2021.08.28-09.02

下記文章は2021年夏に18きっぷを使って東北一周した際の日記をインスタグラムに投稿しており、それを加筆修正したものとなります。
気が狂いかけていたころの文章ですので多少無茶苦茶な話をしておりますので予めご注意ください。


~プロローグ~

気が狂いそうだ。このfuckすぎる世の中を健全な精神で生き抜く術が皆目見当つかない。そもそも健全な精神とは何ぞやという話である。希死念慮が爆発してバイト先のキッチンで自分が如何に死んでしまいたいか、死こそが唯一の救いであるかを叫び先輩を困らせてしまった。この場を借りて謝罪したい。本当に申し訳ありませんでした。少なくとも私の中に健全な精神が宿っていないことだけはわかった。
気が狂いそうだ。自分の中の自分と会話し続けて、どんどん袋小路にハマって行きオノレの中をぐるぐると彷徨い続けている。フランスの哲学者パスカルは「人間の不幸などという人間ものは、どれも人間が部屋でじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。」と言ったが私の場合は逆になっている。自分の部屋でじっとしてGoodなmusicを流したり、本の中に答えを見つけたりしても、結局は自分からは逃れられずにどうしようもない気持ちでいっぱいになる。
今年(注:2021年)の一月に翻訳家の岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』という本を読んだ。紀行文の体ではあるが、その土地についてではなくその土地に赴いて自分が感じたことについてツラツラと書き記していた。文体のせいなのが、彼女自身のモノなのかわからないが、随所に寂しさや空白のようなものを感じてオレの敬愛するラッパーであるC.O.S.Aのリリックなんかを思い出したりした。
出版の販促活動でRHYMESTER宇多丸がパーソナリティの『アフターシックスジャンクション(通称アトロク)』に出た際に岸本佐知子は「世界の果てに行っても脳内からは出られないのかもしれない」と言っていた。
気が狂いそうだ。私がオノレの中を彷徨っているのは狭い部屋で篭っているからではなく、人間としての正常な生活らしい。たまったもんじゃない。俺はこれを否定したい。ceroの高城昌平がこだまの『夫のちんぽがはいらない』からインスパイアされて書き上げた『Orphans』よろしく、気が狂いそうな私は家出の実行に移してみることにした。
目的地は特に決めていない。行ったことない地域に向かってみようと思い“北へ向かう”(寺尾紗穂)することにした。死ぬまでに行きたい海を目指して。

1日目


北へ向かうルートは2種類ある。1つ目は福島~宮城~岩手~青森の太平洋ルート。もうひとつは、新潟~山形~秋田~青森の日本海ルート。何もしてない時間が恐怖で月に170時間ほどバイトをしているが、それでもたかがしれてる貧乏学生なので移動は18きっぷになる。調べてみると太平洋ルートは途中でJR線が途切れているらしいので日本海ルートを採用することにした。
3:30、家を出る。朝日は昇る気配すらなく、まだまだ月が支配している。最寄り駅の24時間やってるスーパーで旅のお供のお菓子を買おうと思うが自分が何を求めているのかわからずにポイフルに決める。船橋から総武線で秋葉原に向かう。西船橋で音楽センスが全て枯れた菊地成孔みたいな風貌の男が修羅の門の2巻を素手で持ち乗車する。朝4時にナニモンなんだ。

上野から高崎線で高崎に向かう。赤羽でお勤め帰りであろう派手な化粧の女性が乗車する。籠原という何もなさそうな駅で降りた。

高崎から上越線で水上に向かう。私の母方の祖父母の家が高崎周辺にあったことをぼんやり思い出した。5歳の時に両方コロッと亡くなり、それ以来群馬とは疎遠になっていた。この辺りから民家というか街が無くなっていき、田んぼや山が増え始める。なんというか、この辺りの中高生の文化的感度(©ウノコレ)が気になる。本屋もレコ屋も映画館も近くにない田舎の中高生(便宜上)は何を娯楽にしているのだろうか。セックスのできない非モテは何をしているのかに思いを馳せてしまった。インターネットの功罪について少し考えた。そんなことをぼんやり考えていると越後中原という駅で男子高校生がBluetoothのビーツのイヤホンを付けて乗ってきた。考えるのをやめた。朝飯を食ってないことに気づいて、途中下車して喫茶店でも入ろうかと思ったが、喫茶店はおろか各駅の閑散具合からコンビニすらないことが伺えた。映画の中で1時間に1本もない電車やコンビニまで車で30分みたいな地域を見たことがあるが、それが本当に存在しており、その地域で暮らす人々がいることに実感を得た。その地域で暮らすことによって生まれる不便さや不自由さのシュミレーションをしていると長岡の駅で女子高生らしき人たちを見かけた。彼女たちがお召になっていた洋服たちはどれもファストファッションであったが、それ故に渋谷や新宿で見かける若い女性とあまり違いのない服装をしていて驚いたと同時に自分の中の“田舎”に対する差別意識というか、無意識的に下に見ていた事実に気づいて恥じた。インターネットの普及によって、この国のどこにいても好み(または流行り)のモノは手に入るらしい。頭ではわかっていたこと、頭でしかわかってなかったことがちゃんと理解と結びつくのは心地よい。

ノンストップで7時間電車に揺られて新潟駅に到着した。2ヶ月ほど前に友人と来たばかりなので新鮮味はないが、この後の予定を考えるとここで昼食を取るしかない。以前食べたへぎそばが美味しかったので、へぎそばを食べようと古町の方へ向かう。萬代橋から眺める信濃川のデカさに思わず笑みがこぼれる。やっぱり、デカいものはデカいほど面白い。古町をぶらついていると蕎麦屋を見つけたので入り、へぎそばとカツ丼を頼む。感想は特にない。
新潟から更に北へ向かう。白新線に乗っていると早通駅についた。小学校の頃に転校した友達の最寄り駅だったこと。遊びに行った時に公園で花火をして少しヤケドしたこと。そしてそれを言えなかったこと。団地の奥に早通南小学校があること。彼の家のカレーにはトマトが入っていて飲み物は牛乳だったこと。忘れるという行為によって生まれる思い出すという行為に思いを馳せた。

村上駅で1時間の待ちが生まれる。この街はNGT48の本間日陽さんの生まれ故郷であり、俺の大好きなオタクの故郷でもある。彼にどこかオススメはないかと聞いたらオレの母校があると教えてくれたので正門まで行ってみることに。感想は特にない。駅前の大きな十字路にある喫茶店でレモンスカッシュを飲みながら日に焼けたH2の9巻を読んだ。オレは古賀春華派の人間である。

