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南渕明宏先生との物語

(1)邂逅

 「心臓手術はひとりするものではないと思いますが、先生が当院で心臓血管外科をやっていくとして、バックアップしてくれる大学教授などのアテはあるのですか」と現職「ふれあいグループ」の理事長に問われたとき、私は迷うことなく「南渕明宏先生以外にありえません」と答えました。

* * *

 南渕先生との出会いは2010年まで遡ります。一般外科の研修を終えたものの、外科医として何処を目指していいか迷っていた時期です。
 インターネットを漁っていると、大和成和病院で心臓外科の修練医を募集しているという情報を見つけました。以前、先輩外科医が「何の手術をやるにしても血管が縫えないと何もできないよな」と呟いたことを思い出しました。
 大和成和病院に心臓血管外科を開設し、当時院長を務めていたのが南渕先生です。テレビなどのメディアへの露出を積極的にしたり、医療ドラマの監修をしたりしている有名な先生に会ってみたいというミーハーな気持ちもちょっとあり、見学を希望するメールを送りました。

 大和成和病院の院長室で初めて会った南渕先生は笑顔で歓迎してくれました。先生に付いて手術室に入ると、数人のレジデントがすでに執刀を始めていました。下肢静脈を採取していたレジデントが「癒着していて難しい」と訴えると、南渕先生は「患者のせいにしていたら、上達しないよ」と応えました。
 それでもレジデントたちのきびきびした手技をみて、その場で入門を申し出ると、南渕先生はちょっと困ったような顔をして、後日返事をするから待って欲しい、とのことでした。

 それから1週間経っても2週間経っても音沙汰なく、1ヶ月が経とうとするころにはほとんど諦めかけていました。そんなある日、南渕先生から直接電話があり、事務所と使っているらしきマンションの一室に呼ばれました。
 南渕先生が大和成和病院を退職し、東京のとある病院に移籍するから、新しいチームに参加しないか、というお誘いでした。
 私は病院の名前も訊かず、二つ返事でこれを承諾しました。その時点では充分に勉強できるほど症例が集まる保証はありませんでしたが、とにかく面白そうだ、と思ったからです。

 蓋を開けてみれば、東京ハートセンターでは毎日のように心臓手術を勉強させてもらうことができました。数ヶ月の間、レジデント(専攻医)は平沼だけでしたから、病院の隣のマンションに住んで朝夜当直区別なく家と病院を往復していました。

 入職当初の印象深かったこととして、「検査しなかった事件」があります。南渕先生に初めて怒られたエピソードなのでよく覚えています。
 たしか土曜日の午後、以前先生が手術をした患者さんが体調が悪くなったとして時間外受診をしてきました。先生が取り込み中だったため、代わりに診察するよう言われました。
 いざ診察すると、患者さんの訴えに再現性はないし、バイタルサインも安定しており、問題なしと判断して帰宅していただきました。研修医時代、とにかく不要な検査はせず、問診と身体所見で診断するように指導されてきたので、自分としては当たり前のことをしたつもりでした。
 ですから、南渕先生に「あの患者さんはどうだったか」と訊かれて、むしろちょっと得意な気分で顛末を話しました。

「何の検査もしなかったの?」

「はい、必要なさそうだったので」と答えると、これまでにない口調で叱責されて驚きました。

「患者さんは不安を解消して欲しくてわざわざ受診しているんだよ。心電図のひとつでも取ってあげたら安心するだろう?」

 診断学の原則や医療経済を考えれば、診断に繋がらない検査はするべきではありません。しかし、それは医療者側の理屈である、と気づかされました。安心させるために検査をする、というよりは、不安を訴えて受診する患者さんの目線に立って、それを解消するために最大限できることを模索する。その姿勢が私に足りていない、ということです。


(2)そして沖縄へ

 心臓外科医であれば、人生で一度は留学を経験した方がよい、と先生は普段から仰っていました。事実、レジデント(専攻医)の先輩たちは一定期間先生の下で勉強して準備が整うと、イタリアやオーストリアなどの様々な国へ留学させてもらっているようでした。しかし、考えてみれば、この方針は先生にとってあまりメリットがありません。育ててようやく「使える」ようになったレジデントを積極的に手放してしまうわけですから。それでもこうして留学の必要性を説き、実践させるのは、先生自身がオーストラリアでの留学経験によって、外科医として、そして人として成長することができたからだ、と言います。

