいかった。この病院の看護師さん達の白衣がいつの間にか薄い桃色に変わっていた。桃ちゃんは色白だから、そんな薄いピンクの制服がとても似合っていた。ただ残念なことに、その制服は白衣の時のようなスカートではなくて、完全なパンツスタイルになってしまっていた。そんなことを考えながら森先生の前に座ると、もう何度も聞いて耳にタコができたと思うほどのいつもと同じ、いつもと変わらない同じ質問をしてきた。その質問には大した答え何てないから適当に聞き流していた。

「最近調子はどうですか?」
「はい、新しい『クスリ』を使ってから凄く調子がよくなりました」
「そうですか・・・顔色も前回の診察よりいいですね。それに少し肉も付いたようで順調に回復しているようですね・・・このままこの治療を継続していきましょう。それではシャツを上にあげてください」

俺は先生の言われるままシャツを上げると、胸に聴診器をあてられた。

「・・・ふむ・・・なるほどねぇ・・・」

先生は何かに納得したように頷いた。俺はシャツを下すと、先生にお礼を言って桃ちゃんに例のサインを先生たちにバレないように送ると両親を残して診察室をでた。先生と両親は俺のどんなことを話しているのかわからないが、時間的には15分以上ある。俺は急いで裏の花壇に向かった。身体が嘘のように軽い。
ちょうど数人の看護婦がタバコを吸い終えて職務に戻るようだった。
俺は桃ちゃんが来るまで春の陽射しを浴びながら待っていた。売店で買ったアンパンと牛乳がとてもうまかった。俺も「ガン」を完治するためにきちんと栄養をとらないといけない。体力回復には「肉」が一番だ!俺の大好物の肉料理を母さんに頼んだら、母さんも喜んでくれて俺は毎晩大好物の肉料理をたくさん食べている。身体が日々元気になっている証拠だ!俺は病気を完全に治したら、また野球を一から初めて「プロ野球選手」になる夢を叶えてみせようと期待に胸が躍った!


第120章

食事を済ませると同時に、新しくなった薄桃色の制服を着た桃ちゃんが小走りでやってきた。桃ちゃんが手を振ってきたので俺も軽く振り返した。何だか不思議だ。桃ちゃんがいつもと違ってみえた。新しくなった制服のせいじゃなくて、俺と桃ちゃんはやっとお互いの気持ちを伝え合えた「恋人同士」になれたんだなぁ、と、そんな感覚だった。それもそうだ、2人の恋は始まったばかりなんだから、実感するまでもう少し時間がかかると思う。俺はそんな時間も楽しんでいこうと思った。
俺たちは手を握り合って一刻の逢瀬を楽しんでいた。

「どうですか?先生、健太の様子は・・・余命宣告されてからもう1カ月以上経ちますが、あの頃より健太はだいぶ元気になってきているような気がするのですが・・・」

私は素人ながらも先生に尋ねた。先生は、「ふ~む・・・」と一呼吸おいてから話し始めた。

「確かに退院してからちょうどひと月になりますが、顔色もあの頃よりもよくなっているし、体重も増えたようですね。それに以前より脈が強くなっています。正常値に近いです。不思議なことですが、簡潔に言うと健太さんは元気になっていますね。『モルヒネ』の効果を考慮しても、この病気であんなに元気になる患者さんを私は初めてみましたよ。若いこともその理由のひとつかもしれませんね」

すると妻がいてもたってもいられず、希望に満ちた表情で医師に詰め寄った。

「せ、先生!それなら・・・健太は!健太の『ガン』は治ってきているのですかっ?」

妻は悲しみの涙ではなく喜びの涙に溢れていた。しかし、無情にも森医師は首を左右に振った。

「そ・・・そんな・・・」


第121章

妻は希望の綱を断ち切られたかのように椅子に崩れるように座りこんでしまった。
私はたまらず、

「では先生!健太が今も生き延びている理由はなんなんですか?」
「確かに私はひと月前の健太さんを検査して診断した上で余命宣告をしましたが、ごくまれにあるんです。医師の余命宣告よりも長く生きる患者がいることが・・・お父様方も、テレビや本などで、『末期ガン』で余命宣告を受けながら完治して長生きした患者がいることは、ご覧になったことはありませんか?」
「あぁ・・稀にいますよね・・・末期がんの患者が、病気をのりこえた、とか・・・」
「それなんですよ、いくら現代の医学が発達したからと言っても、絶対ではありません。治ると思っていた患者が突然亡くなったり、もう手の施しようがない患者が、何年も生き延びたり・・・ごく、本当にごく稀にですが、そう言ったケースは確かにあります。おそらく健太さんの場合は後者だと思います。あの状態でも『余命』は避けられませんが、別の『ガン』について言えば実例として存在しています。ですが、希望は持たないでください。健太さんにそのような『奇跡』が起こらない限りは・・・今日は検査をするつもりでしたが、健太さんの『ガン』はもうすでに骨まで広がっています。こうなると検査しても意味がないので、もう健太さんの検査は今後しない方向でいきます。前回処方した『薬』が効いているうちは、自由に動けるうちはせめて健太さんの好きなようにさせてあげたいと、私は思っています。というわけで、話は、以上です・・・」

医師は私たちに一礼すると診察室の奥のほうへ行ってしまった。寿命は延びるが、死は避けられない・・・私たちは唯一の希望すら無残にも打ち破られ、光すらない暗闇に突き落とされた。健太の寿命を告げる砂時計の中身の砂が少しばかり増えただけだった・・・


第122章

両親が森先生と話している間、俺と桃ちゃんはいつもの花壇でタバコを吸っていた。いつのまにか俺も平気でタバコを吸えるようになっていた。味なんてまったくわからない。ただ、なんとなく・・・だった。

「桃ちゃん、今度の休みは俺の家で誕生日会やろうよ?」
「ん?誕生日会?誰の誕生日なの?」
「もちろん俺の誕生日だよ。5月15日なんだ。もう過ぎちゃったけど・・・」
「あっ!忘れてた!ごめん!」

(えっ?まさか健太が余命の1か月を乗り越えたってこと?)

「いいかな?桃ちゃんに祝ってもらいたいんだ」
「うん、いいわよ!それじゃケーキ持っていくけど食べられそう?」
「うん、退院してからだいぶ食欲もでてきたんだ。退院するまでは胃の中に重い鉛の玉が入っているような感じがして全然食欲がなかったけど、今は普通に食べられるようになったんだよ!」

(健太・・・それは違うの・・・健太・・・アンタはもう・・・・)

私は精一杯の作り笑顔で健太に言った。健太に今の状態を知られちゃいけない。

「それじゃ、奮発していいもの買ってくるね!」
「そこまでしないでいいよ。普通のでいいよ。桃ちゃんと一緒に食べられればそれだけでいいんだからさ」
「うん、わかった。それじゃ今度の水曜日お休みだから、またお昼頃に健太のお家に行くね」
「あぁ、待ってるよ」

俺がそう言うと桃ちゃんは急いで勤務に戻っていった。そろそろ父さんと母さんが先生との話を終えているはずだ。俺は待合室へと向かった。


第123章

家に帰って夕飯を食べ終わって部屋に戻ると、俺は香織との約束であるホウレンソウを思い出して香織に電話することにした。俺はスマホで桃ちゃんとうまく「恋人同士」になれたことを香織に報告すると、

「やったじゃない!健太、おめでとう!桃ちゃんのこと大事にしなきゃダメよ?」
「当たり前だろう?桃ちゃんのこと、誰よりも大事にするよ!」
「うんうん、それでよろしい!それに最近の健太、調子よさそうだね?病気、治りかけてるのかな?」
「だといいけどね。慌てないでゆっくり治療していくよ」
「うん。そうしてちょうだい。じゃ、また明日ね。おやすみなさい」
  
そう香織が言い終えて電話を切ると、俺はスマホを枕元において睡眠用の「クスリ」を飲んだ。すぐに眠気がきた。隣にはすでに夢の中にいるレオがいた。

「仔犬の成長は早いなぁ、拾ってから1か月でかなり大きくなったな。足に障害はあるけれど、それを除けばレオは健康だ、よかった・・・」

俺はそんなレオの著しい成長に、自分の病気が回復していくことを重ねて見つめていた。
俺も海の中にゆっくりと沈んでいくような心地よい気分のまま眠りについた。レオはすでにベッドの上で俺と一緒に眠るのを待っているかのように見えた。


第124章

翌朝、まだ完全に夜が明ける前だった。もうそろそろでカーテンの隙間から春の朝陽が射し込んでくる時間になっていた。
その時だった!レオに目をやると、そこにはレオでなく、レオと同じくらいの大きさの片方の翼が折れている金色に輝く龍がいた!温かな光に包まれている伏龍が俺のすぐ横で眠っている!卵から産まれたばかりのような小さな金色の子龍、片方の翼が折れているままの小さな龍がいる!あの日公園で初めてレオを見つけた時と同じ、金色に輝く生まれたてのような小さな龍がいる!俺は今、この目で見ているんだ!その小さな翼の折れた小さな龍を!