羽越(うえつ)本線に乗って本日の宿がある酒田に向かう。秋田出身のオタクの兄貴が羽越本線は景色が綺麗と教えてくれたが、本当に綺麗だった。左手にずっと日本海がただただ広がっていた。丁度日が沈む頃で、その陽の光が日本海に1本の光の道を作っていて、ドラクエなら歩ける特殊エリアになるんだろうななんて思った。私の中の海は太平洋であり、日本海ではない。ハッキリ言って見知らぬ海だった。海に似合う曲というものが存在する。私はサザンオールスターズでありJUDY And MARRYでもある。でも、日本海ののっぺりとした暗さと激しい波はこれに似合わず、どちらかと言えば安全地帯っぽいなと思った。村上出身のオタクが自分の学生時代に聞いていた曲のプレイリストをくれたので、それを聞いていた。なんか、すごく嬉しかった。

計12時間の電車の旅も終わり、酒田についた。駅前が想像以上に閑散としていて少し怖かった。宿の周辺に飯屋があると知っていたので歩いていると雰囲気の良いお寿司屋を見つけた。思っきり贅沢をしたい気分だったので、暖簾を潜り一人で来たことを告げるとカウンターに通された。食レポは出来ないので割愛するが、そのどれもが美味しさのあまりに笑ってしまった。小川糸『喋々喃々』に出てくる春一郎さんの真似をして日本酒ではじめてビールで締める飲み方をしたのもかなり良かった。

宿は四畳半だった。四畳半ということもあり、急いでコンビニでカステラを購入してひと口だけ食べた。わかる人にはわかると思う。
『世界の果てに行っても脳内からは出られないのかもしれない』を否定するためにはじめた逃避行だが、ひたすらに自分の脳内をグルグルしている。結局、受像機である私は何も変わらないので意味はないのかもしれない。それでも、もう少しだけ北をめざして見る。答えがあると良いな。


2日目


8月に肌寒さで起きるとは思っていなかった。着ていた浴衣ははだけており、網戸から入る冷ややかな風が素肌をなめらかに触れる。時計を見るとアラームをセットしていた10分前だった。まぁええかと眠気眼で宿の共有の洗面台に行き歯を磨いていると、私のスマートフォンから爆音でフリッパーズ・ギター『Young,Alive,in Love/恋とマシンガン』が流れた。アラームとしてセットしてた曲がフリッパーズ・ギターだと周りのみんなにバレて少しの恥ずかしさを朝から覚える。目が完全に覚めた。朝ごはんはお手本通りというか、ステレオタイプな旅館飯だった。白米に卵焼きにほうれん草のおひたし、焼きジャケに味噌汁。それと、この土地名産のめかぶ納豆があった。味噌汁には私の大好きな茗荷が入っていた。はっきりいって、茗荷のシャキシャキ感とほどよい風味が損なわれるのではないかと怖かったが、全てが圧倒的なバランス感覚で良さが相乗効果を生み出しており、正直ちょっと怖かった。部屋で一服をした後着替えて宿を出る。ありがとうございましたと深々と頭を垂れて出来ようとすると、「お兄さん、お代お代!」と言われてから自分がまだ料金を支払ってないことを思い出した。冷や汗を少しかきながらお代を渡して、宿を出る。その日の酒田の朝は快晴で、主役みたいな顔をして照りつける太陽と裏腹に突き抜ける風は冷たさを帯びていて暑いのか涼しいのかいまいちよくわからなかった。夏場は人間の味方をしてくれる日本海側特有の風は、冬になると人間を凍らせるほどの強い寒風になるのだろう。優れていると思っていたものが対岸から見るとすごく劣って見えるのはよくあることなのだろうか。

電車まで時間があったので付近を散歩していると日和山公園という、日比谷公園みたいなのがあった。公園を公園で例えるのはいかがなものなのだろう。私は公園の周りをぐるりと回って海側の入口から入った。まず、六角灯台という白い灯台が見えた。この灯台はもう灯台としての役割はなく、ただの観光名所になっているらしい。照らすというたったひとつの存在意義が消えてしまったことと、それでも残してもらえるだけの価値があること。灯台に意思はなく全ては人間の裁量で決められてしまうことはわかっているが、役割を全うできないやるせなさと、どんな形でも良いから生き残りたいという現世への肯定はどちらの方が強いのか聞いてみたくなった。



その日和山公園、というか酒田という街は数々の文豪は訪れたらしく、文豪の道という文豪の銅像が随所に散りばめられた道があるらしい。左京区の哲学の道みたいだった。私の敬愛する竹久夢二の像もあるらしいのだが、道を間違えてしまい寝転んでいる猫を見つけることしかできなかった。酒田の駅でさくらんぼ酒を購入して秋田へ向かう。



秋田駅は私の思っていたよりも綺麗で栄えていてびっくりした。再開発特有の画一化された感じはなく、シンプルかつ暖かみを感じるデザインですごく好みだった。昼食をとるならこの時間しか無かったのだが、イマイチ何が美味しいのか調べてもわからなかった。そもそもなのだが、私は観光地で名産品を絶対に食べたいとは思わない。それよりも、その土地で生まれて生活する人がちょっとだけ特別な日や気分転換したい時に贅沢として食べるものにありつきたいのだ。駅前にいたOLにこの辺の美味しいものを教えてくださいと頼むと親子丼屋を紹介されたので、そこに向かう。根本的に、親子丼を広義の卵がけご飯と思っている。たいていの親子丼は卵と出汁の味が強く鶏肉の旨みが上手に消え去っており、アクセントにしかなっていない場合が多い。しかし、ここの親子丼は鶏肉に自我を持ったジューシーさ、旨味を感じて白米と卵と鶏肉が三位一体となり“丼”が完成していた。



話は変わるが、私は2回だけ一目惚れをしたことがある。1回は大学1年の時に朝の丸ノ内線に居たOLだった。とてつもなく眠そうで、生気を一切感じられない所にセクシャリズムを感じてドキドキした。2度目は池袋のグランドシネマサンシャインに飾ってあった『ティファニーで朝食を』のオードリーヘップバーンだ。長いエスカレーターを降りている時にあまりにも綺麗な人がいて、わざわざもう一度見るために往復をした記憶がある。それから、彼女の作品を全て見たのだった。駅から親子丼屋の通りにやたらとオードリーヘップバーンのポスターがあり、よく読んでみると彼女の写真展をやっているらしく時間に余裕もあったので訪れてみた。オードリーヘップバーンと親交の深い2人の写真家の写真が展示されていたのだが、中でも『愛しのサブリナ』の時に撮った彼女が受話器を耳に当てている写真がとても良かった。受話器というなんの変哲のない道具ですらも自分自身を魅力的に見せるための装置として効力を持たせられることのヤバさみたいなものをひしひしと感じた。しかし、自前の気品の高さというかカリスマ的な魅力に既視感を覚えるなぁ…とモヤモヤしていたが、ノギビンゴ(という最悪の番組があり…)での橋本奈々未さんが爪を切るシーンを思い出した。爪を切るという、生活の中での些細な行為を彼女自身の気品の高さみたいなものによって画として完成させてしまえるヤバさがオードリーヘップバーンと通じるものがあるなと思った。



