目覚めて生きたい方へ。人生と地球舞台を眺めるにあたって

人間万事塞翁が馬――あなたの人生を俯瞰すると、本当にその通りだと気づくはず。人生という「舞台」のあらゆるシーンに巻き込まれているときには気づけない。舞台上で演じている「配役」を自分自身だと思い込んでいると、そんなものの見方は保てないものだ。

あなたがすでにこの人生を終えたと仮定してみよう。亡くなった後、人生を総合的に眺めると、ある状況を経験している最中には「不幸」や「不運」だとばかり思っていた経験が、あなたに素晴らしい宝をもたらしたり、その後の貴重な出会いや出来事に繋がる1ピースだったりすることがわかる。

渦中にいるときは、全体でひとつである「続き」を見る目を持たず、時間という枠組みの1コマ1コマの内部でしか考えることができなかった。各コマの枠を超えた全体を一斉に見る発想がなかったのだ。だからこそ、「絶対に不幸」だとか「確実に不運」だなどと思うことができた。
つまり、細分化した部分の1つだけをつまみ上げて、「これは良いものか、悪いものか?」と問いかけ、全体を無視して欠片を評価し、答えを出す、ということをしていたのだ。

全体的視点を持って生きるには

あなたが「全体的視点」を持つのは、人生を終えてからでなくてはならないというわけではない。今でもその視点はあなたの中にあり、生きながら同時に使うことができるが、そのためにはあなたが一旦、自分のこれまで学んできた「物事の判断の基準」や「喜怒哀楽の反応ルール」を、意識的に白紙にしなければならない。

私たちは、ひとりひとりが自分の中に物差しを持っている。しかも恐ろしいことに、それが「自分だけでなく他者にも共通している」と思い込むこともあるのだ。
「こんなことがあったら、腹が立つのは当然だよね」
「誰だって、こういうときには悲しいじゃない?」
「これで喜ばないなんて、どうかしてるよ」
人によっては誇らしく「人間らしい」と感じているかもしれない喜怒哀楽、もっと言えば「あらゆる感情」は、あなたが採用し、ベースに用いる物差しに照らし合わせた「判断」がなければ生まれない。

そう、あなたは絶え間なく、判断しているのだ。
これは良いこと、悪いこと、これはこういう意味だ、それは自分にメリットをもたらすのか、デメリットなのか?
人生に判断が必要な場面は多々あるように思える。でも、判断の基盤自体に誤りがあったらどうだろう。歪んだ物差しに頼っているとしたら、どうなのだろうか。
あなたはよろこんでいいことを悲しみとして解釈し、幸福でいられることを不幸に侵食させているのかもしれない。

ものの見方は自分次第だと言っても、幸せになれないわけ

人生哲学か何かで「何をどう見るかという『ものの見方』はあなた次第だ」と言われても、「すべては解釈の問題だ」と説明されても、理屈は理解しているのに幸せになれないという経験はないだろうか。
依然として、あなたの「気持ち」はついてきてくれない。なぜだろう。

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