「レ、レオ!お前、そんな馬鹿なっ!」

俺は慌てて目を擦った。これは夢か?幻か?もう一度瞼を開いた!

(あ、あれ?)

俺の目の前にはいつもと変わらないレオが、寝息をたててまだ夢の中だ・・・
 
でも、どうしてレオが金色の龍に見えたのだろう・・・?しかも、片方の翼が折れていた。レオの左後ろ足が障害になってレオが普通の犬のような速さで走れないのと同じように、俺がさっき見た幻の(?)金色の小龍も折れた翼のせいで、天に昇っていくことができない龍のように思えた。

(でも、まさか・・・)

気分が高揚しているからか?寝起きだからか?俺は錯覚まで見るようになったのか?もしかしたら、『クスリ』の副作用で見た幻覚なのかも知れない・・・
あとで『クスリ』についてネットで副作用について調べてみるか?いや、そんなんじゃない!副作用による幻覚なんかじゃない!はっきりと俺はこの目で見たんだ!確かに小さな龍がここにいたんだ!
カーテンを開けた窓から差し込んだ朝陽が眩しかったのだろう、レオは眠そうな目を擦りながら起きだした。その姿はいつものレオで、金色に輝くこともなく、ましてや翼などもなかった。当たり前だ、レオは「犬」なんだから・・・
もしかして俺の脳は幻覚をみるほど「悪魔」たちに食い荒らされてしまったのだろうか?こんなに調子がいいのに?きっと入院中よりも強力な『薬』をもらったせいかもしれない。副作用で幻聴や幻覚を見るなんて珍しいことじゃない。
特に俺みたいな救いようもない病人なら・・・身体中にまだ『クスリ』が残っているようでなんだかまだ眠い。そろそろレオのエサの準備をしないとな・・・レオのエサはもうミルクではなく、仔犬用のドッグフードに代わっていた。


第125章

そんな早朝に俺は香織との約束通り、住宅街の狭い十字路へ行くとすでに香織が待っていた。もう俺の頭の中から朝に見た金色の龍の幻のことは、悪戯で吹いた風に流されたように消え去っていた。

「おはよう、健太、レオちゃん!」
「香織、おはよう」
「健太、まだ眠そうだけど、大丈夫?」

香織が俺の顔色を覗き込んできた。今さら眠気がやってきた。眠気のせいか、気持ちもあの身体中に五寸釘を打ち付けるような激痛をすっかり忘れているようだ。あの激痛に比べれば、多少の眠気なんて俺にはどうでもよかった。

「あ、あぁ・・昨日のこと考えてたら眠れなくてさ」
「そっかぁ、ほんとによかったね!」

俺たちは浮かれているレオを先頭にして公園に向かった。公園のいつものベンチに座ると、レオは元気いっぱいに香織の膝の上に身体を伸ばして「遊ぼうよぅ~!」と両手をあげて催促している。


第126章

香織は俺の恋愛話に花を広げていった。ずいぶん興奮しているようだ。
そう言えば香織はあの彼氏とはどうなっているんだろう?確か同じ陸上部の「後輩」とつき合ってると言って、可愛くてしかたがない!とのろけていたっけ?
香織は一人で盛り上がっている。その時俺は、

「人のことよりさ、香織はどうなんだよ?部活の『後輩』とはどうなってるのさ?」
「えっ?わ、私・・・?」
「そうだよ!お前も『彼氏』いるんだろ?しかも『年下』の・・・で、最近どうなの?」

俺と香織の立場は逆転した。人の秘密を知るのはおもしろいもんだな!今度は俺が身を乗り出すように香織に聞いた。すると香織は慌てて両手を振り出し、

「わ、私のことなんてどうでもいいでしょ!今はアンタの話してるんだから!」

香織もわかりやすい性格だな、頬が真っ赤に染まっている!俺は香織をからかうように、

「俺のことはもう話したんだから、今度はお前のこと教えろよ?」

俺は意地悪に問い詰めた。香織はまさか自分の恋愛について聞かれるとは夢にも思っていなかったようで、額から流れる汗をハンカチで拭きながら、

「もう!私のことはどうでもいいのっ!今は!」

俺は香織の口を手のひらで塞いだ。

「デートとかしてるんだろ?どこまでいったんだよ?」

香織はじたばたしながら俺の手をどけると、

「私のことはいいのっ!健太マジしつっこいっ!ほっといてよっ!」


第127章

と真顔でその大きな瞳に涙を浮かべていた。俺は香織に何があったかは知る由もなかったが、香織の表情を見てきっと香織は『足』が原因でフラれたのかもしれないな、と香織の心情を察してこれ以上追及するのをやめた。さっきまでの盛り上がっていた熱気が一瞬で凍りついて気まずい沈黙が続いた。その沈黙を破るかのようにレオが、わんっ!と香織の足元で吠えた。俺たちは悪い魔法から解放されたかのように動き始めた。

「あ、レオちゃん!放っておいてごめんね!」

香織は慌ててレオをなだめた。レオはやっと自分の存在に気づいてくれたことを喜ぶようにしっぽを大きく振っている。そしてどうしても香織と遊びたいようで、両前足をめいいっぱい伸ばして香織にだっこをせがんでいる。

「はいはい、レオちゃん、高い高~い!」

機嫌を直した香織はレオを抱え上げてレオを上下に揺さぶった。レオは嬉しそうに、わんわんっ!と吠えている。その時香織が、

「レオちゃん、競争しようか?」

と言ってレオを地面に置くと、俺から離れるようにひょこひょこと走り出したレオを追いかけていった。

「お、おい!香織!走ったら危ないぞ!」

俺は危なっかしくてつい立ち上がって叫んでしまった!