その後、秋田出身のオタクの兄貴から教えてもらった末廣ラーメンという店でラーメンを食べた。チャーシューがふんだんに載った醤油ラーメンでめちゃくちゃ美味しいのだが、この店でしか得られない新しい美味しさではなく既視感のある美味しさなのだ。しかし、その既視感のある感じが秋田県民のソウル・フードになり得た理由のひとつではないかなと思った。



写真展ということで、写真を見続けたわけだがあらためて写真撮る事の素晴らしさと暴力性を認識した。写真を撮るということは、その瞬間に存在する全ての現象からたった一部を切り取ってしまうことであり、その一部以外のもの全てを切り捨ててしまうことでもあると思ってる。画角に写っているものだけが全てで、画角に写っていないものは真実としての効力を持たなくしてしまうのだ。そのため、写っているものの真実としての効力はとても強く、これは表現全てに言えることで、何かを書くということは何かを書かないということであり、何かを鳴らすということは何かを鳴らさないということでもある。その自分が何をして何をしないかという取捨選択にちゃんと自分の意思や哲学を組み込まないと大きな波が来た時に耐えることなく流されてしまいそうな気がしている。

駅のホームに喫煙所があって、思わず小走りをした自分に絶望。



・弘前の古書店で太宰治の『津軽』を購入した。これから津軽海峡を渡る私にピッタリだ!と思ったが結局1度も開かずに家に着いた。



・一緒にお酒を飲んだり公演を見たりと可愛がってくれていたオタクの地元が弘前らしく連絡が来た。履歴を見ると昨年の11月に飲酒のお誘いをしたらバイクで事故って足が折れてると返信を頂いた時ぶりだった。弘前は本当に何も無いから気をつけてねと言われたが、私は一体何を気をつければ良かったのだろう。

・アップルパイで一文書きたいなと思い、欲張って3つも食べたが結局何も書けずにこんな箇条書きになっている。美味しかったが、3つは流石に胃もたれした。私はもうそんなに若くないよ。

アップルパイ1


アップルパイ2


アップルパイ3

・弘前駅前に林檎みたいな何かが落ちていて流石に……と周りを見回すと林檎の木が生えていた。10年前の僕らは胸を痛めて『いとしのエリー』なんて聞いてた。



・ジャージのカップルがニケツして自転車を漕いでいた。後ろに乗っていたオンナは片手で運転するオトコの腰を抱いて、もう片方の手でiQOSを吸っていた。
・弘前城を見に行った。追手門という立派で荘厳な門から入ろうとしたら制服でヘルメットをした学生がママチャリで勢いよく出てきた。中にある公園ではベンチに座って歓談をする老夫婦や恋バナに勤しむ女学生などが居た。城、という一昔前にその国でいちばんの権力者が暮らす場所が市井の人々にとっての憩いの場となっていることに美しさを感じた。弘前城は工事していた。


青森駅は想像よりも栄えていなかった。この時の私の想像は秋田駅に近かったと思う。駅が工事していたのにも関係があるのかな。なんというか、その街は全体的に寂しさが漂っていたように感じた。日は完全に沈んで、所謂夜という時間帯になっていた。海が近い影響なのか、それとも普段の生活場よりもだいぶ北に来たからなのかはわからないが、吹く風は涼しいよりも冷たく感じ、上着を1枚羽織った。ポケットの中には地元の丸善のレシートが入っていた。弘前で食べたアップルパイでかなり胃が持たれていた。何かを食べるならさっぱりしたものが良いなと思いつつも、さっぱりの具体的なものが見つからずになんとなく繁華街と呼ばれていそうな地域に足を踏み入れる。私の前にはスーツケースを転がす2人の若い女性が横並びで歩いていた。観光客だろうか。歩幅や歩行と共に揺れる肩から楽しそうな気配、端的に言うなら浮き足立っているのを何となく察して、相対的に自分の足取りが重いことに気づく。これからフェリーに乗るつもりで、それまでの時間つぶしとしてこの街に私はいる。フェリーなんて乗ったことがない。自分が船酔いするのかわからなかったので、飲酒も控えることにすると、いよいよ何をして良いかわからなくなる。駅前にあった、周辺の地図が記されている看板を頭に入れていたので海に向かって歩き出す。歓楽街から一本外の道に入ると寂れた赤提灯が並ぶ通りに入ったが、そのどれもに灯りは点灯していなかった。その道をずーっと真っ直ぐ歩くと「青い海公園」という、短絡的な思考で生み出されたとしか考えられない公園に着いた。海は夜の帳に覆われていたので本当に青いのかはわからない。この、青い海公園は綺麗に整備されており寒々しいイルミネーションに近いものが海に沿って作られているデッキを照らしている。横浜の山下公園に似てるななんて思った。道中のコンビニで購入したホットコーヒーを飲むために腰をおろす場所を探す。少し暗いところに行きたくて奥まった場所に向かって歩いていると女性の喘いだ声と肉体と肉体が打ち付けあっているような音が等間隔で聞こえてきた。引き返して街灯の下のベンチでコーヒーをすする。夜の海で感傷的な気持ちになる馬鹿にはまだなりたくなかったので、Amazonプライムで『君の鳥はうたえる』という映画を見た。私が尊敬しているオタクの兄貴が数年前に『君の鳥はうたえる』を見たことがきっかけで夏の函館に行ったと仰っていたので、見てみることにした。感想は割愛するが、今の私は人生を長尺で見ると、この“終わらないと思っていた夏”に相当する期間なのではないかと思い少し焦る。
結局、青い海公園の海が青いかはわからなかったが青姦している人々はいたから“青”ということはなんの嘘も偽りもなかった。海か人かの違いだけで。青森だし。なんて、下世話なジョークを考えつつフェリー場へと向かうことにした。歩きながらSpotifyで見つけた『青森』というプレイリストを聞いていた。King GnuやサカナクションからceroやDYGLまで網羅されているよく分からないプレイリストだったが、耳馴染みはよくずっと聞いていた。国道を一直線に歩いていたら、ネオンライトでデカデカと装飾された施設の横を通った。おそらく、パチンコ屋だと思う。娯楽に上も下もないのは百も承知だが、少しずつ自分の中で繋がりがわかってきてなんとも言えない気持ちになる。
真っ暗な国道をてくてくと歩きながら2日目がもう少しで終わってしまうことを感じていた。現実からの逃避、自らの脳内からの逃避を試みてはじまった逃避行だが、今のところ逃げることはおろか、どんどん深みにハマっている気がしている。この船に揺られて揺られて、揺られ終わった、またひとつ新しい北の大地に着くらしい。期待と不安と鬱と躁を抱えて踏み出す一歩が何色か、まだ私は知らない。