「平沼くんは、そのうちシンガポールに留学してみないか?」

 東京ハートセンターに就職して何ヶ月か経ったころ、手術中に言われた何気ない一言が心に深く刻ま込まれました。
 ところで、南渕先生は相手が研修医だろうが看護師だろうが事務職員だろうが、こういう風に必ず「~くん」「~さん」付けで呼びます。ギルド構造の縦社会であるこの業界にあって、多くの外科医は部下や後輩を呼び捨てにします。そういう人は部下や後輩が自分に取って代わらぬよう、上下関係を固定したい、という心理があるのだと思います。一方で南渕先生が誰であろうと「~くん」「~さん」を付けて呼ぶ姿勢は、相手をひとりの人間としてリスペクトしていることが感じられて、私も見習うようにしています。

 話が逸れてしまいました。結論から言うと、私がシンガポールには行くことはありませんでした。その代わりと言っては難ですが、沖縄に行くことになりました。那覇にある医療法人が心臓血管外科を設置することになり、縁あってその立ち上げを南渕先生が依頼されたのです。その現場責任者として移住せよ、と言うことです。その話を耳にしたとき、最初はかなり戸惑いました。「え? シンガポールの話は…」と一瞬頭をよぎりました。
 しかしすぐに、

 「留学する心臓外科医はたくさんいるけど、診療科を立ち上げる経験なんて滅多にできることじゃない。しかも沖縄…!」

 とにかく面白そうだ、と思ったのです。フォッサマグナ以東の湘南海岸の黒い砂浜を見て育った私の頭の中は、南国の白い砂浜と碧い海のビジョンであっという間に占拠されてしまいました。
 実際のところ、この沖縄で心臓血管外科を立ち上げたという経験がなかったら、今回 茅ヶ崎中央病院でのスタートアップに名乗り出ることはなかったでしょう。

 ***

 2013年4月、大浜第一病院の心臓血管外科は走り出しました。右も左も分からぬ縁もゆかりもない土地で、不安でいっぱいでした。各部署のスタッフたちが前の年から準備を進めていましたから、入職して2ヶ月にも満たないうちに開心術を始めることができ、手術を受けた患者さんたちも元気に退院していきました。
 沖縄の方は気さくで親切ですし、内地と変わらぬショッピングモールもあって、amazonが届くのにちょっと時間がかかることと、それにまあまあな送料がかかってしまうことを除けば、生活で困ることはありませんでした。

 手術症例数も順調に伸び、このまま永住してもいいかな、とも思ったりもしました。しかし、首都圏のハイボリュームセンター(手術症例のたくさんある大病院)で執刀に明け暮れている同年代の心臓外科医のことを思うと「このままここでのんびりやっていて大丈夫だろうか」という焦りも出てきました。また、開設したばかりの大浜第一病院は心臓外科専門医の修練施設としては認定されておらず、いくら経験を積んでも心臓外科専門医の資格を取得できない、という問題がありました。
 南渕先生は常々「医学博士や専門医の称号は外科医としての実力を反映しているわけではない」と仰っていたので、そういうものかと思う一方、自分のような凡百の外科医にとって、専門医資格がないと先々困ることになるのではないか、と感じていました。
 また同時に「心臓血管外科の看板を掲げている以上、いつでも緊急手術に対応したい。そのためには、急患がたくさん来る病院でもっとまとまった修練を積む必要がある」という思いが強くなっていったのです。

 そこで、首都圏で大動脈手術をたくさん行なっている施設を見学に行きました。見学から戻ってから数ヶ月間、帯状疱疹ができるくらい悩みました。その結果、私は年度末をもって大浜第一病院を辞することにしました。
 南渕先生にそのことを伝えると、ちょっとだけ考えた後、「分かった」と言ってくださいました。信頼してこの病院の心臓血管外科を任せてもらったのに、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

 端的に言えばーーこれが南渕先生に対する平沼の「1回目の裏切り」でした。


(3)道を拓く

 2015年に南渕先生が東京ハートセンターを辞し、昭和大学横浜市北部病院・循環器センターの教授に就任されたことを機に、平沼もその翌年に医局員として加えていただきました。私が医師になってから大学の医局員として勤務したのは、この2年間だけです。