「大丈夫だよぉ~!レオちゃん待ってぇ~!」

松葉杖を器用に使いこなし、レオと香織は追いかけっこをしている。足を悪くしていると言う共通点のある香織とレオ。俺は重病人だが、香織は障害者になってしまった。俺と香織は違うが、身体のことで辛いことがたくさんあったはずだ。さっき香織に彼氏のことを問いただしたが、聞いてはまずい結果になった。きっと香織も日常だけでなく、恋愛でもなにか辛いことがあったのかもしれない。


第128章

香織に申し訳ないことを聞いてしまったな、と俺が反省していたら、香織が目の前に息を切らせて立っていた。

「いい?健太、私のこと絶対同情なんかしないでよね?」

香織が真剣な顔で俺に訴えてきた。

「私はただ、足が片方動かなくなっただけなの。こうやって走ることも勉強することもできるし、友達とも遊べるの。ただ足が動かなくなっただけ。それ以上でもそれ以下でもないの。これが今の私なの。私はこれからこの身体で生きていくの。『恋愛』だってまたすることだってできるし、なんだってできるの。だから、私のこと、絶対同情しないでね!だから、これからもよろしくね!」

厳しい表情だった香織がニコリと微笑んだ。香織は強い女だなぁ。確かに俺も重病人だからといって同情されるのはごめんだ。俺は香織が言った、

「『恋愛』だってまたすることだってできる」

その言葉がやけに胸に突き刺さった。やっぱり香織も俺と同じように同じ部の彼氏と、どんなカタチでかはわからないけれど「別れ」があったんだろうな、と思った。その辛さは俺もイヤというほど身に染みてわかっていたから俺も香織を見習って、これから先強くなることを約束するように俺は香織に右手の小指を差し出した。

「あぁ、約束するよ!俺も同情されるのなんてゴメンだからな!」

と言うと香織も右手の小指を差し出して、

「指切りゲンマン!」

と2回目の約束をした。二人の指は力強く結ばれた。そしていつもの十字路で手を振って別れた。


第129章

玄関でレオの足を濡れた雑巾でふき取ってから部屋に入った瞬間だった!今まで静まっていた激痛が突然目覚めたように頭だけでなく身体中に走り、強烈な吐き気に襲われた!今度は胃液に混ざったどす黒い血を吐いた!こんなことは初めてだ!俺は銃殺された処刑人のようにベッドの上に倒れこんでしまった・・・
レオが俺の異変に気づいて必死にわんわんっ!と吠えている!
「クスリ」はきちんと飲んでいるのにもう効果がほとんどなくなっていた・・・痛みも我慢できないほどになってきている!俺の身体はいったいどうなっているんだ?本当にこの「クスリ」を飲んでいれば俺の病気は治るのか?改善するどころか、最近になって日に日に悪くなっていくじゃないか!今回は特に吐き気が酷い!さらに身体中のあちこちにまで耐えがたいほどの激痛が走り抜ける!朝食はまだとってなかったので胃の中はカラっぽだが、ゲーゲー、と吐き気が止まらない!気を取り戻した俺は最後の力を振り絞るように「クスリ」に手を伸ばしたが、吐き気が喉に蓋をしているように邪魔をして「クスリ」を飲むことができない!

父さん!母さん!

と叫んだが声にならなかった。
酷い頭痛と嘔吐、そして最近は身体中のあちこちに激痛が走るようになった。俺は立ち上がろうとしたが、何度も転んだ。もはや平衡感覚すらない。

(俺はこのまま死ぬのか?)

 そんなことが頭をよぎった!

(桃ちゃん!桃ちゃん‼)

レオがさらにけたたましく吠えるが、誰も助けにきてくれない!俺はここで死ぬわけにはいかない!こんなところで死ねるかよ!俺はベッドに這いつくばるようによじ登ると、ペットボトルを鷲掴みにして、逆流に逆らい滝に昇る鯉のように一気に「クスリ」を無理やり胃の中に押し込んでいった。激しい嘔吐がそれを拒否するように襲ってきたが、俺は口を両手で力いっぱい押さえつけ、胃から逆流してくるものすべてを死に物狂いで飲み干した。すると「クスリ」を飲んだ安心感からだろうか?俺は安堵感でそのまま眠るように気を失ってしまった・・・

僕は健太君が眠りについたことを確認すると急いでベッドに上がって呪文を唱えた!


第130章

どれほど気を失っていたのだろう?ぺろぺろと俺の頬を舐め続けるレオの舌の感触で俺は意識を取り戻した。俺がゆっくりと身体を起こすとレオは嬉しそうにしっぽを振って舌をだしていた。レオはなにか吠えようとしていたが、声がでないようだった。俺は自分の頬に手を当てると、うっすらとした赤い絵の具のようなものが指先についていた。倒れた時に切ったのか?そう思って鏡をみたが、俺の顔にはかすり傷一つなかった。
瞬時にレオの様子がおかしいことに気がついた!レオの口の周りが乾ききった血で薄汚れていたからだ!俺はレオを抱え上げ、はぁはぁと呼吸しているレオの舌をみて涙がとまらなかった!その赤い絵の具のようなものはレオの血だった!レオは舌の水分がなくなったカラカラに乾いた舌で必死に俺を起こそうと、乾ききって出血した舌で俺の頬を舐め続けていたのだ!

(そうとう痛かっただろうに・・・そこまでしてお前は・・・)

俺はレオを抱きしめた。レオは声にならない声で、俺が正気になったことを喜んでいる。俺は蓄えていた貯金を全部握りしめ、急いでレオを近所の動物病院へ連れて行った。
幸いにもレオの傷も浅かったから塗り薬をもらうだけで済んだ。治療を終えたレオは見習の獣医さんがくれた水をゴクゴク音が聞こえるほど一気に飲み干していた。すると、喉が潤ったのだろう、いつものように元気よく、わんわんっ!と俺に向かって回復の合図をするように吠えた。先生からもOKがでて、入院することなく一緒に帰ることができた。近所の動物病院から出ると、安心した俺は「クスリ」で完全に元気を取り戻していたのでレオを抱っこしたまま家路についた。
汗だくになって家につくと夕飯を済ませ、とりあえず「クスリ」を飲むと、ちょうど香織から電話が来た。俺は香織と別れてからの体調の急変を話さなかった。もちろんレオを動物病院に連れて行ったことも。言えば心配をかけてしまうことは目にみえている。それは絶対に避けなければならない。俺たちはまた明日会う約束をして電話を終えた。

「明日は水曜日だ!桃ちゃんがウチに来てくれて一緒に俺の誕生日を祝ってくれる!」
 
俺は楽しみと嬉しさと興奮で、今夜もまたなかなか眠ることができなさそうだと自嘲した。


第131章

すっかり安心しきって眠りについた頃だった。突然また俺の身体全身の骨を砕くような痛みが襲ってきた!もう頭痛や嘔吐どころではなくなっていた!俺自身、自分の身体のどこが痛むのかわからないほど突然やってくるようになったこの激痛に、俺はベッドの上で声も出せずにのたうち回った!脳天にぶっとい五寸釘をたくさん打ち込まれていくようだ!身体中に仕掛けられた時限爆弾が爆発して身体中の骨が砕け散っていきそうだ!俺は死に物狂いで「クスリ」に手を伸ばしてみた。今の俺には「クスリ」を選んでいる余裕なんてまったくなかったから手にした「クスリ」を手当たり次第に全部飲んで、歯を食いしばりながら「クスリ」を強引に胃袋の中に押し込んだ!
永遠に続くと思われたこの激痛の炎がゆっくりと鎮火していく・・・眠っていてこんなことになるのは初めてだ・・・

しかも俺の症状が発症する間隔が日に日に短くなっている。それだけでなく、症状も以前より良くなるどころか、身体中を鈍器で乱打されるような激痛に変わってきた!退院してから1か月半になっていた。俺は1日3回飲む「クスリ」を、もう5回は飲むようになっていた。2週間分の「クスリ」はあっと言う間になくなっていく。両親に話すべきか?きっと父さんと母さんは心配するに違いない。自分でも症状が日を追うごとに悪化していることを自覚している。
俺は暴風雨のような激痛から落ち着くと「クスリ」があと何日分あるか数えるために袋を手に取ってあとどれだけ残っているのか確かめた。
袋の中に手を入れると、「クスリ」は数えるまでもなかった。もう明日の分があるかどうか程度しか残っていなかった。「クスリ」が無くなっていく・・・その数が僅かになれば冷たい雪のように不安と恐怖心が降り積もっていくばかりだ・・・
俺は焦燥感と苦しみに苛まれるままだ・・・


第132章

カレンダーに目をやると、前回「クスリ」をもらってから9日しか経っていない。明らかに飲みすぎだ。というか、このペースで「クスリ」を飲まないといけない身体になってしまっている。このままじゃ「クスリ」を飲む回数が増えていくだけだ。明らかに俺の身体に異常が起きている・・・
せっかく効果のある新しい「クスリ」もあと2錠しかない。もう、絶望的だ・・・

(・・・もしかしたら、俺はもう・・・・・・)