3日目

私は右足から北の大地に到着した。深夜2時の函館港はとにかく暗いとしか言いようがなく、この逃避行の涯まで来たという感慨深さみたいなものは一切感じなかった。実際、ここが本当に函館なのかもわからない。今までは何時間も電車に揺られていたから遠くまで来たことの実感を得られていたが、青森から乗ったフェリーの中では爆睡をカマしていたため、寝て起きたら知らない土地にいたというのが正直な所だ。完全に覚めきっていない意識とぼんやりと感じる気持ち悪さだけが、この土地が涯であることを証明していた。うっすらとした小雨を浴びながら函館唯一の24時間営業スーパー銭湯を目指す。道中はずっとJUDY AND MARRYを聞いていた。幼い頃、母親の運転する車でジュディマリをよく聞いていた気がする。幼い頃の私にとって母親の運転する車の中は音楽を聴く場所であったと思う。スピッツや小沢健二からSAKEROCKやPerfumeなどジャンルレスにとにかく流れていたのを強く覚えている。ジュディマリ…YUKIの歌声が好き。水面を白くさせてしまうくらい強い日照りの太陽みたいな明るさから夏から秋に変わるような寂しさまで全部が歌声に詰まっている。大好きな歌声のひとつ。
等間隔に街灯が設置されているのにどうしても暗さを感じる函館の街を歩きながら、ここがYUKIが育った街か……なんて思ったりした。当たり前の話ではあるが、人にはそれぞれに故郷がある。
ジュディマリの曲だと『ラッキープール』がいちばん好き。正直、『ラッキープール』はHALCALIのcoverの方が何倍も聞いてるけど、いちばん好きなことに間違いはないと思う。“永遠なんて分からないけど 優しい人になろう”ってリリックが好き。というか、羨ましい。20年生きてもまだ優しさがよくわからずにいる。あと10年の間に見つけなきゃ、わからないままで死んでしまうんだなと思うと多少の残念さと開放感が同時に襲ってくる。途中から話が脱線してしまった。スーパー銭湯の風呂は最悪でした。

相対的に考えると、新宿の空はやはり狭いのだと思う。国道5号線をJR五稜郭駅方面に向かって歩きながら、図工の時間に小学生が描くような衒いのない真っ青な空を眺めていた。思えば、新宿という街に空なんてなかったような気がする。あの街はいつでも、どんよりとした雲模様で不思議と体感の湿度が高く、不快さだけを感じていた。新宿でバイトを始めた当初は新宿という街のイリーガルな雰囲気が好きだったが、新宿に通うようになるとそのイリーガルさは新宿をナワバリとしている人たちの努力によって醸し出さられていることを何となく学んで酷く興ざめした。新宿のバイトのやめ時だけをずっと探しているけど、それは逃げのような気もしている。
五稜郭駅のコインロッカーに荷物を詰め込み、軽装で五稜郭を目指した。ここが五稜郭駅ということは五稜郭も近いんだろうなと歩き始めたがなんやかんやで90分ほど歩いて到着した。ここに、アイヌの人が残した砂金がたらふくあるのか…!なんて思いながら写真をバイト先の仲良い先輩に送り付けたら『ゴールデンカムイ巡礼の旅なら樺太まで行くしかない』と言われて、どうやら先輩は私のことを不法国境越境させたいらしい。嫌われた覚えはない。

そもそも、五稜郭というものが何かさっぱりわかっていなかった。逃避行を続けて思ったが、遠くに行く時にその土地や文化に対する造詣や知見がある程度ないと名産品を消費するだけになってしまう。高校生の時に、興味のないことを学ぶことが本当につまらなく感じていた。というか、勉強よりも面白いと感じることが多すぎて授業中は小説を読むかダウンロードしたNetflixのドラマをコソコソと見続けていたが、今になって勉強とは人生を面白くするためのツールのひとつだったんだなと分かった。言ってしまえば勉強も娯楽のひとつだ。五稜郭を見ても、これの一体何が歴史的に意義のあるものであり平成になって再建されるための資料的価値があるのかさっぱりわからない。私はずっと今のこの瞬間こそが本番だと思ってきたが、どこかのタイミングでこの板から一度降りて、再度本番を楽しむだけの深さを得る必要がある。と、五稜郭を見ながら木陰のベンチでぼんやりと考えていた。

五稜郭と聞いた時にまず思い浮かぶのは奉行所としての建物ではなく、少し高いところから見た星型の土地だと思う。けれども、その土地の内部を歩いている時には星型であることを気づく瞬間はなく、帰宅いて数週間が経った今でも本当に星型だったのかな?と懐疑的になる事もある。実際、五稜郭に赴いた際の記憶を引っ張りながらそれっぽいことを書いている今でも思っている。私はそれがどうしようも無く愛おしくて美しく、人間みたいだなと思う。人間はほとんどの人が自分のことをわかっていない。自分はこういう人間だ!と思っていることが、第三者である他人から見ると全然違っている時がある。私が他人から「人間が嫌いすぎる」と思われているなんて想像もしていなかった。だから、私たちは自分のカタチを確かめるために第三者と交流する必要がある。俯瞰から見た際の自分の輪郭を確かめる必要がある。内部にいるだけでは、きっとそれはわからず、自分の脳内にある固定化された思考から抜け出せないからだ。そんな他人がたくさんいる新宿が怖くて逃げ出したい。でも、きっとここから逃げたら社会全体から逃げたという嫌な記憶を植え付けられてしまう気がするからだ。ヨリで見てもヒキで見ても意義のある場所。五稜郭の美しさを台無しにした貸ボート屋は絶対に無くならないで欲しい。




その喫茶店の常連客と思われる人々はカウンターで缶チューハイをジョッキに移して飲んでいた。北海道は緊急事態宣言下であり、酒類の販売提供は自粛が求められていたはずだが、客が勝手に買ってきて飲んでいるというテイなのか。私が疲れた足を休めるために喫茶店の入り口を開けた時、その店の中にいた全員が私の方を向いて、なんとも形容し難い顔をしていたのが何となく腑に落ちた。そんな、無法地帯でありながらもカウンターに座る客たちはそれぞれ間隔を空けて座っていたのが何ともおかしかった。客は3人いた。1番右にはスーツを着て“教授”と呼ばれる男性。真ん中にはママタルトの檜原みたいな男性。1番左には贅肉がたんまりの、なんとなく芋焼酎が好きそうな化粧の濃い女性が座っていた。テレビからは再放送のサスペンスドラマが流れていた。6~70歳くらいのママがお冷と共に「騒がしくてごめんなさいね」と謝罪をしてきた。異分子が私であることはわかりきっていたので、「こちらこそ…」とよくわからない返事をする。アイスコーヒーをブラックでと注文をすると大人なのねなんて微笑まれてしまった。いつもなら、雑にイジってんじゃねぇぞとブチギレる所だが、なんとなく許せてしまう包容力みたいなものを感じてたじろぐ。アイスコーヒーは可もなく不可もなく、“普通”だった。1時間ほど、その店に居たが読書をするふりして常連たちの会話に聞き耳を立てる。中でも、常連A(70歳男性)と常連客B(50歳男性)が『鬼滅の刃』にドハマりして2人で特急に乗って札幌まで行き映画を見に行った。という話にかなりグっと来てしまい、このエピソードを聞くために北に向かって来たんだなと謎の達成感すら覚えた。その土地に暮らす人々の生活の話が聞けて、ほんのりと泣きそうになる。



