精霊喜び、舞い踊るお祭り。人と自然が一体であること

秋祭りのシーズンだ。都内に住んでいた頃は、笛や太鼓の練習の音(ね)がどこからともなく聞こえてきて、祭りの日が近いことを知った。
東京都とひと口に言っても、私は地域色の全く異なる三ヶ所にそれぞれ三、四、五年くらいずつ住んだことがあったが、どこでも「祭り」に対する熱は共通していた。それまでの近代的な「東京」のイメージが嘘のように、急に日本の伝統や、近隣の神社の存在がくっきりと浮かび上がってくる。

祭り当日の、華やかでうきうきするお囃子。練り歩くお神輿。町名をしるしたはっぴや半纏を粋に着こなす、様々な年齢の人々。
突如としてタイムスリップしたかのように、現代東京に異風景が復活する。それを眺めるとき、感慨とともに、息づいている歴史を肌で感じる。と同時に、いかに日本の文化が今では西洋化され、それがスタンダードになったかということに驚きを隠せない。日常ではそう気づくことすら難しいほどだ。

東京で暮らす中で、祭りの風景を眺める機会は毎年訪れたが、私が参加したことはなかった。もちろん、訪問客として「参加」したことはある。歩行者天国になっている道をそぞろ歩きし、屋台で買物するとか……でも、作り手の一員に加わった経験はない。

では、長年暮らした地元ではというと、記憶にあるのは子どもの頃に住んでいた社宅で行われた夏祭りで、社宅内の公園にやぐらが立ち、屋台も出て、盆踊りをした。つまり納涼祭で、規模は小さかったが十分楽しかった。
母から聞いた話によると、初めて盆踊りを経験した幼児の私は、太鼓の音に大喜びし、やぐらに上がりたがったらしい。自分も太鼓を叩きたかったし、演奏している人を間近で眺めたかったことは覚えている。いつまでも帰りたがらず、ついに帰宅してドアを閉めたとき、戻る! と泣いて自力でドアを開けようとしたそうだから、よっぽど心動かされていたのだろう。
もう少し大きくなると、嬉々として盆踊りの輪に加わっていた。

そんな私だから、祭りにうきうきしない人がいるとは思いもよらなかった。しかも、案外身近にいたのである。妹だ。

今こうして「祭りに喜び、舞い踊る精霊」や「人と自然が一体であること」について書いているのも、妹との経験がきっかけになっている。

お祭りで知った個性の違い

ある夏、妹の住む都内の町の、祭りの一行に出くわした。私はそのとき妹宅に泊まっており、一緒にスーパーに買い物に行く路上だった。
私は目を輝かせて、目の前を通る神輿を見た。往来は人でにぎわい、かけ声をあげて神輿をかつぎながら歩く町内の人々の、揃いの衣装も羨ましい。
「私もあれを着てみたい」とか「外国から来た人がこのお神輿の風景を見たら、目を見張るだろうなぁ」とかつぶやいていたら、妹が、「ええー! 私だったら絶対着たくない」というのだ。
「お神輿かつぎたいと思わない?」と聞いたら、全然思わない、思ったことがないとの答えが返ってきた。
それで知ったのだが、妹は、毎年見かけるこうした祭りの良さを特に感じてはいなかったらしい。

妹と私は仲がいいが、互いの個性はかなり違う。
一例だが、私は祭りでなくとも、何かの流れで踊るような雰囲気になれば、喜んで踊るタイプだ。どっちかというと隙あらば踊りたい人間である。現代の日本人って踊らないよなぁと日頃から思っている。ただし、九州南部出身の友達によると、彼女の地元では宴席が盛り上がると老若男女、多くの人が自然に踊り出すというから、地域差はありそうだ。
一方妹は、時と場合によるだろうが、往々にしてそんな流れに「乗る」のが好きではないようだ。恥ずかしがり屋とは違う。彼女も、クラブなど本人が踊るつもりで行った場所では踊っていたのだ。いわば、いつでもOKというノリではない、クールでポーカーフェイスな一面を持つ個性なのだ。
考えてみると、子どもの頃の盆踊りでも、妹は自ら輪に入って踊りたがりはしなかった気がする。姉の私や、友達と連れ立って参加するとか、親が背を押すようにしなければ、祭りの場で踊ることにさほど興味はなかったのかもしれない。

お神輿の上で喜んでいた存在

目の前で一緒に神輿を見たおかげで、家族といえどもこういうことを初めて知り、私はそのとき祭りの意義について色々話をする中で、妹にこんなことも言った。
「お祭りは大切なんだよ。神社に祀られている存在とか、地域の自然の精霊たちもお祭りを楽しみにしてる。今も、お神輿を喜んでるよ」
すると、妹が関心を持って、
「今、いるの!? どんな存在がいるの?」
と聞くので、私はこんな旨を説明した。

人間じゃないから性別は何とも言えないけど、古い時代から縁がある感じの存在がお神輿の上にいる。ニコニコして『よき哉(かな)~、よき哉~』と言いながら、うれしそうにこうやって(手のひらを外に向けて両手を握り、腕を曲げて顔の両側に掲げるようにして)お神輿の揺れに合わせてゆったりと、左右交互に傾いている。お祭りをしている人間たちの活気や、楽しさが伝わって、一緒に喜んでいるんだよ。

妹は、ぱっと笑顔になって、
「かわいい!」
と言った。
精霊さん喜んでるんだね、だったらお祭り大切だね、と言って、楽しそうな顔で神輿を眺めた。後日になってからも、あのときの話を聞いて、お祭りへの見方がすっかり変わったと報告してくれたのである。

見えない存在を知覚すること

ちなみに、見えない存在の「せりふ」は、知覚者による「言葉ではないものの翻訳」である。相手は人間のように肉体によって音を出して話をしているわけではない。
形のないエネルギーを、人間の知っている表現に変換するならば、姿や言葉を用いて表現することになる。といっても私の経験では、考えてそうするというより瞬時に、自分の知覚によって変換されることが多いが。

また、念のため、神社の「神様」を一神教の概念の神と間違えないようにと書いておく。神社に祀られている存在は、多くの場合祖先であり、ときに、アニミズムに基づく自然の精霊である。祀られている存在の名が変えられていたり、公の歴史とされている内容が違っていることもある。祖先とは一体どんな存在を指すのかも、常識にとらわれず見直す必要がある。
こうした話題は2015年、私のブログ「日本神話や歴史その他」のカテゴリで語ったことがあった。記事はその当時の理解で、未完なところがあるが、教科書通りの歴史以外考えたことがない方には風穴を開ける補助となるかもしれない。

上記に関連する消された歴史と同様に、日頃から、目に見えない存在たちや精霊たちを「ないこと」にする姿勢を私は好まない(人間自身の起こしている何でもかんでもを、見えない存在たちのせいにしようとする態度は論外であるが)。
現代社会はあまりにも、目に見えることや「科学」という宗教に信頼を置きすぎている。

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