俺は手のひらに残った「クスリ」を見ながらそんなことを考えた。気がつくと一時期増えた体重もまた減っている。もちろん食欲もなくなってきている。
嘔吐がさらに酷くなり、ついに吐血までしてしまった。身体中の気が狂いそうになるほどの激痛も今までよりも長い時間続くようになった。もちろん頭痛もそうだ。鏡をみると真っ青な顔で目のくぼみと頬がこけているのが嫌なほどわかった。それはまるで自分でも幽霊をみているようで気持ち悪かったのだから・・・
退院してから散髪にもいっていないからまるでホームレスのようだ。俺は廃人への階段を一歩一歩上がっていっているのを実感した。廃人?いや、違うな、この顔は、死神が迎えにくる顔だ・・・・絶望だけが俺の肩に重くのしかかる・・・
俺は死ぬのか?俺は症状が良くなったから退院したんじゃなかったのか?俺は今まで騙されていたのか?きっと俺はもうダメだから、病院での治療は見放され、自宅で「余命」を過ごして「最期」を迎えるだけに生かされているんじゃないか?悪いほうに考えれば考えるほどすべてのパズルが組みあがっていくように辻褄が合って納得が行く。
そして、俺の頭の中に最後のピースが残った時だった。俺は神に怒鳴るように祈った!よく、ドラマや映画などで、死にかけの人物が、「自分の体のことは自分がよくわかる!」と言って周りが止めるのを聞かず無理をして死んでいく場面があるが、今の俺はまさにその状態だった。俺はレオを膝に置くと、レオと見つめ合い、レオに「遺言」を残すように呟いた。

「レオ、お前と出会えてよかったよ。いろいろあったけど毎日が楽しかったよ。確かに辛い時もあったけど、そんな時はお前の辛さを思い出したし、お前はいつも俺を励まして元気づけてくれた。障害をもったお前はどんな困難にも負けず、どんな時も頑張って明るく生きている。その姿がどれだけ俺を励ましてくれたことか・・・なぁ、レオ、俺はお前に心の底から感謝しているんだ。俺たちは、飼い主と犬の関係なんかじゃない、とっくの前から『親友』だ!お前は強いヤツだ!俺の分まで長生きしろよ!お前はまだ仔犬だ。まだまだこれから先お前にはもっと辛いことが待っているだろう。俺がこの世から消えたら、またお前は独りになってしまうけど、そんなことに絶対負けるなよ!俺は空からお前を見守っているし、やがてお前にも避けられない寿命がきたら、必ず迎えにいくから、それまでのお別れだ。お前が天にきたら、また一緒に遊ぼうな!」


第133章

俺はレオに「遺言」を伝えた。するとレオはその動物的カンで悟ったかのように、静かに俺の顔を優しく舐めまわした。まるで俺に「さよなら」を伝えるかのように・・・

《もう、僕の魔法じゃ健太君をこれ以上治すことは無理だ!僕の魔力がもうすっかり枯渇してしまったから、今まで通りの魔法じゃ威力が弱すぎて健太君の痛みを和らげることができなくなった!こうなったら僕の命を削ることになるけれど、もっと魔力を強くしよう!そうすれば最低でも今日1日中だけど健太君は元気でいられるかもしれない!健太君が僕を助けてくれたように、今度は僕が健太君を助ける番だ!僕の魂が削り取られてしまうけれど構うもんか!今度は僕が健太君を助けるんだ!》

 レオに俺の「遺言」を話し終えたあとだった!突然部屋の中が、いや、世界中が真っ白な世界になった!眩しいほどの純白な世界がどこまでも果てしなく広がっている!そこには俺とレオしか存在しなかった!俺の胸の中にいるレオが突然温かな光に包み込まれていく!そのほのかな光の中から、今まで幻覚だと思っていた小さな金色の龍がいた!
この小龍の言葉が俺の身体中に柔らかく鳴り響いてきた!

《健太君!僕は健太君を絶対に死なせないよ!だからそんな悲しいこと言わないで!》

《えっ?レ、レオ・・・お前・・・レオだよな?仔犬じゃなかったのか・・・?》

《うん。これが僕の本当の姿なんだ。驚かせてごめんね?》

《い、いや・・・そんなことより・・・レオ・・・お前喋れるのか?》

《この『世界』の中でだけだけど、健太君と話すことができるんだよ》

《ここは・・・ここはいったいどこなんだ?》

《ここはね、『生』と『死』の間にある世界だよ。天国の入り口なんだ》

《じゃ、俺は・・・死んだのか・・・?》

《違うよ、まだ健太君は生きてるよ。大丈夫。いつものように僕が魔法で病気の痛みを和らげてあげるから!》

《え?レオ・・・お前、魔法なんて使えるのか?》

《うん。僕は竜神様に仕える龍なんだ。まだ子どもだけどね》

《いったい、どうやって俺の痛みを消してくれるんだ?》

《そのまま僕を抱きしめていて。今から呪文を唱えるからね》

《・・・なんだ、この光は?身体が、温かくて気持ちがいい・・・痛みも、ない?》

《・・・ハァハァ・・・僕の魔法で健太君の病気を削り取ろうとしたんだけど・・・》

《魔法で俺の病気を削り取る?》

《うん・・・でも、僕の小さな身体じゃ、ここまでが限界みたいだよ・・・》

《限界だなんて・・・レオ、大丈夫か?》

《うん・・・大丈夫・・・だよ・・・でもまだ・・・僕のこの小さな身体じゃ、健太君の身体を・・・治すのにじゅうぶんなチカラを・・・出すことができないみたいで・・・ごめんね・・・健太君・・・今日1日・・・だけは・・・痛みはないはずだから・・・今日は恋人さんと・・・楽しんでね・・・》

《おい!レオ!目を開けろ!レオ!おい、レオ!》


第134章


すると蝋燭の火を吹き消したかのように、真っ白な世界が元の世界に戻っていた。俺の意識はしっかりしている。あんなに激しかった痛みが全くなくなっている。優しい温もりに包まれているようで身体の調子がとてもいい。健康だった頃に戻ったみたいだ!
これがレオの「魔法」なのか・・・?金色の龍の・・・「魔法」なのか・・・?
俺が見たレオの本当の姿、金色に輝く小さな龍の「レオ」・・・今は元の仔犬の姿に戻って俺の胸の中でぐったりと眠っている・・・かなりエネルギーを使う「魔法」だったんだろう。仔犬になったレオは死んだようにぐったりとして眠っている。俺はそんなレオをベッドの中に入れて休ませることにした。

(・・・レオ・・・やっぱりお前も俺の寿命に気がついていたのか・・・)

そんなレオの秘密を知ったのは、退院してからもう2か月過ぎようとしていた、そんな朝の出来事だった・・・俺は今まで龍になったレオの魔法によって「余命」が延ばされていたことを初めて知った。レオが、俺の命を助けてくれていたんだ!こんな小さな身体で・・・レオが仔犬だろうが龍だろうがそんなことは俺にとってどうでもよかった。
どんなカタチ、姿であれ、レオは俺の「レオ」なんだから・・・今は疲れた体をたっぷりと休ませてやろう・・・

今日は昼頃に桃ちゃんが家に来て、俺の遅くなった誕生日を祝ってくれることになっている。幸い今の俺の身体は、レオの「魔法」のおかげでだいぶ平常心を取り戻しているけれど、またいつ突然身体の中に仕込まれた時限爆弾が爆発するかわからなかった。レオが今まで俺に「魔法」をかけて俺の寿命を延ばしていてくれたなんて今初めて知ったのだから。俺は不安になって鏡を恐る恐る覗き込んだ・・・
気味が悪いほど青褪めていた顔色が元に戻っていた!健康そのものだ!身体中から力が漲ってくる!これなら桃ちゃんにも心配させることはないだろう!俺は「クスリ」よりも、レオの「魔法」を信じて今日桃ちゃんと会うことを決心した。レオが命懸けで俺にかけてくれた「魔法」だ!だから俺は何も怖いものなどなかった!