その喫茶店を出てからJR函館駅方面に向かって歩く。今までは歩いている時に音楽を聴いていたが、函館に合う音楽をイマイチ見つけられなくてラジオを聞くことにした。酒に合う肴が存在するように土地に合う音楽というものも絶対にある。雨の難波で聞く『Joji/BALLADS 1』だったり、池袋から川越へ向かう東武東上線で聞く『フリッパーズ・ギター/CAMERA TALK』だったり。CLANNADみたいな青空の下で何を聞けば良いのかわからない。音楽は図らずとも感情を揺さぶる作用がある。アメリカがWW2で勝てたのは当時スウィング・ジャズが流行っていたからで、ベトナム戦争に勝てなかったのはフォークが流行っていたからだなんてことを大真面目な顔して言う専門家もいるくらいに、音楽は救いであると当時に破壊でもある。この、函館という見知らぬ街でどんな感情になるのか、どんな感情になりたいのかわからなかった。お腹が空いたから街に出たけど、自分が何を求めているのかわからない。みたいな。宙ぶらりんな気持ちでJR函館駅方面に歩いていると土方歳三の最期の地に着いた。幕末系の作品は『るろうに剣心』と『修羅の刻』くらいしか履修していない為に新選組に対する特別な感情はないが、寄ってみることにした。自分が亡くなった場所が半永久的に宣伝され続ける気持ちはどんなものだろうか。私は死んだ瞬間に私と関わりのあった全ての人間の記憶から私との思い出を全て忘れて欲しいと願っている。例えば夏の暑い日に多摩川沿い歩いてカレー屋に行ったこととか、例えば渋谷の中華屋でなんの相談もしてないのにレバニラ定食が被ったこととか、例えばじんわりと暑い6月の夜に池袋から新宿までただただ散歩したこととか。その全てを忘れて欲しい。死者とは、記憶の中でしか会うことが出来ないから、ごっそり丸ごと無くして欲しい。なんらかの記念館とか記念碑とか伝記とかを見ると、当人は本当にそれを望んでいたのかな?なんて思ってしまう。自分が銃弾で撃たれた場所が記念碑として残ってしまうのはどんな気分なんだろう。答えのない問いについて考え続けてしまう。それを辞めたくて、北へ向かったのに。



ダラダラと歩いてJR函館駅に到着した。駅前に赤いオブジェクトがあって画角的にオブジェクトとJR函館の駅が入りそうだなと思いカメラを向けるもピントが全然合わなくて、ボヤけた写真しか撮れなかった。それはそれで良いよななんてうっすら笑いながら駅前を後にする。この辺りに『君の鳥は歌える』で石橋静河と染谷将太が渡った橋があることを仲良しのオタクの先輩に教えて貰っていたので、なんとなくでそこに行ってみることにした。道中にあったコンビニで小さなワインと目が合ったので何となく購入。まぁまぁ、美味しかった。橋はただの橋でそれ以上でもそれ以下でもなかった。そもそもだが、期待を越えてくる橋なんてものは存在するのだろうか。求めれば求めるほど得られなかった時に悲しくなるが、求めることすらやめてしまったら本当に死んでないだけの人になってしまう気がする。イカ広場という何ともなネーミングセンスの広場で海を眺めながらワインを飲んでいた。今しかねぇと思い『津軽海峡冬景色』を再生したが日本でいちばん有名な3連符だよなくらいの感想しか出てこなかった。





ワインも飲み終わり、足もまだまだ大丈夫そうな感じがしていたので山に向かって歩くことにした。函館の夜景が有名なことは知っていたし、頂上まで行けるロープウェイがあることも知っていたし、やることもやりたいことも特になかった。何も考えずにラジオを聴きながらダラダラと歩いていると、ゆるやかに長い坂に遭遇した。ゆるやかに長い坂が如何にゆるやかで如何に長いかを先人たちが作り出した便利な言葉を用いて説明をしたいのだが、何と何を組み合わせたらあのゆるやかさと長さをグタイテキに説明できるのかが、わからない。とにかく完璧なゆるやかさと長さだった。今後、何かしらの文章で『ゆるやかに長い坂』が出てきたら絶対にここを思い出すんだろうな。そんな、完璧な坂の麓にクラフトビール屋があった。これから、山に行くのにビールまで飲んで大丈夫か?と思ったが、ロープウェイだし関係ねぇやとその店の店主にすっきりと飲みやすいものをオーダーする。すっきりと飲みやすくフルーティーすぎて、これはもはやビールを飲むという行為自体の悦びが消え失せてるじゃんとガッカリすらするほどの飲みやすさだった。クラフトビールはまだ難しかった。


いまだに思い出す完璧な坂



ロープウェイは完璧な坂の上にあるとのことだったので、少し火照った身体とふわふわした気持ちで坂を登りロープウェイ乗り場に着いたが、流行病の影響でロープウェイは閉まっていた。ゴリゴリに飲酒した状態で登山なんていちばんダメだと言うことは元ワンダーフォーゲル部として知ってはいたがふわふわした気持ちだったので、何も気にせずに登山口に向かった。ここが、全ての分岐点になってしまったのだった…。

1時間半ほど山道を登って頂上に着いた。ロープウェイは山頂の建物にそのまま繋がっていて、なんだか情緒がないなと寂しく思った。もし、ロープウェイに乗っていたら……とありえなかった私について少し考え込んでしまった。私たちは選んだ未来だけを生きており、それと同じように選ばなかった過去たちも無数に存在している。選ばなかった時点でそれは自分の眼前には存在しない世界の話であるから、未来ではなく過去だ。私たちは今にしか存在しないのに体験すら出来なかった過去について考えることが出来るだけの知能を持ち合わせてしまっている。私は“もし”の世界を考えることは愚かなことではないと思っている。平行して存在する選ばなかった過去たちについて考えることだけが誠実に生きるための方法であって欲しい。これはもはや祈りだと思う。“私”からの逃避で北に向かったが、北の大地の山の上ですら私は“私”からは逃げ出すことが出来なかった。



頂上に到着した時、陽が丁度海に沈んでいくところで、そこには夕方と夜が同居していた。海を見ると夕方が終わりかけていて反対方向の市街地に目を向けると夜が始まりかけていて段々と街灯や車のヘッドライトなどの光が視認出来るようになっていく。人気のいない方向に行ってタバコを吸いながら沈む夕陽を眺めていた。雲になれない煙たちがゆらゆらと終わりかけの夕焼けに消えていく。夕方でも夜でもない今。雲になれない煙。私以外にはなれない私たち。夕方はやがて夜になる。煙はゆっくりと消えていく。私たちは…?