 大学医局員はいわゆる一般的な市中病院の医師と比べて、どうしても月給が安く設定されており、近隣病院の当直や非常勤外来のアルバイト(外勤)をして補わざるを得ません。この時期にこうした案件をインターネットなどを駆使して探す術を覚えました。この経験なしには現在の勤務先に到達できなかったでしょうから、将来何が役に立つか分かりません。

 昭和大学横浜市北部病院は、横浜市都筑区の新興住宅地にあります。このあたりは最寄駅のセンター南駅周辺を含めて、非常に計画的に設計されたモダンな街です。
 北部病院は大学病院でありながら、区内の公立病院的な役割を果たしていることもあり、市中病院に勝手が近く、とても働きやすい環境でした。先に述べたような外勤に追われつつも、念願の心臓外科専門医を取得することができました。

「沖縄の大浜第一病院だけど、平沼くんの後任の先生があまりうまくいっていない。平沼くんが立ち上げに深く関わった病院だし、もう専門医も取得している。だから、今一度沖縄に行ってもらえないか」

 まさかの2度目の沖縄行きの話です。1度目はふたつ返事でしたが、このときはちょっと慎重になりました。確かに、立ち上げに尽力した大浜第一病院に、当然それなりの思い入れがありました。けれども、今度こそ永住を念頭にすることが前提になる、と思ったからです。

 時を同じくして、私の父が事業に失敗し、小田原の実家がなくなることになりました。この話を聞いて、両親を連れて沖縄に移住することを決めました。働き詰めだった父に、老後は南国沖縄でのんびり過ごしてもらうのも悪くない、と思ったからです。以前、ある指導医が「心臓外科医として夢を実現するためには、両親には野垂れ死んでもらう覚悟が必要だ」などと話していましたが、私にはそんな非情なことはできませんでした。

 父は、長年のストレスが祟ったのでしょうか。いざ荷造りを終えて、いよいよ渡航の前日に脳出血で倒れてしまいました。外勤当直先でその報せを聞いた私は、その病院の院長に事情を説明した上で、父が運ばれた小田原の病院に駆けつけました。幸い命に別状はありませんでしたが、結果として失語と認知症のような症状が残ってしまいました。母や弟の名前は辛うじて言うことができましたが、あれほど溺愛した私の名前と記憶は吹っ飛んでしまったようです。

 結局2ヶ月遅れで、どうにか両親を沖縄に連れて行くことができました。思った通り、沖縄は父の療養に良い環境でした。
 私自身は3年ぶりの沖縄でしたが、仕事も軌道にのり、順調に症例数が増えました。しかし、物事は思うようにいかないものです。母にしてみれば、父の破産から急病、そして移住による環境の変化などに振り回された形になります。父は失語で話し相手になりませんし、何より生まれてからずっと小田原に住んできた母にとって、移住はやはり大変なストレスになったようです。何度も話し合った結果、父が体力的にある程度回復したのを見計らって、両親は神奈川県に戻ることになりました。

 そして間もなくコロナ禍がやってきました。世界的に手術が制限され、発熱外来の当番が私の主な仕事になりました。両親が神奈川県に帰ったあとも定期的に様子を見に行くつもりでしたが、渡航制限でそれも叶わなくなりました。沖縄での生活に行き詰まりを感じて、私はやむを得ずひとつの結論を出しました。それは沖縄を再び去る、ということです。

 この決断は、一度ならず二度までも南渕先生の期待に背くことを意味します。私の背中を後押ししたのはしかし、他ならぬ南渕先生自身が とある対談で仰っていた一節です。私はこのくだりが大好きです。

“やってはいけないのは「もうちょっと我慢しよう」とか「あと2、3年我慢しよう」ということ。そうじゃなくて、自分がおもしろいと思ったことをする。…そしたら,また次の道が拓ける。…自分がどこかの組織に属しているからとか、誰かの紹介でどこかに就職するということ。…ぼくは最悪の下策だと思いますね。”

週刊医学界新聞 第2572号

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 現職の理事長に「当科の顧問をお願いするのは、南渕明宏先生以外にありえません」とお答えしたとき、南渕先生と疎遠になっていたため、しばらく連絡すらとっていない状態でした。
 先生自身がこうやって道を切り拓いてきた方ですから、きっと応援してくださるという確信があったとはいえ、今考えると無茶な話ですね。

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