第135章


朝の陽射しがカーテンの隙間から射し込んでいる。俺はもう日課になっていた香織との朝の散歩の準備をしてると、レオがいつものように嬉しそうに元気よく俺の足元に絡みついてきた。俺はやっと目を覚ましたレオが元気を取り戻したことを確認すると嬉しくなった。あのままもう二度と目を覚まさなかったらどうしよう、と言う不安感が俺を苦しめていたから。だから元気になったレオを見てやっと安心できたんだ。香織に会う前にレオが元気に回復してくれてほんとうによかった。それにレオの「魔法」のおかげで体調もとてもいい。そして俺は朝食を取り終えると、レオにリードを繋いで玄関をでて香織を迎えに行った。

今日は昼頃に桃ちゃんがくる。桃ちゃんと楽しんでいる時に症状が発症するのがとても心配だった。レオは、小龍だったレオは、今日1日くらいなら俺の身体に激痛が走ることはない、と言っていた。そんなレオの言葉を信じながら、俺は桃ちゃんに相談すべきかどうかで頭の中がいっぱいになっていた。レオの「魔法」に頼ってばかりはいられないこともわかった。俺のせいでこれ以上レオの命を削らせるわけにはいかない!
あれほど「こんな悪魔には絶対に負けないっ!」と強く誓っていた気力もすでに風前の灯にまで俺の気力を弱らせていった。

「奇跡」と言う文字が頭の中でゲシュタルト崩壊していく・・・

入院してしばらくして俺は自分が何かの「ガン」であることを自覚していた。退院することで、症状がよくなったのだとばかり思っていた。父さんも俺の症状のことをきちんと俺でもわかるように何もかも包み隠すことなく説明してくれた。
だけど、俺はどうやら現代医療にも見捨てられたようだ・・・
退院の時みたいに、仲間や恋人を失っていた俺は死ぬのは怖くなかった。今の俺には桃ちゃんとレオがいる!
だからまだ死にたくない!桃ちゃんやレオのためにも、俺はまだ死ぬわけにはいかないんだ!身体中が武者震いした!身体中を巡る血潮が熱をもっている!
俺はまだ、生きている!これからも、生き抜いて見せるんだ!


第136章


ちょうど待ち合わせ場所の十字路が見えてきた時、いつも俺より遅れてくる香織がすでに俺とレオを待っていた。香織が十字路で俺とレオに向かって手を振っている。レオは大好きな香織に気づくと俺をぐいぐい引っ張って行った。

(いつの間にレオはこんなに力強くなったんだ?)

レオは、仔犬であれ龍であれ、俺と違って真っすぐ健康に育っているんだな、と嬉しかった。しっかりとした3本の力強い手足で俺を元気よく引っ張っていく。
俺のチカラがレオに完全に負けている証拠だった。その時に俺はやはり体力がかなり落ちたせいか、レオの引っ張る力に負けてしまい、足がよろけて躓いて転んでしまった。と同時に俺はレオを繋いでいるリードを手放してしまった。レオは足を引きずりながら、香織が待っている十字路に向かって、わんわんっ!と元気よく香織に一直線に向かっていった。
その時だった!十字路に向かって、雷のような爆音をたてて暴走してくる車の音が聞こえた!俺は急いで立ち上がろうとしたが、身体がふらついてバランスを崩してしまい、また転んでしまった!レオを繋いでいるリードが俺の手から、糸が切れた凧のようにどんどん離れていく!もはや拾うことはできなくなってしまった!マズい!レオを何としてでも止めようとした俺は四つん這いのまま叫んだ!

「レオッ!行くなっ!止まれっ!」

香織もすぐに十字路に向かって暴走してくる車に気づいて、

「レオちゃん!こっちに来ちゃダメっ!」

香織は今にも泣きそうな悲鳴をあげた!だがレオはその迫りくる爆音に気づいていないかのように香織に向かって、ついに十字路に足を踏み込んでしまった!
レオの「親友」である俺はその時になって初めて、レオが足の他に、目にも耳にも障害があったことに気づかされた・・・なんて皮肉な運命なんだよ・・・
レオ・・・お前、足だけでなく、目も見えず、耳も聞こえないまま生きてきたのか・・・なんでこんな時になって教えるんだよ!馬鹿野郎!レオ、お前はその嗅覚だけで今まで生きてきたのか?そんなのってないだろ!こんな最悪の状況なのに!なんであの時俺に話してくれなかったんだよ!そんなのって、悲しすぎるだろ!俺を置いていかないでくれ!今すぐ止まるんだ!レオ!

「レオ!止まってくれ!止まってくれ!レオ~ッ!」


第137章


その瞬間、俺の目の前には宙を舞うレオの姿がスローモーションのように映った。
そしてレオは道路に叩きつけられ、2、3回転ほどしてぴたりと止まった・・・
レオの口と身体からは赤い鮮血が溢れ出てきてくる!レオはまるでボロボロになって捨てられた汚いぬいぐるみのように横たわっている!身体だけが、レオの意識に逆らってぴくぴくと痙攣している!
俺は四つん這いからなんとか自力で立ち上がると、急いで身体を引きずりながらレオに向かっていき、瀕死の状態になっているレオを抱えあげた!

「レオッ!しっかりしろっ!レオッ!」

俺は必死になってレオを揺さぶったが、レオはほんの数秒前の元気なレオとはうって変わって、まるであの日あの雨の中で捨て犬だった惨めな姿に戻ってしまっていた!
俺は必死にレオの名を叫んだ!何度も、何度も、レオ!レオ!と叫び続けた!

「レオッ!目を開けろっ!レオッ!おいっ!しっかりしろ!レオッ!」

するとレオは震える右手を俺の頬に当てようと、その血塗れの手を必死にのばしてきた!

「レオ!レオッ!」

と叫ぶ俺の頬をぺろりと1度舐めると、最後の力を振り絞るかのような声で、

「・・・わ・・・ぅ・・・」

と微かにチカラなく声をだした・・・・

だが、レオが必死に伸ばした血に汚れた小さな両手足と頭が、糸を引きちぎられたマリオネットのように、ガクッと落ちていった・・・

「レオ!おい!レオ!しっかりしろっ!」

そう叫びながら俺は何度もレオの身体を揺さぶってみたが、もうレオはうんともすんとも反応しなかった。血まみれのぬいぐるみのように・・・
レオをこのまま死なせるもんかっ!冷たい雨の中捨て犬にされ、障害を持ち、まだ仔犬なのに、こんな死に方があってたまるかっ!俺が絶対にレオを助けるんだ!諦めちゃいけない!そうだろ?レオッ!もう少しの辛抱だ!お前は強いんだ!あともう少しだけがんばれっ!俺がそのまま動物病院へ向かおうとした時に、その元凶の車から若い下品な格好をしたヤツが下りてきた!

「おいおいっ!オレの車に傷ついてねぇ~だろううなぁ~?」

と心配そうに車のバンパーに手をあてて、自分の車の傷の確認をしていた。ソイツは吸っていたタバコをその場に投げ捨てると、

「おい、ガキッ!車に傷ついたらどうすんだよっ!」

と言って、俺の顔に唾を吐き捨てた!俺はキレた!