冬の日。恋人と恵比寿にイルミネーションを見に行ったことがある。乾燥した空気の中で光るイルミネーションに「光ってるね」以上のことが言えなくて酷く落ち込んだ。取ってつけの電飾で過剰に演出された光を綺麗だと思う気持ちがよくわからなかった。これのどこが良いの?なんて無神経なことはもちろん聞けなくて、恋人はどんな気持ちなんだろうと横顔をのぞいても、いつも通りの表情でなにもわからなかった。

だんだんと夜は来たが不思議でもなく夢の中に行くこともなかった。夜景目当てで函館駅から直通のバスに乗って山頂まで来た人達が少しずつ増え始める。カップルや友達同士、老夫婦など色々な関係性と思われる人達はいたが、単数は私だけのように感じた。

イルミネーションを寒々しいと思ったのは、それがただの装飾でしかなかったからだと今になって思う。BTSはファンクとソウルで街を照らすと歌ったがイルミネーションは光っているだけで何も照らしていなかった。その何もなさが虚無にしか思えなかった。函館山の頂上から見える夜景のひとつひとつの光は、そこで人々が生活している証だった。建築物から漏れる光も街灯も車のヘッドライトもひとつひとつが人々が生活を営んでいるから生まれるものである。北に向かいながら様々な人を見てきた。最新のiPhoneとBluetoothイヤホンを使う田舎の学生。ファストファッションを身にまとい都会にいる人と変わりのない装いをする若い女性。田んぼで作業をする老人。フェリーの喫煙所で会話をした函館の祖父に会いに行く秋田在住の男性。今まで地方にも人がいて生活をして日々を暮らしていることは当たり前のようにわかっていたが、人生ゲームのピンのように顔も差異もなく一通りしかなかった。それでも、北に向かう最中で色んな人を見かけてすれ違って会話をして、少しずつ輪郭がハッキリしてきた。この光の下にはそんな人々が暮らしている。そんな普通のことを考えながら夜景を眺めていたら、視界がボヤけてきて我ながらビックリした。自分が夜景を見て感極まるなんて思っていなかった。急いでその場を離れて思っきりタバコを吸った。暗闇で燃えるタバコを見て、これが私の生きてる証なんだなと思ったら急激に死にたくなった。まともがわからない。



4日目


青森へは同じようにフェリーを使った。今回も目が覚めたら対岸に着いておりフェリーに乗ってるで!みたいな興奮は一切なくそういうもんかと言い聞かせてみる。今日からは逃避を終わらせるために前に進むのかと思うと少し歪で面白い。一昨日までの後ろが今日からの前になるらしい。フェリー乗り場から駅まで前回の逆方向を前にして進む。前回は暗くてよくわからなかった道も馬鹿みたいに明るい太陽のおかげでくっきりと見えた。見えたけど、特に面白いものはなかった。青森から青い森鉄道に乗って八戸に向かう。青い森鉄道はJRの管轄ではないが例外的に青い森鉄道は18きっぷの使用が認められているらしい。青森から八戸まで2時間ほど電車に乗る予定だったため青森駅でりんごジュースと朝ごはんになりそうなものを探した。りんごジュースは種類が沢山あり何が良いのか分からなかったので適当に真ん中に置いてあるものを手に取った。りんごジュースにもディスクガイド的なものがあれば良いのにと思うが、数多あるりんごジュースの中から自分の適正にいちばん適切なものを真剣に選択したい人間はそれほどいないんじゃないかとも思う。腹にたまりそうなものも探していると太宰治がデカデカとプリントされたカステラサンドなるものを見つけた。弘前の古本屋で『津軽』を購入した縁もあり、それを買ったがパサつきすぎていて食べるのが苦痛になり半分も食べずに捨ててしまった。



青い森鉄道は制服を着た学生たちがたくさん乗っていた。ジロジロ見るのもあれなので、フワッと観察した感じ2つの高校の生徒が乗ってるっぽい。今まで“通学電車でいつも見かけるあの人……”みたいな創作物を見てもピンと来てなかったが、二両編成で次の電車まで30分あるみたいな環境だとそういうことも起きるよなと思った。予想通り、途中の駅で制服Aの集団が降りて、さらに途中の駅で制服Bの集団が降りた。

八戸で降りてJR八戸線に乗り陸奥湊駅を目指す。仲良しのオタクからいきなりリンクを送り付けられて、ここが美味いよと教えてくれた店を目指す。オタクのことは基本的に見下しているので敬語なんて使わないが、そのオタク…というか兄貴にはめちゃくちゃに可愛がって貰っているし一緒に居て楽しいので敬意を持って接している。そんな兄貴の言う店なんだから美味いんだろうなと思い、店に向かってみた。陸奥湊駅は八戸駅から10分くらいで着いた。時刻表を見ると次の電車まで1時間ほどあり、少しのんびり出来そうだな安堵する。目当ての「みなと食堂」に到着。海が近いこともあり海鮮が美味いらしい。1人であることを告げるとカウンターの席に通されて暖かい緑茶が運ばれてきた。店内のメニューを見渡すと“平目とエンガワの半々漬け丼”を推しているのがうっすらとわかったため、それを注文する。私より後に入ってきた人もみんなそれを頼むので正解だなと思った。平目とエンガワの半々漬けは確かに美味ではあるのだが、漬けと卵黄によってナマモノとしての美味さが薄れており、今の俺が求めていたものじゃなかったなと少しだけ残念にも思った。ただ、これはこれで美味い。飯を食って早々に店を後にし駅に戻るとまだ電車まで30分ほど猶予があった。近くの公園にでも行くかとGoogleマップを開くと、近くに日本酒が有名な店があるらしく、そこに向かってみることにした。歩いて5分くらいで到着。店の中に入ると、カウンターの中におばちゃんが1人だけいるストロングスタイル。日本酒はよく飲むの?最近飲むようになったばかりで……。甘口と辛口はどっち?あ、辛口の方が。じゃあ、これだね。大きさはどっちする。うーん。真ん中のヤツです。はい、1650円ね。チカラこそが正義なのだと思った。




陸奥湊駅から八戸に戻り、八戸から新幹線に課金して盛岡に向かう。八戸~盛岡区間はJR線はなく私鉄が走っているが、新幹線を利用するのと私鉄を利用するのでは500円くらいしか変わらないため新幹線を利用した。私鉄の名前が“IGRいわて銀河鉄道”ということより少しは揺れたが大人しく新幹線に乗った。銀河鉄道が尾を引き車内では銀杏BOYZverの『銀河鉄道の夜』を聞いた。