「この野郎っっっっ!」

俺はそう叫んで、ヤツの横っ面を力いっぱいぶん殴った!ヤツは一瞬グラリとよろめくと、

「こんの、クソガキがぁっ!」

と言って俺を張り倒し、馬乗りになって俺の顔面を何度も殴り、立ち上がると俺の腹を何度も蹴り上げて、

「ざまぁみろっ!」

と、車に乗り込み、そのまま爆音をたてて去って行ってしまった。
俺はレオがさらにダメージを与えられないように、身体を張ってレオを庇い続けた。
薄れゆく意識の中で、香織の悲痛な叫び声だけが耳に響いた。

「健太っ!健太っ!大丈夫っ?返事をしてっ!」

泣き叫びながら俺の身体を揺さぶる香織がいた。すべてはほんの一瞬の出来事だった。俺は殴られてトンでいた意識が戻ると、心配して泣き叫ぶ香織を払いのけ、暴力でダメージを受けた身体を引きずって、レオを胸の中に抱え上げると、

「レオッ!レオッ!目をあけろっ!レオッ!」

と身体に受けたダメージを忘れて何度もレオを揺さぶってレオの名前を叫んだが、レオはもうすでにこと切れていてピクリともしなかった・・・
流れ出た血がすでに固まり始めている。俺はレオの「死」を否定した!まだレオは死んでいない!気を失っているだけだ!なんとしても病院に連れて行って治療してもらうんだっ!俺は身体中の激痛になりふりかまわず、やっとの思いで立ち上がり、レオを動物病院へ連れて行こうと身体をひきずりながら動物病院へと歩き出すと、香織が叫んだ!

「健太っ!もう、レオちゃんはもうダメだよっ!健太が病院にいかないと健太が死んじゃうよっ!」

そう泣きながら叫ぶ香織を振り払い、俺は死に物狂いで動物病院へ歩き出した。

「健太ぁぁぁぁっっっ!」

そう叫ぶ香織の声すらも聞こえなかった。俺はもはや病気のせいなのか、殴られたダメージのせいなのかわからないほど、激しい頭痛と眩暈に襲われて、平衡感覚も麻痺していた。俺は一刻も早くレオを動物病院へっ!とだけ考えてレオを抱えてまっすぐに走っていたつもりだったが、俺の身体は言うことを聞かず、左右によろけては何度も転んで再び立ち上がると必死に動物病院めがけて前進した!

第138章

「最悪」はさらに重なった!レオが瀕死状態だからだろうか?レオの「魔法」の効果が切れたようだ!レオが命懸けで俺にかけてくれた「魔法」さえも・・・頭痛と眩暈だけでも精一杯なのに、口から胃袋が飛び出しそうなほどの鈍い嘔吐がやってきた!その筆舌し難い激痛は不幸中の幸いとでもいうべきか、もう消えかけていた俺の意識を鋭い激痛で呼び覚ましてくれた!その時、やっとオレが目指していた動物病院の看板が2重にも3重にもなって見えてきた!

「・・・あと少しの辛抱だ・・・待ってろよ、レオ!もう少しの辛抱だからな・・・」

しかし、真っすぐ数歩あるいただけで俺の身体は電池が切れたおもちゃのロボットのように前進することができなくなってしまった・・・俺はKO敗けしたボクサーのようにその場にばたりと倒れこんでしまった・・・

(もう・・・動けないよ・・・レオ・・・ごめんな・・・)

もう、俺は動くことも立ち上がることもできなかった・・・すべてが限界だった・・・
俺は右腕でレオを抱えていたので、左腕で倒れる身体をかばったせいか、その左腕からガリッと分厚い玉子の殻が割れるような鈍い音と同時に激痛が走った。どうやら左腕を骨折したようだ。俺はそんな痛みなど放っておいてレオが押しつぶされてないことを確認して苦しい中でも安堵した瞬間、内臓が逆流したかのように赤黒いヘドロのようなものを吐いた。動物病院の看板がやっとみえてきたのに・・・俺はそのまま切腹をした武士のようにレオを庇いながら前のめりに倒れこんでしまった・・・

 
なんだろう・・・まるで春の暖かな心地よい陽射しに身体中が照らされているような気分だ。深く呼吸をすると、花々のふんわりとした優しい香りがする。俺の頬を撫でるように爽やかな微風が吹いている。

・・・ここは?どこだ・・・?

俺はゆっくり目をあけると、そこは身体で感じたままの春の色とりどりの花々が広がる草原だった。空を見上げると優しく柔らかい太陽の光が俺の身体を照らしている。
空は清々しいほど青く、白い雲がもくもくと流れている・・・とても美しい世界だ・・・
その時俺は気がついた!身体が、さっきまであんなに大きなダメージを負って動けなくなっていた俺の身体中のケガが全くなくなっていた。それにあんなに苦しかった「ガン」の激痛もなくなっていて健康な身体に戻っていた!折れたと思っていた左腕も自由自在に動く!もちろんさっきまで俺を激痛のどん底に落としていた頭痛や嘔吐もまったく感じない!試しに俺は全力で走ってみた!身体が軽い!野球をやっていた頃のように早く走れる!
俺は・・・俺は完治したのか?あの苦痛から解放されたのか?
俺は死なずに済んだのか?俺は自分の身体中を隅々までみて確認した。

俺は治ったんだ!ついに「ガン」に打ち勝ったんだっ!やったぁっっっ~!

そう叫んだ瞬間だった!真っ白な雲の切れ間から一筋の光が矢のように俺を照らすと、何かが俺に向かって飛んできた!俺は目を凝らしてそれがなんなのかじっと見つめていると、それが金色に輝いているのがわかった!それは柔らかな光に包まれたまま俺に向かって飛んできた!そしてそれは勢いよくオレの胸の中に飛びこんできた!
いつも俺のすぐ横で眠っていた、あの感触だった!

レオッ!レオじゃないかっ!

俺は飛び跳ねて喜んだ!レオが生きていることに!


第139章


その光の正体は紛れもなく俺の「親友」のレオだった!レオは挨拶と言わんばかりに俺の顔中をその小さな舌で舐めまわした。
「レオッ!」俺は何度もそう叫んだ。確かにそう叫んだが、声が出ていないことに気がついた。そして、仔犬の姿だったレオが、今朝の幻のように金色の龍の姿になって俺に話しかけてきた!俺はもう何が何だかわからなかったが、そんなことよりも、どんなカタチでもいい、夢でもいいから俺はレオに会えて嬉しかったから俺はそのレオの言葉に心の耳を澄ました。

《健太君っ!》

《レオ、一体ここはどこなんだ?》

《ここはね、『死者』の世界だよ・・・わかりやすく言うと『天国』の入り口だよ》

《えっ?じゃぁ・・・俺は完治したんじゃなくて・・・死んだ・・のか・・・?》

《ううん、違うよ。でも、健太君は今「仮死状態」で生死を彷徨う状態にいるんだよ》

《俺が仮死状態だって?レオ、お前一体何を言っているんだ?》

《健太君はまだこっちに来ちゃいけないんだ!僕はもう健太君が住んでいる世界に戻ることはできないけれど・・・時間がないからよく聞いてね。僕は見ての通り、竜神の子龍なんだ。これが僕の本当の姿なんだよ。でも、あの公園で健太君が僕を拾ってくれた3日前に、僕は竜神様にお仕えする龍になるための修行中で空を飛んでいたら突然の落雷に打たれて、翼や目と耳がやられちゃったんだ・・・そして僕はそのまま健太君が住んでいる「人間界」に落ちてしまったんだ。その時運悪く左の翼の骨が折れたみたいで、自力で天に帰ることができなくなっちゃったんだ・・・それで気がついたら仔犬の姿になっていたんだけれど、落雷のダメージが酷すぎて死にかけていた、仔犬の姿になっていた僕を健太君は助けてくれたんだ。しかも障害のある僕を大事に育ててくれたね、とっても嬉しかったよ!健太君に拾われていなかったら、僕はきっとさっき見せた生と死の真っ白な世界を孤独のまま彷徨っていたと思う。でも健太君っていう優しいご主人に助けてもらったから、幸せな気持ちで元の世界に帰ることができたんだよ!ここではもう僕の障害なんて関係ないんだよ?ほら、左の翼だって元に戻ってるでしょ!こんなに空高くまで自由に飛び回れるんだよ!すごいでしょ!》

レオはそう言うと、仔犬に姿を変えて俺の胸から空へ向かって走っていった!足が不自由だったあのレオが自由自在に空を飛び回っている!その後ろにはまるで彗星の尾のような光の帯を引きながら・・・
そしてレオは再び俺の胸の中に飛び込んでくると、金色の龍の姿に戻って俺に言った。