盛岡から松島を目的地に据えて電車に乗ったのだが、正直この区間だけは何をしていたかさっぱり覚えていない。撮った写真を見返したりその日のTwitterを見ればだいたい何をしていたか思い出せるのだが、この区間だけは綺麗に記憶から抜け落ちてる。辛うじて一ノ関駅でここがいっこく堂似のオタクの地元かぁと思ったことだけは覚えている。写真というきっかけがあるおかげでここまでつらつらと駄文をしたためられてきたが、ここまで何も覚えていないともはや電車に乗ったことすら幻なんかじゃないかと思う。
松島に向かう途中に塩釜駅で下車して20分ほどの空きが生まれた。なんかちょっと甘いものが欲しかったのでコンビニでも行こうと改札を抜けてシャバに出るとちょうど目の前に洋菓子屋があったので入ってみることにする。カウンターの中におばあちゃんが一人だけ座っている。店内にラジオが響き渡っていたのが、なんだか微笑ましかった。ショウ・ケースの中にあるシュークリームをひとつ購入。おばあちゃんから中のクリームが黄色いけど腐っているわけじゃないからねと忠告を頂く。上品な甘さのカスタードクリームと単体でもムシャムシャと飽きずに食べれそうな生地のバランスが絶妙で膝を強くうった。



松島に向かったのは『ハチミツとクローバー』の大ファンだからという理由でしかなく、その土地の歴史的な建造物などには一切の興味がなかった。正直、函館から電車を乗り継いで宗谷岬まで行くルートも考えていたが、羽越本線で日本海を見た時に太平洋側も見たいなと思ってしまったことと、同じ逃避行仲間として竹本くんの転換地となった松島は抑えていきたいという気持ちがあった。松島を散策しながら、ここが竹本くんが○○した場所か…丁寧にひとつひとつ感銘を受けて行った。中でも、すかし橋という床が等間隔で抜けている橋を渡っている時がいちばん感動したかもしれない。竹本くんが松島で自転車を1度止めたのは偶然と言えば偶然なのだが、その土地全体に穏やかな空気が流れている気がしてここで一休みしたくなる気持ちがうっすらとわかったりした。ただ、やっぱこの土地に対する知見があったらもっと楽しめたんだろうなという気持ちは拭いきれずちょっとだけ悲しくもあった。ふらっと立ち寄った土産物屋でバイト先の人にぴったりな感じの置物があったが渡すタイミングが無さそうだなと断念する。


松島から東北本線に乗って仙台に向かう。盛岡から松島までの間はひたすらに田んぼと田んぼの間を進んでいたが、松島から仙台の間は段々と緑が減って住宅街が増えていき、東北一の大都市に向かっているんだなとなんだかソワソワした。仙台駅に着き、まずは駿台予備学校仙台校を目指す。マジで何を言ってるか理解できないと思うが、この駿台仙台校は超が付くほどの名門校でここから数多のエリートオタクたちが輩出されてきた。私は歴戦のオタクたちに敬意を示す為に駿台仙台校に赴いたが、その場の神聖さに圧倒されてしまい腰が抜けそうになる。やはり、名門校には名門校と言われるだけの格式の高さがあり品がある。駿台津田沼校とは話が違ぇなと思い、その場を後にする。陸奥湊の飯屋を教えてくれた兄貴からオススメしてもらった牛タンの店に向かう。仙台のメインストリートらしき所を歩いた。幅の広い道と等間隔に人為的に植えられた木々、歩く人々のあさはかなプライドみたいなもの全体に表参道っぽさを見出してしまい、少しだけ辟易…というか息苦しさを感じた。兄貴に教えてもらった牛タン屋はメインストリートを10分くらい歩いたところにあった。地下の店に入ると、店内は誰もおらず計らずとも貸切状態になった。テレビの音はするのにテレビが見当たらずに困惑しながらキョロキョロと周りを見ていたら厨房の中に小型のテレビが1台設置されており、お前用なんかい!!立ち上がってツッコミそうになる。牛タンはまぁ美味かったが、正直な所松屋の厚切りネギ塩豚焼肉丼の方が全然うめえなと思ってしまった。私自身が松屋の信者であり、信仰をしているという贔屓目がゴリゴリに入った意見なのであまり参考にして欲しくはない。そもそも、同一の商品では無いので比較対象になり得るのかという所に疑問を抱いてしまうが、牛タンをひと口食べた瞬間に松屋のねぎ塩豚焼肉丼の方がうめぇと思ってしまったのだ。こればかりは思ってしまったのだから致し方ない。




飯も食ったしここからはサウナがついてるカプセルホテルに移動して休息をとるだけなのだが、いよいよ逃避が終わってしまうとなると寂しくもあり、もう少しだけその辺をぶらぶらしようと歩いていたらそれなりにデカい公園があり入ってみることに。私は公園の中でも砂場にブランコに滑り台に鉄棒があって、遊具側と広場側の二段構造になっているクラシカルな公園を好物としているのだが、都市のど真ん中に“市民の憩いの場”として開発されたパーク型の公園もそれなりに許容出来るだけの寛容さを持ち合わせ始めてきた。これが大人になることか…と自動販売機で缶コーヒーを購入し散策すると見覚えのあるステージが出てきた。そこは仙台を拠点にするアイドルの物語を描いた『Wake, Up Girls』という作品の初期の劇場版の最後にWUGちゃんたちがパフォーマンスしたステージの元ネタの場所だった。最後に見たのは6年前とかだったと記憶しているが一発でわかってしまうほど、中学生の私はWUGにもハマっていた。WUGは色々なゴタゴタの末に解散してしまうのだが、それなりに色褪せない思い出のひとつとして自分の中に残っていることが何とも感慨深かった。ベンチに腰をかけてタバコに火をつけ一息を吸って吐き出してからイヤホンをスマートフォンに挿してWUGの1番好きな曲、『土曜日のフライト』を流す。暗い公園の中にぽつりぽつりと蛍のような赤い火が浮かんでいて、喫煙者がこっそりと訪れる喫煙者の憩いの場なんだなって少しおかしかった。『土曜日のフライト』は言ってしまえば、The Doobie Brothers『What a foor believers』を歌謡曲にリアレンジしただけと言ってしまえるが、そのリアレンジセンスが抜群で凄くイイキョクになっている。そして、歌詞も飛行機に乗るという高揚感や非日常感を処女の喪失の暗喩として用いており歌詞の側面から見ても一筋縄には行かない最高の楽曲だ。はじめて来た場所なのに、不思議と懐かしいと思われせてくれるのが『Wake,Up Girls』が確かに存在した足跡であり彼女たちの強さだと思う。久々に聞いたこともあり少しのノスタルジーを浴びながらカプセルホテルに向かった。



5日目


カプセルホテルから出ると雨が降っていた。雨の擬音と言ったら「しとしと」だと思うが未だに「しとしと」と降る雨がどの程度の雨量を指すものなのかイマイチピンと来てない。傘を持ち合わせていなかったためコンビニで傘を購入しようと思った。それなりにデカい通りだから通り道にコンビニの1軒くらいあるだろうと走っている時に、最終日にしてはじめて走った事に気づく。毎回、前日の夜に次の日はどうするかのプランを考えていたのだが、それをしっかりと考えすぎたせいで予想外のことが何一つ起きなかった。旅にアクシデントは付き物なのになと思いながらも、そもそもプランから逸脱したもののみがアクシデントになり得るわけで、プラン自体が曖昧だとアクシデントなんてものは存在しないのではないかとぐるぐると考えながら走っていたらコンビニを1軒過ぎてしまった。次のコンビニに入って黒い折り畳み傘を購入し息を整えてから目的地に向って進む。メインストリートから1本逸れた通りを歩きながらスーツ姿のサラリーマンの群れを発見して久々の都市に懐かしすさすら感じた。ここの空も狭い。

目的地のずんだ餅屋に着いた。餅はそれなりに食べるが別に餅である必要は全くないなとずっと思っている。以前、誰かがポテトというのは揚げた芋を食べることではなく芋にかけられた塩を摂取することだ。と、熱弁していたのを覚えているが、餅に関してもきなこやあんこをそのまま食べることに対する抵抗感を減らすために餅を一枚噛ませているのではないかという私の中の仮説がずっと離れない。きなこやあんこを引き立たせるために無味な餅が選ばれたのではないかという。米を長期間保存させるために餅に変える必要があり、その餅を美味しく食べるための研究の中できな粉やあんこが選ばれたという味先ではなく餅先の説があるなら、私の仮説は崩れることになるが、ガッツリ調べるほどの興味がある事案でもないので、ずっとなぁなぁにしながら餅を食ってる。今回も同じように何でわざわざ枝豆を……みたいな事をぶつぶつと考えながらずんだ餅を食った。馬鹿だと思う。ずんだ餅の美味さはかなりちょうど良い。その土地の名産物でありながらも過剰な気合いもなくて地元の人の生活にも馴染んでいる感じがした。弘前のアップルパイは街全体で盛り上げていこうという過度な気合いを感じてしまい気後れした部分もあった(といいながらも3つも食べましたが……)。どうでも良いことを馬鹿みたいに考えてしまうことが、私の習性のひとつになっていることを薄ぼんやりとわかってしまい、自己嫌悪に陥りながらその餅屋で帰りの電車で食べる用の大福を購入し後にする。最終日、いよいよ地元に帰るための電車に乗った。乗り継いだ先に私の帰る場所がある。


エピローグ


帰宅してから2週間と少し経った。相も変わらず虎になってしまいそうな日々を過ごしている。大きく取り立てた変化はない。
私はこの時の5日間のことを“逃避行”と呼んでいたが、一体何から逃げたかったのかと言うと発狂しそうな毎日からであり、その発狂の原因となっているオノレからの逃避だった。私がこんなにも気が狂いそうになっているのは社会があまりにも不健全であるからだと思っていたが、岸本佐知子氏の「世界の果てに行っても脳内からは出られないのかもしれない」が本当であれば、気が狂いそうになっている原因がオノレになってしまう。どうにか、それを否定するために北に向かった。というのが、そもそものシナリオであるが、正直高崎から新潟に向かっている時点で「世界の果てに行っても脳内からは出られないのかもしれない」の正しさに気づいてしまった。だって、どこに行ってもどんな場所であっても自分の受像機がオノレであることに変わりはないのだがら。だから、世界の果てに行っても結局は自分でしかなく、私たちは自分以外にはなれない。そんな当たり前のことすら、私は気づけないのだ。私と同年代の人達はとっくにその原理に気づいて、私以外になれないのならその私の状態で社会と適合(もしくは戦闘)するたほめのレベル上げをしている段階だと思う。何歩後ろを歩いているのだろう。

 

2023.10.13

数年ぶりにこの日記たちを読み返した。こんなこともあったよなと思い出すこともあれば、このできごとについては書いてないんだなとびっくりすることもあった。2日目に写真展を見て、写真として切り取られているのは一部でしかないのに、それを全てだと思い込んでしまう可能性があり、それがとても怖いといったことを書いていたが、この日記に関しても記したことのみが旅の思い出ではなく、記載するに値しないと判断した、小さくて弱い思い出たちも確かに存在するのであった。

読んでいて結構びっくりしたのだが、私は夜景を見て死にたくなったのか。ここが結構飛躍している印象を受けたと同時に、あの経験は私のなかでかけがえのないものであり、この旅いちばんの思い出として記憶している。これは歴史修正なのだろうか?

この時、どうして希死念慮まで飛躍したのか、今となっては皆目見当がつかないが、思い出を美化するきっかけは覚えている。
東京に戻って生活を再スタートとしたときにクラムボンの「タイムライン」という曲に出会った。歌詞を一部引用する。

家々 公団
町の灯りがともり
鳥たちも人も
家路へ向かいだす

あのひとつひとつに日常があって
私の知らない物語があって

どんな風に出逢い どんな風に別れ
どんな風に今を見つめているんだろう

タイムライン / クラムボン

このラインを聞いたときに、この旅で得たものが理解った気がしたのだ。街には人が住んでいて、人が住んでいるから街が機能する。その街には私にはわからない物語があって、人と出逢って、人と別れて、人に恋をして、人が死んでいく。あの時、函館山から見えたひとつひとつの光は人が生きている証であったのだ。数えることができない数の命に圧倒された。

この時期、私はどうすれば良いのかわからなかった。セカイとは自分が観測できる範囲のことだ。学生の身分であった私のセカイは限りなく小さいうえに、大学に行けていない時期だったので自室とバイト先だけがセカイであった。こんなちっぽけなセカイは愛するに値するほどの価値のあるものだろうかと真剣に悩んでいた。この旅はそんな私のちっぽけなセカイを無理やり拡張して世界の大きさを教えてくれた。
今でも私が決して知ることのできない世界では人と出逢って、人と別れて、人に恋をして、人が死んでいくのだろう。

世界は広く、果てしない。セカイは拡張できる。私は今日も光のひとつでありたいと思って生きている。私も誰かと出逢って、別れて、恋をして、死んでいくのだろう。それは多分素敵なことだ。見るだけで想像できる味の料理を食べて、想像できない物語に触れて、明日には忘れてしまう話をして生きていきたい。無価値で無意味で無駄なものを愛していきたい。この旅と野村麻衣子さんが教えてくれた世界の美しさをもっと感じていきたい。そう思いましたとさ。


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