 
《ね、すごいでしょ?でもね、健太君はまだこっちに来ちゃいけないんだ!まだ大事な人がいるでしょ?あの人に最後の自分の気持ちをはっきりと伝えるんだ!だから、それが終わるまでこっちに来ちゃダメだよ!健太君はどんな時でも僕を見放すことなく愛してくれたよね?僕も健太君のことすごく大好きだよ!健太君は確かに蘇生するけど・・・残念ながらそれはわずかな時間なんだ!僕とはまたこっちで一緒にいられるけど、その健太君の大事な人とはほんの少しの時間しかいられないんだ!だから、だから、最期に自分の気持ちをちゃんと伝えて!現世に悔いを残さないように!健太君の全身全霊をもって、大事なその人に、健太君のすべてを伝えるんだ!きっと、ううん、必ずその人は健太君の気持ちに応えてくれるから!だから最後まで頑張って!一分一秒でも長く生きるんだ!絶対にどんなことがあっても諦めちゃダメだからねっ!これが僕からの「Message」だよっ!健太君!これが健太君の愛する人との最期のお別れだよ!だから最期まで絶対に諦めないで頑張って!僕は健太君がまたここに戻ってくるまで待っているから!》

そう言い終えるとレオの身体は光に吸い込まれていくように消えて行ってしまった。俺はまだレオに言い足りないことと、聞きたい事があったのに!

レオッ~!


第140章


そう叫んだ時だった!俺は病院の中でストレッチャーに乗せられているのがわかった!医師や数人の看護婦たちが懸命に俺の蘇生処置をしているのも消えゆく意識の中でわかった!刻は一刻を争ってるようで、病院内は急襲を受けた戦場のように慌ただしく怒鳴る声が聞こえる!砕け散った意識の中で父さんと母さんの顔も微かに見えた!泣きそうな感情をこらえて今にも消えゆきそうな俺に、何か必死に叫んでいるけれど、聞き取れない・・・
その時俺の鼻孔に微かに、ふと、愛しい人の香りがした!やっとの思いでその香りの方に視線を向けると、俺の手を握りしめながら必死に何かを呼びかける桃ちゃんの顔が映った!

(桃ちゃん・・・こんなことになって、ごめんね・・・)

俺が力なく微笑むと、桃ちゃんの声だけがはっきり聞こえてきた!

「健太っ!健太っ!あと少しの辛抱だからね!頑張って!諦めちゃダメッ!」

桃ちゃんは俺の手をしっかりと握りしめて俺の意識が消えないように一生懸命俺の名を叫び続けてくれている!俺はレオの「Message」を思い出した!
桃ちゃんに俺の気持ちをすべて伝えなきゃ!これが俺の最期の「告白」だ!
俺は桃ちゃんに会った時に伝えるべき考えていたセリフを言おうとしたけれど、嘔吐した血が口腔内で乾いてしまっていて舌が思う様に動かなかった。でも、俺はこれが最期のチャンスだと思い、上顎に引っついた舌を無理やり剥がすと、

「も、桃ちゃん・・・」

「健太っ!喋っちゃダメ!」

「・・・俺・・・桃ちゃんのことが好きだ・・・だから必ず迎えに来るから・・・」

俺はレオと約束した通り、俺の大事な人、桃ちゃんに「Message」を伝えることができた!それは考えていた山ほどの伝えたかったセリフのほんの一部でしかなかったけれど、桃ちゃんは何度も首を縦に振りながら、

「私も健太のこと大好きだから!だから諦めないで生きて、私を迎えに来てっ!」

桃ちゃんは大粒の涙を流しながら俺の手を強く握りしめた。そして、俺は最期の力を振り絞って、桃ちゃんの柔らかくて温かい手を強く、握り返した・・・
ピーーーーッと、何かのブザーのような音が一直線に鳴り響くのが最後に聞こえた・・・


享年18歳と8日だった・・・


第141章


俺はレオとの約束通り、桃ちゃんに「Message」を伝えることができた。
すると、俺の身体はふわりと宙に浮き、光の中に吸い込まれていった。眩しすぎて目を開けることができなかった。そして、宙に浮いていた身体が止まった時に、一筋の光が俺に向かって飛んできた。それは金色の光に包まれた龍のレオだった。すべての苦痛から解放された俺はレオを胸に抱いたまま、レオとじゃれあいながら、そのまま光の射す方へと吸い込まれていった・・・

《健太君、辛かっただろうけど、よく頑張ったね》

《あぁ、お前のおかげだよ、レオ。ありがとうな。これで俺はもう死んでいるんだろ?》

《うん・・・仕方ないけれど、誰にでも寿命と言うものがあるから・・・健太君の場合は普通の人達より早く寿命が来てしまったんだよ・・・寿命は誰にも避けられないものだから・・・辛いだろうけれど、今まで通り僕が健太君のそばにいるから!》

《そうか・・・それなら仕方ないな・・・桃ちゃんを残してきたのは心残りだけど、きっと桃ちゃんならまた新しい彼氏がすぐに見つかると思うから、その時は俺のことなんて綺麗さっぱり忘れて、その人と幸せになってほしいな》

レオとそんな話をしていると、やがてさっき見た美しい楽園の世界が目の前に広がってきた。俺とレオは不思議な引力でその世界にゆっくりと引き寄せられていく。どうやらそこが俺たちの次の世界になるようだ。俺はそんな綺麗な世界に見惚れていた。ここでレオとまた初めから一緒に暮らすのも悪くないな、と思った。俺はレオを胸に抱きしめて、

《レオ、これからもよろしくな!》

《や、やっぱり・・・・・ダメ、だ・・・やっぱりこのままじゃダメだよ!》

《ん?どうしたんだ?レオ?どこか苦しいのか?大丈夫か?》

《健太君!やっぱりダメだっ!健太君はまだこっちに来ちゃいけないんだ!》

《お、おい!レオ!いったいどう言うことだよ?何を言っているんだよっ!》

《健太君は、あの大事な人の元へ戻らなきゃいけないんだよっ!》

《えっ?ちょっと待てよ!レオッ!お前の言っている意味がよくわからないよ!》

《今度は僕が健太君を助ける番だ!健太君に僕の「命」をあげる!》

《何バカな事いってんだよ!そんなことしたらお前が!》

《いいから!そんなことはどうでもいいからっ!僕の「命」を受け取ってっ!》

《レ、レオッ!馬鹿な真似はやめろっ!もう俺は死んでるんだっ!》

《だから!僕の「命」をあげるから!僕は健太君には生きて欲しいんだよっ!だから、僕のこの「命」を貰って欲しいんだ!そうすれば病気も全部完治して、また元気な健太君に戻ることができるから!だから、健太君!僕の「命」を受け取ってっ!》

レオの金色の光が身を焼き尽くすほどの炎になったっ!レオは何かの呪文を唱えている!さっきまで見ていた美しい風景をした世界から、また純白に光る無機質な空間に俺とレオがいる!

《やめろっ!レオッ!俺のことはもういいから!頼むからやめてくれっ!》

《健太君、今までありがとう!僕は来世で待ってるよ!それまで、さようなら!健太君っ!本当にありがとう!また来世でも「親友」になろうね!さようなら!健太君!》

レオの身体が真っ白な世界の中で、ビッグバンのような轟音を立てて大爆発した!

ピピッ・・・・ピピッ・・・ピピッ・・・

何かの機械音がまた聞こえてきた・・・胸が苦しい・・・何か重りでも押し付けられているようだ・・・

ピピッ・・・ピピッ・・・ピピッ・・・

(この音は?何の音だ?胸がやけに重い・・・)

すると俺の視界が、さっきのレオが起こした大爆発から回復した俺の視界が一気に開けた!桃ちゃんだ!桃ちゃんが泣きながら俺の身体の上に跨って、俺に泣きながら精一杯の力を込めて心臓マッサージをしているっ!周りの医師や看護師は俺の「死」を受け入れて項垂れているようだ・・・
 

第142章


その中で桃ちゃんだけが必死になって諦めることなく俺に心臓マッサージをしている!

「健太の馬鹿っ!嘘つきっ!弱虫っ!最低男っ!悔しかったら男らしく返事くらいしろっ!私との『約束』シカトしないでよっ!男なら、私の男なら死んでも立ち上がれっ!健太の大馬鹿野郎っっ!」

「ぐはっっ!」

俺は喉に詰まった血の塊を吐き出して目を覚ました!「奇跡」が起きた瞬間だった!

「け、健太っ!」

桃ちゃんだけでなく、両親も俺に詰め寄ってきた!完全に俺のことを諦めていた医師や看護師たちも血相を変えて俺に群がってきた!止まっていた機械が突然作動したように、俺の周囲が急に慌ただしくなった!

「も、桃ちゃんっ!」

「健太っ!私の健太!」

桃ちゃんが人目を憚らずに大声で泣きながら俺に抱きついてきたっ!

(あぁ・・・桃ちゃんの香りがする・・・ちょっと汗臭いけど・・・いい匂いだ・・・)

「桃ちゃん・・・いったい・・・俺・・・どうして・・・?」

俺はまだこの「奇跡」を受け入れることができなかった。頭が混乱しすぎて桃ちゃんの言葉がうまく聞き取ることができなかった・・・俺はそのままICUへと運ばれていったようだ・・・

俺は夢の中でレオを探した。レオは俺に自分の「命」をくれるとそう言っていたけれど、今の世界でレオをみつけることはできなかった・・・レオ、せっかくお前が「命」をくれても、どうせ俺は病気ですぐに死ぬんだぞ?そんな俺がお前の「命」を貰ったって意味がないじゃんかよ・・・バカだよ、お前は・・・ほんと、馬鹿だよ・・・
とめどなく、涙が、溢れていた・・・


第143章

あの真っ白な世界でレオと死別してから3年が過ぎようとしていた。
あの時、医師たちが「奇跡が起きた!」と叫んでいたのを、今でもよく覚えている。
レオが言っていた通り、俺の身体中から「病魔」がすべて消滅していた。
俺は、レオの命を貰ったんだ・・・夢じゃなかったんだよ?信じてくれるかな?
 俺は今、桃子と2人で真夏の海を見ている。桃子が笑っている。ほっとする笑顔だ。
上には日除けのパラソルが揺れている。
 俺が無事に退院すると桃子が、

「私のマンションで一緒に暮らそうよ?」

 そう言ってきたから、俺は両親を説得して桃子の世話になりながら、夜は高校の夜学に通いながらトレーニングを続けている。

そして長い梅雨が明けて、もう夏真っ盛りだ。浜辺には賑やかな家族連れがたくさんいる。夏休みで子どもたちや俺と同年代くらいの連中が楽しく遊んでいる。大きな生命力に満ちた波音が聞こえる。賑やかで躍動感溢れる人々の楽しそうな笑い声。
 桃子が白い肌を出した水着姿のまま俺の腕にしがみついて頭を俺の肩にちょこんとのせている。

「あんまり見ないでよっ!恥ずかしでしょ!バカッ!」

「あ、あぁ、ごめんごめん。凄く似合ってるからさ」

「そ、そう?ありがとう。健太も元気になって身体がしっかりしてきたね!」

「うん。桃子が作ってくれるご飯が美味しいから、ついたくさん食べちゃうんだ」

「じゃ、もっと美味しい物作って食べさせてあげるね?」

「うん。桃子が料理上手だったのは意外だったなぁ!」

「何よ?その言い方!私だってちゃんと料理くらいできるんだから!」

「わかってるって!桃子の手料理は世界一だよ!」

「わ、わかればいいのよ・・・わかれば・・・」

桃子は少女のように頬を赤く染めながら俺の腕に抱きついている。桃子の柔らかい大きな胸が当たって気持ちがいい。桃子の鼓動が聞こえる。俺は今、生きている!
レオが俺にくれた「命」が、俺の病気をすべて吹き飛ばしてくれたおかげでもうすっかり健康な身体になっていた。桃子の勧めもあって今は近所の夜学に通いながら、昼間は失った筋力を取り戻すためのトレーニングを続けている。その甲斐あって今ではもう「プロ野球選手」並みの体力を取り戻すことができた。プロ野球選手になる「夢」を俺は今でも諦めていない。まだ21歳になったばかりだ。あれからトレーニングを始めて、やっと体力が入院前の筋肉の着いた身体に戻った。桃子も俺がプロの野球選手になる「夢」を支えてくれている。苗字が変わった桃子との生活も順調だ。今、桃子の身体に新しい「命」が宿っている。
俺はもう産まれてくる子供が男の子でも女の子でも、名前はすでに決めている。
桃子も俺が提案した名前に、

「綺麗な名前だね・・・とても素敵な名前だよ」

と言って喜んでくれている。俺はこれから産まれ来る新しい「命」、2人の愛の結晶に、

「 麗 央 」

そう、「レオ」と名前をつけることに決めている。
来年の夏は、「家族」3人そろってまたこの海に遊びにこよう。
きっと「麗央」は寄せては返す波に喜んで遊ぶだろう・・・


最終章

俺にはもうすでに野球に必要な体力が戻っていた。「プロ野球選手」になれるならどの球団でもよかった。いつでも入団テストが受けられるようにトレーニングと入団テストをやっている球団をネットで検索している。そして来週、初めての入団テストがある。俺は野球で生きていくことができれば、どこの球団でも構わない。桃子に胸を張ってユニホーム姿の俺を見てもらいたいと思っている。まだ俺は21になったばかりだ。プロ野球選手になるのにちょっと遠回りしただけだ。そう思ってる。早くグラウンドに立ちたい!俺は焦る気持ちを抑えながら来週行われる入団テストを楽しみに待っている。受かる自信はもちろんある!俺なら絶対「プロ野球選手」になれる!初めは2軍からでもいい。2軍ですぐに実績を上げて、そのまま1軍に上がって活躍して、ちょっとだけ遅咲きのスター選手になるんだ!将来は、メジャーリーグにも挑戦したいな!さすがにそれはまだ早いか?俺は自嘲した。

「何ひとりでニヤついてんの?イヤらしい!」

「いや、なんでもないよ。来週の入団テストのことを考えていたんだ」

「もう来週かぁ・・・でも健太なら絶対合格するよ、大丈夫!」

「うん、頑張ってくるよ!ありがとう!」

 そして某球団の入団試験から数日たった頃だった・・・入団テストで俺は自分の持っている野球の技術をすべて出し切ることができた。長いブランクがあったけれど不思議と身体が「野球」を憶えていたようで、俺は入団テストではどの試験も蝶が舞うかのような無駄のない動きをすることができた。俺は全力を尽くした。後は「運」任せだ。2、3日その入団から連絡が来ることを祈りながら待っていた。不安もあったけれど俺は自分の実力をすべて出し切った満足感でいっぱいだった。でも、もしかしたら・・・とまたも不安が頭をよぎる日が続いた。俺は少しでも早く結果が知りたかった。焦っていたのかもしれない。桃子は今あの病院で仕事中だ。広い部屋の中で俺は「吉報」が来るのを今か今かと待ちわびていた。
すると俺のスマホに「入団テスト合格」を知らせる連絡がきた!俺は晴れてプロ野球選手になると言う、幼いころからの「夢」をついに実現させた!

「やった、俺はやったんだ!」

俺は天に向かって大きく拳を突き出した!諦めなければ「夢」は必ず手に入れることができるんだ!レオが俺に教えてくれたこと。最後まで絶対に諦めちゃいけない!と言うこと。
俺はそのレオの「Message」を絶対に忘れない!

レオ、そっちはどうだ?お前がくれた「命」のおかげで俺は今とても幸せだよ!

レオ、次もまた「来世」で会おうな!お前の「命」を、ありがとうな!レオ!

                          ~終わり~